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2009年1月

2009年1月20日 (火)

世界史英雄列伝(24) 太公望姜子牙(呂尚)

◇太公望姜子牙(呂尚)前11世紀ごろの人。生没年不詳、周の軍師、斉に封じられる。
 姓は姜、氏は呂、名は尚または望、字は子牙または牙。謚は太公。斉太公、姜太公とも呼ばれる。


 賢人として名高い周(今の陝西省にあった)の文王姫昌(当時は西伯昌)は、ある日狩りに出かけようとして占いをしたところ
「猟の獲物は竜でもなく蛟でもなく、虎でもなく羆でもなく、その獲物は覇王の輔(たすけ)である」
と、でました。

 はたして姫昌が渭水のほとりを通りかかると、見たところ常人ではない老人が釣り糸を垂らしていました。ニコニコしながら姫昌は老人に近づきます。
 「なにが釣れますかな?」
 老人は振り向きもせず「わしはそこらへんの雑魚など相手にしておらん。天下を釣っておるのだ。」と答えました。よく見ると、釣り針はまっすぐで、餌もついていません。
 話してみると、この老人が只者でない事が分かりました。「貴方は私の太公(祖父)が望んでいたひとだ!」

 城に連れ帰った姫昌は、以後この老人を「太公望」と呼びました。
 一説では、姜子牙はかって商の紂王に使えていましたが、その無道ぶりに愛想を尽かし身をひいて隠れていたそうです。


 以上が、有名なエピソードなのですが、現在この話は疑われています。諸説ありますが、望というのはこの老人の名前であるとする説が有力です。太公というのは斉の始祖と言う意味で、望が名前だそうです。また異民族「姜族」の首長で、商に反発して周と同盟したとも言われています。呂尚とも姜子牙とも、呼ばれていますが、わずらわしいので姜子牙で通します。


 姜子牙と言う名はファンタジー好きな方なら『封神演義』の主人公としてご存知でしょう。あの話はフィクションですが、周が宗主国商(殷)を滅ぼして新王朝を建てたことは史実です。


 姜子牙は文王、武王(姫発)の二代にわたって仕え、軍師として周の覇業をたすけました。牧野の戦いで決定的な勝利をつかむと、商王朝を滅ぼします。なんとこのとき姜子牙70歳。
 周王朝が興ると、功により斉(山東省)に封じられました。斉の土地は海にちかく土地も痩せていました。姜子牙はこれを逆手に取り、塩田や商工業を振興させることで豊かな国作りをします。
 斉は春秋戦国時代を通じて有力な国として存在し、また最初の覇者桓公を出したことでも知られています。


 謎に包まれ、仙人のような印象のある姜子牙ですが、なんと100歳まで生きたそうです。彼こそ後に軍師となる男たちの原型となるのです。

世界史英雄列伝(23) 曾国藩 富貴を全うした名将

◇曾国藩 1811年~1872年 中国清朝、政治家・軍人

1811年 湖南省湘郷県に生まれる。
1838年 進士に合格。
1851年 太平天国の乱勃発。
1852年 礼部右侍郎在職中に母の死をうけ、喪に服するために帰郷。
    朝廷の命をうけ、郷勇(義勇軍的な私兵)を組織。後の湘軍になる。
1854年 湖北省湘潭で太平天国軍に大勝。
1860年 両広総督・欽差大臣になる。
1862年 李鴻章、湘軍を手本に淮軍をつくる。
1864年 湘軍、太平天国の首都天京(南京)を攻略、乱を鎮圧する。
    功により侯爵に叙勲。
1870年 漢人では初めて、地方官の最高位、直隷総督になる。
1872年 死去。


 論語の一節に「死生命あり、富貴天にあり」という一文があります。私鳳山が好きな言葉で、座右の銘にしています。この語句を見るたびに思い出すのは、太平天国の乱を鎮圧した曾国藩という人物です。彼は乱鎮圧後も、陰謀うずまく朝廷を生き抜き、位人臣を極め、失脚することなく富貴のまま一生を終わりました。別にあくせくすることなく、自然体で時代の命ずるまま行動し、終わりを全うしたのですから、理想的な生き方です。まったく羨ましい生涯でした。


