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2008年11月

2008年11月27日 (木)

世界史英雄列伝その17 「アウグストゥス ローマ帝国の創始者」

◇ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス(アウグストゥス)BC62年~AD14年

BC62年 騎士階級のガイウス・オクタウィアヌスとカエサルの姪アティアの子として生まれる。
BC45年 ガイウス・ユリウス・カエサルの養子になる。
BC44年 カエサル、暗殺される。遺言書により後継者に指名される。
BC43年 第2回三頭政治。アントニウス、レピドゥスと組む。
BC42年 トラキアのフィリッピで、養父カエサルの仇、ブルートゥス、カッシウスらを破る。
BC36年 レピドゥスを追い落とし、イタリア、アフリカの支配権確立。西方世界を統一。
    東方を支配するアントニウスと対立。
BC32年 元老院で演説、アントニウスとクレオパトラを非難。エジプトに宣戦布告。
BC31年 アクティウムの海戦でアントニウス・エジプト連合軍を破る。
    ローマ軍、エジプトに進軍。アントニウス、クレオパトラは自殺。
    (プトレマイオス朝エジプト滅亡)
BC27年 オクタウィアヌス、共和政の復活を宣言。元老院、オクタウィアヌスにアウグストゥスの称号授与。
    プリンケプス(市民の第一人者)として、事実上の帝政開始。
AD14年 死去。養子のティベリウスが後を継ぐ。

 作家、塩野七生さんのライフワーク「ローマ人の物語」ですが、ローマの誕生から始まりポエニ戦争、内乱の一世紀、カエサルの登場、帝政開始から滅亡まで描く(まだ完結してませんが)大著です。
 幾多の魅力ある人物が織り成すローマ史に、血湧き肉踊る思いで年一回配本されるのを楽しみにしている鳳山です。

 カエサルについては,塩野さんがもっとも好きな人物だそうですから「ユリウス・カエサル ルビコン以前」と「ユリウス・カエサル ルビコン以後」と2冊にわたって伝記を書いておられるのですが、そのわりに事実上ローマ帝国を建国したアウグストゥスについては、あっさりしているような印象があります。それでもルビコン以後の最後三分の一と、次のパクス・ロマーナまるまる一冊を費やしてはいますが。

 アウグストゥス、プリンケプス、インペラートルといくつもの名前、称号を持つオクタウィアヌスですが、偉大な人物であったことは間違いありません。
 ただ、オクタウィアヌスは戦争があまり得意ではありませんでした。その部分は親友のアグリッパが補います。まず、彼が歴史の舞台に登場するのはカエサルの養子になった時でした。カエサルはこの少年の素質を見抜き養子にします。彼の本質は政治力でした。
 オクタウィアヌスは早速試練にあいます。養父カエサルの暗殺でした。カエサルは遺言書によってオクタウィアヌスを後継者に指名していました。しかし、遺言書はあっても実力がなければ意味がありません。

 事実、カエサルの腹心だったアントニウスは自分こそ後継者だと名乗り、同じくカエサルの部下だったレピドゥスと組んで、オクタウィアヌスと対立の姿勢を見せます。絶体絶命です。しかし当時17歳の少年は末恐ろしいことに元老院の重鎮、雄弁家のキケロを懐柔し、危険なアントニウスよりこの扱いやすい少年の方がカエサルの後継者としてふさわしいと思わせます。

 元老院を味方につけたオクタウィアヌスに対して、立場が微妙になったアントニウスらは、逆にオクタウィアヌスを自陣営に引き入れる事によって事態を打開させようとします。それが第2回三頭政治です。
 もうひとつ、オクタウィアヌスには強みがありました。カエサルとともに転戦した古参兵の支持を得
ていたのです。彼らにとってカエサルが遺言で後継者に指名した事実は大きかったのです。

 まずはカエサルの仇、ブルートゥス、カッシウスら共和主義者を討つことが目的でした。オクタウィアヌスは,アントニウスの軍事力を利用して目的を達成します。
 オクタウィアヌスの凄みは、ローマの実権が三者に握られ粛清の嵐のなかでアントニウスが、憎んでいたキケロを殺そうとした時、見殺しにしたことです。利用価値のあるときは利用し、なくなれば討ち捨てる、この若者の本質は、老練なキケロでさえ見抜けませんでした。

 三者はそれぞれ支配地域を決めます。アントニウスは東方、レピドゥスはアフリカ、オクタウィアヌスはイタリアとガリアを。このうち最も豊かな東方を支配権に置いたアントニウスはエジプトの女王クレオパトラと組んでパルティア征服を望みます。一方、オクタウィアヌスはローマを含むイタリアを手に入れました。この分割はオクタウィアヌスにとっておおきな利益となりました。首都ローマを手にしたからです。首都の意味はたいへん大きいものでした。まず、オクタウィアヌスはレピドゥス追い落としに向います。こうして西方地域全体の支配権を得たオクタウィアヌスは元老院で演説しました。

 それまで、クレオパトラの色香に迷いエジプトべったりのアントニウスはローマ市民の反感を買っていました。ローマ人でありながらエジプトの利益を第一に考えていた(ように印象づけられた)アントニウスに対するオクタウィアヌスの非難は、喝采をもって迎えられました。しかも巧妙な事に、オクタウィアヌスは直接アントニウスを敵にせず、エジプトに対して宣戦布告したのです。

 当然、敵の矢面にたってくるのはアントニウスです。両軍はギリシャのアクティウムの海上で激突します。ローマ軍は陸軍をアグリッパが率い、オクタウィアヌスは海軍を指揮しました。実はアントニウスは陸上での決戦を主張していたのですが,クレオパトラの反対で海上決戦にしぶしぶ変更していました。

 このとき、オクタウィアヌスはひどい船酔いで指揮を部下にまかせ、寝込んでいたそうです。戦いは一進一退でした。ところが、クレオパトラの乗る船が突如反転、離脱します。戦いに恐れを抱いたのでしょうか?そしてこれを見たアントニウスも戦場を離脱、クレオパトラのあとを追います。

 陸上ではアグリッパの率いるローマ軍が押し気味とはいえ、海上は互角でした。それなのに敵軍は総大将自らが敵前逃亡です。大将に逃げられたエジプト軍は総崩れになります。武将としてのアントニウスの生命もここで終わりました。
 オクタウィアヌスは戦勝の勢いを駆り、そのままエジプトに進軍します。最後は部下にまで逃げられたアントニウスは自殺、クレオパトラもあとを追います。こうしてプトレマイオス朝エジプトは滅亡しました。

 BC27年、オクタウィアヌスは、自分に与えられていた非常時大権を元老院に返還します。そして共和政の復活を宣言します。これに感謝した元老院は、オクタウィアヌスに対してアウグストゥス(尊厳なる者)の称号を与えます。
 しかし、実態は共和政どころではなく、帝政でした。プリンケプス(市民の第一人者)と名乗ったオクタウィアヌス一人に権力が集中していたのです。インペラートル(軍の最高指揮者)の称号はエンペラー(皇帝)の語源になります。オクタウィアヌスの巧妙さは、元老院に気付かせる事なく着々と帝政を固めていったことです。

 オクタウィアヌスは、こうして内乱の一世紀と呼ばれる時代に終止符を打ちました。「パクス・ロマーナ」(ローマによる平和)はこうして実現されたのです。
 偉大な政治家アウグストゥス、彼が創始した帝国は東西に分裂しながらも中世、オスマントルコに滅ぼされるまでなんと1500年近くも続きました。
 世界史上有数の英雄であったといっても過言ではありません。

2008年11月25日 (火)

世界史英雄列伝その16  「 魏の武帝 曹操 」

◇曹操(字は孟徳)155年~220年

155年 太尉曹嵩の子として生まれる。
178年~184年 黄巾の乱 曹操は騎都尉として鎮圧にあたる。
189年 董卓暗殺を謀るも失敗、逃亡。
190年 反董卓連合軍を結成(盟主は袁紹)
   董卓を洛陽から追うも、連合軍は解体。
191年 東郡太守に任ぜらる。
192年 青州(現山東半島)の黄巾賊を討伐、30万の捕虜を得る。(青州兵)
195年 兗(えん)州牧に任ぜらる。
   献帝を、許昌に迎える。
196年 大将軍武平侯になる。
198年 呂布を滅ぼす。
200年 官渡の戦いで袁紹を破る。
207年 烏丸討伐、袁一門をことごとく滅ぼす。
208年 赤壁の戦い。劉備・孫権連合軍に敗れる。
211年 渭水の戦いで西涼の馬超を破る。
   漢中の張魯を討つ。
213年 魏公。
216年 魏王。
220年 死去。
   息子曹丕が献帝より禅譲を受け魏王朝を建国。太祖武帝と追号される。


 後漢末、許子将という有名な人相観がおりました。月の初めに人物を評価するので「月旦評」の名で有名でした。ある日、不敵な面構えの若者が許子将のもとを訪れます、自分を観て欲しいと。
 じっとその若者を見つめた許子将は、はき捨てるように「君は治世においては能臣だが、乱世では奸雄となろう。」
 若者は、にやりと笑い「乱世の奸雄、それも良い。」と言ったと伝えられます。この若者こそ、後に三国志で活躍する主人公の一人、曹操孟徳その人でした。

 曹操は太尉曹嵩の息子といわれてますが、実はこの曹嵩、養子です。養父は曹騰、宦官でした。この時代では珍しい清廉な宦官でしたが、曹騰の孫ということで、曹操は劣等感を生涯持ち続けます。

 三国志を読まれた方はご存知ですが、十常侍という宦官達が悪政の限りを尽くし漢王朝を滅亡に追い込みます。イメージ的に宦官の孫ということは、それだけで色眼鏡でみられる存在でした。しかも父曹嵩の官位もお金で買ったもの(売官)でしたからなおさらです。

