世界史英雄列伝(18) ウェリントン卿アーサー・ウェルズリー 前編
◇ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー 1769年~1852年
1769年 ウェルズリー伯爵家に生まれる。
1787年 第13連隊に入隊。
1797年 インド、マラータ戦争で勲功をあげ、「ナイト」の称号を受ける。
1806年 トーリー党下院議員になる。
1807年 アイルランド相に就任。
1808年 スペイン戦役、1万8千の兵を率い、ポルトガルに上陸。一時、総司令官バラードと対立、帰国。
4月22日、2万の兵で再上陸。フランス軍を苦しめる。ウェリントン子爵となる。
1813年 英軍、ピレネーを越え、南仏侵攻。
1814年 このときの功績でウェリントン公爵に叙任。
ウィーン会議イギリス代表。
1815年 ナポレオン、エルバ島脱出、パリ入城。
6月18日、ワーテルローの戦いでナポレオンを破る。(百日天下)
1828年 イギリス首相(~1830年)
1829年 旧教徒解放令
1832年 第1回選挙法改正に尽力。
1852年 ケント州ウォルマー城で死去。
ウェリントンといえば、英雄ナポレオンを苦しめた敵役というイメージが強い人物ですが、ウィーン会議イギリス代表、首相をつとめたなかなかの傑物です。
彼の采配は、ナポレオンのように水際立ってはいませんが、冷静・慎重で敵の弱点が見えるまでは防御、そしてそれを発見するや一気に攻勢に転じるというものでした。敵から見えない尾根のこちら側に予備隊を伏せるという得意の戦法はワーテルローでも見せました。
ナポレオン側に立ちますと、まずスペイン戦役にウェリントン(当時はウェルズリー将軍)が登場してきたのがケチの付きはじめでした。ただでさえ、スペインのゲリラ戦法に苦しんでいるのに、戦況有利な時は侵攻、不利になってくるとポルトガルに引っ込むという嫌な戦法を採られてはたまったものではありません。逆にいえばウェリントンが戦上手ともいえるのですが。
彼はインドの植民地での戦争経験から、現地兵を利用するのに長けていました。彼らを徹底的に利用し自軍の損害をさけ、戦況不利だとさっさと引くという戦法です。
1812年、ナポレオンがロシア遠征のためにスペイン戦線から兵力を引き抜くと、手がつけられない状態に陥りました。結局ロシア遠征は大失敗するのですが、こちらスペイン戦線でも1813年、ウェリントン率いる英軍がピレネー山脈を越え南仏に侵攻します。
1814年には、功績によりウェリントン公爵に叙任されました。ナポレオンは退位、エルバ島に流されます。1815年、ナポレオン後の国際情勢を話し合うためオーストリアの首相兼外相メッテルニヒがウィーンに各国代表を招集します。いわゆるウィーン会議です。ウェリントンはイギリス代表として出席しました。
ところがその会議中、ナポレオンがエルバ島を脱出したという報が入ります。4月5日、ウィーンからブリュッセルにもどったウェリントンは、彼の指揮する部隊のあまりのひどさに愕然とします。
スペイン戦役以来鍛え上げていた彼の部隊は解散させられ、オランダ軍、ブランシュバイク公(プロシア貴族、英王室と姻戚関係があった)の傭兵、ナソウ公領からの徴募兵など寄せ集めで、命令も英語、フランドル語、ドイツ語で出さなければなりませんでした。
ウェリントンは超人的な努力でこれらの部隊を鍛え上げなければなりませんでした。しかし時間はありません。ナポレオンの影はすぐそこまで迫っていたのです。
後編に続く
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