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2009年6月

2009年6月26日 (金)

坂本竜馬 - 維新回天の奇跡 -

 司馬遼太郎の「竜馬がゆく」はあまりにも有名です。歴史家の中には実際はそれほどの活躍はしなかったと指摘する者もいますが、私は小説の竜馬像の印象が深いため、こちらを信じたいと思います。
 以前、NHKで「薩長同盟における竜馬の活躍はなかった」と論じた番組が放映されました。長州藩家老の手紙を証拠としていましたが、藩の体面もあるので、はたして真実を書くだろうかと疑問に思った記憶があります。ケチをつければどうとでもつけられますし、歴史的事実も解釈によってどのようにでも曲げられるのではないでしょうか?
 むしろ、一介の浪人が天下を動かし維新回天の大業を成し遂げたことが日本史上の奇跡だったのです。

 幼年時代のエピソードは「竜馬がゆく」に譲るとして、嘉永六年(1853年)江戸の北辰一刀流・千葉定吉道場に入門したことは、竜馬にとって将来、有形無形に役立ちました。千葉門からは維新で活躍した志士を多く輩出しています。
 文久元年(1861年)武市瑞山の土佐勤王党に参加、二年後には脱藩して国事に奔走します。このころ勝海舟に師事、神戸海軍操練所建設に尽力しました。慶応元年(1865年)長崎で亀山社中(後の海援隊)を創設します。
 
 竜馬が普通の志士と違ったのは、勝海舟の薫陶を受けたからでしょう。勝は当時としては稀有の「日本人」としての意識をもった人物でした。竜馬は勝の影響で、大所からものを見、無私無欲の精神で行動しました。これが多くの人を惹きつけた理由でしょう。

 竜馬の業績として最大のものは、なんといっても薩長同盟締結でしょう。犬猿の仲の薩長を、まず物の面から結びつけるという発想は、現実主義者の竜馬でなければ出てこない発想でした。これが後の明治維新の原動力になるのですから、竜馬の偉大さは計り知れません。
 慶応三年(1867年)土佐藩との関係を修復した竜馬は、海援隊を創設します。「船中八策」を起草し、後藤象二郎を通じて大政奉還を実現しました。

 しかし、同年12月京都近江屋において陸援隊隊長、中岡慎太郎と共に何者かによって暗殺されます。
享年三十二歳。


 ざっと生涯を振り返りましたが、これが一介の浪人の事跡である事を考えると奇跡に近いと思います。司馬遼太郎も小説で書いていますが、竜馬は「天が動かしている」としか言えません。
 師の勝海舟と共に、竜馬がいなかったら明治維新はなかったと思います。そればかりか他のアジア諸国と同様欧米列強の植民地になっていたことは確実です。我々日本人は竜馬に感謝しなければならないでしょう。

 ところで竜馬の妻は楢崎竜ですが、私は千葉佐奈子と結婚して欲しかった。お竜さんファンには申し訳ないんですが、お似合いの夫婦とは言えません。竜馬に貰った形見の袴の袖を大切に保管し、生涯独身を通し、墓碑に「坂本龍馬室」と刻ませた佐奈子さんのけなげな生き方に感動しています。

 海援隊は人材を輩出していますが、特筆すべきは陸奥陽之助(宗光)でしょう。後年カミソリの異名を持ち外務大臣として活躍した彼でしたが、海援隊時代は皮肉屋で切れ者であるため、円満さに欠きトラブルを起こしてばかりいました。そんな陸奥を竜馬は欠点まで含めて「面白いやつ」とかわいがりました。陸奥も竜馬を深く慕っていたそうです。竜馬暗殺の時、京にいた陸奥は復讐を誓い、同士とともに当時暗殺の黒幕といわれていた紀州藩出身の三浦休太郎を天満屋に襲ったほどでした。後年、陸奥は竜馬についてよく懐かしがったそうです。

 また、師である勝海舟も「薩長連合、大政奉還、あれはみんな竜馬がひとりでやったことさ」と述懐しています。

日向伊東一族

 日向伊東氏は、鎌倉時代、曽我兄弟の仇討ちで殺された工藤祐経の子孫と言われています。鎌倉時代、日向の地頭職を得て下向、土着したそうです。ただ宗家は関東に残っており、南北朝時代、足利尊氏の正室赤橋(北条)登子の所領である穆佐院を守るため、尊氏の命で伊東祐持が下向。都於郡三百町を賜ったのが日向伊東氏初代となった経緯だそうです。

 南北朝時代の1336年、足利一門の畠山直顕が日向守護として下向します。伊東氏ら日向の豪族もこれに従い南九州の南朝勢力と戦いました。しかし、1351年中央で尊氏・直義対立(観応の擾乱)が起こると事態は複雑怪奇な方向に進みます。
 直義支持派の畠山直顕と、尊氏支持派の薩摩守護島津氏が対立し戦端を開きます。両派は生き残りのために南朝に付いたりして離合集散を繰り返しました。こうなってくると、それぞれが自分の所領を守るための戦いとなってしまい、北朝・南朝は関係なくなってしまいました。

 1352年、畠山直顕は日向諸将と大隈南部の豪族肝付氏を従え島津氏を討つべく大隈国に侵入します。一時は滅亡寸前に追い込まれた島津氏久は、なんと懐良親王の南朝に降伏しました。これによって宮方の援軍を得た島津軍がようやく加治木城から畠山勢を追い出すことに成功しました。

 幕府は、畠山と島津のどちらが味方か分からず豊後の大友氏や、九州探題の一色氏に問い合わせたそうです。これに対して大友氏は「文和元年以後はどちらが敵でどちらが味方かわからない」と答えたほどでした。

 このとき直顕は、飫肥城の伊東氏に援兵を求めますが、落ち目の畠山氏に反応は冷ややかでした。直顕は本拠の穆佐院高城に帰って再起を図ります。しかし、弱り目に祟り目で1358年、宮方の菊池武光が薩摩の島津氏久に参陣を促して、日向に侵入しました。宮方の大軍を見て支えきれぬと見た直顕は三俣院高城に籠城します。これを宮方が猛攻しついに城は落ちました。畠山直顕父子は行方をくらまします。

 畠山氏没落後、日向守護には島津氏が補されました。しかし日向諸将はこれに反発し伊東氏は露骨に敵対します。伊東氏五代、祐尭は日向中部から島津氏の勢力を撃退しました。島津氏と結んでいた土持氏を下すと伊東氏は日向において急速に強大化します。その子、六代祐国の代にはほぼ日向一円を制圧、幾つかの内訌の末、1536年十代義祐が佐土原城で家督を継ぐころには四十八の支城を日向全土に張り巡らせ全盛期となりました。

 義祐は、大隈の肝付氏と同盟し島津氏を攻めます。日向における島津氏の最後の拠点、飫肥城を攻略し悲願の日向統一を成し遂げました。しかし晩年、奢侈と中央の京文化に溺れ衰退します。そしてようやく国内を統一した島津氏は1572年、木崎原の合戦で逆襲します。島津義弘は十倍以上の伊東勢を完膚なきまでに破りました。1577年には、島津氏の攻勢に耐えかねて義祐は逃亡します。三男祐兵は京に上って羽柴秀吉に仕えました。

 1587年、九州征伐で道案内役を務めた功により祐兵は再び飫肥城主に返り咲きます。1600年の関ヶ原でも東軍に組し5万7千石の所領を安堵されました。飫肥藩伊東氏は幕末まで続きます。なお、天正遣欧使節の一人、伊東マンショは義祐の孫にあたります。

鬼の城(きのじょう)と温羅伝説

 岡山県総社市、吉備高原南端の山上に、鬼の城(きのじょう)と呼ばれる朝鮮式山城の遺跡があります。いつ、誰が築いたかも不明で文献も遺されていません。伝説では温羅(うら)という鬼が築いたといわれています。

(温羅伝説)
 崇神天皇のころ、吉備の国に空を飛んでやってきた者がいた。百済の王子で名を温羅(うら)といい、新山に城を築いて都へ向かう荷駄や船を襲い、婦女子をかどわかした。人々は恐れ、そこを鬼の城と呼んだ。
 大和朝廷は、温羅を退治するため孝霊天皇の王子吉備津彦命を派遣した。命は吉備の中山に陣を敷き片岡山に石盾を築いて戦いの準備をした。合戦が始まると命は弓を射た。しかし、温羅が石を投げ返すため、矢はことごとく撥ね返された。そこで命は同時に二本の矢を射た。一本は石に撥ね返されるが、もう一本は温羅の左目に命中した。
 驚いた温羅は雉に姿を変え逃げ出した。すると命は鷹に変身して追いかける。温羅は、鯉になって、自分の左目から血が流れて川になった血吸川に入って逃げた。今度は命は鵜になって、ついに温羅を捕まえた。温羅は降参し、吉備の冠者の称号を命に献上し、処刑された。温羅の首は吉備津神社のお釜殿の下に埋められ、天災が起こる前には、うなり声をあげて知らせるという。これが、吉備津神社につたわる釜鳴神事のおこりである。



 どうです?興味深いでしょう。これは何らかの事実に基づくと思います。調べてみると、いろんな説があるのですが、一番しっくりした説は、この話は大和朝廷の古代吉備王国侵略を表しているのだそうです。百済系の渡来人でたたら製鉄の技術者集団がこの地に住み、鬼の城を築き、吉備の人々と交流したのではと言われています。地元では意外に温羅の人気が高いのも、その傍証だそうです。むしろ侵略者は吉備津彦命(=大和朝廷)ではなかったでしょうか?
 古代吉備王国と温羅の関係は不明ですが、温羅が王国の支配者か、あるいは相当関係の深い人物だったろうと推定されます。
 朝鮮式山城というと、白村江で敗北した大和朝廷が、唐の侵略を怖れて日本各地に築いた城で、筑前大野城などが有名ですが、不思議な事に鬼の城のことは日本書紀にも何の記述もないそうです。他の城の記述があるにもかかわらずです。
 ということは、大和朝廷に関係ない人物の築城と推定するのが自然です。古代吉備王国の浪漫、『鬼の城』いちどは行ってみたいところです。

九頭竜川の合戦 - 朝倉氏、戦国大名への試練 -

 応仁の乱で越前守護斯波氏の武将として活躍した朝倉孝景は、敵側である細川氏の誘いを受け、主家斯波氏に反旗を翻します。同じく越前守護代であった甲斐氏と共同し越前から斯波氏を追い出しました。
 その後、甲斐氏との抗争にも勝利し、朝倉氏は越前支配を確立します。これが戦国大名朝倉氏の始まりでした。

 幕府は、朝倉氏の実効支配を受け越前守護に任じます。しかし面白くないのは斯波氏や、加賀に追い出された前守護代甲斐氏でした。これら反朝倉勢力は、越前内の一向宗大寺と結びついて反抗の機会を待っていました。おりしも、加賀は一向一揆が守護の富樫氏を滅ぼし『百姓の持ちたる国』と化していました。一向宗も越前の本願寺領国化を狙っていましたので、両者の利害は一致、20万もに及ぶ大軍が越前国境を越えました。時に1506年です。

 急報を受けた時の当主、三代貞景は対応に苦慮します。朝倉方は最大限動員しても2万足らず、敵は一揆勢とはいえ、10倍の大軍です。朝倉方は、一族で武勇に名高い越前敦賀城主、教景(のちの宗適)を総大将に任命しました。

 朝倉方は、多勢に無勢で押し捲られ最後の防衛拠点、九頭竜川の線まで下がりました。ここを突破されると本拠一乗谷まで一直線です。一揆勢と朝倉軍は中角、中ノ郷、鳴鹿の三箇所の渡河点をめぐって激戦を繰り返しました。ここで教景は思い切った策に出ます。強引に手勢を率い中ノ郷の渡河点を逆に押し渡り一揆勢主力に斬りこみをかけました。この教景の武勇に一揆側は大混乱に陥ります。
 思いもかけない教景の攻撃で、士気が崩壊した一揆勢は大軍であるために、回復もならず浮き足立ちます。この機会を逃さず朝倉方は大攻勢に転じました。たまらず一揆勢は壊走しました。朝倉方の大勝利です。朝倉教景の武名は全国に轟きました。
 出家して「宗適」と号した教景は、貞景、孝景(初代とは別人)、義景と三代に仕え一族の重鎮として宗家を補佐します。1555年、加賀出陣中に病を発した宗適は、そのまま帰国して没します。享年七十九歳。

