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2008年12月

2008年12月30日 (火)

世界史英雄列伝(20) アレキサンドロス大王 - ヘレニズムの時代 -

◇アレキサンドロス BC356~BC323(在位BC336~BC323)


BC356年 マケドニア王フリッポス2世の子として生まれる。
BC338年 カイロネイアの戦いで、重装騎兵隊(ヘタイロイ)を指揮。勝因をつくる。
BC336年 フィリッポス2世暗殺さる。父の後を受け即位。
BC334年 ペルシア遠征開始。歩兵32000、騎兵6000。
    グラニコス川の戦いで、ペルシア軍に勝利。
BC333年 イッソスの戦いで、ペルシア王ダレイオス3世を破る。
BC332年 エジプト遠征、アレキサンドリアを建設。
BC331年 ガウガメラの戦いで、ペルシア主力軍を粉砕。ダレイオスはカスピ海東岸に逃亡。
    マケドニア軍、首都ペルセポリスに入城。
    ダレイオス、側近のベッソスに裏切られ暗殺さる。
    ベッソスを糾弾し、ダレイオスを丁重に葬る。
    (さらに東方に向けて遠征開始)
BC327年 インダス川を越えて、インド・パンシャブ地方に侵入。
BC326年 ヒュダスペス川の戦いで、現地の王ポロスを破る。
    マケドニア軍兵士、これ以上の東方遠征を拒否。軍を還す。
BC323年 アラビア遠征計画中に倒れる。死去。


 英雄列伝20回目の節目にふさわしい人物として、有名なアレキサンドロス(アレクサンドロス・アレキサンダー)大王に登場してもらいます。
 ギリシャからインド西部にまでまたがる大帝国の創造者、有角王イスカンダルとしてムスリムの伝説にも登場する英雄です。

 
○エピソード1「愛馬ブケファロス」
 フリッポスに贈られたブケファロスは、暴れ馬で誰も乗り手がいませんでした。少年アレキサンドロスは、馬が自分の影におびえているだけだと悟り、太陽にむかって走らせおちつかせます。見事のりこなしたアレキサンドロスに父王は、この馬を与えます。名馬ブケファロスとの出会いでした。

○エピソード2「ゴルディオスの結び目」
 アレキサンドロスが、小アジア、リディアの首都、ゴルディオンのゼウス神殿を訪れた時の事。複雑に絡み合った結び目があり、「これを解いたものはアジアの支配者になれる」と書いてありました。
 アレキサンドロスは一刀の元に断ち切ります。 似たような話は、他の人物にもあります。英雄説話の一つの原型でしょう。


 さて、アレキサンドロスのマケドニア軍の強さはどこにあったのでしょう?それはマケドニアン・ファランクスと呼ばれた重装歩兵ペゼタイロイの密集陣と、重装騎兵ヘタイロイの突撃にあったといわれています。詳しい事は以前書いたので(「古代西洋世界の陣形研究」参照)、簡単にふれますと、ペゼタイロイが戦列のバックボーンとして、敵主力を拘束。その間にヘタイロイが、敵側面か、弱点を見つけ突撃する。いわゆる、「ハンマーと金床」戦術です。これは、テーベの英雄エパミノンダスの「斜線陣」を改良し、汎用性を持たせた陣形でした。

 父、フィリッポス2世の時代に完成し、アレキサンドロスが応用しました。
 名将が指揮し最高度に機能した時、この「ハンマーと金床」戦術は、古代世界最強であったという史家もいるほどです。ただ、アレキサンドロス死後形骸化し、ペゼタイロイ自体が決戦兵種になるにおよんで、より機動性のあるローマの歩兵戦術に敗れ去るのですが。


 アレキサンドロスは、約4万の兵を率いて、父フィリッポスの悲願であったペルシア遠征に出発します。BC334年のことです。ところでペルシア軍で最強の部隊はなんだったのでしょうか?実は意外にもギリシャ人傭兵から成る重装歩兵密集陣ファランクスだったのです。ギリシャ人たちは、小アジア各地に移り住み、中にはペルシアの傭兵になるものも少なくありませんでした。
 突然ですが、「アナバシス」という古典をご存知でしょうか?哲学者クセノフォンが実際に従軍して記した実話なのですが、ペルシャ奥地で戦われた王位継承の争いに従軍したギリシャ人傭兵たちが、戦いに敗れ故国ギリシャまで敵中突破して逃げ帰るという内容です。ファランクスは戦場においては無敵の強さを誇っていた事が、アナバシスの記述の中にも現れています。