 若いころ、名門(四世三公=4代にわたり朝廷の大臣になった家柄)の袁紹と遊びますが、曹操は袁紹を友達とは思っていなかったかもしれません。
 袁紹が名門の威光で、順調に河北に大勢力を築き上げている間、曹操は悪戦苦闘しながら勢力を広げます。家柄のない曹操の力は、人材でした。従兄弟の夏口淵、夏口惇。一族の曹仁、曹洪。許楮、典韋などの武将。荀彧、程昱、荀攸、郭嘉、劉曄、董昭などの謀臣。彼らの力によって最終的には華北を平定するに至りました。

 また、衰えたとはいえ、漢朝の威光を利用したのも成功でした。曹操は自分の本拠地、許昌に献帝をむかえ、自分は丞相となることで諸国の群雄のなかで一頭地を抜く存在になったのです。

 丞相閣下の威光は絶大でした。曹操に逆らったものは朝敵となり、曹操の軍は官軍としてこれを討つことができます。討伐されのは淮南の偽帝袁術(袁紹の弟)、徐州の呂布(董卓を殺すも追われて徐州にきていた。)、関中の李傕(かく)、郭汜(し)らでした。そして華北平定の総仕上げとして、ついに袁紹とぶつかります。官渡の戦いについては以前ふれたのでくわしくは書きませんが、両軍の兵力差に関しては、最近読んだ正史三国志の武帝紀でも疑問を投げかけてあったのを発見して、わが意を得たりと納得しました。やはり、両軍の兵力差は実際はそれほどではなかったのかもしれません。

 古の兵法書孫子をまとめ、現在あるような形にしたのも曹操です。(魏武註孫子)生涯勝率8割5分といわれるほど戦上手の曹操ですから、自分の体験もふまえ編纂しました。余談ですが物語中盤で蜀の張松が嘲笑した孟徳新書とは、この魏武註孫子のことではないかと思います。張松は笑いましたが、現在にまで残っているのでやはり偉大な書物であることは間違いありません。

 官渡の役のあと、数年で北方の袁一門を滅ぼし華北を平定、残るは南方でした。呉の孫権、そして荊州に寄食する劉備、この二人だけが厄介な存在でした。
 そして、劉備は有名な「三顧の礼」で、大軍師諸葛亮を迎えていました。諸葛亮は恩讐を越えて劉・呉同盟を結ばせ、曹操の苦手な水上戦にもって行きます。これが世に言う赤壁の戦いです。陸上では大軍である曹操の軍(83万と号していました。)も、長江の水の上では手も足もでません。ましてや周瑜率いる精強な呉水軍3万が相手です。三国志演義では諸葛亮が遁甲の秘法をつかって吹くはずのない東南の風を起こし火攻めをして曹操の水軍を焼き払った事になってますが、北方育ちの曹操軍は、湿気の多い南方で疫病にかかりまともに戦争できる状態ではなかったとも言います。こちらが真相だとするとなんだか夢のない話になるので深く詮索するのはやめましょう。

 ともかく、この戦いで曹操の天下統一の夢は破れました。しかし中国の3分の2を支配下においている事には変わりません。後、劉備が四川にはいって蜀を建国、三国時代に入りますが、蜀と呉は連合しないと魏にあたることはできませんでした。

 こうなると、献帝を廃して自分が王朝を建てても不思議ではありません。しかし曹操はそうしませんでした。自分を周の文王になぞらえていたのです。文王は実力天下一でありながら商(殷)の紂王に仕えました。曹操の息子曹丕によって魏は建国されます。魏の太祖武帝、それが曹操のおくり名です。

 「矛をよこたえて詩を賦す」と称えられた詩人でもあった曹操。短歌行は有名です。三国志を編纂した陳寿は、曹操を評して「非常の人、超世の傑」と言っています。やはり世界史を代表する英雄です。

世界史英雄列伝その15 「グスタフ2世アドルフ  北方の獅子王」

◇グスタフ2世アドルフ 1594年~1632年(在位1611年~1632年)

1594年 スウェーデン王カール9世の王子として生まれる。
1611年 即位
    当時、バルト海制海権をめぐってロシア・ポーランド・デンマークと戦争中。
1613年 ロシア皇帝位を主張しない代わりにカレリア地峡を獲得。
    以後はポーランド戦に全力をつくす。
    フランスの仲介で講和。バルト海の制海権を獲得。
1630年 ドイツ30年戦争に新教側で介入。1万5千の兵を率いポンメルンに上陸。
1631年 ブライテンフェルトの戦い。ティリー率いる皇帝軍を撃破。
1632年 ミュンヘン占領。
    リィッツェンの戦い。皇帝軍ヴァレンシュタインを破るも、自らは戦死。

 現在、ビゲン・グリペンなどのジェット戦闘機とSタンクのようなユニークな戦車を持ち、専守防衛の中立国で知られるスウェーデンですが、かってはバルト海周辺に、フィンランドを含む広大な領土を持つヨーロッパでも有力な軍事強国(人口が少ないので大国とまでは言えない)であったことはあまり知られていません。

 その絶頂期を築いたのが、本編の主人公グスタフ2世アドルフです。スウェーデンの覇権はカール12世が、ロシアのピョートル大帝に北方戦争で敗れるまで続きます。
 17歳で即位したアドルフでしたが、当時スウェーデンはバルト海の覇権をめぐってロシア・ポーランド・デンマークなどと戦争の真っ只中のいました。

 ロシアの皇帝位を主張しない代わりに(どういう経緯かは不明)、ロシアからカレリア地峡を獲得します。いまのフィンランド南部からペテルブルグ(レニングラードの方がWW2フリークとしてはしっくりきますが)の西方地域です。
 ポーランドとの戦争では、スウェーデンと友好関係を築きたかったフランスが仲介して有利な講和を結べます。これでダンチヒなどバルト海沿岸地方を得て一大バルト海王国が出現しました。

 グスタフ・アドルフの名を知らしめるのは、なんと言っても30年戦争への介入でしょう。新教側諸侯を援けるという名目でしたが、その真意はドイツ北方にあるスウェーデン領の安定化を図ることが目的でした。
 グスタフ・アドルフは1万5千の兵を率い北ドイツに上陸します。数は少なくとも精強な軍隊でした。火力と機動力を重視し、火砲の軽量化を図りました。騎兵・歩兵・砲兵のいわゆる三兵戦術、兵站部門の独立など近代に通じる編成です。

 1631年には、ティリー伯率いる皇帝軍をブライテンフェルトで撃破しその真価を発揮します。北ドイツを席巻する勢いのスウェーデン軍に対し、神聖ローマ皇帝はあわてて罷免していた傭兵隊長ヴァレンシュタインを起用しました。
 このヴァレンシュタインという人物、もともとボヘミアの新教貴族の生まれでしたが、のちカトリックに改宗、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世を支持して新教諸侯を破り大功をあげます。そして新教諸侯の領地を没収して巨富を得、5万の傭兵隊を組織するようになります。30年戦争では、デンマーク王クリスチャン4世の侵入を撃退しますが、彼の力が強大になるのを旧教諸侯に恐れられ罷免されていました。

 背に腹はかえられません。実力で10万の傭兵を集められるヴァレンシュタインしかこの危機を打破できる人物はいませんでした。
 1632年、スウェーデン軍はミュンヘンまで占領します。ヴァレンシュタインはリッツェンの地でこれを迎え撃ちます。激戦でした。しかし精強なスウェーデン軍は、大軍とはいえ寄せ集めの皇帝軍をついに破ります。ところが、信じられない悲劇がおこりました。国王グスタフ・アドルフが霧で視界を失いさまよっているところを砲撃にあい戦死してしまったのです。
 皇帝軍の危機は去りました。しかし、ヴァレンシュタイン自身の存在価値もこれでなくなりました。単独で新教側と講和を図っていたとも、選帝候位を望んだとも、ボヘミア王位(選帝候位もついてくる)を狙ったともいわれていますが、皇帝に疎まれ1634年再度罷免されます。そして何者かにより暗殺されました。

 国王をうしなったスウェーデン軍は、怒り狂いドイツ各地で略奪暴行の限りをつくしドイツの荒廃を加速させる悲劇をつくりました。

 グスタフ・アドルフは戦争ばかりしている印象ですが、国内の産業育成にも力を尽くしました。司法行政制度を整え、商工業を奨励、大製鉄所を建設し武器工場を近代化しました。おかげで武器を輸出するほどになったと言います。
 北方に出現した獅子王、グスタフ2世アドルフ。スウェーデンが最も世界史上輝いていた時代の王です。
 

世界史英雄列伝その14 「ジェラール・ウッディーン ホラズム朝最後のスルタン」

◇ジェラール・ウッディーン ?~1231年(在位1220年~1231年)

1220年 父王アラーウッディーン・ムハンマド死亡を受け即位。
    モンゴルの追撃を受け首都ウルゲンジを放棄、ガズナに拠点を移す。
1221年 パルヴァーンの戦いでモンゴル軍の武将シギ・クトクを破る。
    インダス河畔の戦いで、チンギス汗に敗れる。
1225年 イラン高原進出。タブリーズ入城。
1230年 ルーム・セルジューク朝とアイユーブ朝連合軍に敗れる。
1231年 モンゴル、オゴタイ汗の追討軍をうけ、東部アナトリアで殺害さる。
    (ホラズムシャー朝滅亡)

 1221年、インダス河畔においてイスラム伝統の半月型の陣形を敷く軍。数百騎に撃ち減らされてもまだ陣形を保っていました。それを取り巻く敵の大軍は毒を塗った矢で外側からじわじわと倒していきます。