 以後、名補佐役のいなくなった朝倉氏は徐々に衰退し1573年、織田信長の攻撃をうけ滅亡しました。

阿蘇神社と阿蘇一族

 熊本といえば阿蘇山が一番有名です。この世界最大級のカルデラは9万年前にできました。600立方キロメートル(ほぼ富士山全体に匹敵)という途方もない噴出物で、山頂が跡形もなく吹き飛んだといいますから、噴火前にどれくらいの標高があったか想像もつきません。火砕流は九州の半分を覆い、冷えてできた火砕流台地は、現在の宮崎県高千穂から大分竹田にも広がっています。
 東西18キロ、南北25キロのカルデラの中に、いくつもの市町村を含んでいる(カルデラ内だけで阿蘇郡という一つの郡がある)のですから、知らない人には想像もつかないでしょう。
 カルデラ内には、湧水が豊富で、平坦な地形のため古くから人が住み、農業が発達していました。

 ここに伝説があります。大昔の外輪山は切れ目がなく、中は巨大な湖になっていたそうです。阿蘇の神、健磐龍命(たていわたつのみこと)が一部を蹴破って水を流し、現在のカルデラ平野ができたとのこと。その場所、立野は熊本平野から阿蘇地方に入る玄関口になっています。

 健磐龍命を祭ったのが、肥後一ノ宮「阿蘇神社」です。創立は孝霊天皇九年(紀元前282年)と伝えられますが、もとより伝説の域をでません。ただ、少なくとも古墳時代には阿蘇国造という豪族がいたのは確認されています。おそらく神官阿蘇一族はその後裔ではないかと推定されています。

 日本史に詳しい方なら、信濃の豪族諏訪氏が、諏訪大社の大祝から武士団化し戦国大名になったことをご存知かと思いますが、ここ阿蘇氏も同様でした。肥後の有力武士団として南北朝期には、菊池氏と並び九州南朝勢力を支え活躍しました。戦国時代に入ると、肥後守護家菊池氏の衰退をながめつつ、肥後・日向の阿蘇神領を中心に勢力を拡げ、最盛期には三十六万石の領土を誇ったといいます。

 しかし、隣国の竜造寺、島津の侵略を受け、最後は1585年、阿蘇惟光のとき、島津義久の軍勢の攻撃によって本拠浜の館と岩尾城を落とされ逃亡、豊臣秀吉を頼ります。九州征伐後、神官職は認められますが、大名としての領土は取り上げられここに戦国大名阿蘇氏は滅亡します。しかし、かえってそのことによって一族は生き残り明治に到りました。阿蘇氏は、男爵を授けられます。現在の神官もその子孫だそうです。

源氏一族の内訌と平氏の台頭

清和天皇
  ┃
貞純親王
  ┃
 源経基
  ┃
  満仲
  ┣━━┳━━┓
  頼光 頼親 頼信(河内源氏祖)
  ┃       ┃
摂津源氏    頼義
          ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━┓
          義家                       義綱  義光      
       ┏━━╋━━━━━┳━━━━━━━┳━━━━┳━━┓      
       義宗 義親      義国         義忠    義時 義隆   
           ┃        ┣━━━━┓          ┃   ┃ 
          為義      新田義重 足利義康     石川義基 若槻頼隆
           ┃
          義朝
                           
 私鳳山が、日本史資料のベースとしているのは中公文庫『日本の歴史』シリーズです。ちょうど後三年の役について調べていたら、その後の源氏一族の血なまぐさい内訌の文章を見つけました。
 これは堂上貴族たちの陰謀によるものでしたが、それによって源氏の勢力は一時的に大きく衰えました。日本史の授業ではおそらく習う事のない話、ご紹介しようと思います。

 1091年、郎党の田畑をめぐって源義家が弟義綱と都で合戦騒ぎを起こそうとしていた最中、朝廷から諸国の百姓に田畑を義家に寄進する事を禁じる宣旨が出されました。
 喧嘩両成敗なら、弟義綱にも同様の処分があってしかるべきでしたが、こちらは何のお咎めもありませんでした。

 武士の棟梁として『天下第一武勇の士』と讃えられた義家と、弟義綱では声望に天と地ほどの差があったのは分かるとしても、この処分は一方的過ぎました。明らかに朝廷は源氏の勢力を削ぐ方向に向かっていました。それまで、貴族の番犬と思われていた武士が、所領を拡大させることによって貴族と対抗できる勢力に成長しつつあることの裏返しでもありました。

 ただ、このままでは義家の不満は爆発しかねません。1098年朝廷は義家に昇殿を許し、貴族の仲間入りさせます。しかし同時に、義家に代わる勢力として弟義綱にたいし優遇策をとりはじめます。
 1093年、出羽で反乱がおこります。反乱自体はたいしたことなかったのですが、追討使に任ぜられた陸奥守源義綱は、これを平定し賊の首及び降人らを京都に送ります。都中が義綱の武勇に興奮の坩堝と化しました。その夜に、早くも上皇から使者が来て臨時の叙位があり従四位下に叙せられます。さらに陸奥守から美濃守に転じました。
 これは、後三年役で苦労して平定しながら、朝廷から一顧だにされなかった兄義家の場合とは雲泥の差でした。これをみても朝廷が源氏一族を分裂させようとしている事が分かります。

 1106年、源義家は六十八歳の生涯を終えます。義家が源氏宗家の正嫡として定めていた四男義忠が刃傷沙汰に巻き込まれて1109年二十六歳で死亡すると、源氏一族は棟梁の座をめぐって争います。義家の長男義宗は早世し、後を継ぐべき次男義親は粗暴の振る舞いがありました。義綱は棟梁の地位を虎視眈々と狙っていました。
 しかし、義忠暗殺の下手人の一人として、義綱の三男義明の名前が上がりました。このことで義綱自身も追討されることとなります。追討使に任じられたのは義親の長男為義でした。

 義綱は追討を怖れて東国に奔りますが、長子義弘、次男義俊、四男義仲、五男義範、六男義公はことごとく自害して果てます。都に隠れていた三男義明も、追手に見つかって抵抗の末殺されました。義綱自身は上皇の庇護があったので命だけは助けられ佐渡に流されました。これによって義綱一族はほとんど滅亡します。一方義家の弟義光も、義忠暗殺に関与していたふしがありましたが、実行者を消すことによって真相を闇に葬ります。

 追討使為義は、この功により左衛門尉に任ぜられますが、このときわずか十四歳でした。源氏一族はこれによってほとんど瓦解に等しい損害を受けました。時の権力者白河上皇は源氏の壊滅を傍観していました。ばかりか、源氏の内訌に同族を追討使に任じて事件を深刻化し、それを早めさえしていたのです。代わって台頭してきたのは伊勢平氏でした。平正盛は、上皇に取り入ることによって信頼を得、上皇自身も源氏に代わる従順な武力を求めていたため、両者の利害が一致したものでした。

 これが、後々の源平の争いの遠因となりました。そして後に源頼朝が鎌倉に幕府を創ることによって貴族政治は終りを遂げ、武士の時代が始まっていきます。

最後の勝利者 - 奥州藤原氏初代 藤原清衡 -

 何年か前、NHK大河ドラマで『炎(ほむら)立つ』(原作・高橋克彦)という奥州藤原氏を描いた作品があったのを憶えていますか?
 私は、その中で藤原清衡を演じた村上弘明の大ファンなんで、興味深く見ていました。ところで、この藤原清衡という人、普通なら広大な奥州の支配者にはなれない境遇の人でした。しかし、運命のいたずらから奥州を手に入れることができました。

 前九年の役で、奥州・奥六郡の支配権を手に入れたのは、源頼義ではなく援軍として頼義を援けた、出羽の清原氏でした。清原武貞は恩賞として安部頼良の娘を賜ります。しかしこの娘はすでに結婚していて幼子がいました。夫は在庁官人でありながら安部氏の反乱に加担した亘理権大夫・藤原経清でした。
 この幼子こそ、後の清衡です。

 出羽についで、陸奥奥六郡の支配者になった清原氏でしたが、前九年の役で安部氏を挑発しながら戦いのあと、朝廷に勢力拡大を怖れられ出羽守に任ぜられるだけにとどまった、源氏の棟梁、源義家は面白くありませんでした。もっとも欲していた「鎮守府将軍」の地位を清原武則に持っていかれた彼は、虎視眈々と機会を待っていました。

 安部氏の娘は武貞との間に、家衡という子を設けます。清原氏は武則、武貞と続いて清衡の異母兄真衡が当主になっていました。そんな中、源義家が陸奥守として多賀城に赴任します。
 清原氏の中で、前九年の役の恩賞に対する不満から、叔父の吉彦秀武(きみこのひでたけ)が乱を起こします。秀武は清衡・家衡の兄弟に「このままでは、お前たちもいずれ兄真衡に滅ぼされるぞ」とそそのかします。二人は秀武の誘いに応じ挙兵しました。そんな中、秀武討伐に向かっていた真衡が急死しました。
 これをチャンスと見た義家は、清原氏の内訌に介入し、清衡・家衡の兄弟に奥六郡の遺領を配分しました。後の内紛の種を残すため、わざと立場の悪い清衡に豊かな胆沢・江刺・和賀の三郡を与え、嫡子である家衡に残りを与えました。出羽の本領を継いだ家衡でしたが、義家がなにかと清衡を贔屓して自分をないがしろにしているのが不満でした。

 ここで吉彦秀武がまた登場します。家衡をそそのかして清衡を討たせました。清衡の屋敷を急襲し妻子眷属を殺害した家衡でしたが、清衡は危機一髪、逃れて義家のもとに庇護されます。義家にとっては思う壺でした。清衡を助けるという大義名分を得た義家は兵を集め、清原家衡を討ちます。清衡の下には、清原氏の支配で不満を持っていた安部氏の旧臣たちが集まりかなりの兵力となりました。源氏の兵とあわせ三千騎となった大軍は、奥六郡を制圧し出羽に入りました。時に1086年、これが「後三年の役」の始まりでした。

 家衡は初め要害の「沼の柵」に籠もりますが、大きな勢力を持っていた叔父、清原武衡がこれに加担し本拠「金沢の柵」に籠城することを勧めたため、こちらに移りました。攻防は地の利にあかるい清原軍が有利に進め、源氏方は苦戦しました。義家は、朝廷に何度も援軍を頼みますが、これを私闘とみた朝廷は無視します。

 そんな中、なんと吉彦秀武が投降し源氏方に加わりました。戦いの張本人でありながら、行く末を見極めこちら側についたのでした。数万にも膨れ上がった源氏方は「金沢の柵」を包囲し続けます。兵糧が尽きた籠城軍は、夜陰に紛れて逃亡を図りますが捕らえられました。家衡は処刑、叔父武衡は戦死し、ここに後三年の役は終結します。

 しかし、あくまで私闘と見た朝廷は恩賞を拒みます。義家は陸奥の砂金を一手に押さえていたため、しかたなくそれを味方の恩賞に当てましたが、戦いで何一つ得ることができなかったため、腸が煮えくり返る思いでした。ただ、義家が私財を投げうって恩賞に当ててくれたことに関東武士たちは感激し、以後関東の地は源氏の地盤となります。

 こうして、空白となった清原氏の遺領は、ただ一人生き残った清衡のものとなりました。清衡は亡き父の姓を名乗り、藤原清衡となります。奥州藤原氏の始まりでした。
 苦労人の彼は、朝廷との関係を重視し貢物を贈り続けました。源氏の勢力拡大を怖れる朝廷もこれに応じ、清衡を鎮守府将軍に任じます。
 清衡は、首都を平泉に定め大寺院の建設に励みます。有名な中尊寺の建立を見届け、1128年、波乱の人生を終えます。享年73歳。
 以後、源頼朝に滅ぼされるまで80年にわたり奥州藤原氏は栄えました。

『米百俵』と小林虎三郎

 今、『日本を変えた44人の改革者』という本を読んでいます。長岡が生んだ二人の偉人、一人は河井継之助、そしてもう一人が小林虎三郎でした。
 「米百俵」の話は、なんとなく知っていたのですが、この本で彼の人となりを詳しく紹介してあったので興味深く読みました。

 小泉首相の2001年の所信表明演説で、『痛みを伴う改革』の例えとして登場したのでご存知の方も多いと思います。小林虎三郎は、佐久間象山門下で吉田松陰(寅二郎)と並んで二虎と評されるほどの俊英でした。虎三郎は象山の影響を受け、開国論者でしたが、主君牧野忠雅の怒りに触れ10年間謹慎生活を強いられます。その間、片目を失明したり、結核になったりして死の淵を彷徨いました。

 幕末の長岡藩は、河井継之助が実権を握り改革を推進していきました。軍備を増強し新政府軍との衝突もやむなしとする河井に、虎三郎はことごとく反対します。和平派として対立しますが、結局、長岡藩は戦争に突入、城下は焦土と化し、藩士の三分の一が戦死するという凄まじさでした。
 藩が存亡の危機に立ったとき、小林虎三郎はようやく藩に登用されます。戊辰戦争で長岡藩は7万4千石の領土を、わずか2万4千石にまで削減されました。明治初年、長岡藩士は、戦争の傷も癒えぬまま貧乏のどん底にあえいでいました。