 小アジアには、有能なギリシャ人傭兵隊長メムノンがいました。彼に全軍の指揮を任せていたら、ひょっとするとペルシアが勝っていたかもしれないのです。しかし、外国人ということで、ペルシア宮中は彼を信用しませんでした。メムノンが徹底的な焦土戦術を主張したことも、疎まれた原因でしたが。マケドニア軍を苦しめたメムノンが病死したとき、ペルシアの命運は尽きたのかもしれません。


 アレキサンドロスは、小アジアとオリエントの境、イッソスの地でアケメネス朝ペルシアの大王ダレイオス3世と対陣します。マケドニア軍が4万あまりなのに対して、60万の兵を集めたといわれています。しかし、実数はペルシアの国力を考えてもせいぜい10万というところでしょうか。戦いは、必勝パターンである「ハンマーと金床戦術」で、マケドニア軍の圧勝に終わりました。


 マケドニア軍は、ここで矛先を転じてエジプトに遠征します。後顧の憂いを断つためですが、エジプトではペルシアからの解放軍として歓迎されます。この地に有名なアレキサンドリア(実は各地に建設している)を築きます。
 そして、ついにBC331年、チグリス川上流ガウガメラの地で最終決戦が行われました。ここでも破れたダレイオスはカスピ海東岸に逃亡、側近のベッソスに裏切られ殺されてしまいます。恩賞をもとめてアレキサンドロスの元に現れたベッソスに、彼は怒りを爆発させ殺してしまいます。逆にダレイオスに同情を寄せ、丁重に葬ります。彼の美学だったのでしょう。
 そういえば、イッソスでダレイオスが置き去りにした彼の妻と娘に、アレキサンドロスは指一本触れなかったばかりか、保護を加えたこともありました。


 アレキサンドロスは、さらに東へと駒を進めます。長期の遠征の末、インダス川を越え、インドに侵入しました。現地の王を破ってさらに東進しようとしたとき、兵士たちは命令を拒否します。これ以上の戦いは無理という主張です。こうして東征は終わりました。アレキサンドロスは、帝国の首都と定められたバビロンに帰還します。BC323年、さらなる未知の土地アラビアに遠征をする準備に追われているとき、アレキサンドロスは倒れ10日間も高熱になやまされます。側近が後継者を尋ねた時、有名な言葉をはきます。
 「最も強きものへ!」

 不世出の英雄は、わずか33歳にしてこの世を去りました。その後、彼の帝国は瓦解します。遺言通り将軍たちが最も強き者になるために争ったからです。その戦争のさなか彼の妻と子供は殺されてしまいました。生き残ったのはマケドニアのカッサンドロス、エジプトのプトレマイオス、シリアのセレウコスの三人でした。カッサンドロス朝だけは、同じマケドニアの将軍の子孫アンティゴノスに乗っ取られますが。これら三国は、ローマに滅ぼされるまで続きます。その時代はヘレニズム時代と呼ばれました。


 ヘレニズム時代とは何だったんでしょうか?ギリシャとオリエントの文化が融合した国際色豊かな時代でした。その影響は、ガンダーラ美術にも受け継がれます。遠くシルクロードを通じて日本にまでもたらされました。こうしてみると、歴史は繋がっているんだなあと実感できます。

世界史英雄列伝(19) 唐の太宗 李世民

◇唐二代太宗皇帝(李世民) 598年~649年(在位626年~649年)