 曾国藩は礼部右侍郎(日本で言うなら文科省事務次官)在職中に、母の死をうけ、喪に服するため帰郷します。もしこれがなかったら、大臣くらいには出世し、歴史には残らずとも安泰な一生を送ったでしょう。
 しかし当時、洪秀全がおこしたキリスト教を中国化した上帝会が反乱を起こします。太平天国と名乗り、本拠地広州から北上、湖南、湖北を襲い南京を落として天京と称し首都にします。初めは数千人だった反乱は、南京攻略時には20万人にも膨れ上がっていたそうです。
 これに対して清朝は討伐軍を送りますが、敗退を繰り返します。あれだけ精鋭を誇った清の八旗兵でしたが、貴族化し堕落していたので、もはや使い物になりませんでした。


 事態を憂慮した清政府は、ちょうど曾国藩が湖南に帰省していたを思い出します。朝廷は彼に命じて郷勇(義勇兵的な私兵)を編成し、反乱鎮圧にあたらせます。後に有名な「湘軍」となる郷勇は、まず幹部を曾国藩の弟子、縁者とし、彼らに人材を集めさせ軍隊として組織させます。地縁、血縁による強固な軍隊となったのですが、問題は、曾国藩個人に忠誠を誓う私兵であったということです。のちにこのことが清朝の命取りになるのですが、今の状況ではそんなことは言っておれませんでした。


 ところで、太平天国の強みはなんだったのでしょうか?それは、軍規がしっかりしていたという事です。「滅満興漢」をスローガンにし、キリスト教的平等主義にのっとった「天朝田畝制度」といわれる土地の国有化をはかった一種の原始共産制を制度として取り入れようとします。むしろ、政府軍のほうが略奪・暴行を激しく繰り返し人心はどんどん離れていきました。男女平等、アヘン・纏足の禁止などを謳った太平天国のほうが民衆に支持されていたのです。


 南京攻略後、太平天国は北伐の軍を発します。清朝正規軍は各地で敗れ、モンゴルの部隊を使ってようやく撃退する始末でした。このころになると太平天国自体に自壊作用が起こります。当初の理想はすばらしかったのですが、天京という拠点を得ると、幹部たちが腐敗し権力争いを始めました。乱の指導者、洪秀全にはこれを収集する力はなく、降伏した清兵、匪賊などで膨れ上がった軍隊は、質を落とし、中国伝統の略奪・暴行をくりかえす軍隊に成り下がりました。また列強の租界がある上海を攻撃したのも致命的でした。上海の官僚、商人が資金を供出し西洋式武器を装備した傭兵を組織します。最終的に英国人ゴードンを指揮官とし、常勝軍と名付けられます。常勝軍は強く、上海を抜く事はできませんでした。


 一方、湖北・湖南戦線では曾国藩の湘軍が太平天国軍と死闘を繰り返していました。何度か曽国藩は敗北し、そのたびに自殺を考えたそうです。しかし湖北省湘潭の戦いで大勝利をえます。また曽国藩の幕僚であった李鴻章は、故郷淮南に帰って、湘軍にならった淮軍を組織します。これらの軍隊によって太平天国包囲網は徐々に狭められました。それでも鎮圧には10年かかります。
 1862年、太平天国の首都天京が湘軍のよって陥落させられました。ようやく乱は鎮められます。残党の平定にはまだ時間がかかりますが大勢は決しました。


 乱鎮圧後、清政府は軍閥と化した曽国藩らを警戒します。曽国藩は直ちに湘軍を解散、清朝官吏の道に復帰しました。政府は曽国藩に気を使い出世させます。漢人で初めて地方官としては最高位にあたる直隷総督に任じました。富貴のまま曽国藩は安泰な晩年を送ります。


 しかし、李鴻章は違いました。最期まで淮軍を保有し続け、軍の力を背景に朝廷内の最高実力者になりあがりました。日清戦争で日本軍が戦ったのは、李鴻章の私兵がほとんどであったことは意外と知られていません。
 李鴻章が自分の軍隊の消耗を恐れて早期講和に乗ってきたという事実もあります。
 どちらにしても、太平天国の乱が、清朝滅亡の引き金になったことは間違いありません。