 そんなおり支藩の三根山藩から米百俵が届きます。これを知った藩士たちは、喜んで長岡藩大参事だった虎三郎のもとに行って、これを分けてくれるように頼みました。
 しかし、虎三郎はきっぱりと拒絶します。「荒廃した長岡藩を復興するには有為の人材を育成する事が第一である。わたしは、これをもとに学校を新設するつもりだ。」
 虎三郎の説明を聞いた藩士たちは激怒しました。虎三郎は「どうか将来のために我慢してくれ」と、必死で藩士たちを説得します。彼らも、虎三郎の藩を思う気持ちと熱意にうたれ、ついにこれを承諾しました。

 虎三郎は、富国強兵が国家のとる道だと認識しながらも、そのためには国民の強化が必要であると考えていました。つまりどれだけ熱心に学業に勉めているものが多いか、で決まるという考えです。また、歴史教育こそ教育の根幹だと認識し、日本史には特に力を入れました。さらに最先端の学問、物理学・化学・哲学なども教え、多くの人材を輩出しました。もっとも有名なのは、後に連合艦隊司令長官になった山本五十六です。

 このような、立派な業績を残した小林虎三郎の話を、小泉さんは軽々しく言うべきではありませんでした。痛みを伴う改革で、何が良くなったのでしょうか?将来どのように良くなるのでしょうか?
 改革を述べるのは結構。しかし小泉さんに、小林虎三郎のような命をかけた使命感がはたしてありましたか?『米百俵』の話をする以上は、そこまでの覚悟がなければなりません。

 今の世に、小林虎三郎のように命をかけて教育を改革する、という気概をもった人物がはやく出てきてくれることを、切に願っています。

「行いは俺のもの、批判は他人のもの」 勝海舟

 童門冬二さんの『男の器量』を読むと、歴史上名を残した人の有名な発言が多く書かれています。
 そのなかの一つ、勝海舟の言葉だそうです。

 明治維新後、福沢諭吉が勝海舟を痛烈に批判したことがありました。
 「忠臣は二君に仕えずという。ましてそれが高級職であった場合はなおさらだ。にもかかわらず貴方は徳川幕府の敵である明治新政府に仕えている。その考えはいったいどういうものか、はっきり教えて欲しい」
 これは公開質問状として出されました。ながらく海舟は答えなかったそうですが、やがて冒頭の言葉をつぶやいたそうです。海舟にも言い分があったと思いますが、説明すれば長くなる。また、説明すればするほど、言い訳がましく聞こえる。江戸っ子である海舟は、面倒くさくなって、そう答えました。

 勝海舟は若い頃から、徳川幕府の臣という意識は薄かったそうです。彼はアメリカに行った経験から、日本全体の将来を憂い、幕臣などという立場から超越したところで行動していました。
 だから、もともと自分を暗殺しにきた坂本竜馬を魅了し弟子にしたのだと思います。一見クールに見えても、実は江戸っ子らしく義理人情に厚かったそうです。だからこそ、坂本竜馬たち、多くの弟子に慕われ彼らを育てる事ができたのだと思います。

 勝海舟に言わせれば「俺は日本人で別に徳川人じゃない。仕えているのは日本の国だ」と言いたかったのかもしれません。福沢諭吉よりは、海舟のほうが現代人に近い感覚をもっていたのでしょう。

赤松円心 - 煮ても焼いても食えない男 -

 太平記の前半のクライマックス、播磨の国、白旗城で赤松円心が新田義貞の軍勢を釘付けにします。その間に、九州で勢力を回復し、捲土重来した足利尊氏の大軍が、海陸から攻め寄せました。
 宮方は、湊川の合戦で大敗し京都を明け渡すことになりました。赤松円心の功は大きいものでした。尊氏が勢力を回復するまで、宮方の攻撃を一手に引き受けたのですから。
 一説では、尊氏に光厳上皇の擁立を献策し、北朝成立のきっかけをつくったのも円心とか。尊氏は、この功に報いるため、本国播磨のほかに、備前、美作の守護職を与えました。以後赤松一族は、侍所所司に交代で補せられる赤松・一色・山名・京極の、いわゆる四職家の一つとして幕府に重きを成します。

 ところで、赤松則村入道円心は、一色氏ら足利一門の出身ではなく、さらには初めからの武家方でもありませんでした。その出自は、村上源氏と称していますが、そのような高貴なものではなく、鎌倉末期にあらわれた楠正成、名和長年のような非御家人の『悪党』と呼ばれる新興勢力ではなかったかと言われています。

 もともと幕府に不満をもっていた円心は、護良親王に自分の三男、則祐を側近として差し出し親王方として1333年、元弘の変で、護良親王の檄に応じて挙兵します。
 六波羅探題は、これを討伐するため備前守護、加持氏の軍勢を差し向けますが円心に敗れます。赤松勢は東上の勢いを示し、六波羅勢二万がこれに当たりました。しかし、円心のゲリラ戦法にまたしてもやられ、一進一退の攻防ながら、しだいに追い詰められていきます。
 円心は、丹波で挙兵した足利高氏(尊氏)と協力してついに鎌倉幕府の出先機関、六波羅探題を攻め滅ぼすことに成功しました。おなじころ関東でも新田義貞が鎌倉を落とし、これで鎌倉幕府は滅亡、後醍醐天皇による建武の新政が始まりました。

 当然、円心はその功により播磨の守護を賜るものと考えていました。しかし恩賞は作用庄のみ、頼みの護良親王も失脚したため、怒って播磨に帰ってしまいます。宮方は惜しい事をしました。円心を怒らせたばかりに、最終的には京を失うのですから。
 円心が重用されなかったのは、後醍醐天皇が警戒する護良親王派であったほかに、楠正成らと違い、狡猾さ、ふてぶてしさを円心から感じていたこともあったのかもしれません。
 
 円心は当然のごとく、尊氏に接近します。これは宮方にとって致命的でした。初めは尊氏を京から叩き出した宮方も、円心が播磨で時間を稼ぐうちに、九州を統一し逆襲に転じた足利軍に敗れました。
 円心は、この困難な役目を、自ら買ってでました。それだけ宮方に対する恨みが深かったのでしょう。
 円心は足利尊氏と、弟の直義が対立した『観応の擾乱』でも、尊氏を一貫して支持します。尊氏という男は、この煮ても焼いても食えぬ男の心を捕った唯一の存在だったのかもしれません。
 円心は、尊氏に背いた庶子で直義の養子になっていた足利直冬討伐の軍を編成中、京にて没します。享年74歳。
 子孫は、『嘉吉の変』で曾孫の満祐の時代、一時断絶しますが、まもなく再興。播磨各地に根を下ろし戦国時代を迎えます。別所氏や小寺氏も皆、赤松氏の子孫でした。

箱館戦争 - 蝦夷共和国の夢 -

 明治元年、江戸無血開城を不服とした軍艦奉行、榎本武揚は開陽丸を旗艦とする幕府艦隊8隻を率いて仙台へ向かいました。そこで旧幕府軍を糾合し戦おうとしたのですが、当の仙台藩が新政府に降伏したため、やむなくここを離れます。
 現地で新撰組ら旧幕府軍を吸収、新天地を求めて北海道へ針路をとりました。旧幕府軍は、鷲ノ木から3000の兵力で上陸。大鳥圭介、土方歳三の二手に分かれて函館(当時は箱館)に進軍します。
 10月22日、峠下の戦いで箱館府軍を撃破、10月26日には五稜郭へ無血入城しました。蝦夷地には唯一、松前藩がありました。新政府側だったため、降伏を勧告しますが拒否されます。土方を大将とする700の軍勢が、松前城を攻め海上からの砲撃支援を受けて落城させます。松前藩主は青森に逃亡しました。この攻略作戦の途中、開陽丸が暴風雪にあい座礁、10日後に沈没します。これによって制海権を維持できなくなり、新政府軍の上陸を許す事になりました。

 ともかく、榎本らは1869年1月「蝦夷共和国」設立を宣言します。榎本は選挙により総裁に就任しました。諸外国にも認められ独立政権としての体裁を整えます。
 しかし、泥縄式の建国は財政の困難をもたらしました。貨幣を偽造したり売春婦にまで課税して、住民の反感をかいます。しかも、箱館在住の豪商から金品を徴収しようとしますが、これは土方歳三の強硬な反対にあって中止になります。土方はこの戦いの行方が見えていて、なにも悪評を残すこともあるまいと考えていたそうです。それでも住民の不信感は拭えませんでした。蝦夷共和国の運命はすでに傾いていたのです。

 共和国軍は、新政府艦隊が宮古湾に停泊しているという情報を得ると、これを奇襲します。(宮古湾開戦)しかし、ガトリング砲の強力な反撃にあい失敗しました。撤退中に高雄を失うという悲劇もおまけにつきます。

 4月9日、新政府軍2000が乙部に上陸しました。まもなく松前城を回復し、箱館に進軍します。大鳥圭介率いる500は、木古内口で敗れますが、搦め手の二股口を守備していた土方隊300はしばしば新政府軍を撃破しました。しかし本道の友軍が敗れたため、やむなく撤退し、戦いは五稜郭をめぐる攻防に移りました。
 5月11日、箱館総攻撃開始。弁天台場では新撰組の生き残りが孤立していました。土方は、仲間を助けようと一本木関門を出撃。陣を守る官軍は「何者か?」と尋ねると、馬上の土方は、
「新撰組副長、土方歳三。参る!」と単騎斬り込みました。乱戦の中、土方は敵弾に倒れます。土方歳三の遺体は、他の戦死者と共に五稜郭に埋葬されたとも、別の場所に安置されていたとも言われています。

5月14日、弁天台場降伏。海軍も新政府艦隊に攻撃され全滅しました。5月16日、千代ヶ岡陣地全滅。新政府軍参謀、黒田了介(清隆)は、榎本に降伏を勧める使者を出します。
 黒田に好感を持った榎本は、『海律全書』を使者に託し「この本はオランダから持ち帰った大切な本です。戦禍で焼けるのは惜しい。どうか日本のために役立てて欲しい。」と言わせます。
 ますます、黒田は感じ入りました。榎本を殺すのは惜しいと思い、再度降伏を勧める使者を出します。
 榎本もまた、黒田の人柄にうたれ、部下の命と引き換えに降伏を申し出ました。5月18日、この日をもって蝦夷共和国は滅びました。

 その後、収監された榎本でしたが、極刑をのぞむ長州に対し、黒田は懸命に助命嘆願運動を行いました。その後、西郷まで動かし、ついに明治5年、榎本は釈放されます。その後、榎本は明治8年にはロシアとの間に「千島・樺太交換条約」を締結。逓信大臣、農商務大臣を歴任しました。
 黒田了介の目も確かなら、それに応え日本のためにつくした榎本も立派でした。

平安時代最大の悪女 - 薬子の変 -

 世界史上、悪女といえばネタに事欠きませんが、わが日本を見た場合、世界史でいう意味での悪女といったら、この藤原薬子しか、すぐには思い出せません。何しろ、上皇を担いで現天皇に謀反をおこし、国家を乗っ取ろうとしたのですから。

 あまり皆さんはご存知ないと思いますが、けっこうエグイ人なんです。古代の権力者、藤原不比等の子がそれぞれ家を建て北家、式家、南家、京家と分かれたのは、日本史の授業で憶えておられる方もいらっしゃるでしょう。まず南家は藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱で奈良時代末に滅びます。京家は振るわず、平安時代初期、残ったのは北家と式家でした。

 藤原薬子は、この式家の藤原種嗣の娘として生まれます。同じ式家の中納言縄主と結婚し三男二女ももうけました。ここまでなら平凡な一生なのですが、長女が時の平城天皇の妃となった事から運命がおかしな方向に進みます。
 なんと、平城天皇は娘でなく母親の方を気に入り、寵愛します。いくら早婚の時代とはいえ、年頃の娘がいる母なら、三十歳は越えていたでしょう。よほどの美人だったのでしょうか?イメージ的には女優の黒木瞳さんのような感じだったのかもしれません。娘は矢田亜希子、平城天皇は伊藤英明ですね(笑)。どっかのドラマみたい。冗談はさておき、薬子は天皇に取り入り、政にくちばしをはさみだします。その兄仲成も重用され、兄妹で国政を壟断しました。
 809年病弱な平城天皇は、位を弟嵯峨天皇に譲り奈良平城京に退きます。おもしろくない兄妹は上皇となった平城を焚きつけ、嵯峨天皇から位を奪い返し平城京に遷都するよう画策します。宮廷内にはいまだに薬子らと気脈を通じている貴族たちも多く、陰謀は成功するかに見えました。
 810年、平城上皇は平城京に遷都令をだします。天皇と上皇の関係では、当時も上皇が上と考える者たちも多かったのです。
 嵯峨天皇は、急報をうけると直ちに立ち上がります。上皇側の機先を制し、薬子の官位を剥奪しました。ついで京に残っている上皇側の貴族を次々と逮捕します。
 これを知った上皇方は強硬手段に訴え、挙兵しました。上皇と、輿に乗った薬子は兵を率い、東国に向かい大軍を集めようとします。古代の壬申の乱の故知に倣おうとしたのでしょう。
 上皇が東国に入れば、天皇方は決定的に不利になります。嵯峨天皇は坂上田村麻呂らを遣わして、東国へ通じる関を閉ざすべく軍隊を出しました。
 行く手を天皇方の大軍がさえぎっているという報告をうけた平城上皇は、怖気づいて軍を平城京に返します。田村麻呂らの軍は、これを追って、事件の元凶の一人、藤原仲成を捕らえました。仲成は京に送られ射殺されます。企てが失敗に終わったことを悟った平城上皇は出家して罪を逃れようとしました。絶望した薬子は、毒を飲んで自殺します。