598年 唐高祖李淵の次子として生まれる。
618年 隋の煬帝(ようだい)殺害さる。
   李淵、「唐」を建国。
   李世民、秦王の封じられ、尚書令となる。
   「天策上将」の称号を受く。
624年 李世民の活躍で、天下統一なる。
626年 「玄武門の変」皇太子李建成、四男李元吉、世民を疎んで殺そうとするも反撃され逆に殺さる。
   8月、高祖李淵、李世民に譲位。二代皇帝として即位。
627年 元号を「貞観」と改元。貞観の治の始まり。
629年 突厥(とっくつ)征伐。
630年 高昌国を討つ。
644年 高句麗遠征。失敗に終わる。
649年 死去。

 中国史上最高の名君を挙げるとすれば、かならず出てくるのが唐の太宗皇帝、李世民です。父李淵が唐王朝を創始したのですが、対外戦争のほとんどすべての指揮をとったのが李世民でした。
 李淵は隋王朝に仕える将軍でした。太原を守っていたのですが、皇帝煬帝のでたらめな政治に不満を持ち、長安を陥れ隋の皇族を擁立して自立します。618年、煬帝が江南で殺されると、皇族を廃し、自らが唐王朝を創始しました。

 
 李世民が洛陽の王世充を攻めた時のことです。敵の援軍にきた華北の軍閥、竇建徳の大軍が攻め寄せます。李世民は固く守って、決して戦端を開こうとはしませんでした。長期の対陣で疲弊した竇建徳は軍をいったん引き上げさせようとします。その時を待っていた李世民は一気に攻勢をかけ、敵に襲い掛かりました。もともと引こうとしていた竇建徳の軍は、精神的にも持ちこたえる事ができません。こうして散々に敵を破りました。これを見ていた王世充もついに降伏します。
 このようにほとんどすべて戦争は李世民によって指揮されました。そして、皇帝に即位するや、貞観の治と呼ばれる理想的な統治をしました。これほど完璧な経歴は例がないのですが、かえってそれが仇となります。

 李世民、生涯最大の痛恨事、それが玄武門の変でした。李淵の長子で皇太子である李建成は、巨大な軍功をあげる弟に嫉妬していました。そして皇太子である自分の地位も危うくなると不安をかかえ、いつしか世民を除こうと考えはじめました。世民の弟李元吉も、優秀な兄のおかげで影が薄くなっていることに強い不満をもっていました。両者が結託するのは時間の問題でした。こうして世民を玄武門で待ち伏せ、殺害する計画が練り上げられます。
 いっぽう、常勝将軍であった世民は、情報の重要性を認識していました。彼の情報網に、この暗殺計画が引っかかったのです。
 世民は悩みました。しかし何もしなければ自分が殺されてしまいます。彼は逆に、二人を急襲し殺害しました。ただ、後味の悪い事件でした。暗殺計画は父李淵も黙認していたふしがあったのです。
 事件は6月のことでした。そして8月には父李淵が退位します。居たたまれなくなったとも解釈できます。そして太宗皇帝李世民が誕生したのです。

 「貞観の治」と世にいわれます。房玄齢、杜如晦、魏徴らの名臣を輩出し、中央官制として三省六部の整備、賦役・刑罰の軽減、均田制、租庸調制などが成されました。中国がもっとも良く治まった稀有の時代といってもいいでしょう。太宗李世民と名臣たちの政治問答集である「貞観政要」は、現在も帝王学の書として重んじられています。

 その中で有名なエピソードを紹介します。あるとき太宗が「創業と守成はどちらが難しいだろうか?」と、下問します。
 太宗と共に天下統一に苦労した房玄齢は「創業が難しいと考えます。」と進言します。いっぽう、現在、太宗と共に統治に腐心している魏徴は「守成こそ難しいものです。」と答えます。
 太宗は「創業の困難はすでに過去の事。今は皆と守成の困難に対処したい」と述べたそうです。
 思うに、太宗は常に玄武門の事件を心に刻んでいたのではないでしょうか?実の兄弟を手に掛けざるをえなかった無念、自責の念があったからこそ良い政治をしようと常に心がけていたのだと思います。

 「貞観の治」は理想的政治として後世にまで語り継がれていきました。太宗皇帝李世民の政治姿勢、現在の政治家も是非見習ってもらいたいものです。

2008年12月23日 (火)