世界史英雄列伝(22) ロバート・E・リー 南北戦争の英雄

◇ロバート・E・リー 1807年~1870年


1807年 バージニア州ストラットフォードで生まれる。
1825年 陸軍士官学校に入校。
1846年 米墨戦争に従軍(~1848年)
1861年 南北戦争勃発。軍を離れバージニア州に帰郷。
    南部連合の陸軍長官に就任。
1862年 アンティータムの戦い。
1863年 ゲティスバーグの戦い、南軍の退勢が決定的になる。
1865年 南部連合の陸軍大将に昇進。
    4月、南部首都リッチモンド陥落。グラントに降伏。
    10月、恩赦され、バージニア州ワシントン大学学長に就任。
1870年 死去。


 60万人の死者をだし、アメリカ最大の内戦となった南北戦争の爪あとは現在でも残されています。北部や中西部の発展に取り残された感のある南部ですが、この戦争を一人の人物に焦点をあてて振り返っていきましょう。

 
 ロバート・E・リー将軍、皆さんにはなじみがない人物かもしれませんが、アメリカでは今でも人気があるそうです。気品・勇敢さ・責任感・冷静さという指導者として得がたい資質をもったリーでしたが、彼は南部の将軍でした。
 リンカーン大統領によって、北部の総司令官に推されますが、南部に参加した故郷バージニアへの哀愁捨てがたく、この申し出を蹴って南部に走ったというエピソードがあります。

 リー将軍は名将でした。個々の戦闘では北軍を破り苦しめます。しかし人口で2倍、工業力・経済力ではるかに勝る北部の優位を覆す事はできませんでした。それが決定的になるのが1863年に起こったゲティスバーグの戦いです。
 この会戦は、両軍の意図したものではなかったそうですが、鉄道と多くの道路の合流点であり交通の要衝だったことから、軍の集結・補給が容易であったことが戦場になった理由でした。
 結局、陣地を死守する北軍を突破することができず、敵に増援が次々と来るに及んでリーは撤退を決意します。これが戦争のターニングポイントでした。


 1864年、西部戦線で活躍したユリシーズ・S・グラントが北軍総司令官に就任します。グラントは国力の優位を生かした、犠牲を厭わない消耗戦を実行します。またグラントの僚友だったシャーマンがジョージア州侵攻作戦を開始、徹底的な焦土作戦を敢行して物心両面から南部連合を圧迫しました。
 これが決定打となり1865年、南部連合首都リッチモンドが陥落、戦争は南部の敗北に終わります。


 余談ですが、シャーマンの残虐行為は現代でも影響を及ぼし、南部の人たちに深い恨みとして残りました。第2次世界大戦中、シャーマン戦車の搭乗を拒否した南部出身の兵がいたそうです。


 リー将軍は、道徳的見地からは奴隷制に反対だったそうです。にもかかわらず南軍に投じたのは故郷バージニアを愛していたからでした。北軍総司令官グラントに降伏したとき、リーは礼装用軍服に身を包んでいました。ところがグラントはだらしない野戦服のまま応対したそうです。

 戦後、グラントは大統領に就任しますが、汚職にまみれ「歴代最低の大統領」と評されました。一方、リーは教育の大切さを考え故郷の大学の学長になり、教育に力を注ぎました。このあたりが、今もアメリカ人に愛される一端でしょうか。

世界史英雄列伝(21) ルドルフ・シュタイナー - 智の巨人 -

◇ルドルフ・シュタイナー 1861年~1925年 哲学者・神秘思想家・教育者

1861年 当時オーストリア領のクラリエヴェクで生まれる。
1884年 ゲーテの残した自然科学に関する論考文を編纂、出版。
1891年 ロストック大学で哲学博士号を取得。
1894年 哲学的主著「自由の哲学」GA4を出版。
1902年 神智学協会会員となる。
1911年 東洋神秘思想に流れる神智学協会と決別。人智学協会を設立。
1919年 自由ヴァルドルフ学校を開校。
1922年 世界中を講演してまわる。
1925年 死去。


