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2009年3月

2009年3月 9日 (月)

世界史英雄列伝(30) 背教者ユリアヌス - 悲劇の名将 -

 ビザンティオンをコンスタンティノポリスと改名し、新しいローマ帝国の帝都としてふさわしい都市に改造した大帝コンスタンティヌス1世。偉大な彼の死後、帝国は3人の息子たちに分割されました。
 しかし、この3人の兄弟は仲が悪くすぐに自分が帝国を独り占めすべく戦争を始めます。そのなかで生き残ったのは帝国東方を領地にしていたコンスタンティウス2世でした。骨肉の争いを制した彼は猜疑心を強くもっていました。
 大帝の弟、ユリウスの家系もコンスタンティウス2世に謀反の疑いをかけられ一族皆殺しにあいます。許されたのはユリウスの幼い子供たち、ガルスとユリアヌスの二人だけでした。

 兄弟はイオニアに幽閉され、多感な少年時代をこの地でおくります。ギリシャ哲学を学ぶ事だけが、彼らに許された自由でした。

 二人が成人すると、皇帝の血族は彼らだけなので、まず兄のガルスが東方副帝に任ぜられます。しかし、コンスタンティウス2世はこのガルスにさえ猜疑の目をむけ354年、謀反の疑いで殺害してしまいます。生き残った唯一の血族はユリアヌスだけでした。

 翌年、ユリアヌスは統治の難しいガリア担当の副帝に任ぜられます。24歳のときでした。コンスタンティウス2世にとっては、唯一の従兄弟が戦死しようがかまわないという任命でした。うまく統治できたら儲けものという考えだったのです。

 ところが戦の経験などないユリアヌスは、皇帝の期待を見事に裏切ります。初陣のアラマンニ族との戦いで、自ら陣頭にたって敵を破ると、王を虜にするという大功を立てました。
 その後も快進撃を続け、わずか2年でガリアの地を平定することに成功します。しかし、ユリアヌスの戦勝報告が入るたびに皇帝は不機嫌になっていきました。従兄弟の活躍に嫉妬と憎しみさえもった皇帝はユリアヌス討伐の軍を発します。

 ユリアヌスは、皇帝が自分を討伐しようとしている事実を知りショックを受けました。すべては皇帝のため、祖国のためにしたことだったのにかかわらずのひどい仕打ちに憤慨します。

 360年、ユリアヌスは配下の軍団兵の推戴で皇帝になります。もはや後戻りはできませんでした。劣勢にもかかわらずユリアヌスは根拠地ルテティア(現在のパリ)を出陣します。この哲学青年は、けっして奢らず、兵卒と同じ食事をし、ともに戦う姿勢に、兵士たちから強い支持を得ていました。

 皇帝は家族の仇でした。いままで忘れていた恨みをぶつけようと、皇帝軍との戦いを覚悟していた時、皇帝コンスタンティウス2世が没したとの知らせを受けます。こうしてユリアヌスは制式に皇帝に推戴されました。

 皇帝ユリアヌスは背教者と後世のキリスト教関係者に非難されます。しかし、その生い立ちからギリシャ哲学に親しんだ彼にとって、皇帝権力と結びついたキリスト教(ギリシャ正教)の聖職者は嫌悪の対象でした。彼がキリスト教徒を弾圧したというのは間違いです。彼が憎んだのは権力と結託した教団幹部だけでした。国教と定められたキリスト教をないがしろにして、ユリアヌスは臣民に信教の自由を認めました。

 ユリアヌスは、やるべきことの優先順位をペルシャとの戦争と判断しました。帝国の安定化を図るためには西方国境の確定と安定が不可欠だったからです。
 363年、ユリアヌスは東方遠征の途につきます。一時はササン朝ペルシャの首都クテシフォンに迫るほどの成果をあげます。最後の決戦で、大量の象部隊を繰り出してきたペルシャ軍に対し、ユリアヌスは冷静に対処、象の背後に回りローマ兵に槍で尻を突かせます。これによって暴走した象たちは逆にペルシャ軍の陣に突入、このために敵軍は大混乱に陥りました。
 このときを待っていたユリアヌスは待機していた予備部隊を投入、形勢は一気に逆転しました。勝利が見え始めた時、信じられない悲劇がユリアヌスを襲います。常に先頭にたつユリアヌスの姿勢が禍しました。敗走するペルシャ兵が、苦し紛れに放った槍がユリアヌスを直撃したのです。ほとんど即死でした。

