世界史英雄列伝その10「鉄血宰相ビスマルク」
◇ビスマルク 1815~1898(プロイセン首相1862~1890、ドイツ帝国宰相兼任1871~1890)
1815年 ベルリン北西部、ユンカー(土地貴族)の子として生まれる。
1849年 プロイセン国会下院議員当選。
1851年 フランクフルトにあるドイツ連邦議会プロイセン代表。
1862年 ヴィルヘルム1世に抜擢されプロイセン首相に就任。
1864年 プロイセン-デンマーク戦争でシュレスビヒ・ホルシュタイン獲得。
(参謀総長大モルトケとのコンビ)
1866年 普墺戦争、7週間で勝利。
プラハ条約でドイツ連邦解体。
1867年 プロイセン主導の北ドイツ連邦結成。
エムス電報事件
普仏戦争勃発。セダンで仏皇帝ナポレオン3世包囲され降伏。
仏市民激怒。皇帝を廃位し、戦争は継続。
1871年 パリ砲撃開始。
ヴィルヘルム1世、ベルサイユ宮殿でドイツ帝国皇帝戴冠式。ドイツ帝国成立。
1月28日休戦条約。
1888年 ドイツ帝国初代皇帝ヴィルヘルム1世死去。孫のヴィルヘルム2世と対立。
1890年 ヴィルヘルム2世に解任される。
1898年 死去。
フリードリヒ大王によって一躍欧州列強に名乗り出たプロイセンでしたが、突如フランスに現れた不世出の英雄、ナポレオン率いる大陸軍によってイエナ、フリートラントと連敗し国土の半分を奪われてしまいます。シャルンホルスト、グナイゼナウらによって再建されたプロイセン軍はワーテルローでナポレオンに一矢むくいます。
そして、19世紀。プロイセンは鉄血宰相ビスマルクによってドイツを統一することができました。
ビスマルクの政治方針は勝ちすぎない事。勢力均衡と、敵を孤立させての各個撃破でした。それにはプロイセン軍の精強さと参謀総長大モルトケがあってはじめて可能でした。
まず、ビスマルクが目をつけたのは小国デンマークでした。ユトランド半島の付け根にあるシュレスビヒ・ホルシュタインの2州を戦争によって奪取します。
ビスマルク最大の悲願はドイツの統一です。それに大きな邪魔になるのがオーストリアの存在でした。
ドイツ連邦はオーストリア主導の体制です。プロイセンがどうあがいても、これでは身動きできません。ドイツの枠組みからオーストリアをたたき出すには、やはり戦争でした。用意周到に準備された作戦計画によって戦争は始められました。プロイセン国内に張り巡らされた鉄道網によって輸送された部隊はオーストリア国内で求心的に合流、機械のような正確さで作戦を進めていきます。わずか7週間でプロシアの勝利が確定しました。
ビスマルクは、しかしオーストリアを追い詰めませんでした。寛大な条件で講和するとドイツ連邦を解体するだけで満足しました。
次の年、プロイセン主導で北ドイツ連邦が結成されました。これで、ドイツ統一の基礎ができあがりました。あとは総仕上げです。
エムス電報事件、それがきっかけでした。当時空位になっていたスペイン王位をめぐって、ホーエンツォレルン家のレオポルド公が候補の一人に上がっていました。時のフランス皇帝ナポレオン3世はプロイセン王家の一族がスペイン王位を継ぐのを嫌って、ヴィルヘルム1世にレオポルド公が辞退するよう要請しました。
エムスで静養中だったヴィルヘルム1世のもとへフランス大使をつうじてナポレオン3世の電報が届けられます。その電文を手に入れたビスマルクは、あたかもナポレオン3世がヴィルヘルム1世を脅迫しているかのように改ざんして新聞に発表しました。これを見たプロイセン国民は激昂します。ヴィルヘルム1世自身も、新聞を見せられて「これは戦争だ!」と叫んだといいます。しかし、ヴィルヘルム1世はかねてビスマルクから統一のシナリオを聞かされていたので落ち着きをとりもどします。
一方、フランス国内でもプロイセン討つべしという声がしだいに大きくなっていきました。
世に言うエムス電報事件、これが両国の間に戦争をもたらしました。
1867年、普仏戦争は勃発します。この日のために準備していたプロイセン軍とちがって、フランスは泥縄式でした。ナポレオン3世自身が、10万の兵と共にセダンで包囲され捕虜になる始末でした。
しかし、戦争はこれで終わりませんでした。怒った市民はナポレオン3世を廃位、新政府を設立して戦争を継続します。1871年、プロシア軍によるパリ砲撃開始。その砲声が聞こえる中、ヴィルヘルム1世はベルサイユ宮殿において戴冠式をおこないます。ドイツ帝国の成立でした。
同年1月28日、休戦条約が締結され戦争はプロイセン、いや新生ドイツ帝国の勝利におわりました。
これ以後、ビスマルクは戦争を避けるようになりました。勢力均衡をはかり自分が仲介者となって各国の紛争を調停しました。いわゆるビスマルク体制です。
1888年、ドイツ帝国初代皇帝ヴィルヘルム1世が崩御します。息子フリードリヒ3世が継ぎますが3ヶ月で死去、孫のヴィルヘルム2世があとを継ぎました。
しかし、ヴィルヘルム2世は凡庸で、ビスマルクの高度な外交を理解できませんでした。ことあるごとに対立し、1890年には宰相を解任します。引退したビスマルクは1898年死去しました。
ヴィルヘルム2世は、大英帝国と建艦競争するという愚行をおかし、外交でも失策を犯しました。ビスマルクが最もおそれたドイツの孤立化をまねいたヴィルヘルム2世は、第1次世界大戦で自滅します。
そして自らの手で、栄光のドイツ帝国に幕を引きオランダに亡命します。こうしてビスマルクたちが血と汗をながして築き上げたドイツ第2帝政は終焉の時を迎えました。
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