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2009年3月 9日 (月)

世界史英雄列伝(26) 趙の武霊王 - 胡服騎射の英雄 -

◇趙の武霊王(趙雍) ?~BC295年(在位BC326年~BC295年)

?    趙の粛侯の子として生まれる。
BC326年 即位。
BC309年 郊外に野台を作ってそこから中山や斉を眺める。(征服するという意思表示)
BC307年 胡服騎射を取り入れる。
BC298年 それまで太子に立てていた公子章を廃して公子何を太子に立て、何に位を譲り、自らは主父と     なる。
BC296年 中山国を完全に滅ぼす。
BC295年 公子章が起こした『沙丘の乱』に巻き込まれて餓死。

 宮城谷昌光さんの小説『楽毅』で、主人公楽毅の祖国、中山を圧倒的な力で攻め滅ぼす武霊王は、悲劇的な最期とあいまって印象に残られた方も多いと思います。その強大な軍事力は胡服騎射によるものでした。

 古代中国でも、オリエントと同様、2頭から4頭立ての馬に二輪の車を引かせ、御者、弓、戈の三名が乗る戦車が戦いの主役でした。戦力はこの戦車一両に70~100名の従者がつく「乗」という単位で数えられます。百乗といえば、大体一万人の兵力を意味しました。天子のことを「万乗の君」というのもここからきています。
 ところで、オリエント世界のアッシリアが、遊牧民族キンメリア人の騎兵に苦しみ、それに対抗すべく騎兵部隊を創設したように、この中国でも趙の武霊王が胡服騎射の騎兵部隊を創ります。これは世界史上必然の流れだったのかもしれません。
 彼ら遊牧民族(キンメリア人、スキタイ、匈奴など)は、子供の頃から馬に慣れ親しみ、手足のごとく馬を扱えました。農耕民族との戦いでは、遠くから馬上で弓を放って攻撃し、不利になったら逃げます。敵が追いかけてくると振り返りざま矢を射掛けるのです。この「パルティア式射術」は彼ら遊牧騎馬民族の得意な戦法でした。敗走したと勘違いし、無防備で追いかける敵はこれによって大きな被害をだしました。

 趙という国は、中華でも北に位置し遊牧民族匈奴と接していました。しばしば侵入する匈奴の騎兵に戦車を繰り出しても、快速を利して逃げられるばかりです。武霊王は考えました。匈奴に対抗するには、それと同じ編成にすればよいと。
 軍の主力を騎兵にすることに対しては反対するものはいませんでした。しかし、問題は胡服のほうでした。それまで中華の民はゆったりした服装を着ていました。軍装においても同様で、匈奴が着ているような、ズボン、袖の先が筒状になった服は蛮夷の服として忌み嫌われました。たとえそれが馬に乗るのに便利としてもです。服装の違いが中華と蛮族の違いだったのです。
 最も強く反対したのは、叔父の公子成でした。武霊王は根気よく説得してついに成を説き伏せます。こうして胡服騎射の騎兵隊が趙において初めて設けられました。趙軍は、これによってにわかに強大になりました。中山国を滅ぼし、林胡、楼煩などの異民族を制圧して北方に一大王国を築きあげました。

 武霊王が自慢の騎兵部隊を率い九原まで遠征したとき、南方にある秦の征服を考えました。このまま一気に南下し秦の首都咸陽を攻めれば、あっという間に決着がつくのではないかと。確かに当時の状況だったら秦を滅ぼすことはたやすかったでしょう。しかし、運命の女神は秦に微笑みます。いつでも秦を滅ぼせると考えた武霊王は、秦の国情を探るため蛮族の使者に紛れ込んで、秦王に拝謁します。使者が帰ったあと、秦側は蛮族とは思えない不敵な面構えの人物を不審に思い追手を差し向けました。しかし馬上の武霊王は、すでに国境を越えたあとだったのです。
 のちに強大化した秦に趙は滅ぼされるのですから、このときの武霊王の迷いは痛恨の選択でした。

 これほどの治績を遺した王ですから、通常なら武王と贈名されるところです。しかしそうならなかったのは晩年の悲劇にありました。武霊王は太子であった公子章を廃し、愛妾の子、公子何を太子に立てました。これが恵文王でした。しかし、その愛妾が亡くなると公子章が哀れに思えてきました。武霊王は王国を二分し半分を章に与えるつもりでした。
 廃嫡されて代という辺境に領地を与えられていた公子章は、この武霊王の意思を伝え聞きクーデターをおこして恵文王を倒しても武霊王は許すのではないかと考えました。
 あるとき主父(武霊王は形の上では息子恵文王に譲位していた)と恵文王が沙丘の離宮に行幸するという情報を仕入れた公子章は、軍隊を率いて恵文王を襲撃しようとします。離宮は公子章の軍隊に包囲されました。都邯鄲では、公子成と李兌が急報を聞き事態をどう収拾しようか悩みます。しかし現王である恵文王を救うのが筋であると考え、急ぎ軍を率い沙丘へ向かい、公子章の軍隊を破り恵文王を救い出しました。章は別の宮殿にいた主父の元に逃げ込みます。
 公子成らは、主父のいる宮殿を攻め、公子章を倒します。そこで彼らは考えました。このまま兵を引けば、自分たちは主父に誅殺されるのではないかと。主父が匿った章を殺し、しかも主父のいる宮殿を攻めたのですから。恐れを抱いた公子成らは、主父のいる宮殿を遠巻きに包囲しました。宮殿内では食べ物もなくなって雀の巣から卵をさがして食べるほどでした。そして包囲三ヶ月が過ぎ、主父は餓死します。
 英雄のあわれな最期でした。晩年を全うしなかったので武霊王と諡号されたのです。

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