 こうして、平安時代初期を震撼させた「薬子の変」は終結しました。藤原式家種継流は滅び、残りは北家のみになりました。北家の当主、冬嗣は嵯峨天皇側に組し、このときも功を上げたそうです。時勢を冷静に見極める目を持っていたのでしょう。冬嗣は、蔵人頭から最終的には左大臣まで出世し、北家隆盛の基を築きました。この子孫から有名な藤原道長が生まれ、五摂家が誕生することになります。

周防大内一族 - 西国の雄 - (後編)

 大内義隆は、自ら先頭に立って戦に赴くタイプではありませんでした。しかし大内家は大国であったので重臣陶興房、杉興連ら重臣たちに戦を任せ、じぶんは本拠山口で安穏の日々をおくれたのです。

 戦乱を逃れて京から公家や文人たちが山口に逃げ込みます。義隆は彼らを保護し、ために山口は京文化が花咲きました。

 一度は父に倣い、上洛を試みますが情勢はそれどころではありませんでした。もし上洛できても、尼子氏に領国を奪われて本も子も無くなってしまいます。
 1550年、義隆に面会したフランシスコ・ザビエルは山口の繁栄ぶりを書き記しています。しかし、義隆の戦績は惨憺たるものでした。1540年の吉田郡山城の戦いでは勝利するも(ほとんどは毛利元就の活躍ですが)、その余勢をかって尼子氏の本拠出雲国月山冨田城を攻めた攻囲戦では、逆に内通者が続出し大敗してしまいます。


 この敗北ですっかりヤル気を失った義隆は、政治的関心をうしないもっぱら文人的傾向を強めます。奸臣相良武任らを重用し、武断派の陶隆房らは遠避けられました。これには武断派の面々は強い不満を持ちます。

 1551年、周防守護代陶隆房がついに兵を挙げました。内藤氏ら重臣たちの誰も義隆を助けようとはしませんでした。家臣の心はすでに離れていたのです。孤立した義隆は、山口を棄て長門に逃亡します。逃亡途中の長門大寧寺で陶軍に追いつかれ、自害して果てました。享年四十五歳。ここに栄華を誇った大内氏は滅亡します。

 
 陶隆房は、大友氏から養子にはいっていた義長を大内家当主に据え、自身は晴賢と改名し大内家の旧領を支配します。そのころ安芸では、ドサクサに紛れて毛利元就が国内を統一していました。1557年、元就は大内義隆のともらい合戦と称して、陶晴賢に挑みます。有名な『厳島の合戦』で、晴賢を滅ぼし大内氏の旧領はそっくり元就の手に入りました。やがて元就は、出雲の尼子氏も滅ぼし中国地方を統一し大勢力になるのです。

周防大内一族 - 西国の雄 - (前編)

 この前尼子氏を紹介したので、今回はそのライバル、周防の大内氏を書きます。

 大内家の始祖伝説では、百済の聖明王の王子、琳聖太子が周防国多々良浜に着き、その子孫が周防国大内村に住んだ事から、姓を多々良、氏を大内としたとされています。しかしこれは、よくある家系伝説というべきもので、周防国の在庁官人で勢力を蓄えた一族であろうといわれます。

 多々良(大内)氏は、源平合戦の時には源氏に属して戦います。鎌倉時代を通して周防に勢力を扶植し、建武の新政では大内長弘が周防守護に任ぜられます。南北朝時代も、はじめは南朝に属し、大内弘世は北朝方の周防守護、鷲頭弘直を滅ぼし周防を統一します。さらに長門に進出して北朝方守護厚東氏を追い防長二州を大内氏が統一すると、足利尊氏の誘いを受け、防長二州の守護にするという条件で、あっさり北朝方に寝返りました。この弘世の時代に本拠を山口に移します。

 その子、義弘は北朝方の有力武将として九州、山陰で武功を上げ周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の六ヶ国の守護に任ぜられました。この義弘はなかなかの野心家で、将軍足利義満に不満を持つ鎌倉公方足利氏満と結び、謀反を企みます。しかし陰謀は発覚し、1399年応永の乱で泉州堺に籠城した義弘は、幕府の大軍に攻められて自刃しました。

 大内氏は、その弟盛見が家督を継ぎます。教弘、政弘、義興と続き、この義興の代に最盛期を迎えました。勘合貿易を細川氏と争い、1523年には現地、寧波で合戦騒ぎを起こします。やがて細川氏を締め出し貿易を独占するようになりました。その威勢は本拠防長二州の他に石見、安芸、備後、豊前、筑前の七ヶ国に及び、勘合貿易で得た莫大な富を背景に西国一の大大名に成長しました。本拠山口は「西の京都」と呼ばれるほどの繁栄ぶりでした。
 義興は、生涯を合戦の中で過ごし、九州の少弐、大友、そして晩年には台頭してきた山陰の尼子経久と干戈をまじえます。

 1500年、前足利将軍である義稙が明応の政変で京を追われ大内氏を頼ると、義興はこれを山口で保護します。1508年には、義稙を奉じて七ヶ国の勢二万余騎を率いて上洛しました。同じく京を追われていた管領細川高国と結び、将軍足利義澄を追放、義稙を将軍職に復します。
 管領代、山城守護として十一年京の地で威勢を振るいましたが、各地で反乱が絶えず、しかも大内氏に従って上洛していた尼子経久が、早々に帰国しあろうことか大内領を窺い始めました。国元の情勢が不安定になった義興は京都支配を断念、1518年帰国の途につきます。
 
 尼子経久は、得意の謀略で安芸の毛利氏など大内方の有力被官を次々と取り込み、大内氏は一時劣勢に立たされました。しかし、1524年安芸の佐東銀山城の戦いで尼子軍を破った事から、ようやく勢力は回復に向かいます。1528年安芸出陣中に病を得、山口に帰還してまもなく義興は死去します。享年五十二歳。

 後を継いだ嫡男、義隆は父とは似ても似つかない柔弱な男でした。この義隆の代で大内氏は滅びます。次回は大内氏滅亡について見ていきましょう。

尼子経久 - 梟雄と呼ばれた男 -

 出雲の戦国大名尼子氏、西国の大大名大内氏と中国地方の覇権を争い最後は毛利元就に滅ぼされることになる大名家です。
 ライバルの大内家が、鎌倉以来着々と中国地方に勢力を扶植し大勢力になったのと比べると、尼子氏はただ一代で勃興した新興勢力でした。それを成した人物、尼子経久をご紹介しましょう。

 尼子氏は、もともと出雲国の守護代でした。主家京極氏が東軍に属したため、応仁の乱では、隣国山名氏の侵略をうけます。当時の守護代は経久の父、清定でした。勇猛で知られる彼のおかげで出雲は守りぬかれました。

 そのころ嫡子である経久は、人質という意味もあり、京の京極氏の館で過ごしていました。多感な少年時代を京で過ごし、文化を吸収し、かつ京の人物のつまらなさも実感していたのでしょう。
 1478年、二十歳で家督を継ぐと経久は守護京極氏を無視する政策をとります。京極氏の領地を横領し、幕命に従わず、一種の独立国になった観がありました。
 京極氏が幕府に訴えたため追討を受け、経久は居城、月山冨田城を追われます。守護代には新たに塩冶掃部介が任ぜられます。

 通常なら、これで終りでした。しかし、経久は旧臣の山中、亀井、真木、川副らを糾合し、河原者の集団「鉢屋賀麻党」を味方につけます。遊行の集団で芸能を司り、時には忍びの術を使う事もあったといいます。名前からすると「サンカ」にゆかりのある者たちともとれますが、よく分かっていません。

 1486年元旦、恒例により新年を賀する千秋万歳を舞うため鉢屋賀麻党70名あまりが、月山冨田城に招かれます。尼子経久は大晦日から城の裏手に手勢を率い潜んでいました。
 城中が酒宴にあけくれていたころ、鉢屋賀麻党の手引きで尼子軍が城内に乱入します。不意を衝かれた城方は大混乱に陥り次々と討たれました。塩冶掃部介は抵抗を諦め、妻子を殺し、自らも自害して果てます。

 こうして、経久は再び月山冨田城主に返り咲きます。1488年には三沢氏を下し出雲を統一しました。守護の京極氏はなすすべもありません。実力で手に入れた出雲国は、尼子氏のものでした。
 経久は、侵略の手を各地に拡げます。安芸や備後で、反大内の策動をし、伯耆の南条宗勝を攻めました。このとき嫡子の政久が戦死するという事件がおきます。名将と謳われ、将来を嘱望された嫡子の戦死は、日の出の勢いの尼子氏に暗雲を投げかけるものでした。しかし、気を取り直して南条氏を滅ぼし、1521年には石見に侵入します。中国地方十一ヶ国に勢力を拡げ西国の雄大内氏と、堂々と互する大勢力に一代にして築き上げました。

 ただ、晩年は不幸でした。三男で塩冶氏を継いでいた興久の謀反、1537年家督を譲った嫡孫、晴久の軽率な性格を気に病みます。
 晴久は1540年安芸の毛利元就を三万の大軍で攻めます。吉田郡山城の戦いでは、大内氏の援軍を得た寡兵の元就にいいようにあしらわれ敗北してしまいます。尼子氏の行く末を案じながら経久は、1541年死去しました。享年八十三歳。

 尼子経久は北条早雲と並ぶ下克上の典型でした。毛利元就が手本にしたほどの謀略の天才で、私鳳山は世間が評した「天性無欲の人」も謀略の可能性が高いと見ています。ともかく山陰地方に生まれた偉大な男であったことは間違いありません。

甲斐武田一族(完結編)

 長々とお付き合い頂いてありがとうございます。軽い気持ちで始めた記事が、まさかここまでになろうとは…とにかく、気を取り直して武田家終焉の歴史をご紹介します。

 偉大なる父、信玄の後を受けて甲斐源氏武田家二十代を継いだ勝頼でしたが、彼には出生にまつわるハンディがありました。諏訪四郎勝頼という名の通り、彼の母は諏訪頼重の妹でした。信玄が諏訪氏を滅ぼしたとき、側室にしたものです。武田家には嫡男義信がいたため、勝頼は諏訪氏を継ぎます。武田家中においては、滅ぼした諏訪氏の血を引くと言う事で、微妙な立場でした。
 しかし、駿河侵攻に反対した義信が自刃すると、勝頼は信玄の後継者と見なされるようになります。

 信玄以来の重臣は、勝頼に信服しませんでした。偉大な父と、なにかと比較され勝頼自身も面白くなかったと思います。しゃにむに外征をくりかえし、高天神城を落とすなどします。もし義信が後を継いでいたら、ここまで戦をしなかったかもしれません。まず、国内を固めることから始めたはずです。諏訪氏の血を引いている勝頼だからこそ、実績をしめして老臣たちを納得させなければなりませんでした。

 天正三年(1575年)、武田氏を裏切って徳川氏についた三河長篠城主奥平信昌を攻めるために、勝頼は一万五千の兵を率い出陣します。急報を受けた家康は織田信長に援軍を依頼、信長は三万の大軍をもってこれに応じました。徳川軍八千とあわせて三万八千の大軍が設楽が原に陣を敷きます。奥平勢の頑強な抵抗にあい長篠城を攻めあぐねていた武田軍は、背後に巨大な敵軍を迎えました。

 ここで勝頼の選択肢として、軍を引くという手もありました。ただ現実には追撃を受ける可能性もあるわけで、決戦に追い込まれたともいえます。
 当時の評では、武田兵一人で、織田兵三人を相手できると言われていました。しかし、それは外交上手の信玄が作り出したイメージで、実際はそうでもなかったという説もあります。

 ところで長篠(設楽が原)の合戦といえば、信長の『三千挺の鉄砲による三段撃ち』が有名ですが、最近の研究では疑問視されています。三段撃ちではなく、弾と火薬を一体にした『早撃ち』ではなかったかとも言われています。それよりも、特筆すべきは野戦築城にありました。馬防柵と堀を何重にも組み合わせ、ほとんど城とでも言うべき陣城を完成させていたのです。完璧に防御されている陣城に接近する武田軍を、安全な柵内から鉄砲で一斉射撃するのですから、負けるはずがありません。しかも三倍の大軍です。信長の凄みはここにあります。完璧に勝つ体勢を作ってから、戦いにいどむ、設楽が原の合戦は信長快心の勝利でした。
 