 全滅は時間の問題でした。と、そのとき劣勢の軍を指揮していた若者が、さっと軍旗を掲げると単騎インダスの濁流に人馬もろとも突っ込みます。そして溺れもせず悠々とわたり始めました。それに続き部下たちも次々と馬を濁流に躍らせます。これを見ていた敵軍の総大将、チンギス汗は、
 「人の子たるもの、かくあるべし。矢を射掛けるのをやめよ。」
 モンゴルの大軍が見守る中、盾を背負い、片手に手綱、片手に軍旗をもった勇将を先頭に全軍ゆうゆうと河を渡り、インドへ落ちていきました。
 井上靖著「蒼き狼」のなかで、私が最も好きなシーンの一つです。

 この若者こそ、ホラズムシャー朝最後のスルタン、ジェラール・ウッディーンです。
 1218年、モンゴルの使節を、自国を侵略するために入ってきたスパイと思い込みホラズムシャー朝のオトラル太守がこれを殺害。この事件をきっかけにしてモンゴルはホラズムを討つべく20万の大軍を動員し西征の途につきます。

 ゴール朝を滅ぼしイラン高原に進出し王国最盛期をむかえていたスルタン、アラーウッディーン・ムハンマドはこれを迎え討たんとしますが大敗、ブハラ、サマルカンドなどの重要都市を奪われ首都ウルゲンジから逃亡を図ります。
 モンゴル軍は執拗にムハンマドを追撃、逃げ場を失ったムハンマドはカスピ海の孤島で失意のうちに亡くなりました。

 一方、首都の守りを託されていた王子ジェラールはウルゲンジで即位しますが、モンゴル軍の攻撃の前に首都を放棄、アフガニスタン、ガズナの地に拠点を移し抵抗します。チンギス汗は、勇将シギ・クトクを派遣してこれを討たせますが、たくみに山岳地形を利用し奇襲したジェラール軍に敗れてしまいます。

 放置しておけないチンギス汗は自ら大軍を率い、ジェラールを追いました。
 さすがにモンゴル軍主力には勝てません。追い詰められたジェラールはインダス河畔で最後の抵抗をします。それが冒頭のシーンです。
 インドに落ちていったジェラールを追うのを諦めたチンギス汗は、いったん兵を引きモンゴルに帰還しました。

 領土回復に燃えるジェラールでしたが、ホラズム本土はチンギス汗の残していった軍がいました。やむなくイラン高原に進出、タブリーズに入城し王国を再興します。しかし、近隣のルーム・セルジューク朝といさかいをおこしエジプトのアイユーブ朝とくんだ敵に敗れてしまいます。モンゴルの脅威を訴えても、ジェラール自身がイランの地への侵入者でしたので、彼らは聴く耳持ちませんでした。
 そのうち、ジェラールの動きをつかんだモンゴル帝国のオゴタイ汗は、今度こそ息の根を止めるべくイラン高原に再び追討軍を送ります。

 とうてい自分ひとりではモンゴルに対抗できません。イスラム全体の脅威に各国は協力すべきでした。しかし、勇将ではあっても政治力のないジェラールは反モンゴル連合を纏め上げることができませんでした。モンゴル軍に破れ、ふたたび逃亡したジェラールでしたが、東アナトリアの地で土民に殺害され波乱の生涯を終えました。1231年のことです。
 その後、ジェラールの名をかたった反モンゴルの反乱が幾度もおきます。彼の名は反モンゴルのシンボルになっていたのです。

 王朝草創期なら、領土をひろげた偉大な王となっていたでしょう。しかしジェラールは王国の滅亡期に生まれました。歴史の皮肉と言ってしまえばそれまでですが、一瞬とはいえ輝いた瞬間があったことを幸せと考えるしかないでしょう。

世界史英雄列伝その13 「スラ   ローマ 閥族派の巨頭 」

◇ルキウス・コルネリウス・スラ BC138~BC78

BC111年~BC105年 ユグルタ戦争に従軍。軍功をあげる。
BC93年      法務官就任。
BC91年~BC88年  同盟市戦争。軍功をめぐり平民派のマリウスと対立。
BC88年      執政官(コンスル)就任。ミトリダテス戦争の指揮権をめぐってマリウスと対立。
         マリウスは難を避けアフリカへ逃亡。
         スラ、軍を率いミトリダテス討伐に出陣。
         後事を託したキンナの裏切りにあう。キンナ、アフリカからマリウスを呼び寄せる。
         マリウス派、ローマに実権を握る。
BC86年      マリウス死去。スラ、ミトリダテス軍を破り、2年かけてローマに進軍。
BC81年      スラ、無期限の独裁官(ディクタトル)に就任。
BC78年      死去。

 当時、ローマは内乱の1世紀と呼ばれる混乱の真っ只中にいました。土地を持った市民による軍団は彼らの没落によって編成困難になりました。BC107年、平民出身のマリウスは軍制改革に乗り出します。兵士を市民から志願兵による編成と改めたのです。これでローマ軍制の維持はできたのですが、その弊害として兵士が国家でなく軍の指揮者に忠誠を誓うようになったのです。マリウスは自分の部下の力を背景にローマで実権を握ります。

 一方、ユグルタ戦争の指揮をしていたマリウスの部下にスラがいました。騎兵を指揮していたスラでしたが、その才能は外交にありました。マリウスの勝利を背景にユグルタ軍の内部分裂を図りついにユグルタを捕らえます。

 軍功も重ねたスラは頭角をあらわしていきます。マリウスと袂を分ちBC93年には法務官就任。BC91年に起こった同盟市戦争では一方の雄と成っていました。同盟市戦争とは、ローマと同等の市民権を求めての蜂起でしたが、スラはここでも大功をあげます。しかし戦後、マリウスと軍功をめぐって対立します。

 マリウスが平民派の首領なら、名門コルネリウス一門出身のスラは閥族派の雄でした。
 BC88年、執政官に就任したスラは小アジアで蜂起したポントス王ミトリダテス討伐を準備します。ところがマリウスも志願したため事態は混乱します。しかし政争にやぶれたマリウスはアフリカへ逃亡しました。

 後事をキンナに託し、不安を残しながらスラはミトリダテス討伐へ向いました。そしてその不安は最悪の形で実現しました。キンナが裏切ったのです。マリウスはキンナの誘いに乗りローマに進軍します。

 ローマを制圧したマリウスは新たにミトリダテスとスラを討伐するため軍を派遣します。
 絶体絶命の危機でした。前後に敵を迎えるスラはしかし落ち着いていました。まず不足するのは戦費です。スラはなんとデルフォイの神殿はじめいくつかの神殿を資金の調達源としました。各地の神殿に使者が走ります。その中でオリンピアの神殿だったと思いますが、神殿に使者が入ろうとすると、中から荘厳な神の声を聞いたといって使者が恐れ逃げ帰ってきます。報告を受けたスラは「馬鹿だな、神様は資金を好きなだけ持っていって良いといわれたのだよ。」と言いました。なんとも人を食った話です。その前に神殿から資金を強奪(後で返すと約束はしましたが)するという発想は常人の考えではありません。

 スラは、この危機をマリウスの派遣した軍を懐柔して自分の兵力にすることで解決します。そして自分の役割はまず、ミトリダテスを倒す事だと決め、実行します。スラ率いるローマ軍の前にはポントス兵など鎧袖一触でした。ミトリダテスを下すと、スラは2年をかけてゆっくりローマに進軍します。

 マリウスはすでに死去していました。ローマを制圧下においたスラは、無期限の独裁官(ディクタトル)に就任、早速反対派の粛清にはしります。このとき、若き日のガイウス・ユリウス・カエサルも処罰リストに入っていました。キンナの娘を妻にしていたためです。
 周囲は、カエサルが年少でまだ政治的活動をしていないことに同情し、リストから彼をはずすようスラに頼みます。

 しぶしぶこれを聞き入れたスラでしたが、「君たちは分からないのか。あの若者の中には百人ものマリウスがいることを。」と言ったと伝えられています。英雄、英雄を知るでしょうか。
 キンナの娘との離婚を条件に許されることになったカエサルでしたが、なんとこれを拒否、小アジアに亡命します。

 独裁官としてローマの改革を目指したスラでしたが、役割を終えると独裁官を辞任し引退します。そしてまもなくしてなくなります。その墓碑銘も最後まで人を食ったものでした。
 「味方にとってはスラ以上に良きことをした者はなく、敵にとってはスラ以上に悪しきことをした者なし。」

世界史英雄列伝その12 「 ナセル アラブの盟主 」

◇ナセル 1918~1970(大統領1954~1970)

1918年 アレキサンドリアの郵便局長の息子として生まれる。
1938年 士官学校卒業後、同志と共に改革を目指す「自由将校団」を結成。
1948年 イスラエル独立に介入し第1次中東戦争勃発。ナセルも参戦。
    敗北し、エジプトでは革新運動激化。
1950年 改革派のワフド党政権をとる。スエズ運河地帯から英軍の撤兵を要求。
1952年 自由将校団、軍事クーデターを起こす。
1953年 革命評議会、王政を廃止しナギブ将軍首班とする指導体制確立、のち大統領に就任。
1954年 ナセル、ナギブ派のムスリム同胞団と対立。暗殺未遂事件起こる。
    ナセル、ナギブ大統領を解任し自ら大統領になる。
1956年 スエズ運河国有化宣言。それに反発した英仏、イスラエルを支援し第2次中東戦争起こる。
    米・ソが介入、ナセルは承認を勝ち取る。
1958年 シリアとアラブ連合結成。(3年後に崩壊)
1967年 戦争準備していたエジプト・シリアに対しイスラエルが先制奇襲攻撃。第3次中東戦争始まる。
    6日間で決着し、エジプトはシナイ半島を喪失。
    ナセル、敗北の責任をとって辞任を宣言。国民が反対し留任する。
1970年 心臓発作で死去。盟友サダトが次期大統領に就任。


 紀元前以来、エジプトは外国の勢力に支配され続けました。オスマントルコから独立後も、スエズ運河という重要な戦略拠点を持っていたため、大英帝国の植民地として苦難の歴史を歩んできたのです。