 この無限の可能性を持ったユリアヌスが、メソポタミアの戦場で命を落としたのは363年6月26日のことです。享年32歳、正式に皇帝に就任してからは2年に満たない統治でした。
 彼の最後の言葉は「ガリラヤ人(キリスト教徒)よ、汝は勝てり」だと伝えられています。

世界史英雄列伝(29) エパミノンダスと『斜線陣』

◇エパミノンダス BC420年?~BC362年   古代ギリシアの都市国家テーベの将軍・政治家


 古代ギリシア世界独特の軍制として長槍密集歩兵陣、いわゆるファランクスがあります。長槍と盾を持った歩兵が密集してハリネズミのような戦列をつくり、敵にぶつかるという戦法で、古代世界においては戦象などの特殊な兵科を除いて最強であったと考えられます。これにまともに正面からぶつかって勝てる敵はありませんでした。最強というのは「まともに正面から…」という条件付ですが、背後や側面に回ると機動が難しいため、意外ともろいものでした。ローマはこの点をついて勝利します。

 ところで、ギリシアのポリス同士の戦いは、ファランクス同士のぶつかりであったため、戦列を持ちこたえた方が勝ちでした。盾の隙間から槍を突き、なんとか敵陣を崩そうとしました。少年の頃からいわゆるスパルタ教育で鍛えてきたスパルタ軍が最強の軍隊を持つのは当然でした。
 しかし、この最強スパルタ軍を劣勢の兵力で破った者がいます。勝つためのシステム「斜線陣」を発明して。それがこれから紹介するエパミノンダスです。

 エパミノンダスはBC420年ごろテーベで生まれました。家は没落貴族で貧しかったといいます。学問を志しピタゴラス派の哲学を学びます。彼の祖国テーべはBC385年スパルタに併合されました。親友ペロピダスとともに反スパルタ闘争に身を投じたエパミノンダスは、スパルタによって追放されていたペロピダスの帰国に尽力し、BC379年テーベの市民と共に決起、ついにスパルタから独立を達成します。

 ペロピダスの指導の下、テーベはスパルタに対抗するためボイオティア諸都市と結び「ボイオティア同盟」を結成します。スパルタはこの動きに怒り、懲罰軍を派遣します。ボイオティア同盟軍は全軍の指揮をエパミノンダスに委ねました。BC371年両軍はレウクトラの地で激突します。
 スパルタの兵力1万1千、ボイオティア同盟軍は6千でした。まともに戦っていては勝ち目はありません。エパミノンダスは主力のテーベ軍の戦列を極端に厚くし(50列)、その衝撃力で戦いを決しようとしました。

 最左翼に位置するテーベ軍が、敵右翼のスパルタ軍主力を粉砕するまで弱兵である同盟軍の接敵を避けなくてはなりません。そのため斜めに布陣し後退させました。これが世に言う「斜線陣」です。
 戦いはエパミノンダスの思惑通りに進みました。いかに精強なスパルタ軍といえども、倒しても倒しても戦列が崩れないテーベ軍に苦戦します。疲労の色が見え、戦列に隙間が生じた時、テーベ軍最精鋭の神聖隊がそこへ突撃、耐えられなくなったスパルタ軍右翼は敗走します。無傷の中央、左翼も右翼に引きずられて崩れました。大勝利です。ギリシアの覇権は新興国テーベのものになりました。

 しかし、テーベの覇権は長く続きませんでした。同盟していたアテナイがしだいに反感をつのらせ、秘かにスパルタと手を結びます。BC370年、エパミノンダスは兵を率い、スパルタの本拠地であるペロポネソス半島に遠征しました。ところがはかばかしい結果を出せなかったため、政敵によって一時追放の憂き目にあいます。