 一方、武田軍では山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、原昌胤ら歴戦の勇士たちが無謀な突撃で次々と討死にしました。武田家の行く末を絶望しての自殺だったとも言われています。勝頼はわずかな手勢を率い甲斐に逃げ帰りました。そのまま追撃しないのが信長の恐ろしいところです。このままほうっておけば、武田家は自然に自壊するという読みでした。

 それから七年後の天正十年、織田信長は十七万もの大軍を率い甲斐攻略の軍を発します。信長の読み通り穴山信君、木曽義昌らがすでに次々と寝返っていました。勝頼は謙信亡き後の越後の「御館の乱」に介入したり、北条氏と戦ったりして国内は疲弊していました。織田の侵略に備えるため築城した新府城も領民の大きな負担となっていたのです。

 戦いはあっけなく進みました。唯一、抵抗らしい抵抗を見せたのは勝頼の弟、仁科五郎盛信が籠城する高遠城だけでした。新府城での防衛を諦めた勝頼は、城を焼いて落ち延びます。重臣の一人真田昌幸は自領の上野に落ちて再起を図るよう進言しましたが、小山田信茂が自分の城、岩殿城に籠城することを勧めたため、こちらに向かうことにしました。歴史のIFですが、もし真田昌幸に従っていたら勝頼は生き残っていたかもしれません。しかし、武田家譜代の小山田信茂を信じたのです。ところが土壇場で信茂は裏切ります。岩殿城への入城を拒否したばかりか逆に攻める気配さえみせたのです。背後には織田軍先鋒滝川一益の軍勢が迫っていました。

 進退窮まった勝頼一行は天目山において、一族郎党とともに自害して果てました。ここに甲斐源氏の嫡流武田氏は滅亡します。なお、江戸時代に再興した武田家は、盲目のため出家していた信玄の二男信親(龍芳)の子孫です。

 いかがでした?楽しめて頂けましたか?武田氏二十代の歴史、波乱万丈の歴史でしたね。

甲斐武田一族(後編)

 天文十年(1541年)無血クーデターで甲斐の実権を握った武田晴信は二十一歳でした。後に信玄と号する彼の生涯はあまりにも有名なので、簡単に紹介するに止めます。

 まず国内を固めた晴信は、天文十一年(1542年)、内紛を利用し、父の代からの宿敵だった諏訪頼重を滅ぼします。天文十九年(1550年)には信濃守護小笠原氏の軍勢を塩尻峠に撃破、天文二十二年(1553年)には真田幸隆の謀略で戸石城を落とし、北信濃の豪族、村上義清を越後に追い出します。
 ここまでみると順調に信濃攻略を進めているみたいですが、特に村上義清との戦いでは「上田原合戦」「戸石崩れ」と二度にわたり敗北を喫し、板垣信方や甘利虎泰ら多くの重臣を失っています。

 天文二十二年(1553年)には有名な「第一回川中島合戦」が起こります。これは村上義清ら北信濃の豪族が、晴信に追われ越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼り、越後軍がこれを助けるため侵入して起こりました。川中島合戦は合計5回起きます。中でも永禄四年(1561年)の第四回は激戦で単騎斬り込んだ上杉謙信の太刀を、信玄が軍配で受け止めたという伝説もあるほどです。「啄木鳥戦法」対「車懸り陣」が激突し、両軍あわせて6千人の死者をだしたほどでした。
 川中島合戦については、機会があれば詳しく紹介しようと思っています。

 「第一回川中島合戦」のあと、晴信は駿河の今川義元、相模の北条氏康と三国同盟を結びます。互いに背後を気にせず戦うためです。永禄二年(1559年)、晴信は出家して信玄と号します。

 第四回川中島合戦後、信濃をほぼ制圧した信玄は西上野に進出、山内上杉氏の家老長野氏を箕輪城に滅ぼします。信玄が次に狙ったのは駿河でした。永禄三年(1560年)桶狭間で今川義元が織田信長に討ち取られると、公然と信玄は駿河を窺い始めます。これに反対したのは、義元の娘を妻にしている、嫡子義信でした。信玄は義信を自刃に追い込みます。天下統一の野望の前には肉親までも犠牲にしました。

 永禄十一年(1568年)、信玄は念願の駿河侵攻を果たします。しかし同盟破棄で敵対した北条氏の援軍もやってきたため、思うように侵略できませんでした。そこで北条氏をけん制するため、2万2千の兵を率いた信玄は、西上野から北条領に侵入、長躯小田原城を攻めます。しかし本気で攻略する気はなく、ほどほどで帰途につきます。そこを待ち伏せていた北条氏照、氏邦の北条軍二万を『三増峠の合戦』で鎧袖一触します。まるで相手になりませんでした。

 こうして北条氏をけん制すると、元亀元年(1570年)駿河の完全支配に成功します。甲斐・信濃・西上野・駿河・遠江北部、三河東部、美濃東部に勢力を広げ、およそ百五十万石、動員兵力にして五万の大勢力に成長しました。

 中央では織田信長が台頭していました。はじめは両者友好的な関係でしたが、信玄の上洛が現実的になるに及んで関係は冷えてきます。
 元亀三年(1572年)、将軍足利義昭の求めに応じ信玄は西上の途につきます。兵力は3万3千。遠江に侵攻し、二俣城など徳川の城を次々と落としてゆきました。徳川家康は、信玄の上洛を指を咥えて見ているのが我慢ならず、浜松北方の三方ヶ原で迎え撃ちます。兵力は織田の援軍を入れて1万1千。鶴翼の陣形を敷きました。一方武田軍は魚燐の陣形で徳川軍に当たります。戦いは一方的でした。敗北した家康は恐怖のあまり、馬上で脱糞したと伝えられています。しかし、敵わないながら信玄と真っ向から戦いを挑んだ事は、後の家康にとって財産となりました。

 徳川軍を粉砕した武田軍は、三河に入り野田城を攻略。しかしここで信玄は病に倒れます。兵を引かせ、信州駒場で病死しました。享年53歳。
 信玄は、自分の死を敵に悟られないため「三年喪を秘せ」と遺言します。後を継いだのは諏訪四郎勝頼。この遺言が彼の重荷になるのです。

 ところで、信玄が上洛に成功した場合歴史はどうなっていたでしょうか?私鳳山の考えでは、あまり成功しなかったのではないかと思います。これとそっくりな例があります。周防の大内義興が中国・北九州の兵二万を率い、将軍義稙を奉じて上洛したことがありました。一時は京都を占領しますが、各地の豪族が反抗し、ついに畿内制圧を諦め故国に戻らざるを得なくなります。
 やはり、天下を統一するには信長のような、独創性と中世的権威の破壊者でなくてはならないと思います。信玄では、京の既成の権力に丸め込まれるような気がするのですが、皆さんはどうお考えですか?

 前・中・後編で終わらなかったこの話、完結編を設けて勝頼の活躍と、武田氏滅亡を描こうと思います。

甲斐武田一族(中編)

 応永二十三年(1416年)、上杉禅秀の乱に加担した甲斐守護、武田信満は幕府軍に攻められ、自刃します。その嫡子信重は、叔父信元と共に、後難を怖れて畿内に逃亡、出家してしましました。
 守護不在の甲斐国は大混乱に陥ります。国人たちが台頭し手のつけられない状態になりました。その中で力をつけてきたのは、守護代跡部一族でした。跡部氏は甲斐の実権を握り、国政を壟断します。通常の歴史の流れだと跡部氏がそのまま戦国大名に成長するのですが、そうはなりませんでした。

 足利幕府は、甲斐源氏の嫡流である武田氏が再び守護になることが、甲斐安定に繋がると判断します。出家していた武田信元を甲斐守護に任じ、下向させますがまもなく没してしまいます。そこで嫡流の信重に白羽の矢がたつのですが、彼は甲斐の国情を怖れて固辞します。一方、信重の弟信長は関東に残り甲斐回復を図って手勢を率い跡部一派と合戦しますが敗れます。信長は京に奔り将軍足利義教の保護をうけました。

 信長は、その後関東で起こった「結城合戦」に従軍。戦功をあげ相模に領地を得ます。「享徳の乱」では鎌倉公方足利成氏に従い、再び大功をあげます。これにより信長は上総の守護代に補されました。これが上総武田氏の始まりです。

 ところで甲斐国の状況はどうだったでしょうか?こちらも結城合戦を契機に、嫡流の信重が甲斐守護に復帰します。将軍足利義政の後援を受け、信濃守護小笠原氏の援軍とともに甲斐に入ります。専横をつくしていた跡部親子を血みどろの戦いのすえ下し甲斐の実権を取り戻しました。
 しかし、国政は安定せず1450年11月、波乱に満ちた生涯を終えます。以後、信守、信昌、信縄と続きますが国内が本当の意味で安定したのは、18代信虎の時でした。

 信虎は、小山田氏ら国内の有力国人と結び、1519年には本拠を石和から躑躅ヶ崎館(甲府市)に移し支配を固めます。そんな中、武田氏に最大の危機が訪れます。
 1521年、駿河の今川氏が福島正成(北条綱成の父)を総大将に一万五千の大軍で侵入します。このとき嫡子の晴信(のちの信玄)が生まれ、それに鼓舞された武田家中の活躍で、侵入軍を撃退しました。
 信虎は今川氏や北条氏、信濃の諏訪氏らとしばしば干戈を交えますが、1537年長女を義元に嫁がせることで今川氏と和睦、次いで三女を諏訪頼重に嫁がせてようやく安定をみます。

 信虎は、柔弱という理由で嫡子晴信を疎んじ、弟の信繁を跡目にしようとしました。しかし、信虎が娘婿の今川義元を訪問し、帰途につこうとした時変事が起きます。
 国境で入国を阻まれたのです。これは嫡子晴信の無血クーデターでした。度重なる外征で国内は疲弊し領内に重い負担がかけられていたため人心は信虎から離れていました。晴信は重臣達と図ってこのクーデターを決行しました。1541年のことでした。

 その後の信虎はどうなったでしょう?はじめは今川氏の庇護にいましたが、義元の子氏真と折り合いが悪く、今川家を出て畿内を放浪します。志摩国に入った時は九鬼氏と地頭の争いに、地頭側の軍師として参戦。見事九鬼氏を志摩国からたたき出すことに成功します。往年の戦上手は衰えなかったということでしょう。孫の勝頼の時代に武田領に戻り信州高遠で1574年没します。享年81歳でした。

 いよいよ、後編では武田信玄、勝頼の活躍を紹介します。お楽しみに!

甲斐武田一族(前編)

 戦国時代に活躍した武田信玄は、皆さんご存知だと思います。武田氏は甲斐源氏の嫡流で初代新羅三郎源義光以来、二十代も続いた由緒ある名門でした。
 その歴史は波乱に飛んでおり、何度も滅亡の危機を経ながら続きました。まさに、激動の歴史です。少々長くなるかもしれませんが、我慢してお付き合いください。

 初代新羅三郎義光は、鎮守府将軍源頼義の三男です。後三年の役の時に苦戦する兄の源義家を助けるため都での官位を捨てて奥州へ向った話は有名です。
 その子義清が常陸国武田郷を領したことから武田氏を称したとも、甲斐に下って北巨勢郡武田村が発祥の地とも言われはっきりしていません。一説では、甲斐に配流されてきたとも言われ面白いです。

 義光の四代目、信義の時代に源平の争乱がありました。信義は甲斐源氏を率いて頼朝に従い戦功を上げます。このとき甲斐守護が確立しました。甲斐源氏は、同じ源氏の名門ということで頼朝の猜疑を受け、安田義定ら多くの一族が命を落とします。このような犠牲を払いながら武田氏は甲斐に根付くのです。

 承久の変にも戦功を上げ、武田氏は安芸守護を与えられます。当時は代官を派遣していたそうです。鎌倉幕府は、やがて実権を北条氏に乗っ取られますが、多くの源氏と同じく武田氏も北条氏に従います。

 南北朝時代の当主十代信武は、笠置山攻めでは幕府軍の一手の大将でした。1335年北条時行が挙兵した中先代の乱では恩義忘れがたく北条方に組します。その後、足利尊氏に降り戦功をあげ甲斐守護職を守り通します。十一代信成の時代に、弟の氏信が安芸・若狭の守護に補されます。この氏信が安芸武田、若狭武田氏の祖とも言われています。氏信は安芸に下向し土着しました。

 応永二十三年(1416年)、関東の地を揺るがす上杉禅秀の乱が起こりました。禅秀の舅にあたる十三代信満は反乱軍に組し、鎌倉府の軍勢に本拠甲斐国を攻められ自害します。武田氏最大の危機でした。中篇では、武田氏がどのように復興していったのかを見ていきたいと思います。