 ナセルは、そんな自国の様子に憤慨し同志達と自由将校団を結成し改革を誓います。
 第2次大戦後、形だけは独立国家でしたが、スエズ運河地帯には英軍が駐留し続けました。1950年エジプト国民の革新運動の中から政権をとったワフド党はスエズ運河地帯から英軍の撤退を要求します。しかし英国が権利を手放すはずがありません。
 力による改革を痛感したナセルは、1952年クーデターを起こし政権を奪取します。首班にはナギブ将軍を据えましたが、実質的指導者はナセルでした。1953年、王政を廃止するとナギブは大統領に就任しました。

 しかしナギブ大統領を支持するムスリム同胞団は、しだいにナセルの存在が疎ましくなります。そしてナセル暗殺未遂事件を起こします。
 ナセルは、直ちにナギブを解任しナギブ派を政権から追放しました。自ら大統領に就任したナセルは念願の改革にはしります。アラブ社会主義と呼ばれる改革の目的は、階級闘争をやめ国民の団結を図るものでした。

 そして、1956年有名なスエズ運河国有化宣言をします。中東に利権を持つ英仏はこれに反発、イスラエルを支援し第2次中東戦争を起こします。英仏は空挺部隊を派遣し実力でスエズ運河を奪取しようとしました。戦争はエジプト劣勢、敗北も時間の問題となりました。しかし米ソがこれに介入してきます。両国は珍しく共同歩調をとり英仏を非難しました。これ以上戦争を続けると軍事介入も有りうるというという恫喝に英仏は屈します。
 国際政治のなかで米ソが指導体制をとるという強い意志の表れでした。かって列強として植民地大国だった英仏の凋落ははっきり見えてきました。

 ナセルは、微妙な国際政治のバランスに救われる形でしたが、なんとかその承認を勝ち取りました。2回の中東戦争によってイスラエルとアラブは不倶戴天の敵となっていました。1967年、ナセルはシリアと組んでイスラエルを倒そうと戦争の準備を始めます。しかしそれを察知したイスラエルは、逆に先制奇襲攻撃をかけてきました。第3次中東戦争、6日間戦争の勃発です。

 最初の航空機による奇襲で制空権をうばわれたアラブ側は、地上でも精強なイスラエルの機甲部隊に大敗します。この戦争によってエジプトはシナイ半島を奪われるという屈辱の末、敗北しました。
 責任を感じたナセルは辞任宣言をします。しかしエジプトの国民はそれを許しませんでした。戦争に負けたとはいえ、エジプトをアラブの盟主としてここまで築き上げたナセルの力をまだ必要としていたのです。

 1970年、ナセルは心臓発作で亡くなります。あとを継いだのは盟友サダトでした。この国民的英雄の死は民衆に惜しまれました。エジプトの歴史以来ここまで慕われた指導者はいなかったかも知れません。

 紀元前、アッシリアの征服以来、常に外国勢力に支配され続けたエジプトを独立させ、自分たちによる国づくりを実現させたナセル、やはり不世出の英雄だったといえるでしょう。

世界史英雄列伝その11「後漢の光武帝 劉秀 」

◇劉秀(後漢の光武帝) BC6~AD57(在位AD25~AD57)

BC6年 南陽郊外に地方豪族劉氏の子として生まれる。
22年 兄劉縯に従い挙兵。
23年 昆陽の戦いで大功を上げる。
   兄劉縯が更始帝に殺される。
   更始帝により、河北の平定を命じられる。
25年 更始帝から自立し河北で即位。年号を建武と定める。(後漢王朝成立)
   更始帝、王莽の新王朝を滅ぼすも、西進してきた赤眉軍により滅亡。
   食料のなくなった赤眉軍、東へかえる。待ち構えた劉秀、これを滅ぼす。
36年 蜀の公孫述を滅ぼして、天下統一。
40年 交趾(現ベトナム)で漢の支配に反抗した徴姉妹の乱がおこる。
   伏馬将軍馬援を派遣、鎮圧。
56年 建武中元と改元。封禅の儀式を行う。
57年 倭の奴国王朝貢。金印をさずく。(志賀島の金印か?)
同年 死去。


 漢の高祖劉邦や三国志の英雄たちに挟まれて、後漢王朝の創始者劉秀はあまり知られていません。  しかし、調べてみると、非常にユニークで魅力的な人物像が浮かび上がります。
 もともと劉秀の家系は、景帝の子孫ですが幾流にも分かれとうてい皇帝になれるような家柄ではありませんでした。平和な時だったら、豪族ののんきなお坊ちゃんで生涯を終わったことでしょう。

 時代は、激動のうねりを見せます。前漢王朝が外戚の王莽にのっとられ新王朝が成立します。王莽は周代の制度に則った時代錯誤の政策を推し進めます。それによって経済がガタガタになった民衆は各地で反乱を起こします。赤眉軍、緑林軍と呼ばれる大反乱軍もいくつか出現しました。

 緑林軍の一派新市軍は南陽に流れてきて土地の豪族たちと連合します。このとき劉秀の兄劉縯もこれに加わります。しかしなかなか人が集まりませんでした。乱暴者だからです。そこで兄は弟劉秀をさそいます。ひごろ慎重でおとなしい劉秀が加わるのならと、人々はこぞって参加しました。
 反乱軍は指導者として劉玄を選びます。劉秀の本家筋に当たる人物です。更始帝と名乗りました。

 このとき面白いエピソードがあります。挙兵時馬がなかった劉秀はなんと牛に乗ってやってきたそうです。想像すると笑いますね。とぼけた味をだしています。
 南陽の反乱軍は突然危機に陥ります。王莽が40万もの討伐軍を派遣してきたのです。反乱軍は1万、昆陽城に包囲されます。ここで、劉秀は思い切った手をうちます。
わずか13騎で城を脱出した劉秀は郊外で3000騎を集め大軍を外から攻め始めました。あの慎重な劉秀のことだから大軍を引き連れているに違いない、と城内の人々は思いました。ですから死に物狂いで討って出、劉秀と内外から攻め立ててなんと王莽軍を敗走させます。

 劉秀兄弟の軍功に嫉妬した更始帝は、難癖をつけて兄劉縯を殺します。劉秀はじっと耐え続けます。そんな時チャンスがめぐってきました。
 都長安に攻め上る更始帝から、河北の平定を命ぜられます。ていよく追っ払われたのですが、これが運命の分かれ道でした。都に攻め上り王莽を倒した更始帝でしたが、もともと寄せ集めの軍隊です。各地で略奪暴行を繰り返し人心は離れます。そこへ山東から赤眉軍が攻め込み更始帝は滅ぼされます。もとより単なる反乱軍にすぎない赤眉軍は同じように略奪し、それができなくなると都を捨て東にかえろうとします。

 一方、劉秀は河北で着々と実力を蓄えていました。群臣におされ皇帝として即位します。劉秀は漢王朝の再興をうたいましたから、この王朝を後漢と呼びます。
 後漢軍は、東帰する赤眉軍を待ち伏せ、散々に撃破します。その後、各地に割拠していた軍閥を攻め36年、蜀の公孫述を滅ぼしてついに天下統一が成りました。
 後漢王朝も前漢と同様200年続きました。

 最後にいくつか面白い話をします。
 若いころ劉秀は「仕官するなら執金吾(首都警察長官)、妻を娶らば陰麗華(のちの皇后、美人で有名)」と常々言っていたそうです。実際は執金吾どころか皇帝になったわけですが。また陰麗華が許婚になったとき小躍りして喜んだそうです。なんだか人間くささがでていますね。

 もう一つ、劉秀が匈奴を討伐したときです。国境沿いの住民を内地に移住させて軍隊だけを残したそうです。もともと匈奴は食べるものを求めて略奪をするために攻め込んでいるのです。それが不可能になったら、何のために攻め込むのか分かりません。ある意味最強の匈奴対策かもしれません。こうして匈奴は略奪の道を閉ざされ弱体化します。分裂し一部は降伏してくるほどでした。
 最後に、劉秀が皇帝になり故郷南陽に錦を飾った時の事。親戚の叔母さんに「あんたのようなおとなしい子が皇帝になったとはねえ。世の中はわからないわねえ。」と言われ苦笑したそうです。

 後漢の光武帝、劉秀。なんとも魅力的な人物です。

2008年11月24日 (月)

世界史英雄列伝その10「鉄血宰相ビスマルク」

◇ビスマルク 1815~1898(プロイセン首相1862~1890、ドイツ帝国宰相兼任1871~1890)

1815年 ベルリン北西部、ユンカー(土地貴族)の子として生まれる。
1849年 プロイセン国会下院議員当選。
1851年 フランクフルトにあるドイツ連邦議会プロイセン代表。
1862年 ヴィルヘルム1世に抜擢されプロイセン首相に就任。
1864年 プロイセン-デンマーク戦争でシュレスビヒ・ホルシュタイン獲得。
    (参謀総長大モルトケとのコンビ)
1866年 普墺戦争、7週間で勝利。
    プラハ条約でドイツ連邦解体。
1867年 プロイセン主導の北ドイツ連邦結成。
    エムス電報事件
    普仏戦争勃発。セダンで仏皇帝ナポレオン3世包囲され降伏。
    仏市民激怒。皇帝を廃位し、戦争は継続。
1871年 パリ砲撃開始。
    ヴィルヘルム1世、ベルサイユ宮殿でドイツ帝国皇帝戴冠式。ドイツ帝国成立。
    1月28日休戦条約。
1888年 ドイツ帝国初代皇帝ヴィルヘルム1世死去。孫のヴィルヘルム2世と対立。
1890年 ヴィルヘルム2世に解任される。
1898年 死去。