 BC362年、スパルタ・アテナイ連合軍はテーベを襲う構えを見せました。この国家の危機にエパミノンダスは再び指揮権を委任されます。そして同年、マンティネイアの戦いで、スパルタ・アテナイ連合軍を破る事に成功しました。ところがこの戦いでエパミノンダスは敵の放った槍を受けて戦死してしまいます。以後、テーべは振るわずマケドニアの軍門に下りました。
 皮肉な事に、マケドニアのフィリッポス2世は人質として若い頃テーベに送られ斜線陣を学んでいました。そしてそれを改良しカイロネイアの戦いで使用、大勝利します。
 まさに彼こそが、エパミノンダスの正当な後継者といえるでしょう。

世界史英雄列伝(28) 藺相如 後編 - 刎頚の交わり -

 澠池(めんち)の会盟での功績により、藺相如は上卿に親任されます。将軍の廉頗より位が上になったのです。
 「わしは、趙の大将として攻城野戦に大功を立ててきた。しかるに藺相如は口先だけの働きでわしの上の位におる。それに相如はもともと卑しい身分の出じゃ。わしは恥ずかしい。今度あやつと会ったら恥をかかせてやるつもりじゃ。」
 この廉頗の発言をうわさで聞いた藺相如は、顔を合わせるのを避け、朝見の日も病気といって廉頗と席を争うのを望みませんでした。
 外出しても、向こうから廉頗が来ているのを見つけると、車を引き返し、徹底的に避けました。何日かこのようなことが続くと、藺相如の近侍たちがあきれて申し出ました。
 「わたしどもが、お側にお使えするのは殿様の高義を慕ったためでございます。しかるに殿様は廉頗様と同列でいらっしゃいますのに、悪口のうわさを聞かれただけで、怖れて逃げ隠れされておられます。なみの者でも恥ずかしいと思いますのに、大臣大将であったらなおさらです。わたしどもは愚かでございますから、どうかお暇をいただきとうございます。」
 これに対して、藺相如はこう答えました。
 「そなたたちに尋ねるが、廉将軍と秦王とどちらが恐ろしいと思うか?」
 「それは秦王でございましょう。」
 「そうであろう。私はあの秦王の威勢でさえ、宮廷のまんなかでしかりつけ、群臣に辱めを与えた。私は駄馬のごとくあろうが、なんで廉将軍を怖れるものか。ただ、考えてみるに秦がわが国に手を出せないのは廉頗殿と私がいるためだ。両者が争えば、どちらかが死ぬ事になるかもしれない。そうなれば秦に利するばかりではないか。私が逃げ隠れしているのは、国家の大事を優先しているだけで、廉将軍を怖れているわけではない。」
 「わたしどもが間違っておりました。」近侍たちは平伏します。

 これを伝え聞いた廉頗は、己の発言が愚かだったことに気付かされました。肌ぬぎとなって荊(いばら)の鞭を背負い、客を介添えにして藺相如の屋敷を訪問して謝罪しました。
 「それがしが間違っておりました。性根の卑しいそれがしを、藺相如殿がこれほどまでに心広く扱ってくださろうとは存じ上げておりませんでした。どうか愚かな私を思うまま罰してくだされ。」
 これに対して、相如は静かに手をとって言いました。
 「分かっていただけたのなら、それでよろしいのです。これからは趙国のため、共に力を尽くしていきましょう!」
 廉頗は感激して涙を流しました。そして両者は心おきなく歓談して、『刎頚の交わり』を結びます。これは互いのためなら、たとえ頸を切られても本望だ、という関係でした。二人の友情は藺相如が病気で死ぬまで続きます。そして二人が健在の間は、秦はあえて趙に手を出すのを控えたといいます。

世界史英雄列伝(28) 藺相如 中編 - 澠池の会盟 -

 藺相如が和氏の璧を完して趙に帰国すると、秦の昭襄王は面白くありませんでした。趙を力でねじ伏せるべく戦争を仕掛けます。国境の石城を落とし、さらに出兵して趙軍を破り、2万を殺しました。
 そうしておいて、昭襄王は趙に使いを送ります。「誼を結びたいから、西河の南、澠池(めんち)において会見しよう」
 