世界史英雄列伝(18) ウェリントン卿アーサー・ウェルズリー 後編

ナポレオンがイギリス・プロイセン軍の合流まえに各個撃破しようとベルギー国境を越えた時、ウェリントンはブリュッセルの舞踏会に出席していたそうです。
 ナポレオン率いるフランス軍は12万4千、一方イギリス・オランダ軍は9万5千、プロイセン軍12万でした。しかし、6月18日決戦の地ワーテルローで対峙したときフランス軍7万2千、英蘭軍6万8千と兵力差は減少していました。どういう事かというと、2日前リニーでナポレオンはプロイセン軍を撃破、グルーシーに3万の部隊を与え追撃させていたのです。

 ウェリントンはなだらかな丘に部隊を展開し、裏側の斜面に予備隊を配しました。ナポレオンは敵両翼に攻撃を加え、敵が注意を両翼に向けた時、一気に中央を猛撃して突破する戦術だったといいます。ウェリントンの作戦は待ちです。
 折からの雨で大砲が身動き取れないと判断したナポレオンは戦闘開始を昼に遅らせます。これが致命的判断ミスだったと指摘する史家もいるほどです。たしかに時間はウェリントン側に味方します。待てばプロイセン軍と合流し数の上で圧倒的優勢になるからです。ナポレオンはこのとき体調を崩していたとも伝えられます。
 1815年6月18日午前11時、戦闘開始の命令が出されました。その30分後砲撃開始されます。

 まず戦いは英軍右翼ウーグモン城館にたいするフランス軍の攻撃から始まりました。午後1時半には英軍左翼のパプロットの建物が仏4個師団の突撃で落ちました。英軍中央も危機に陥ります。英軍サー・トーマス・ピクトン将軍が戦列の穴を埋めるべく奮戦しますが戦死してしまいます。

ウェリントンは重騎兵2個師団に突撃命令を出します。英騎兵はフランス軍砲列に突入、砲兵を斬りまくりますが、仏騎兵の反撃にあい壊走します。
 午後3時、仏軍の攻撃が激しくなったのでウェリントンは戦列を下げることにしました。しかしこれをフランス軍ネイ元帥が英軍退却と勘違いし、5千の重騎兵で突撃します。待ち構えた英軍は、方陣をつくり反撃、ネイは大損害をだしました。

 ナポレオンはプロイセン軍を警戒していました。それよりもはやくグルーシーの3万がかけつければ、ナポレオンの勝ちです。しかし、右後方からやってきたのはプロイセン軍のほうでした。実はプロイセン軍はリニーの戦闘で破れ司令官ブリュヒャ-自身も重傷を負っていました。これまでのプロイセン軍なら壊走するはずでした。しかし参謀総長グナイゼナウに率いられたプロイセン軍は今までとはちがっていました。シャルンホルスト、グナイゼナウらに鍛えられ精強な軍隊に生まれ変わっていたのです。
 グルーシーは完全にプロイセン軍に振り切られた形となり、重要なこの戦場には結局間に合いませんでした。

 ウェリントンはフランス軍の突撃に備え、左右から予備部隊を中央に集め厚くしていました。夕方、ネイは歩騎共同での突撃をナポレオンに願いでますが、プロイセン軍に備えていたナポレオンに断られます。
 なんとかプロイセン軍を抑えることのできたナポレオンは、近衛軍を出動させ、決着をつけようとします。英軍は麦畑に伏せて待ち伏せします。仏軍の突撃は2回おこなわれ2回撃退されました。

 そうこうしているうちに、プロイセン軍がフランス軍側面に攻撃を始めます。呼応するようにウェリントンも全軍総攻撃の命令を出しました。なんとか持ちこたえていたフランス軍も、この攻撃には耐えられず壊走します。味方の敗走を援護して最後まで戦場にとどまっていた近衛軍もついに全滅。フランス軍の戦死者は3万にもおよびました。一方英軍も2万2千の損害をだします。いかに激戦であったかこの数字を見てもわかります。
 ナポレオンの百日天下はこれで潰えました。戦後、ナポレオンは大西洋上の絶海の孤島セントへレナに流されその地でさびしく没します。
 ナポレオンを倒した救国の英雄ウェリントンは1828年、首相となります。彼の政治はその戦術のように慎重で手堅く、しかも現実的でした。ただ面白みのない性格だったようです。