 フリードリヒ大王によって一躍欧州列強に名乗り出たプロイセンでしたが、突如フランスに現れた不世出の英雄、ナポレオン率いる大陸軍によってイエナ、フリートラントと連敗し国土の半分を奪われてしまいます。シャルンホルスト、グナイゼナウらによって再建されたプロイセン軍はワーテルローでナポレオンに一矢むくいます。
 そして、19世紀。プロイセンは鉄血宰相ビスマルクによってドイツを統一することができました。

 ビスマルクの政治方針は勝ちすぎない事。勢力均衡と、敵を孤立させての各個撃破でした。それにはプロイセン軍の精強さと参謀総長大モルトケがあってはじめて可能でした。
 まず、ビスマルクが目をつけたのは小国デンマークでした。ユトランド半島の付け根にあるシュレスビヒ・ホルシュタインの2州を戦争によって奪取します。

 ビスマルク最大の悲願はドイツの統一です。それに大きな邪魔になるのがオーストリアの存在でした。
ドイツ連邦はオーストリア主導の体制です。プロイセンがどうあがいても、これでは身動きできません。ドイツの枠組みからオーストリアをたたき出すには、やはり戦争でした。用意周到に準備された作戦計画によって戦争は始められました。プロイセン国内に張り巡らされた鉄道網によって輸送された部隊はオーストリア国内で求心的に合流、機械のような正確さで作戦を進めていきます。わずか7週間でプロシアの勝利が確定しました。
 ビスマルクは、しかしオーストリアを追い詰めませんでした。寛大な条件で講和するとドイツ連邦を解体するだけで満足しました。
 次の年、プロイセン主導で北ドイツ連邦が結成されました。これで、ドイツ統一の基礎ができあがりました。あとは総仕上げです。

 エムス電報事件、それがきっかけでした。当時空位になっていたスペイン王位をめぐって、ホーエンツォレルン家のレオポルド公が候補の一人に上がっていました。時のフランス皇帝ナポレオン3世はプロイセン王家の一族がスペイン王位を継ぐのを嫌って、ヴィルヘルム1世にレオポルド公が辞退するよう要請しました。

 エムスで静養中だったヴィルヘルム1世のもとへフランス大使をつうじてナポレオン3世の電報が届けられます。その電文を手に入れたビスマルクは、あたかもナポレオン3世がヴィルヘルム1世を脅迫しているかのように改ざんして新聞に発表しました。これを見たプロイセン国民は激昂します。ヴィルヘルム1世自身も、新聞を見せられて「これは戦争だ!」と叫んだといいます。しかし、ヴィルヘルム1世はかねてビスマルクから統一のシナリオを聞かされていたので落ち着きをとりもどします。

 一方、フランス国内でもプロイセン討つべしという声がしだいに大きくなっていきました。
 世に言うエムス電報事件、これが両国の間に戦争をもたらしました。
 1867年、普仏戦争は勃発します。この日のために準備していたプロイセン軍とちがって、フランスは泥縄式でした。ナポレオン3世自身が、10万の兵と共にセダンで包囲され捕虜になる始末でした。

 しかし、戦争はこれで終わりませんでした。怒った市民はナポレオン3世を廃位、新政府を設立して戦争を継続します。1871年、プロシア軍によるパリ砲撃開始。その砲声が聞こえる中、ヴィルヘルム1世はベルサイユ宮殿において戴冠式をおこないます。ドイツ帝国の成立でした。
 同年1月28日、休戦条約が締結され戦争はプロイセン、いや新生ドイツ帝国の勝利におわりました。

 これ以後、ビスマルクは戦争を避けるようになりました。勢力均衡をはかり自分が仲介者となって各国の紛争を調停しました。いわゆるビスマルク体制です。
 1888年、ドイツ帝国初代皇帝ヴィルヘルム1世が崩御します。息子フリードリヒ3世が継ぎますが3ヶ月で死去、孫のヴィルヘルム2世があとを継ぎました。
 しかし、ヴィルヘルム2世は凡庸で、ビスマルクの高度な外交を理解できませんでした。ことあるごとに対立し、1890年には宰相を解任します。引退したビスマルクは1898年死去しました。

 ヴィルヘルム2世は、大英帝国と建艦競争するという愚行をおかし、外交でも失策を犯しました。ビスマルクが最もおそれたドイツの孤立化をまねいたヴィルヘルム2世は、第1次世界大戦で自滅します。

 そして自らの手で、栄光のドイツ帝国に幕を引きオランダに亡命します。こうしてビスマルクたちが血と汗をながして築き上げたドイツ第2帝政は終焉の時を迎えました。

世界史英雄列伝その9「フリードリヒ大王」後編

 フリードリヒ大王が1740年即位すると、早速試練が起こります。もっとも自業自得なのですが。

 1740年、オーストリアに女帝マリア・テレジアが即位したことに対して、バイエルン選帝侯が相続権を主張、オーストリア継承戦争が始まります。
 フリードリヒは、マリア・テレジア側に立って参戦する見返りにシュレジェン地方の割譲を要求します。シュレジェンは人口100万、鉱物資源も豊富で鉱工業が発達していました。そんな重要な要地をやすやすと手放すはずがありません。マリア・テレジアは即座に拒否しました。フリードリヒは実力で手に入れようとシュレジェン地方に侵入しました。

 啓蒙君主として内外に振舞っていたフリードリヒでしたが、実態は侵略者でした。1748年まで続く戦争でフリードリヒは念願のシュレジェン地方を手に入れることに成功します。
 収まらないのはマリア・テレジアです。21歳で即位し周囲に女となめられての領地強奪でした。大国の威信にかけてフリードリヒへの復讐を考えます。それにこたえて宰相カウニッツ伯がある提言をします。

 それは,今までいがみ合っていたフランスと結び、共同してプロイセンにあたろうというのです。ロシアがこれに加わり3国同盟が成りました。これを外交革命と呼びます。
 このままではプロイセンは3国に締め上げられてしまいます。フリードリヒはイギリスの援助をあてに先制攻撃で勝機をつかもうとします。しかし人口で、400万人のプロイセンにたいして連合国は8000万人。どんなにフリードリヒが戦上手でも圧倒的な国力の差は逆転できません。1756年に始まった戦争は1763年まで続きます。いわゆる七年戦争です。

 最初は攻勢に出たフリードリヒでしたが早くも1757年にはコリンで大敗を喫します。同年11月にはロスバッハで仏軍、12月にはロイテンでオーストリア軍に連勝しますが、イギリスが資金援助を中止するといきなり危機に陥ります。11760年には一時首都ベルリンも占領され、フリードリヒは自殺も考えたそうです。

 絶体絶命のフリードリヒでしたが、内戦の利をいかして戦い続けている内に奇跡が起こります。ロシアのエリザベータ女帝が死去するのです。跡を継いだピョートル3世は凡庸な人物だったばかりか、フリードリヒの崇拝者でした。ロシアとの単独講和がなると、フリードリヒはオーストリア軍一本に的を絞ることができました。

 1763年、フベルトゥスブルク条約で、フリードリヒはシュレジェンの完全領有を認められました。こうしてプロイセンは豊かなシュレジェンを加え、一躍欧州列強の一員となることができたのです。

 しかし、晩年のフリードリヒはすっかり人間嫌いになっていました。サンスーシ宮に篭り外に出なくなりました。彼がサンスーシ宮でさびしく世を終わるとき、プロイセンは領土と人口で倍、常備軍は22万を数える強国になっていたのです。

 余談ですが、独裁者ヒトラーはベルリンに連合軍が迫る中、総統府にフリードリヒ大王の肖像画を掲げていたそうです。フリードリヒ大王のように奇跡が起こることを信じて。しかし奇跡は起きませんでした。ヒトラーはフリードリヒ大王の肖像画と共に炎の中で最後の時を迎えます。

 独裁者と一緒に火に包まれたフリードリヒ大王の心境はどうだったでしょう。「同じ侵略者だとしても、自分にはプロイセンの国家としての確立というやむにやまれぬ事情があったのだよ。」と言ったかどうか。それは神のみぞ知る、でしょうか。

世界史英雄列伝その9「フリードリヒ大王」前編

◇フリードリヒ2世(大王)1712年~1786年(在位1740年~1786年)

1712年 フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(兵隊王)の長子として生まれる。
1740年 即位。
1740年~1748年 オーストリア継承戦争でシュレジェンを獲得。
1756年~1763年 7年戦争
1772年 第1回ポーランド分割で西プロイセンを獲得。
1786年 死去。

 フリードリヒ大王、名実ともにプロイセンを欧州列強に仲間入りさせた人物です。もともとプロイセンはドイツの北辺にある小国でした。プロイセンとはビィスワ川沿岸に住んでいた先住民プルーセン人に由来する名前だそうです。

 簡単に歴史をふりかえると、1226年ドイツ騎士団がこの地に入植して発展しました。ドイツ本土からは飛び地になりダンチヒ回廊によって隔てられています。中心はケーニヒスブルク。1410年ドイツ騎士団はポーランド・リトアニア連合軍に破れポーランドの宗主権下に置かれました。

 1511年、ブランデンブルク辺境伯ホーエンツォレルン家が騎士団長に就任。1525年騎士団を解散させプロイセン公国を創始します。
 ブランデンブルク辺境伯は神聖ローマ皇帝を選挙で選ぶ選帝候になります。中心はベルリン。選帝候領はベルリン周辺のほかにドイツ各地に飛び地を持っていました。その最大の飛び地が東プロイセンでした。

 歴代の当主は飛び地を繋げることを最大の目標にしていました。1660年、フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝候はプロイセン公国をポーランドの宗主権から開放、当時強国だったスウェーデンから北ドイツのポンメルンを奪回、強国への足がかりをつくります。