 またしても難問でした。趙の恵文王は出かけても辱めをうけるだけだと、行くのを渋りました。将軍の廉頗(れんぱ)と藺相如は共に王を励まします。
「ここで王が行かれなかれば、趙弱しと、天下に宣伝されてしまいます。私(藺相如)が同行いたしますから、王は安心してお出かけください。」

 こうして恵文王は出発し、藺相如が同行しました。廉頗は国境まで見送り、王に別れを告げました。
「会見の儀礼と往復の日数を数えると三十日あまりでしょう。もしお帰りにならなければ、太子様のご即位を願い奉ります。」
 王はこれを許しました。主従の悲壮な別れでした。

 一行が澠池に着くと、秦王はこれを歓待します。そして宴たけなわのとき
「予は趙王が音楽を好まれると聞いている。ひとつ瑟(しつ、弦楽器の一種)を奏でてはくれまいか?」
 仕方なく恵文王は瑟を奏でます。すると、秦の御史(記録係)が進み出て記録に留めました。
「某年某月某日、趙王、秦王のために瑟を奏でる」趙が秦の属国になったというあきらかな嫌がらせでした。

 藺相如は進み出て「秦王は歌の名手と聞き及んでおります。どうか趙王のために缶(ふ)を打って歌を歌っていただきたい。」
 昭襄王はあきらかに嫌な顔をします。相如はさらに前にでて、秦王に乞いました。そして静かに言います。
「秦は強大ですが、いま秦王と私の間は五歩しかありません。私の頸の血が貴方に跳ねかかると思し召せ。」
 懐に匕首を忍ばせての脅迫でした。側近が斬りかかろうとしますが、藺相如が一喝するとたじろぎます。しぶしぶ昭襄王は歌いました。

 藺相如は振り向いて趙の御史を呼び寄せます。
「某年某月某日、秦王、趙王のために缶を打つ」と記録させました。

 さらに、秦の群臣が「ひとつ秦王のために十五城を贈っていただきたい」と言うと、「それならば返礼に咸陽(秦の首都)を賜りたい」と切り返しました。宴の間中、相如は秦王に付け入る隙を与えませんでした。しかも会見の行末を案じた廉頗が国境沿いに兵力を集結させているという報を受けた昭襄王は、いまいましいながらも、趙と対等の同盟を結んで引き下がりました。

 こうして二度にわたって、藺相如は趙国の危機を救います。この功により上卿という最高の地位を与えられました。これが、共に危機を救った廉頗との関係にひびが入る原因になるのですが、その話は後編でご紹介することにしましょう。

世界史英雄列伝(28) 藺相如 前編 - 「完璧」の使者 -

 中国戦国時代、趙王室に伝説の宝玉「和氏(かし)の璧」が所蔵されていました。隣国、秦の昭襄王はそれが欲しくてたまらず、使者を送って「十五城と交換したい」と言わせました。
 当時、秦は「虎狼の国」と言われていました。璧を秦に与えても、十五城をもらえる見込みは無く、騙し取られるのがおちでしたから、誰も使者に立とうとしませんでした。しかし、申し出を無視しても秦の怒りをかい侵略を受けるのは必定なので、時の趙王、恵文王は困り果てました。
 そんなとき宦官の令、繆賢(びゅうけん)が自分の家来である藺相如(りんしょうじょ)を推薦します。王の問いに繆賢は絶対の自信を持って勧めたため、ついに藺相如は使者に任命されました。

 藺相如は決死の覚悟で秦に向かいます。秦では昭襄王が章台の殿上において引見しました。相如が璧を捧げると、王はご機嫌で周りの者に見せてまわしました。臣下たちは万歳をとなえて祝います。
 これを見ていた相如は、秦王が十五城を渡す気がないことを悟りました。
 やおら進み出て、「この璧には傷がございます。それをお示ししましょう」と申し出ます。王から璧を受け取ると、手に持ち、後すざりして柱を背にします。怒髪天をつく勢いで藺相如は叫びました。

 「秦王が璧を求めた時、趙国では『璧だけ盗られて十五城は手にいるまい』という声が多数でした。しかし、わが王は両国の親睦をそこなうのは良くないと、私を使者に送りました。ところが、今拝見していると秦王には璧だけを取り上げて、約束を守る気がないと推察いたしました。秦王がどうしても璧を取り上げようとなさるなら、私はこの璧もろとも頭を柱にぶつけてぶち割ってみせますぞ!」