関東管領上杉一族 (後編)

 山内上杉氏と、扇谷上杉氏を比べた場合、大人と子供の関係と評されていました。嫡流として関東管領職をほぼ独占していた山内家にたいして、扇谷家はそれに従いながら存在していました。
 ただ、上杉禅秀の乱で鎌倉公方、永享の乱で山内上杉憲実と常に勝つほうに味方ししたたかに生き延びてきます。

 そして十五世紀末、定正の代に、扇谷家に家宰、太田資長(道灌)が現れます。道灌は名将でした。独創的な足軽による奇襲戦法で戦いに勝利し、また築城術にも優れていました。江戸城は彼の築城として有名ですが、他に川越城、岩槻城も道灌の縄張りです。
 扇谷家は彼の活躍で、相模、武蔵に勢力を広げ、本家山内家をしのぐ大勢力になります。また、歌人、文人としても有名で「山吹」のエピソードは人口に膾炙しています。その名は都にもとどろき、定正の名代として上洛した時は京の貴紳はこぞって饗応したと言います。
  
 そんな太田道灌でしたが、不幸なことに主君定正の疑いを受けます。一説によると山内家の陰謀だとも言われていますが、讒言を信じた定正に謀殺されます。このとき、道灌は「当方滅亡!」と叫んだといいますが、歴史は実際その通りに動きました。

 道灌生存中は、関東に指一本ふれなかった伊豆の伊勢宗瑞(後の北条早雲)が露骨に侵略の手を伸ばしてきたのです。扇谷上杉氏の有力被官、小田原の大森氏を謀略により滅ぼすと、扇谷領相模を蚕食しはじめます。しかし無能な定正はなすすべもありませんでした。
 
 早雲、氏綱、氏康という北条氏興隆の歴史は、そのまま扇谷上杉氏衰退の歴史でもありました。
 ようやく北条氏の脅威に気付き、山内家と扇谷家は和睦します。山内上杉憲政、扇谷上杉朝定、古河公方足利晴氏の連合軍八万余騎が、北条氏の最前線川越城を囲みます。1546年の事です。
 守将は勇将、北条綱成。兵力は三千でした。急報をうけた北条氏康は、小田原から八千の兵を率いて駆けつけますが、大軍を前になすすべがありません。
 氏康は、降伏を申し出て、連合軍を油断させます。そして夜陰に乗じて敵の本陣を急襲。城からも綱成勢が打って出ました。油断していた連合軍は、不意をつかれて大混乱に陥ります。こうなると大軍だけに始末が悪く、乱戦の中扇谷上杉朝定は討ち取られてしまいます。憲政、晴氏らは、ほうほうの体で自領に逃げ帰ります。
 「川越夜戦」と後に称された戦いによって、関東の主人公は北条氏に移りました。本拠地上野国平井城に逃げ込んだ憲政でしたが、北条氏康は二万の兵力をもって、1552年平井城を攻撃しました。たまらず憲政は、越後の長尾景虎をたよって落ち延びます。

 もともと、山内家には、庶流の越後上杉氏から顕定が養子にはいって継いでいました。その越後上杉氏を滅ぼしてのは、景虎の父為景でした。そんな過去の恨みを言っておれないほど切羽詰っていたのでしょう。

 義に厚い景虎は、快く憲政一行を迎えます。情にほだされた憲政は上杉の名跡と関東管領職を景虎に譲りました。景虎は上杉政虎と名乗ります。後の上杉謙信の誕生です。

 憲政は隠居し、府内に館を与えられました。生涯で最も平穏な時期だったことでしょう。しかし1579年、謙信死後に起こった跡目争い「御舘の乱」に巻き込まれて殺されてしまいます。ここに名門山内上杉氏は滅びました。

 上杉氏は、謙信の養子景勝が継ぎますが、血脈的には何の関係もありません。こちらは米沢藩上杉氏として幕末まで続きます。

関東管領上杉一族 (前編)

 関東管領といえば、戦国時代好きにはすぐ上杉謙信を思い出すでしょう。謙信はもともと、長尾景虎
といい代々越後の守護代の家系でした。それがなぜ、関東管領、上杉氏を名乗る事となったのか?
 その歴史を見ていくことにしましょう。

上杉氏系図

   勧修寺高藤 藤原清房━━ 重房━┓
  ┏━━━━━━━━━━━━━━━━┛
  ┗━頼重━┳ 重顕(扇谷)━━ 朝定━━ 顕定━━ 氏定━━ 持定━━ 持朝━┓
       ┃    ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
       ┃    ┗┳ 顕房━━ 政真━━ 定正━━ 朝良━━ 朝興━━ 朝定
       ┃     ┗ 定正(政真養子)
       ┣ 頼成
       ┗ 憲房━┳ 憲藤(犬懸)━┳ 朝房
            ┃        ┗ 朝宗━━ 氏憲(禅秀)
            ┣ 憲顕(山内)━┳ 能憲(宅間重能養子)
            ┃        ┣ 憲方━┳ 憲孝
            ┃        ┗ 憲春 ┣ 憲定━━ 憲基━━ 憲実━┓
            ┃             ┣ 憲英(庁鼻上杉)     ┃
            ┃             ┣ 憲栄(越後上杉)     ┃
            ┃             ┗ 房方━━ 憲実(憲基養子)┃
            ┃  ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
            ┃  ┗┳ 憲忠
            ┃   ┗ 房顕━━ 顕定━┳ 顕実
            ┃             ┗ 憲房━┳ 憲寛
            ┃                  ┗ 憲政== 謙信
            ┣ 重能(宅間)━━ 能憲━━ 重兼━━ 能俊━━ 憲重━┓ 
            ┃          ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
            ┃          ┗━ 憲俊━━ 憲能
            ┗ 重兼(宅間能憲養子)

 上杉氏は、観修寺流藤原氏の流れで、丹波国何鹿郡上杉庄を領したことから、上杉氏を名乗りました。初代上杉重房は、征夷大将軍に任ぜられた守尊親王に従って鎌倉に下向、鎌倉幕府の有力御家人足利氏と姻戚関係を結びます。
 南北朝時代、重房の孫、憲房は、妹が足利尊氏・直義の生母だった関係で重用されます。ほとんど一族同然の扱いでした。
 憲房の子である重能(宅間上杉氏祖)、憲藤(犬懸上杉氏祖)、憲顕(山内上杉氏祖)は、足利尊氏の母方の従兄弟という関係から、足利幕府設立に多大なる貢献をします。

 足利幕府は、鎌倉のある関東の地を重視し鎌倉府を設けます。初代鎌倉公方として、尊氏の次男基氏を任命し、補佐をする鎌倉府執事(後の関東管領)に上杉憲顕を充てました。憲房以来、上野守護は歴任していましたが、憲顕の代に越後、伊豆の守護に新たに任ぜられ、上杉氏は強大な力を手に入れます。

 上杉氏は、嫡流である山内(やまのうち)家の他に、重能の宅間家、憲藤の犬懸家、そして憲顕の叔父の家系で京に残った重顕の子孫である扇谷(おうぎがやつ)家の四氏が有力でした。

 まず宅間家が、尊氏・直義の争いに巻き込まれ尊氏の権臣高師直に謀殺され衰退します。次に犬懸家は室町中期「上杉禅秀の乱」を起こして滅びます。

 残ったのは、宗家である山内上杉氏と、遅れて関東に下向してきた扇谷上杉氏だけでした。この両家の争いが関東に戦国時代をもたらします。

 次回は、扇谷上杉定正の家宰、太田道灌の活躍と、北条氏の関東侵略、上杉氏の滅亡の歴史を紹介します。

浪岡御所北畠氏の盛衰

 九州の片田舎に住んでいると、東北には浪漫を感じます。奥州藤原氏、安東水軍、津軽氏と南部氏の対立。非常に興味深い歴史です。
 今回紹介する、浪岡御所北畠氏の歴史もそんな浪漫のひとつです。

 南北朝時代、南朝の重臣北畠親房の嫡男、顕家はわずか十六歳で陸奥へ下向、陸奥守、ついで鎮守府大将軍として二度にわたり足利幕府軍を破ります。上洛軍を率い青野原で大勝しますが、その後振るわず畿内各地を転戦、最後には和泉堺・石津浜で幕府方の高師直軍に敗れ戦死しました。このときわずか二十一歳だったといいます。陸奥から同行していた南部・伊達などの東北勢も討ち死にしました。

 顕家には遺児がいたそうです。名を顕成といい南部氏の庇護の下、船越の地に潜伏していました。北畠氏がいつの時代に浪岡に入部したのかは、諸説あって不明です。文中二年(1373年)説、応永年間(1394年~1428年)説などがあります。
 私見では、南北朝合一が1392年なされ、北畠氏を庇護していた八戸南部氏が、嫡流家三戸南部守行の説得で幕府に降り、南朝の重臣である北畠氏を領内に匿いきれなくなったので、安東氏との境界である浪岡に移したのではないかと考えます。
 そうなると応永年間説が浮かび上がってくるのですが、詳細は不明です。

 二代顕成、三代顕元と続き、四代顕邦の時代には浪岡居住は確実だと思われます。北畠氏は浪岡御所と呼ばれました。
 御所の称号は摂家か将軍家しか許されておらず、北畠氏はそれだけの名門として尊崇されました。
 似たような例として、土佐の一条氏があります。こちらは五摂家の一つという超名門で中村御所と呼ばれました。

 次の五代顕義の時に、浪岡城を築城します。次第に北畠氏は勢力を蓄え始めました。六代顕具、七代顕統、八代具永、九代具統と続きますが、資料によってはない名前もあってはっきりしません。
 この九代具統の時が全盛期でした。南部氏と安東氏の争いで、津軽地方から安東氏が追われると、この地の支配は北畠氏に任されます。戦国大名の支配と言うよりは、中央の室町幕府のように、権威としてただ君臨するのみのような気がします。まだまだ、奥州では鎮守府将軍、陸奥守北畠氏の名前は権威ある存在でした。
 具統は津軽地方の支配を強化して、南部一族の大光寺、八戸、三戸、大浦氏らと共同統治します。しかし、十代具運の時、庶流の川原御所の乱が起こり衰退します。次の顕村の代が最後でした。
 
 1578年、津軽地方統一に燃える大浦為信は、南部氏の津軽郡代石川(南部)高信を石川城に攻め滅ぼすと、矛先を浪岡城にむけます。

 大浦為信は浪岡領内に一揆を扇動し、重臣を調略します。三方から大浦勢が城に攻め込んだとき、次々と城内から寝返りがおき、城に火をかけました。浪岡城はろくに戦わず落城、当主顕村は捕らえられ、西根の寺院に幽閉されます。翌日、顕村は自害し、ここに150年にわたってこの地を支配した浪岡御所北畠氏は滅びました。

 大浦為信は、実父石川高信を殺された、南部家当主信直(本家に養子に入っていた)の怒りを買い、討伐を受けますが、逆にこれを破り津軽支配を固めます。政治、外交感覚も抜群で、いち早く中央の豊臣秀吉に誼を通じ、大浦家がもともと津軽の地を領していたと言いくるめ、本領安堵されました。為信は津軽氏を称します。
 後日これを知った南部家中は怒り狂ったそうですが、いくら秀吉に訴えても、本領安堵状を出しているため、取り上げられませんでした。これが、後々まで両家の不和のもととなり、江戸時代には参勤交代する津軽侯の行列に、鉄砲を撃ち込もうとした南部藩士がいたそうです。

 いかがでした?東北地方の最北端で繰り広げられた戦国ドラマ、楽しんでいただけたでしょうか?

