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2008年11月24日 (月)

世界史英雄列伝その4「耶律大石」

◇耶律大石(グルハーン) 1084(1087)~1143
          在位(1132~1143)
1084年 契丹人王朝遼の王族として生まれる。
1115年 進士に合格
1122年 女真王朝「金」が燕京(現北京)に侵入、遼最後の皇帝天祚帝は西に逃亡。
    皇族の耶律淳を奉じ燕京に立てこもるが、敗退。金に降伏する。
1124年 金に厚遇されるも、脱出。内蒙古で天祚帝に合流。
    皇帝に疑われて、自立を決意。モンゴル高原の可敦城で契丹・蒙古諸部族から可汗に推戴さる。
1132年 カラ=ハン朝を滅ぼし、チュー河畔ベラザグンで即位、西遼(カラ=キタイ)を建国。
1137年 ホージェントでカラ=ハン朝残党を撃破。
1141年 カトワーンの戦いでセルジュークトルコの大軍を破り、ホラズムシャー朝の宗主権を得る。
1143年 故国回復を目指して金遠征を図るも陣没。

 耶律大石、英雄です。歴史上、一度滅んだ王朝が別の地に復活したことはあまりないと思います。王朝が滅ぶのは、それなりに原因があり、人心が離れていくと復活など至難の業です。その、不可能を成し遂げたのが耶律大石でした。

 彼が兵を挙げた可敦城は、モンゴル高原にあった遼王朝の節度使が置かれていてた場所で、それなりに支配力が残っていたとしても、です。実際、大石の死後西遼は振るわず、シルクロードの中継基地として商業国家としてのみ栄えたと言います。
 彼の力量のみで、王朝を支えていたのでしょう。グルハーンとは現地のムスリム達が彼を呼んだ呼び名です。

 遼王朝は、遊牧民を支配する北面官と、農耕民を支配する南面官を置いて統治する体制でした。西遼もそれに倣って国家体制を敷いたといいます。面白いエピソードがあって、西遼の姫が、他家に嫁ぐときにも頑ななまでに中国式の化粧法を捨てなかったそうです。
 わずか80年あまりで、モンゴル帝国台頭の余波をくらって西遼は滅びます。その痕跡はイスラムと、モンゴルの文献に記されたのみだったと言います。

 彗星のごとく現れ、陽炎のように滅んだ西遼、耶律大石の生き様とあいまってなんとも魅力的な存在です。

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