 1701年フリードリヒ3世は、神聖ローマ皇帝レオポルド1世の黙認によって東プロイセンにおいてのみ王号が許されました。スペイン継承戦争に8000の援軍を送るとの条件でしたが。こうして、フリードリヒ3世はプロイセン王フリードリヒ1世になりました。ただ、この王は贅沢を好み国費を浪費するのみで死にました。フランスのルイ14世に憧れていたとか。

 あとを継いだのは、それと正反対の性格のフリードリヒ・ヴィルヘルム1世でした。兵隊王とあだ名されるほど軍備にのめりこみます。プロイセンは農業国で豊かではありません。費用をどこで捻出したかというと、それは極端な吝嗇でした。良く言えば質実剛健でしたが、着ている洋服まで切り詰め、浮いた費用を軍備につぎ込んだのです。統制のとれた秩序を好み、宮殿から見えるベルリンの町を、ちょうど兵隊が整列しているようにつくり、軍隊を閲兵しているようだと、一人悦に入っていたそうです。

 その長男が、有名なフリードリヒ2世、大王です。子供のころは読書が好きなおとなしい性格で、フランス文化に憧れ啓蒙思想家のヴォルテールとも文通していたそうです。そんな軟弱な王子が、父と合うはずがありません。一度は脱走を図り、幽閉されてしまいます。

 家庭的には、面白みのない堅物の国王でしたが、彼が死ぬときには4万の常備軍を8万にし、精強な軍隊を作り上げていました。
 フリードリヒ2世は、その父の遺産をもとに小国プロイセンを欧州列強に押し上げていくのです。

世界史英雄列伝その8「ネブカドネザル2世とバビロンの栄華」

◇ネブカドネザル2世 ?~BC562(即位BC605~BC562)

?   新バビロニアの王ナボポラッサルの長子として生まれる。
BC606年 カルケミシュの戦いでエジプト王ネコを破る。
BC605年 父王死去をうけ即位。
BC595年 イラン西部エラム王国を滅ぼす。
BC586年 ユダ王国の反乱を鎮圧。バビロン捕囚。
BC562年 死去。

 新バビロニア王国ですが、欧米ではカルデア王国と呼ぶのが一般的だそうです。ネブカドネザルの名は知らなくてもバビロン捕囚という言葉はご存知でしょう。またバビロンの栄華もこの王の治世下のことです。

 もともと新バビロニアは、カルデア人の将軍ナボポラッサルがアッシリアからバビロンを奪って建国しました。しかし単独ではアッシリアを滅ぼせず、イラン高原に勃興したメディア王国の力を借りてようやく滅ぼす事ができたのです。

 同じころ、エジプトもネコ王のもとで、アッシリアから独立をはたします。そしてシリアの地の領有権をめぐって、BC606年北シリアのカルケミシュで激突します。このときの新バビロニア軍の指揮官が王子ネブカドネザルでした。

 激しい戦闘の末新バビロニアはエジプトを下します。余談ですが、歴代エジプト王国でこの地まで進出してきたのはネコ王が初めてです。
 しかし、敗北したネコ王は逆に新バビロニアの侵攻を恐れるようになります。実際、ネブカドネザルはエジプト侵攻の準備を進めていました。ところが、ネブカドネザルのもとに父王死去の報が入ります。急遽帰国したネブカドネザルはバビロンで即位します。

 ここまで書いてきて、アッシュールバニパルと似ている事に気がつきませんか。このあとイラン西部の強国エラム王国を滅ぼすところも似ています。これで、新バビロニアは旧アッシリア領のうちエジプト以外をすべて統一したことになります。

 あとは、エジプトを征服するばかりでした。しかしエジプト遠征の策源地に予定していたパレスティナのユダ王国が反乱を起こしました。反乱自体はあっけなく鎮圧されましたが、ネブカドネザルの怒りはすさまじく、ユダヤの民をバビロニアの地に移送して奴隷にしたのです。これが有名なバビロン捕囚でした。ユダヤ人の苦難は、アケメネス朝ペルシャのキュロス2世によって開放されるまでじつに50年も続きます。

 これ以後ネブカドネザルはあまり外征をしなくなりました。そして首都バビロンの整備に力を尽くします。有名な「空中庭園」「イシュタル門」はこのとき建造されました。いわゆるバビロンの栄華とよばれるほどの繁栄をみせたのです。

 「バビロンの栄華」とは、繁栄の極に達するも長続きしないものの代名詞です。そして歴史もそのとうりに動きました。BC562年ネブカドネザル2世は死去します。それからわずか30年後、イラン高原で、メディアの後を受け実力をたくわえていたアケメネス朝ペルシャのキュロス2世によって、新バビロニア王国は滅ぼされます。

 このあたりも、アッシュールバニパルとそっくりです。歴史はくりかえすのでしょうか?

世界史英雄列伝その7「アッシュールバニパル 世界の王」

◇アッシュールバニパル ?~BC630(在位BC669~BC630)

?   アッシリア王エサルハドンの王子として生まれる。
BC668年 アッシリア王に即位。
BC667年 エジプト遠征、メンフィス攻略。
BC663年 第2次エジプト遠征。首都テーベを落とし、エジプトを征服。
BC652年 バビロニア総督である兄シャムシェルキン(シャマシュ・シェム・ウキン)が反乱を起こす。
BC648年 バビロンを攻囲のすえ落とし、反乱を鎮圧。
不明  エラム遠征、イラン高原にまで勢力を伸ばす。
BC630年? 死去。

 歴史上、最初の世界帝国を築いたアッシリア帝国、その絶頂期を作り上げたアッシュールバニパルですが、彼を含めて4代、サルゴン朝は英邁な王が続きました。現在のエジプト、シリア、イラク、イラン・トルコの一部を支配し、当時の文明世界のほとんどを手にいれました。

 簡単にアッシリアの歴史を振り返ります。もともとアッシリアは強国ではありませんでした。BC3000年ころイラク北部に東セム族アッカド系民族によって都市アッシュールが建設されました。これがアッシリアの始まりです。

 最初の苦難はメソポタミアの地を征服したアッカド王国サルゴン王の侵略でした。アッシリアの地は不毛な荒地のイメージがありますが、降水量もそこそこあって、メソポタミアのような塩害に苦しめられる事もなく意外と豊かでした。しかも黄金の三日月地帯に属しシリア方面への回廊に当たることから周囲の強国の侵略をしばしば受けました。アッシリアの民は商業に活路を見出し小アジア方面にも進出、カニシュなどの商業都市を建設し貿易に従事しました。だいたい前19世紀ごろです。

 つぎに、有名な古バビロニア王国のハンムラビ王の侵略を受けます。前15世紀には、北方からシリア方面にくだり建国した印欧語族フルリ人のミタンニ王国に征服され属国になります。

 このままだと、歴史の中に埋没する弱小国でしたが、前14世紀に登場したアッシュールウバリト王がその状況を打破します。ミタンニの西、小アジアに誕生していたヒッタイトと同盟しミタンニを滅ぼします。後にエジプト新王朝のラムセス2世とカデッシュで激突するヒッタイトですが、一時ミタンニに首都を落とされ属国になっていた時期もありました。全盛期のミタンニ王国がいかに強国だったかがわかります。

 その後アッシリアには英邁な4代の王が続きます。BC722年に即位したサルゴン2世(アッカド王サルゴンとは別人)の名をとってサルゴン王朝とよびます。

 サルゴン2世は、それまでアッシリアを悩ませてきた北方の宿敵ウラルトゥを倒し、凶暴な遊牧民キンメリア人を討ちます。次に即位したセンナケリブ王は征服以来常に反乱を繰り返すバビロニアを完全におさえます。エサルハドン王は祖父、父の2代に渡って培ってきた国力を使って当時の大国エジプトに侵攻します。その軍を率いていたのがアッシュールバニパルでした。

 しかし、完全征服するまえに、父エサルハドンの訃報を聞きます。急ぎ本国に帰ったアシュールバニパルは王位を継ぎます。しかし、ここで問題の種が発生します。アッシュールバニパルには異母兄がいました。彼が王位を継げたのは母ナキアの政治工作のおかげでした。しかし、兄シャムシェルキンの母も有力な家の出身だったのでしょう。もしかしたらバビロニアの有力諸侯の出かもしれません。兄シャムシェルキンは、バビロニア総督として、弟アッシュールバニパルに仕えることなりました。

 帝国でもっとも豊かな地方であるバビロニアを支配することになったシャムシェルキンは、次第にアッシリア全土を支配する欲望に駆られます。しかしはじめのうちは、おとなしくしていました。

 その間に、BC663年第2次エジプト遠征をしたアッシュールバニパルは、首都テーベを陥落させついにエジプトを征服します。名実ともに世界帝国となったアッシリアでしたが、シャムシェルキンは着々と反乱の準備を進めていました。そしてBC652年、ついに蜂起します。アッシュールバニパルは絶体絶命の危機に陥りました。帝国の半分にも匹敵するバビロニアが反乱を起こしたからです。

 最初は苦戦したアッシュールバニパルでしたが、バビロニアの諸都市に使いを送り内通させる事に成功します。形成は次第にアッシュールバニパルが優位になりました。シャムシェルキンは首都バビロンに篭城しましたが、BC648年ついに陥落します。帝国を二分した反乱は、ここにようやく平定されました。

 アッシュールバニパルは、ひそかにシャムシェルキンを援助していたイラン西部の強国エラムに侵攻しこれを滅ぼします。このときイラン高原の諸国がアッシリアに貢納するようになりますが、そのなかの小国に後に世界帝国を築くアケメネス王国がありました。当時の王はキュロス1世。その子孫でオリエント世界を統一するのは、奇しくも同じ名のキュロス2世でした。

 アッシュールバニパルは戦争だけに明け暮れていたわけではありません。有名なニネベ図書館を建設しました。後に図書館の何十万点にも及ぶ楔形文字で書かれた粘土板が発掘され、当時の歴史が解明されました。