 あわてた昭襄王は地図を示して「こことここの十五城を譲るつもりだ」と弁明します。しかし、王が口先だけで言っているのを感じた相如は、
「和氏の璧は天下の名宝です。わが王はこれを送り出す時五日間斎戒しました。秦王におかれましても五日間斎戒され九賓の礼をそなえなされませ。そうすればあらためて献上いたすでしょう。」

 しかたなく昭襄王もこれを受け入れます。相如は、約束が反故にされ璧だけが取り上げられるであろうと察し、従者に粗末な身なりをさせ、璧を持たせて秘かに趙に帰しました。

 五日後、昭襄王の引見をうけた相如はこう言い放ちます。
「秦は穆公以来二十代あまり、約束を守られた事は一度もありません。王の欺きを受けては本国に申し訳がたちません。ゆえに、使者に持たせて璧は持ち帰らせました。まず秦が十五城をお与えくださるならば、どうして趙は喜んで璧を差し出すことをためらいましょうか。
 しかし、私が王を騙した罪は万死に値すると承知しております。どうか、煮殺すなり斬首なり好きにしてください。」

 昭襄王は群臣と共に唖然としました。近臣が藺相如を曳き立てようとしたとき、王が言いました。
「ここで相如を殺したとて、璧は手に入らず、趙との関係も損なわれる。厚くもてなし趙にかえらせるがよい。」
 
 こうして藺相如は、難しい外交問題を趙の体面を傷つけることなく全うしました。帰国後、彼は上大夫に任ぜられます。「璧」を全(完)うしたことから「完璧」という故事成語が生まれました。

世界史英雄列伝(27) 西楚の覇王『項羽』

◇西楚の覇王『項羽』BC232年~BC202年

 司馬遼太郎の名著「項羽と劉邦」は秦末にあらわれた、まったく対照的な二人の英雄の生涯を描いた傑作です。その一人である項羽、私は彼の波乱に満ちた生涯に深く惹かれます。

 項羽、名は籍。羽は字ですが、通りがよいので項羽で通します。項羽は秦軍を一度は破った名将項燕の孫で、楚の滅亡後は叔父の項梁と共に会稽郡に隠れ住んでいました。項梁は土地の顔役として葬儀を仕切り人心を集めます。同時に人材も集めていました。

 秦末、陳勝・呉広の乱が起こると項梁と共に江東の地で挙兵、八千の兵を率い長江を渡ります。陳勝が敗死すると項梁は楚の王族の子孫を見つけてきて懐王に祭り上げました。これで反秦勢力を纏め上げる事に成功、このとき劉邦も参加してきます。
 秦は名将章邯を起用、反乱鎮圧にのりだしました。そんななか項梁が秦軍に包囲されて戦死します。項羽は内紛の末、宋義らを殺害し実権を握りました。まず項羽は7万の兵を率いて北上し、秦軍に包囲されていた趙の救援に向かいます。黄河を渡ると船を焼き捨て、不退転の決意で秦軍に攻めかかりました。項羽の武勇と、剽悍な楚兵の勢いは秦軍を圧倒、20万の秦軍が降伏しました。これに恐れをなした反秦の諸侯は項羽の幕下に跪きます。
 一方、懐王は秦に一番乗りした者を秦王にすると約束していました。劉邦は裏口の武関から関中に入り秦を下していました。項羽が函谷関まで達すると、関は劉邦によって閉ざされていました。怒り狂った項羽は力でぶち破ると、劉邦はあわてて項羽の軍門に降ります。これが有名な鴻門の会です。

 項羽は劉邦を辺境の蜀の地に封じ漢中王にすると、降伏していた秦王子嬰を殺し、咸陽を焼き払いました。略奪の限りをつくし、これによって秦の人心は項羽から離れました。また、降伏してきた秦軍20万を邪魔だからという理由でことごとく穴埋めで殺していましたから、恨みは深く残りました。