北条時行と中先代の乱

 どうも、私鳳山はマイナーな人物が好きなようです。北条時行?そんな執権、鎌倉時代にいたっけ?疑問に思われるのもごもっともです。実は彼は執権になっていません。いや、正確には幕府の滅亡でなれなかったという表現が妥当でしょう。

 1333年、後醍醐天皇の綸旨を受けた新田義貞は上野国で挙兵、鎌倉を攻めて北条一族を滅ぼします。第14代執権北条高時以下、一族すべて自刃して果てました。

 ただ一人生き残ったのは、高時の次男時行だけでした。炎上する鎌倉を脱出し、乳母の実家である信濃の豪族諏訪頼重を頼って落ち延びます。このとき7歳前後だったと言われています。
 諏訪頼重は、高時の弟で、時行には叔父にあたる北条泰家から、北条家再興を託されていたそうです。頼重に匿われた時行ですが、建武の新政に破綻が見えてくると信濃において挙兵します。1335年7月の事です。10歳前後の幼児にできるはずはありませんから、諏訪頼重に擁立されたという事でしょう。

 反乱軍は、当時鎌倉にいた足利尊氏の弟、直義を破り鎌倉を占拠します。あわてた新政府は足利尊氏を征東将軍に任じ、反乱を鎮圧させます。ちなみに、このとき尊氏は「征夷大将軍」職を望んだと言われていますが、後醍醐天皇に拒否されたため、背くことを決めたとか。

 反乱軍が鎌倉の主だったのは、わずか20日ほどでした。尊氏によって鎮圧され諏訪頼重は自刃、時行は行方をくらまします。これを「中先代の乱」と呼びます。北条氏を先代、足利氏を当代とすると、ちょうど中間になることから名付けられました。

 次に時行が姿を現したのは、宮方の鎮守府大将軍北畠顕家が陸奥から攻め上って足利氏を討ったときでした。時行はこのとき南朝に帰順します。北畠軍が、青野原(現関ヶ原)で足利幕府の大軍を破った時、時行も従軍していたそうです。しかし、このまま幕府軍を追って近江に攻め込もうと主張した時行の意見は入れられず、北畠軍は伊賀路から大和の国に入りました。しかし、ジリ貧になり和泉国堺浦石津で高師直率いる幕府軍に破れ、顕家は戦死します。

 どの時点で、時行が袂を分かったか不明ですが、三度目には幕府を滅ぼした新田義貞の遺児義宗、義興と共に1352年、上野国で挙兵します。幕府を滅ぼした加害者と被害者の連合は皮肉ですが、またしても鎌倉を一時占領しました。
 足利尊氏は、次男の基氏(初代鎌倉公方)とともに、これを攻め、ついに時行は捕らえられます。翌1353年、鎌倉龍ノ口で処刑され、名実共に北条得宗家はここに滅びました。このとき時行は30歳に満たない若さでした。まさに数奇な、波乱に満ちた生涯といえます。

 私鳳山は、彼のような不遇の一生をおくった人物に深く同情します。ですから一人でも多くの人に知ってほしいのです。学校の歴史では、一行にも満たない記述ですまされる北条時行ですが、このような人物もいたのだと知って頂ければ幸いです。

今山合戦 - 竜造寺氏台頭への序曲

 元亀元年(1570年)、豊後の大友宗麟は6万の兵を率いて肥前佐賀城に竜造寺隆信を攻めます。自身は筑後高良山に本陣を置き、寄せ手の大将として甥の大友親貞を起用します。大友氏の大軍を目の当たりにした肥前の諸将は、ことごとく大友方に寝返り竜造寺氏は孤立、落城は時間の問題でした。
 しかし、大逆転が起こります。その前に、ここに到るまでの状況を説明したいと思います。

 鎌倉以来、北九州に勢力を張っっていた小弐氏は、周防の大内氏の圧迫を受け本拠大宰府を追われます。肥前に逃れてきた小弐氏でしたが、大内軍はなおも追撃の手を緩めず、田手畷で両軍は激突します。戦いは小弐氏被官、竜造寺家兼の奮戦もあり小弐軍が勝ち、小弐氏は命脈を保つ事ができました。しかし、大内氏は何度も肥前に侵攻、竜造寺家兼は和睦の道をさがして大内義隆に接近します。これを裏切りとみた小弐氏重臣、馬場頼周は竜造寺氏の台頭を恐れていた事もあり謀略によって家兼以外の竜造寺一門を討ち果たします。当主小弐冬尚もこれを黙認していたふしもあり、これによって竜造寺氏は小弐氏と絶縁します。1544年のことです。
 筑後の蒲池氏を頼った家兼でしたが、彼を慕う肥前の豪族らが挙兵、家兼は肥前佐賀城を回復します。そして宿敵、馬場頼周を討ち果たしました。このとき家兼93歳、信じられないですが、実話です。
 家兼は、さすがにお家再興をはたして安心したのか大往生を遂げます。遺言により後を継いだのは、仏門に入っていた曾孫の円月でした。
 円月は、還俗して胤信と名乗ります。大内義隆と結んだ胤信は、その一字をもらって隆信と名を変えます。肥前の熊と恐れられた竜造寺隆信の誕生でした。

 1559年、隆信は旧主、小弐冬尚を肥前勢福寺城に攻め滅ぼします。小弐氏にとっては、竜造寺氏こそお家再興の鍵だったのに、それを逃した報いでした。名族小弐氏はここに滅びます。
 それより前、1551年中国から北九州に勢力を張った大内義隆は、家臣陶晴賢に背かれあえない最期を迎えていました。小弐氏衰退後、大内氏と北九州の支配権を争っていた豊後の大友宗麟は筑前、筑後を抑え着々と勢力を広げていました。宗麟がつぎにねらったのは肥前でした。小弐氏亡き後、統一勢力のない肥前は魅力的な獲物として宗麟には映っていました。次々と諸将が大友氏に従う中、しかし肥前佐賀城主竜造寺隆信だけが従いませんでした。
 宗麟は、豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後6カ国の勢、6万余の大軍で佐賀城を囲みます。それが冒頭の情勢です。

 絶望的な状況の中、隆信の重臣で義弟にもあたる鍋島直茂が奇襲を進言します。一か八か、それしか活路はありませんでした。今山に本陣を置く大友親貞の本陣にわずか700の兵で夜陰に乗じて襲い掛かります。信じられない事に、親貞は酒宴の真っ最中でした。大軍に安心し、油断していたのでしょう。無能な親貞はあっけなく討ち取られました。総大将をうしなった大友軍は総崩れします。ありえないような逆転劇でした。

 それにしても、大友宗麟には詰めの甘さがめだちます。自身が中心になって攻めるべきでした。後方の高良山でのんびり落ちるのを待っている場合ではありません。これが一時期6カ国の守護を兼ねながら九州を統一できなかった原因でしょう。

 この戦いは、戦場の名前を取って今山合戦と呼ばれます。これ以後竜造寺氏は急速に台頭、豊後の大友、薩摩の島津と共に九州を三分するほどになります。まさに起死回生の逆転劇、桶狭間の合戦に匹敵するほどの戦いでした。

名族菊池一族の興亡

 私鳳山の故郷熊本は、戦国時代大友、島津、竜造寺という強力な戦国大名の草刈場となっていました。それは、中世を通じて強勢を誇った菊池氏がはやく滅んだからです。一時は、征西将軍宮懐良親王を奉じて10数年にわたって九州を制覇したほどの一族が、なぜ滅んだのでしょうか?全国的には知名度の低い菊池氏なので、読者の皆さんがどこまでついてこれるか不安ですが、簡単に振り返りたいと思います。

 

 大宰府を落とし、九州を南朝の独立国にした菊池武光でしたが、幕府は切り札、今川了俊を九州探題として下向させました。名将了俊は、劣勢だった幕府方を建て直し、南朝大宰府政権を圧迫します。筑後に退去した宮方でしたが、ここで大黒柱武光を失います。了俊は、後を継いだ菊池武政を追い、ついに本拠地隈府(わいふ)城を落としました。このままいけば今川了俊が九州を統一、すくなくとも肥後・筑後を恩賞として幕府から賜り、駿河の本家をしのぐ強大な戦国大名が誕生するはずでした。しかし了俊の強大化を恐れた時の将軍足利義満によって九州探題を解任されます。了俊は今川氏の本拠、駿河に戻り失意のうちに世を去ります。

 ところで、菊池氏にとっては、この解任劇は干天の慈雨ともよべる出来事でした。息を吹き返した一族は、再び挙兵、隈府城を奪回します。新探題に任命された、足利一族の渋川氏はこれを滅ぼすことができないばかりか、幕府方の大友、小弐氏にまで背かれ周防の大内氏を頼って、その傀儡となる始末でした。

 菊池氏は、武光の孫にあたる武朝のとき、幕府に帰服します。足利幕府も強力な武士団である菊池氏を無視できず肥後守護に補任します。以後兼朝-持朝-為邦と続き、為邦の代には筑後守護を兼任するに至ります。しかし、ここが絶頂期でした。世の中は応仁の乱によって戦国時代へと移り変わろうとしていました。為邦の後を継いだ重朝のとき、叔父の宇土為光が菊池家総領の地位を狙って謀反を起こします。このときは重朝が勝って、為光を追放するだけで止めましたが、その甘さが命取りになりました。

 1493年、重朝は阿蘇大宮司家の内訌に介入して、戦死してしまいます。後を継いだ能運(よしゆき)はわずか12歳でした。1501年、能運が城を留守にします。宇土為光がこの機会を逃すはずがありません。隙を突いて挙兵、隈府城を占領してしまいます。引き返してきた能運は、玉祥寺原で宇土勢と合戦しますが、逆に敗北し玉名に落去します。玉名の地も安住の地ではありませんでした。宇土勢に攻められ、島原半島に逃れた能運は、有馬氏を頼ります。
 1503年、有馬氏と、肥後人吉の相良氏に援軍を得た能運は、玉名郡高瀬の地で宇土為光と合戦。破れた為光は本拠宇土城に逃れますが、そこも落とされて自刃します。野望に燃えた男の最期でした。
 隈府に入城した能運でしたが、高瀬の合戦で受けた矢傷が癒えずわずか25歳で死去します。菊池氏嫡流はここに絶えました。

 後を継いだのは、一族の政朝でしたが、家臣団を掌握できず、大友氏の後援を受けた阿蘇大宮司惟長に乗っ取られます。菊池武経と名乗った惟長でしたが、しょせん大友氏の傀儡であることを思い知らされ本拠矢部に逃亡しました。その後詫磨氏(菊池一族?もともと詫磨氏は大友庶流)から菊池武包が擁立されますがうまくいきません。最後には豊後の守護大友義鑑が弟重治を擁立し、菊池氏家臣団を圧迫して養子にさせます。重治は菊池義武と名乗りました。

 菊池義武という男もなかなかの野心家でした。大友氏からの自立を目指し乱を起こします。義鑑の後を継いだ大友義鎮(のちの宗麟)は、電撃的に肥後に侵攻してこれを討ちます。一応、大友氏の支配下に入った肥後でしたが、いままでのいきさつもあり信服しませんでした。五十二人いる国衆と呼ばれる豪族たちは、反独立の形で割拠します。統一勢力が生まれなかったのはこのためでした。

 菊池義武が倒されたとき、名実ともに菊池氏は滅びました。しかし、宇土為光の乱の際、能運は妻子を弟重房に頼み日向米良の庄に落としました。その子孫は代々米良氏を名乗り一帯を支配しました。米良氏は徳川幕府から大名並みの待遇を受け(家康は名家好きで有名)、幕末に至ります。

 菊地氏を滅ぼした大友氏が滅び、逆に菊地氏の血脈が幕末まで続くのですから、歴史は皮肉です。

2009年6月13日 (土)

兵站面からみたアフガニスタン戦争

 皆さんはアフガニスタン戦争をご存じですか?今アメリカが行ってるやつじゃなくて、その前のソ連の侵攻から始まった戦争です。



アフガニスタン侵攻【アフガニスタン侵攻(アフガニスタンしんこう)は、アフガニスタンに1978年に成立した共産主義政権を支える為に、1979年にソビエト連邦が軍隊をアフガニスタンへ進めて占領した事件。 ソ連・アフガン戦争と呼んだ場合、アフガニスタンの反政府組織や義勇兵とソ連軍の間で発生した戦闘を指す。ソ連軍のアフガニスタン国内の戦闘は1979年の出兵から1989年の完全撤収まで10年に及んだ。】(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)


 地図を見てもらえば分かりますが、国土のほとんどが山岳地帯というアフガンに、王党派政権を倒して誕生した共産党政権が、民族派に妥協し親イスラム的政策に移行してソ連から離れようとしたことに怒り、自国の言うことを聞く傀儡政権を樹立するために軍事介入したのが始まりです。

 ソ連に亡命していたカルマルを首班とする傀儡政権こそできましたが、これで旧アミン政権派を含むすべてのイスラム組織を敵に回し、泥沼のゲリラ戦でへとへとになりそのためにソ連が崩壊したとさえ言える戦争でした。


 ソ連軍は狙撃師団3個、空挺師団1個を主力とする陸軍と数百機の空軍を投入し、半月で片がつくと豪語しましたが、それが甘すぎる見通しだったことはすぐ証明されました。

 近代装備のソ連軍が、碌な軍備もないゲリラに負けるはずがないと思われていましたが、ゲリラ側は敵の弱点である補給路を叩いてソ連軍を苦しめました。またアメリカやアラブ諸国が裏からゲリラ側を援助したため、戦闘で大きな被害を出しても隣国パキスタンに逃げ込んで軍を再編し再びアフガンに舞い戻るというゲリラ側に対し、パキスタンに越境攻撃をしてアメリカと全面戦争になるのを恐れたソ連では手足を縛られた形でしか戦えませんでした。


 それでも一時はヘリコプターを使ったヘリボーン作戦を大規模に実行しアフガンゲリラを壊滅寸前に追い込んだこともありました。これを見たソ連軍高官は現状の兵力10万を30万に拡大すればアフガンゲリラを屈伏しうると発言します。たしかに30万あったらそうすることは容易でしょう。