 最近、私鳳山が義憤に駆られていることがあります。田舎者のたわごとと言ってしまえばそれまでですが、あまりに今の若者のマナーが悪すぎます。電車の中で平気で化粧する女、年寄りに席を譲らずにどかっとシートに座っている高校生の集団。買い物のレジでも平気で携帯電話を続ける若者。サラリーマンでも携帯電話しながら道を歩いている人がいます。中学生に行ったあるアンケートでは、「セックスをする相手」に「お金をくれる人」と答えた馬鹿が9%もいたそうです。数え上げるときりがないので、このへんで止めておきますが、人としてどうなのか?と疑問に思います。なんで日本はこうなったのでしょうか?色々原因がある中で教育の問題が大きいだろうと考えています。


 初めは、日常のカテゴリーで書こうと思ったんですが、考えているうちに教育問題をとりあげ社会に提言したほうが良いのではないか、と考え始めました。教育を考える時、私はルドルフ・シュタイナーの「全人格教育」を思い出します。今まで国王・政治家・軍人ばかりを取り上げてきた英雄列伝ですが、今回はシュタイナーを書かせてください。


 ルドルフ・シュタイナーは哲学者・神秘思想家・教育家として有名です。ゲーテ研究など哲学の分野で取り上げられても、なかなか神秘思想家としての一面はアカデミズムの分野では受け入れられていません。しかし神秘思想は教育と密接につながっているのです。
 人間の本性は善なのか悪なのか?孟子の「性善説」荀子の「性悪説」と古来から議論されていますが、私の立場から言わせてもらえば、「人間の本性は善なるも、教育によって善にも悪にもかわる。」です。
 日本の民度の低下と教育の荒廃は、戦後教育の歪みにあります。履き違えた自由を主張する若者に育て上げたのは大人たちです。今まで思想問題は避けてきましたが、あえて言わせてもらうと責任の一端は日教組にあります。人に教育をする人間が権利を主張してどうする!その前に教育者自体が人格者たるべきではないのか!教員採用を学力だけでするのではなくて人格者を選ぶべきではないのか?その意味では文部省の罪は万死に値します。もっとも選ぶほうがつまらない人間では、相手が人格者かどうか分からないでしょうが。


 なかなか、本題に入らず恐縮です。シュタイナーは「霊的な現象とは自らの無意識にアクセスすることで過去の膨大な記憶(集合無意識=アカシックレコードとも考えられる)を知る事」と喝破します。
 それが東洋の神秘思想に傾斜していった神智学協会との意見の食い違いになりました。
 この点、現代アカデミズムが理解できない、評価の分かれるところですが、シュタィナーは、人間が霊的に進化するためには教育が非常に大切であると悟ります。
 シュタイナーの「全人格教育」と呼ばれるのがそれです。欧米では32カ国600校以上が採用しているといわれています。

 
 具体的には、
①人間は肉体・霊・魂でできている。
②子供は7歳ごとに発展的段階を経る。
 第1段階 - アルファベット、読み書きを教えると同時におとぎ話による情操教育を行う。
 第2段階 - 想像力と幻想の目覚める時期。教師と生徒1対1で向き合い教育する。
 第3段階 - 思春期。霊的洞察と調和に対する理解。
③知育・徳育・体育のバランスが重要。
 まず意志力を教える。次に人に対する共感、美しいものに対する感動を教える。そして最期にようやく
 知性が芽生える。


 どうです、このようなきめ細かい教育をすれば、現代の日本の若者など生まれようもないでしょ?
 しかし、ナチスが台頭してくると、調和を大事にするシュタイナーの教育は目の仇にされました。ヒトラーの「人類は生成途上の神である。神への進化は破壊のあとに成される」という思想と真っ向から対立するものだったからです。シュタイナー学校は活動の拠点を海外に移さざるを得ませんでした。


 戦後、シュタイナーの教育に共鳴し欧米では多くの学校が建てられました。日本でも幼児教育にシュタイナー思想を取り入れているところがあるそうです。


 最後に、イギリスの作家コリン・ウィルソンのシュタイナー評を紹介します。
 「宗教の存在が不確かになった現代(20世紀)において、本当に人の心を救えるような精神文化を育てる事が可能だろうか?シュタイナーは今世紀初頭に、その困難な課題にいち早く挑戦した人である。」

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