 世界帝国アッシリアの発展は、その軍事力にありました。歩兵、騎兵、戦車部隊のほかに専門の工兵部隊まで有し攻城戦に活躍しました。その勢力は10万人とも伝えられています。帝国各地に要塞を築き、圧政をしきました。反抗するものは徹底的に弾圧し、みせしめに虐殺しました。そんな無理な体制が長続きするはずがありません。アッシュールバニパルの死後帝国は急速に瓦解します。カルディア人がバビロニアの地に新バビロニア王国を建国。イランにもメディア王国が独立し、両者の連合軍に攻撃され世界帝国アッシリアは滅亡します。
 それは、アッシュールバニパルの死後、わずか20年後のできごとでした。

世界史英雄列伝その6「ナディル・シャーと悪魔の宝石」

◇ナディル・シャー 1688~1747(在位1736~1747)
1688年 サファビー朝イラン治下ホラサンにトルコ系アフシャール族として生まれる。
1722年 サファービー朝が、アフガン族の侵入により滅亡。
1722年 アフシャール族の指導者になり、サファビー朝の王子タハマースプ2世を奉じ救国戦争を始め     る。
1729年 サファビー朝の首都イスファハン回復。
1730年 アフガン族をイランから叩き出し国内を統一。
1731年 不和になったタハマースプ2世を廃位。幼帝を担ぎ出し摂政に就任。
1733年 サファビー朝滅亡の隙に侵入してきたオスマントルコからバクダートを回復。
1735年 再びオスマントルコを攻めてグルジア・アルメニアを奪回。
1736年 幼帝死去にともなって、自らが即位、アフシャール朝を開く。
1737年~1739年 アフガン・インド戦役
1739年 インド侵入、ムガール朝軍を破って首都デリー占領。
1747年 故郷ホラサンの反乱を鎮圧中に暗殺。

 最後のアジア的専制君主と言われるナディルシャーです。これ以後は、個人というより国家が前面に押し出されてきます。自ら軍隊を率い、他国に攻め込んでいく、という型の英雄は彼が最後でしょう。

 戦争の名人だったと伝えられています。亡国の王子を助け、侵略者に戦いを挑んでいく祖国回復戦争の間は、すばらしい英雄でした。しかし、自分が帝位につき、インド侵入(もともとは侵略者アフガン族にたいする復讐戦が発端でした。)したあとは、残虐な弾圧者に変わります。そしてトルコ系とペルシャ系の民族対立、シーア派とスンニ派の宗教対立の中で必死に融和を図りますが、その中でおこった故郷ホラサンの反乱を鎮圧中に暗殺されます。

 1739年ナディルシャーは、インドに侵入、デリー入城をはたします。最初は穏健な態度をしめしていましたが、デリー市民が暴動をおこし自分が狙撃された事に激怒、10万もの犠牲者をだした大虐殺をおこないます。その略奪の量もすさまじく、3年間ペルシャの農民が税を免除されたほどでした。

 このとき、ナディル・シャーはムガール皇帝から有名な2つの財宝を奪います。一つは26万もの宝石をちりばめた「孔雀の王座」そして800カラットという世界最大のダイアモンド「コイヌール」です。

 コイヌールとはペルシャ語で「光の山」という意味で、ナディル・シャーが初めて宝石を見て発した言葉が名前の由来です。
 コイヌールは呪われたダイアとしても有名です。「それを所有するものは世界を支配する。しかしそれを長く身にまとうことはできない。」と言われています。
 ナディル・シャーがおかしくなったのはダイアを手にしてからでした。そして圧政のすえ暗殺されます。

 ダイアを受け継いだのは、息子のシャー・ルク。廷臣のアガ・ムハンマドが反乱を起こし捕らえられ宝石のありかを吐かせるべく拷問をうけます。両手を切り落とされてもシャー・ルクは宝石のありかを吐きませんでした。ついにアガ・ムハンマドはシャー・ルクの両目を潰します。そして何とか生き延びたルクは、ナディル・シャーの側近で自立してアフガニスタンの王となっていたアフマド・カーン・アブダリに救出され、その礼にコイヌールを送ります。

 呪いのダイアはここでも災厄をまきおこします。父王の死後王位を争ったザマン・シャーと弟シャー・スジャ。弟は兄のコイヌールを奪うべくまたしても、兄の両目を潰して王位と宝石を奪い取ります。

 しかしシャー・スジャの栄光も長くは続きませんでした。反乱によって故国を追われ、逃亡先のインドのマハラジャに奪い取られてしまいます。
 コイヌールは最終的に、インドを植民地化したイギリス王室のものになります。幾人もの所有者の命を奪ってきたコイヌールでしたが、ビクトリア女王には祟りませんでした。女性には呪いが通じなかったのでしょう。その後何度か戴冠式用の王妃の冠につけられましたが、何も起こりませんでした。ただ現在のエリザベス女王は、コイヌールの呪いをおそれてか、身に着けていません。イギリス王室の奥深く、コイヌールは眠り続けたままです。

 さて、近年になってからアフガニスタンのタリバン政権が、イギリスにコイヌールの返還要求したそうです。インド政府も要求しているとか。はたして、コイヌールの正当な所有者は誰なのでしょうか?でも、所有しないほうが身のためだと思います。イギリス政府も返すのだったら、自分の嫌いな政府にあげるでしょう。政権が転覆するかもしれませんから。
 さわらぬ神に祟りなし、宝石は遠くから眺めているに限ります。
 

世界史英雄列伝その5「ユスティニアヌス大帝と皇后テオドラ」

◇ユスティニアヌス1世 483~565(在位527~565)
483年 バルカン半島南部マケドニアの貧農の子として生まれる。
507年 軍人として成功した叔父ユスティヌスの養子となり、首都コンスタンティノポリスへ呼ばれる。
518年 叔父ユスティヌスが東ローマ皇帝に即位。自身も出世し執政官や副皇帝(カエサル)を歴任。
525年 首都の踊り子テオドラと結婚。
527年 叔父の死を受け、皇帝に即位。
528年 ローマ法大全の編纂を命じる。(完成は534年)
532年 ニケの乱 逃亡しようとする皇帝を、テオドラが励ます。思いとどまったユスティニアヌスは反乱を鎮圧、危機を脱する。
533年 将軍ベリサリウスを北アフリカへ派遣、ヴァンダル王国を滅ぼす。
535年 イタリア半島侵攻作戦。宦官ナルセスを起用、東ゴート王国を滅ぼしイタリア半島を統一。
    (完了は554年)
548年 皇后テオドラ死去。
554年 西ゴート王国からイベリア半島東南部を奪回。地中海全域を支配化に収め、旧ローマ帝国に匹敵
   する大領土を獲得。(東ローマ帝国の全盛期)
565年 死去。

 東ローマ最大の版図を築いたユスティニアヌス大帝、彼を述べるには、どうしても皇后テオドラの存在を抜きにしては語れません。年表では踊り子と書きましたが、どうも売春もしていたようです。一介の売春婦から皇后に上り詰めたのは、世界史上おそらく彼女ひとりでしょう。

 時の皇帝の養子で皇位継承の最有力者ユスティニアヌスがなぜ、身分卑しい売春婦に惚れたのか、表向きの歴史では明らかにしていません。伝えられるところでは、穢れた身でありながら、純潔の処女のような気高い表情を見せる彼女にユスティニアヌスが一目惚れしたのだとか。事実、テオドラは聡明な女性でした。有名なエピソードを紹介します。

 プロ野球やサッカーに熱狂する現代の日本人のように、東ローマでは戦車競争が花形でした。それぞれ贔屓のチームができ、民衆は熱狂しました。そのなかでフーリガンが暴徒化するように、532年熱狂した戦車競技場の市民が暴徒化し皇帝打倒を叫びながら反乱を起こしました。恐れをなしたユスティニアヌスは逃亡を考えます。しかし、そのときテオドラが励ましました。「逃げてどうするのです。皇帝なら残って鎮圧に努力すべきです。帝衣は最高の死に装束というではありませんか」と。
 思いとどまったユスティニアヌスは、将軍ベリサリウスらの活躍によって反乱を鎮圧します。このとき市民3万名が殺されたと伝えられます。

 もし、テオドラの言葉がなければ、のちのユスティニアヌス大帝はいなかったでしょう。ともすれば弱気になる夫に励ましや助言を与える賢妻、それがテオドラでした。
 テオドラは社会事業もしています。自分の出自ゆえか、貧しい家の娘を買い取って売春させる売春宿を一掃し、娘の借金の肩代わりもしました。また、貧しい人々のために、私費を投じて病院をつくったりしています。

 この時代、東ローマ帝国は人材にも恵まれていました。ヴァンダル王国を滅ぼした将軍ベリサリウス。東ゴート王国を滅ぼしてイタリア半島を統一した宦官ナルセス。

 女傑テオドラのことを知れば、今絶望の淵にいる女性も生きる希望が湧くのではないでしょうか。どん底の生活から皇后という栄光の高みに上がった女性が現実に存在したのですから。
 こんな魅力的な女性に出会ったら、ユスティニアヌスでなくとも一目惚れするでしょう。歴史上最強の「あげまん」に!

