世界史英雄列伝その9「フリードリヒ大王」後編
フリードリヒ大王が1740年即位すると、早速試練が起こります。もっとも自業自得なのですが。
1740年、オーストリアに女帝マリア・テレジアが即位したことに対して、バイエルン選帝侯が相続権を主張、オーストリア継承戦争が始まります。
フリードリヒは、マリア・テレジア側に立って参戦する見返りにシュレジェン地方の割譲を要求します。シュレジェンは人口100万、鉱物資源も豊富で鉱工業が発達していました。そんな重要な要地をやすやすと手放すはずがありません。マリア・テレジアは即座に拒否しました。フリードリヒは実力で手に入れようとシュレジェン地方に侵入しました。
啓蒙君主として内外に振舞っていたフリードリヒでしたが、実態は侵略者でした。1748年まで続く戦争でフリードリヒは念願のシュレジェン地方を手に入れることに成功します。
収まらないのはマリア・テレジアです。21歳で即位し周囲に女となめられての領地強奪でした。大国の威信にかけてフリードリヒへの復讐を考えます。それにこたえて宰相カウニッツ伯がある提言をします。
それは,今までいがみ合っていたフランスと結び、共同してプロイセンにあたろうというのです。ロシアがこれに加わり3国同盟が成りました。これを外交革命と呼びます。
このままではプロイセンは3国に締め上げられてしまいます。フリードリヒはイギリスの援助をあてに先制攻撃で勝機をつかもうとします。しかし人口で、400万人のプロイセンにたいして連合国は8000万人。どんなにフリードリヒが戦上手でも圧倒的な国力の差は逆転できません。1756年に始まった戦争は1763年まで続きます。いわゆる七年戦争です。
最初は攻勢に出たフリードリヒでしたが早くも1757年にはコリンで大敗を喫します。同年11月にはロスバッハで仏軍、12月にはロイテンでオーストリア軍に連勝しますが、イギリスが資金援助を中止するといきなり危機に陥ります。11760年には一時首都ベルリンも占領され、フリードリヒは自殺も考えたそうです。
絶体絶命のフリードリヒでしたが、内戦の利をいかして戦い続けている内に奇跡が起こります。ロシアのエリザベータ女帝が死去するのです。跡を継いだピョートル3世は凡庸な人物だったばかりか、フリードリヒの崇拝者でした。ロシアとの単独講和がなると、フリードリヒはオーストリア軍一本に的を絞ることができました。
1763年、フベルトゥスブルク条約で、フリードリヒはシュレジェンの完全領有を認められました。こうしてプロイセンは豊かなシュレジェンを加え、一躍欧州列強の一員となることができたのです。
しかし、晩年のフリードリヒはすっかり人間嫌いになっていました。サンスーシ宮に篭り外に出なくなりました。彼がサンスーシ宮でさびしく世を終わるとき、プロイセンは領土と人口で倍、常備軍は22万を数える強国になっていたのです。
余談ですが、独裁者ヒトラーはベルリンに連合軍が迫る中、総統府にフリードリヒ大王の肖像画を掲げていたそうです。フリードリヒ大王のように奇跡が起こることを信じて。しかし奇跡は起きませんでした。ヒトラーはフリードリヒ大王の肖像画と共に炎の中で最後の時を迎えます。
独裁者と一緒に火に包まれたフリードリヒ大王の心境はどうだったでしょう。「同じ侵略者だとしても、自分にはプロイセンの国家としての確立というやむにやまれぬ事情があったのだよ。」と言ったかどうか。それは神のみぞ知る、でしょうか。
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