 項羽の軍師、范増はこの地を都にすることを進言しますが、「故郷に錦を飾りたい」という子供のような理由で項羽は拒否します。後々の事を考えると、この決断が滅亡の遠因でした。
 項羽が東に帰ると、劉邦はさっそく関中にでてきて秦の旧領を平定します。項羽の不公平な論功行賞で不満を持っていた諸侯を糾合、巨大な勢力になりました。
 
 項羽は目の上の瘤であった懐王を暗殺、彭城(現在の徐州)に都して西楚の覇王と唱えていました。斉の田栄の反乱を鎮圧するため都を留守にしていたとき、劉邦率いる50万もの大軍が彭城を占領します。しかし寄せ集めの軍隊の悲しさ、軍規は緩みきっていました。
 このときも項羽の武勇は発揮されます。急報を受けた項羽は手勢3万を率いると取って返し劉邦軍を痛破しました。劉邦は命からがら逃げだしました。

 劉邦が何度も項羽に敗れながら滅亡しなかったのは、留守を守る蕭何が補給を絶やさないからでした。
項羽は榮陽一帯に劉邦を追い込み広武山で両雄は対峙します。にらみ合いの続く中、劉邦の工作が秘かに続けられていました。謀臣陳平の離間の策にはまって、項羽軍の軍師范増が去ります。また劉邦軍の将、韓信の活躍によって黄河以北の地は統一されつつありました。

 長期の戦いで疲弊した両者は和睦します。東へ去った項羽軍にたいして劉邦軍の軍師張良は、背後を衝くことを進言しました。項羽に勝つチャンスはこの時しかないと悟った劉邦は約束を破って追撃します。あれほど武勇を誇った項羽でしたが、このときばかりはその神通力も通じませんでした。
 垓下に包囲され、攻囲軍からは懐かしの楚の歌が聞こえてくるではないですか。
 「嗚呼、すでに故郷楚の地は劉邦軍に占領されたのだな」項羽は嘆きます。しかしこれは張良の謀略でした。(四面楚歌)

 あきらめた項羽は、有名な『拔山蓋世』の詩を詠い愛妾虞美人を自らの手に掛けました。手勢八百騎を率い最後の突撃を敢行します。このときも鬼神のような働きで烏江(うこう)の畔までたどり着きました。烏江の渡し守は、江東に帰って再起を図ることを勧めますが項羽は断ります。
 追手に旧知の呂馬童がいることを見つけると「そなたに手柄をやろう」と、自ら首を刎ねました。享年三十一歳。

 世界史上でも不世出の英雄、項羽はここで波乱の生涯を閉じました。

世界史英雄列伝(26) 趙の武霊王 - 胡服騎射の英雄 -

◇趙の武霊王(趙雍) ?~BC295年(在位BC326年~BC295年)

?    趙の粛侯の子として生まれる。
BC326年 即位。
BC309年 郊外に野台を作ってそこから中山や斉を眺める。(征服するという意思表示)
BC307年 胡服騎射を取り入れる。
BC298年 それまで太子に立てていた公子章を廃して公子何を太子に立て、何に位を譲り、自らは主父と     なる。
BC296年 中山国を完全に滅ぼす。
BC295年 公子章が起こした『沙丘の乱』に巻き込まれて餓死。

 宮城谷昌光さんの小説『楽毅』で、主人公楽毅の祖国、中山を圧倒的な力で攻め滅ぼす武霊王は、悲劇的な最期とあいまって印象に残られた方も多いと思います。その強大な軍事力は胡服騎射によるものでした。

 古代中国でも、オリエントと同様、2頭から4頭立ての馬に二輪の車を引かせ、御者、弓、戈の三名が乗る戦車が戦いの主役でした。戦力はこの戦車一両に70~100名の従者がつく「乗」という単位で数えられます。百乗といえば、大体一万人の兵力を意味しました。天子のことを「万乗の君」というのもここからきています。
 ところで、オリエント世界のアッシリアが、遊牧民族キンメリア人の騎兵に苦しみ、それに対抗すべく騎兵部隊を創設したように、この中国でも趙の武霊王が胡服騎射の騎兵部隊を創ります。これは世界史上必然の流れだったのかもしれません。
 彼ら遊牧民族(キンメリア人、スキタイ、匈奴など)は、子供の頃から馬に慣れ親しみ、手足のごとく馬を扱えました。農耕民族との戦いでは、遠くから馬上で弓を放って攻撃し、不利になったら逃げます。敵が追いかけてくると振り返りざま矢を射掛けるのです。この「パルティア式射術」は彼ら遊牧騎馬民族の得意な戦法でした。敗走したと勘違いし、無防備で追いかける敵はこれによって大きな被害をだしました。