世界史英雄列伝その4「耶律大石」

◇耶律大石(グルハーン) 1084(1087)~1143
          在位(1132~1143)
1084年 契丹人王朝遼の王族として生まれる。
1115年 進士に合格
1122年 女真王朝「金」が燕京(現北京)に侵入、遼最後の皇帝天祚帝は西に逃亡。
    皇族の耶律淳を奉じ燕京に立てこもるが、敗退。金に降伏する。
1124年 金に厚遇されるも、脱出。内蒙古で天祚帝に合流。
    皇帝に疑われて、自立を決意。モンゴル高原の可敦城で契丹・蒙古諸部族から可汗に推戴さる。
1132年 カラ=ハン朝を滅ぼし、チュー河畔ベラザグンで即位、西遼(カラ=キタイ)を建国。
1137年 ホージェントでカラ=ハン朝残党を撃破。
1141年 カトワーンの戦いでセルジュークトルコの大軍を破り、ホラズムシャー朝の宗主権を得る。
1143年 故国回復を目指して金遠征を図るも陣没。

 耶律大石、英雄です。歴史上、一度滅んだ王朝が別の地に復活したことはあまりないと思います。王朝が滅ぶのは、それなりに原因があり、人心が離れていくと復活など至難の業です。その、不可能を成し遂げたのが耶律大石でした。

 彼が兵を挙げた可敦城は、モンゴル高原にあった遼王朝の節度使が置かれていてた場所で、それなりに支配力が残っていたとしても、です。実際、大石の死後西遼は振るわず、シルクロードの中継基地として商業国家としてのみ栄えたと言います。
 彼の力量のみで、王朝を支えていたのでしょう。グルハーンとは現地のムスリム達が彼を呼んだ呼び名です。

 遼王朝は、遊牧民を支配する北面官と、農耕民を支配する南面官を置いて統治する体制でした。西遼もそれに倣って国家体制を敷いたといいます。面白いエピソードがあって、西遼の姫が、他家に嫁ぐときにも頑ななまでに中国式の化粧法を捨てなかったそうです。
 わずか80年あまりで、モンゴル帝国台頭の余波をくらって西遼は滅びます。その痕跡はイスラムと、モンゴルの文献に記されたのみだったと言います。

 彗星のごとく現れ、陽炎のように滅んだ西遼、耶律大石の生き様とあいまってなんとも魅力的な存在です。

世界史英雄列伝その3「バーブル」

◇バーブル 1483~1530(在位1526~1530)

1483年 ティムール5世の子孫として中央アジアに生まれる。
1494年 フェルガナ領主として11歳で即位。
1504年 ウズベック族シャイバーニー・ハーンの侵入を受けフェルガナ領を失う。
    カーブルに逃れ、その地を支配。
1519年 第1次インド侵入。この時はロディ朝に敗れる。
1525年 インド再侵入、パンシャブ地方を占領。
1526年 第1次パーニーパットの戦いでロディ朝を破る。
    デリーで即位、ムガール朝を開く。
1530年 死去。

 ムガール朝のムガールとは、インド人が呼んだモンゴルのなまったもの。世界史英雄列伝といいながら、イスラム圏の人ばかり紹介している気がします。

 さて、バーブルですが世界史で記憶の片隅にある人もいると思いますが、ムガール朝の創始者であります。初めからインドを征服するつもりではなく、故郷のサマルカンドを強力なシャイバーニー・ハーンに奪われたため、しかたなく矛先を転じてインドに侵入したのですね。そんな理由で侵略を受けたインドの人達にとっては、たまったもんではないでしょうが。

 バーブルも一度はサマルカンドを奪回します。しかしウズベック族にはどうしても勝てないのです。
 ロディ朝はデリースルタン朝の最後の王朝で、バーブル侵入時政治が混乱していたのでやすやすと滅ぼされました。
 第1次パーニーパットの戦いでロディ朝は10万の大軍、一方バーブル軍は1万。よく勝ったなと思いますが、まだ中央アジアの騎兵は精強だったのでしょうね。そして砲兵隊も保有し当時のインド諸侯軍よりははるかに強力でした。ただ世界史的に火砲が発達してくると、ヒバ、ボハラ、コーカンドの三汗国がロシアに滅ぼされたり、インドもイギリスに支配されたりして、中央アジアの騎兵に対し西洋式の火砲と小銃を装備した徒歩兵の優越がはっきりしてきます。

 デリーで即位したバーブルですが、帝国が安定するのは3代アクバル大帝まで待たなければならないのです。息子フマユーンはアフガン族のシェール・シャーに一時国を奪われイランのサファビー朝に亡命します。その援助でデリーを奪回できたのは、晩年の事でした。

 バーブルは、湿気と酷暑のインドの気候が嫌いだったと伝えられます。墓もインドではなく、故郷に近いアフガニスタンのカーブルに作れと遺言したほどです。中央アジアの産物が食事にでると、故郷を懐かしんで涙しました。

 ムガール帝国はアクバル大帝のあと、ジャハンギール、シャー・ジャハン(タージマハル廟で有名)、アウラングゼーブ帝のとき、南インドまで支配して最大の領土を築き上げます。ここが絶頂期でした。その後の事は、作家陳舜臣さんの「インド三国志」で詳しく書かれてます。とても面白いので、興味のある方は一読することをお勧めします。

世界史英雄列伝その2「サラーフ・アッディーン」

◇サラーフ・アッディーン(ユースフ・イブン・アイユーブ)
 1138年~1193年(在位1171年~1193年)

1138年 現イラクのティクリートに生まれる。出自はクルド人。
1146年 ダマスクスに移住。シリア、ザンギー朝につかえる。
1164年 ザンギー朝2代スルタン、ヌール・ウッディーンの命で叔父シーク・ルーフと共にエジプト遠征
1169年 シーク・ルーフ死後、エジプト、ファーティマ朝宰相に就任、エジプト全土を掌握。
    ファーティマ朝を滅ぼしてアイユーブ朝を創始。
1174年 ヌール・ウッディーン死去にともないシリアに進出、ダマスクス入城。
1187年 7月「ハッティンの戦い」で十字軍を破る。
    10月聖地エルサレム奪還。
1189年 第3回十字軍イングランド王リチャード1世らと戦う。
1192年 十字軍と休戦条約。
1193年 ダマスクスにて病没。

 ついに、私の尊敬するサラーフ・アッディーンについて書くことができます。
 本名はユースフ・イブン・アイユーブ。サラーフ・アッディーンは信仰の公正という意味とか。西洋ではサラディンの名で知られるこの人物は「公正」「博愛」「寛容」という言葉で表されるとおり世界史上稀有の英雄でした。

 その人柄を表すエピソードには事欠きません。いくつか例をあげると、

①ファーティマ朝を滅ぼすとき、カリフの一族の命を助けた。

②エルサレム奪還後キリスト教徒の命を身代金を払うだけで助けた。しかも身代金を払えないような貧乏 な人のために自分が肩代わりした。ライバルの獅子心王リチャード1世はエルサレムを占領すると住民を虐殺したのに対してまったく対照的な行動です。

③主家であるザンギー朝ヌール・ウッディーンには臣下の態度を崩さず、その死後11歳で即位したアル・ サーリフにもむごい仕打ちをせず、死去を待って平和的に併合した。

④捕虜に対しても、虐待せず公正に扱った。

など、尊敬に値する人物です。人物像を知りたければ、「ロードオブザリング」でスターになった、オーランド・ブルーム主演の「キングダムオブへブン」という映画をぜひ観てください!西洋映画では珍しく敵側のサラーフ・アッディーンを公正にえがいています。私は、彼が出てくると期待して映画を観ましたが、まったく裏切られず満足できました。おススメです。
 本なら、シリアの作家(名前は忘れました)が書いた「アラブが見た十字軍」も面白いですよ!

世界史英雄列伝その1「アブドル・ラフマーン1世」

◇アブドル・ラフマーン1世 731~788(即位756~788)

731年 ウマイヤ朝第10代カリフ、ヒシャームの孫としてダマスカスで生まれる。
750年 アッバース家によるウマイヤ朝一族の大虐殺から逃れモロッコに逃亡。
756年 母の実家ベルベル族とウマイヤ朝旧臣の援助を受けイベリア半島に侵入。
   現地のアッバース朝総督を倒し、コルドバでアミールに即位。後ウマイヤ朝を開く。
771年~778年? フランク王国カール大帝の侵攻をうけるも撃退。
        ローランの歌で有名
778年 58歳で死去

 カリフ一族の子として生まれ、一族大虐殺から命からがらの逃亡。追手をのがれはるかモロッコへ。
そこで力を蓄え、イベリア半島の大半を征服して26歳で王朝を開く。
 どうです?波乱万丈の生涯ですよね。こんな劇的な一生をおくった人物はほかにあまりいないでしょう。世界史英雄列伝第1回にふさわしい人として、マイナーですが登場してもらいました。

 不幸のどん底と、栄光の絶頂を味わった稀有の英雄です。
 約250年続いた後ウマイヤ朝、その首都コルドバは最盛期には人口100万を数え「西方の真珠」とも称えられ栄えました。
 アンダルシアのスペインイスラム文化、あこがれます。レコンキスタによって最後のイスラム国家グラナダ王国(アルハンブラ宮殿で有名)がスペインを去ったあとも、独特の文化を残しています。

 スペインが、西欧というより、エキゾチックなイメージを持っているのは数百年におけるイスラム勢力の支配があったからでしょう。
 西カリフ国として、中カリフ国ファティマ朝、東カリフ国アッバース朝と3カリフ並立の時代を迎える後ウマイヤ朝、その創始者こそが、英雄アブドル・ラフマーン1世でした。
 一説では、その壮絶な経験により、人を信じることのできない猜疑心の強い性格だったとも言われてますが、マイナス面もふくめて魅力的な人物です。

はじめに、ご挨拶など

Photo_3  はじめまして、鳳山と申します。

 今までYahoo!ブログで棲息していたものですが、このたびちょっとYahooに対して腹の立ことがありまして(苦笑)、将来的にこちらに移行する可能性も含めて、ココログでもブログを開設するしだいでございます。

 当分は、旧ブログからの転載が中心になるとは思いますが慣れれば独自の記事も更新する予定でございます。

 カテゴリーとしては

①日本史

②世界史

③ゲーム

④時事問題

などを考えております。ふつつか者(ふしだらな娘じゃないよ・爆)ではございますが今後ともよろしくお願いいたします。

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