 とにかく、天才ナポレオンとは対照的な秀才型ともいえるウェリントン。この関係はロンメルとモントゴメリーとの関係にも似てます。そういえばモンティの戦法もウェリントンと似てなくもないかなと思います。
 天才が悲劇的な最後を迎えがちなのにたいして、秀才は歴史的に見ても終りを全うするものなのです。

世界史英雄列伝(18) ウェリントン卿アーサー・ウェルズリー 前編

◇ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー 1769年~1852年

1769年 ウェルズリー伯爵家に生まれる。
1787年 第13連隊に入隊。
1797年 インド、マラータ戦争で勲功をあげ、「ナイト」の称号を受ける。
1806年 トーリー党下院議員になる。
1807年 アイルランド相に就任。
1808年 スペイン戦役、1万8千の兵を率い、ポルトガルに上陸。一時、総司令官バラードと対立、帰国。
    4月22日、2万の兵で再上陸。フランス軍を苦しめる。ウェリントン子爵となる。
1813年 英軍、ピレネーを越え、南仏侵攻。
1814年 このときの功績でウェリントン公爵に叙任。
    ウィーン会議イギリス代表。
1815年 ナポレオン、エルバ島脱出、パリ入城。
    6月18日、ワーテルローの戦いでナポレオンを破る。(百日天下)
1828年 イギリス首相(~1830年)
1829年 旧教徒解放令
1832年 第1回選挙法改正に尽力。
1852年 ケント州ウォルマー城で死去。

 ウェリントンといえば、英雄ナポレオンを苦しめた敵役というイメージが強い人物ですが、ウィーン会議イギリス代表、首相をつとめたなかなかの傑物です。
 彼の采配は、ナポレオンのように水際立ってはいませんが、冷静・慎重で敵の弱点が見えるまでは防御、そしてそれを発見するや一気に攻勢に転じるというものでした。敵から見えない尾根のこちら側に予備隊を伏せるという得意の戦法はワーテルローでも見せました。

 ナポレオン側に立ちますと、まずスペイン戦役にウェリントン(当時はウェルズリー将軍)が登場してきたのがケチの付きはじめでした。ただでさえ、スペインのゲリラ戦法に苦しんでいるのに、戦況有利な時は侵攻、不利になってくるとポルトガルに引っ込むという嫌な戦法を採られてはたまったものではありません。逆にいえばウェリントンが戦上手ともいえるのですが。

 彼はインドの植民地での戦争経験から、現地兵を利用するのに長けていました。彼らを徹底的に利用し自軍の損害をさけ、戦況不利だとさっさと引くという戦法です。
 1812年、ナポレオンがロシア遠征のためにスペイン戦線から兵力を引き抜くと、手がつけられない状態に陥りました。結局ロシア遠征は大失敗するのですが、こちらスペイン戦線でも1813年、ウェリントン率いる英軍がピレネー山脈を越え南仏に侵攻します。
 1814年には、功績によりウェリントン公爵に叙任されました。ナポレオンは退位、エルバ島に流されます。1815年、ナポレオン後の国際情勢を話し合うためオーストリアの首相兼外相メッテルニヒがウィーンに各国代表を招集します。いわゆるウィーン会議です。ウェリントンはイギリス代表として出席しました。
 ところがその会議中、ナポレオンがエルバ島を脱出したという報が入ります。4月5日、ウィーンからブリュッセルにもどったウェリントンは、彼の指揮する部隊のあまりのひどさに愕然とします。

 スペイン戦役以来鍛え上げていた彼の部隊は解散させられ、オランダ軍、ブランシュバイク公(プロシア貴族、英王室と姻戚関係があった)の傭兵、ナソウ公領からの徴募兵など寄せ集めで、命令も英語、フランドル語、ドイツ語で出さなければなりませんでした。
 ウェリントンは超人的な努力でこれらの部隊を鍛え上げなければなりませんでした。しかし時間はありません。ナポレオンの影はすぐそこまで迫っていたのです。

     後編に続く

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