 趙という国は、中華でも北に位置し遊牧民族匈奴と接していました。しばしば侵入する匈奴の騎兵に戦車を繰り出しても、快速を利して逃げられるばかりです。武霊王は考えました。匈奴に対抗するには、それと同じ編成にすればよいと。
 軍の主力を騎兵にすることに対しては反対するものはいませんでした。しかし、問題は胡服のほうでした。それまで中華の民はゆったりした服装を着ていました。軍装においても同様で、匈奴が着ているような、ズボン、袖の先が筒状になった服は蛮夷の服として忌み嫌われました。たとえそれが馬に乗るのに便利としてもです。服装の違いが中華と蛮族の違いだったのです。
 最も強く反対したのは、叔父の公子成でした。武霊王は根気よく説得してついに成を説き伏せます。こうして胡服騎射の騎兵隊が趙において初めて設けられました。趙軍は、これによってにわかに強大になりました。中山国を滅ぼし、林胡、楼煩などの異民族を制圧して北方に一大王国を築きあげました。

 武霊王が自慢の騎兵部隊を率い九原まで遠征したとき、南方にある秦の征服を考えました。このまま一気に南下し秦の首都咸陽を攻めれば、あっという間に決着がつくのではないかと。確かに当時の状況だったら秦を滅ぼすことはたやすかったでしょう。しかし、運命の女神は秦に微笑みます。いつでも秦を滅ぼせると考えた武霊王は、秦の国情を探るため蛮族の使者に紛れ込んで、秦王に拝謁します。使者が帰ったあと、秦側は蛮族とは思えない不敵な面構えの人物を不審に思い追手を差し向けました。しかし馬上の武霊王は、すでに国境を越えたあとだったのです。
 のちに強大化した秦に趙は滅ぼされるのですから、このときの武霊王の迷いは痛恨の選択でした。

 これほどの治績を遺した王ですから、通常なら武王と贈名されるところです。しかしそうならなかったのは晩年の悲劇にありました。武霊王は太子であった公子章を廃し、愛妾の子、公子何を太子に立てました。これが恵文王でした。しかし、その愛妾が亡くなると公子章が哀れに思えてきました。武霊王は王国を二分し半分を章に与えるつもりでした。
 廃嫡されて代という辺境に領地を与えられていた公子章は、この武霊王の意思を伝え聞きクーデターをおこして恵文王を倒しても武霊王は許すのではないかと考えました。
 あるとき主父(武霊王は形の上では息子恵文王に譲位していた)と恵文王が沙丘の離宮に行幸するという情報を仕入れた公子章は、軍隊を率いて恵文王を襲撃しようとします。離宮は公子章の軍隊に包囲されました。都邯鄲では、公子成と李兌が急報を聞き事態をどう収拾しようか悩みます。しかし現王である恵文王を救うのが筋であると考え、急ぎ軍を率い沙丘へ向かい、公子章の軍隊を破り恵文王を救い出しました。章は別の宮殿にいた主父の元に逃げ込みます。
 公子成らは、主父のいる宮殿を攻め、公子章を倒します。そこで彼らは考えました。このまま兵を引けば、自分たちは主父に誅殺されるのではないかと。主父が匿った章を殺し、しかも主父のいる宮殿を攻めたのですから。恐れを抱いた公子成らは、主父のいる宮殿を遠巻きに包囲しました。宮殿内では食べ物もなくなって雀の巣から卵をさがして食べるほどでした。そして包囲三ヶ月が過ぎ、主父は餓死します。
 英雄のあわれな最期でした。晩年を全うしなかったので武霊王と諡号されたのです。

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