 ではなぜ、それが実行できなかったのか分かりますか?回答がすぐ出た人は軍事に(というか軍事の本質に)詳しい人です。


 皆さんは分かりましたか?そう補給の問題なんですね。ベトナム戦史を知ってる人ならアメリカ軍は50万を常時ベトナムへ投入してたじゃないか?と反論なさるでしょう。しかもアフガンはソ連と接してるからより補給も楽だろうと。


 もちろんアメリカとソ連の経済力の格差はあったでしょう。それよりベトナムは海に面しており海上輸送が利用できたんです。ここでもう一度アフガニスタンの地図をみてください。鉄道がないのに気付かれましたか?一部北部マザリシャリフとテルメズ間は通じてますよね。これはソ連が補給用に建設したものです。

 国土の中央にヒンズークシという大山脈が横たわるアフガニスタンは、国土を環状に廻る道路のみが幹線道路で、しかも唯一といっていい補給路はゲリラの格好の攻撃路でもあるという現実がありました。

 とくにマザリシャリフから首都カブールに通じる交通の要衝サラン峠は何度も激しい戦闘が起こりました。

 陸上での補給の要は鉄道輸送です。それが建設できないのは高低の激しいアフガンの地形でした。事実ゲリラ側は馬やロバを使って輸送していたくらいです。トラック輸送は燃料を食う上に、ゲリラの格好の的です。ソ連の補給力では10万~12万が限界でした。

 一説では1個師団が1日に必要な物資は300トンだと言われています。ところが食料はおろか水さえないアフガンではこれが500トンになったそうです。空軍もいるので正確な数字は不明ですが、師団換算でざっと8個師団としましょうか。

 これで1日4000トンの物資が必要となります。10トントラックで400台分。これは補給拠点までの数であってそこからさらに前線に運ばなければいけませんからその倍の800台は必要だったでしょう。これが1月で延べ24000台、1年で延べ28万8千台。これはゲリラから攻撃された損耗分は含みませんから気が遠くなるような膨大な数のトラックがいる計算になります。

 一度に10万トンも20万トンも運び込める輸送船とはわけが違うんです。ソ連が疲弊して、ついには共産党政権が倒れたのも理解できるでしょう。

 
 ではなぜ、ソ連軍高官が30万増強説を主張したかという謎ですが、私はそれほど組織が硬直して戦争経済に疎く戦争全体が見えない人物が軍の要職を占めていたと見ます。


 どちらにしても、ソ連は崩壊する運命にあったのかもしれませんね。

国際旅団とジャック・白井    - シリーズ スペイン内戦⑤完結編

 スペイン戦争が長く語り継がれた理由の一つとして、世界54か国の若者が参加した国際旅団と呼ばれる人民戦線側の義勇軍の存在がありました。

 コミンテルンが主導して世界中から共産主義者の若者たちを集めたのが実態でしたが、なかには思想に関係なく冒険心を満たすために参加した者や、純粋に人民戦線側の正義を信じて参加した者も多かったのです。

 しかし、戦争はそんな甘いものではありませんでした。スペインに来て初めて銃を持った者もいて、人民戦線側では内心持て余していました。どんなに犠牲を受けても自国の人間ではないので、半ば使い捨て感覚で常に危険な戦場に送られました。最大5万はいたとされますが犠牲者も1万を下らないと言われています。


 そんな中、国際旅団の記録に残っている一人の日本人がいました。彼の名はジャック・白井。1900頃日本の北海道函館生まれと言われています。一説では在日朝鮮人ではなかったかともされますがはっきりしません。貧しい家庭に生まれたらしく不遇の少年時代を送ります。1929年、心機一転アメリカに密入国した彼は、船員やパン職人を皮切りになんでもやり必死で働きました。その努力の甲斐あってか料理人としてある程度の成功をおさめます。


 その当時のアメリカ、ニューヨークの日本人社会はいくつかの階層があったとされます。外交官・商社マンなどのエリートが集まる「日本人会」、中産階級の商人たちが集まる「報国会」、そして日本の軍国主義に反対する社会主義系「日本人労働者グループ」です。


 白井は当然「日本人労働者グループ」に入りました。ただその生い立ちからか孤独を好み無口だったそうです。


 スペイン内戦が始まると、アメリカでも共産党がスペインに義勇兵を送ると発表します。すでに白井は30代後半、ホテルの料理人の職を得てアメリカ人の妻もいたらしいのですが、なぜか彼はこの義勇軍に参加します。根っからの冒険心からか、日本人労働者グループを通じて共産主義に共鳴していたのか、謎です。


 若いアメリカ人たちに交じってスペインに入った白井は、厳しい訓練を経て戦場に立ちます。幾度か死線をくぐる中で白井は自分の特技を生かし戦場のコックとして腕を振るい始めます。

 義勇軍の兵士たちにとっては、白井の作る料理が何よりの楽しみでした。戦うために戦場に来た本人は不本意だったでしょうが、兵士たちにとっては士気を鼓舞しにやってくる共産党政治委員の演説よりも、白井の作る戦場で食べるにはもったいないほどの美味しい料理の方が魅力だったのです。


 同じ部隊にいた兵士の証言ですが、白井は部隊の皆から愛され、陽気でいつもニコニコしていたそうです。子供を可愛がりとてもおだやかだったと記憶されています。思うに彼にとってスペインの戦場が一番の生き甲斐だったのかもしれません。孤独に苦しんだ白井にとって仲間というのは何物にも代えがたい良いものだったんでしょう。


 そんな白井にも最期の時がきます。マドリード攻防戦に投入された国際旅団はフランコ軍の激しい攻撃にさらされ苦戦していました。コックの仕事を離れて当初の希望通り銃も持って戦っていた白井は、ある時危険な伝令の役を買って出ます。

 機関銃座に向かって走り出していた白井は、狙撃兵に頭を撃たれ絶命しました。享年37歳であったと伝えられます。


 友軍の兵士たちは「戦うコック」として愛した白井のささやかな墓をたてました。
「ジャック白井。反ファシストの日本人。彼の勇気を称えて。1937年7月11日」これが墓碑です。しかし戦場のこと、今では彼の墓がどこにあったかはっきりとしないそうです。




 当時の共産主義は、自由主義や民主主義とほとんど同義と考えられていました。若者たちは無邪気な正義を信じて過酷な戦場で散っていったのです。これは現在ボランティアなどで海外に出かけていく日本の若者たちとも相通じる何かがあるような気がしてなりません。



 最後に国際旅団がどうなったのか記してこの稿を終えようと思います。1938年エブロ川攻防戦で莫大な損害を出した国際旅団は解散します。若者たちはそれぞれの祖国へ帰って行くわけですが、まず英米は、国禁をおかして義勇軍に参加した若者の帰国を認めませんでした。独伊でもファシスト政権に反対して共産軍に参加したわけですから帰国すれば死が待っていました。

 一部の若者はそのままスペインに残り戦い続けます。残りの者たちはかって人民戦線内閣があって彼らに同情的なフランスに渡ったり、比較的入国審査が緩やかな南米に新天地を求めました。

 スペインに残った者たちは、あるいは戦場に倒れ、あるいは戦後反逆者として処刑されます。アメリカ、イギリスは最後には帰国を渋々認めましたが、その後長く迫害を続けました。
 南米の渡った者たちも、故国へ帰る日を夢見ながら異国の地で生涯を終えます。




 スペインは多くの国民が犠牲になった内戦を忌まわしい記憶として忘れ去ろうとしています。国際旅団が悪と信じて戦ったファシストは滅び去り、自分たちが正義と信じた共産主義もいまでは悪として断罪されています。

 
 だとすると彼らが戦って死んでいったことは犬死だったのでしょうか?私はそうは思いません。後世の歴史では評価が変わったとしても、己が信じる道で死ねたことは彼らにとって幸せだったのだと考えるようにしています。

ゲルニカ爆撃 …バスクの悲劇    - シリーズ スペイン内戦④ -

 ここに一枚の絵があります。『ゲルニカ』と名付けられたこの絵は有名なパブロ・ピカソによって描かれました。


 1937年4月26日、スペインバスク地方の小都市ゲルニカに、ドイツのコンドル軍団を主力とするフランコ空軍のハインケルHe111、ユンカースJu52爆撃機が次々と来襲します。

 早朝4時から3時間、200トンの爆弾を投下しました。しかも機銃掃射まで次々と加えます。彼らが去った後には、瓦礫と化した町と1600人の死者、900名近い負傷者が残されました。内戦のさなか、爆撃によって民間人がこれほど虐殺されたことはありませんでした。アメリカ、イギリス、フランスの報道機関はこれを、残虐なファシストの悪魔の所業と決め付け、轟々たる非難を浴びせます。

 ピカソは非戦闘員に対する無差別な虐殺に怒り、悲しみ、「ゲルニカ」の絵にそれを込めました。


 このゲルニカ爆撃はファシストの非人間性の象徴として今でも語り継がれています。またドイツのコンドル軍団が、急降下爆撃の効果を試すために攻撃する必要性のなかった田舎町で実験したのだという人もいます。


 しかし、はたしてそうだったのでしょうか?スペイン内戦を調べていくうちに真相は別のところにあったのではないかと私は考えはじめています。

 まずドイツ軍の実験説については、爆撃の主力に肝心の急降下爆撃機Ju87スツーカがいなかったことから私は否定します。

 実は、このゲルニカは人民戦線側の部隊こそいませんでしたが、通信施設、補給拠点として重要な町でした。軍事上どうしても叩いておかなければいけない町だったのです。だからといって非戦闘員を巻き込むことが許されるのか?と言われると反論はできないでしょうが。


 意外と知られていないことですが、人民戦線側もフランコ側もできるだけ捕虜を取らずに殺すようにしていましたし、反対勢力側の民衆の虐殺も日常茶飯事でした。近親憎悪的な関係がテロの応酬でマヒしていたのです。人民戦線側も表には出ていませんがかなりの民間人を虐殺したと言われています。

 フランコ軍を責めるなら、それと同じくらい人民戦線側も責めるのが公平な態度でしょう。


 しかも、ゲルニカのあるバスク地方はまた別の意味を持っていたのです。ピレネー山脈の西方から大西洋沿岸のスペイン北部にかけてのバスク地方は、バスク語を話すバスク人と呼ばれる人たちが居住しています。かってのナバル王国の故地であきらかに周辺の民族とは異質な人たちでした。昔から分離独立運動が盛んでスペインを悩まし続けていました。

 内戦が勃発すると、人民戦線政府の方が自治を認めてくれそうだという理由で味方に付きました。首都マドリード攻略に失敗したフランコ軍は人民戦線の飛び地になっているバスク地方を制圧することで後顧の憂いをなくそうと激しく攻撃を仕掛けてきたのでした。

 この危機にバスクは人民戦線政府に救援を要求します。当然助けに来てくれると思っていたバスク人はいつまでたってもその動きがないことに愕然としました。スペイン人たちは、異民族であるバスク人をはっきりと見捨てたのです。そうでなければ救援の動きさえないということの説明がつきません。

 
 バスク人たちの哀れさはどうでしょう?スペイン人たちの戦いに巻き込まれ、味方からも見捨てられ、しかも多くの非戦闘員まで殺されたんですから。フランコ軍の無差別爆撃も、根底には異民族だからという蔑視がなかったとはいえないでしょう。


 人民戦線軍は、失敗したとしても何が何でもバスクを助ける努力をすべきでした。T-26やBT-5を先頭に押し立てて空軍の支援を全面的に振り向けたらピレネー沿いにバルセロナからバスクに至る回廊ができていた可能性があります。フランコ軍がポルトガル国境地帯を聖域として兵站ルートとしていたのと同様ピレネーのフランス国境ルートが聖域となったかもしれなかったのです。


 さすれば、イタリア海軍の通商破壊で地中海ルートを邪魔されても兵站が枯渇することはなかったはずです。当時はフランスも人民戦線内閣でしたし。異民族蔑視に凝り固まり戦争の大局が見える者が一人もいなかったのでしょう。

 その後の内戦の流れを見ていくと、ピレネー回廊がもしあったら別の展開になっていたと思います。


 バスク人の独立の夢はこのとき潰えました。しかし今でも分離独立を夢見て彼らは活動しているのです。

兵器の実験場    - シリーズ スペイン内戦③ -

 スペイン内戦が発生すると、独伊はフランコ側に、ソ連は人民戦線側に援助を開始しました。それは当然自陣営の勝利のためでもありましたが、それと同時に自国兵器がどれほどの能力を持っているかの実験場という性格も持っていました。

 特にソ連は45mm砲を持つ強力なT-26や、同じく45mm砲装備の快速戦車BT-5、世界初の実用引っ込み脚装備の金属製モノコック構造戦闘機I-16、複葉のI-15とともにそれを動かすパイロット、整備兵、高射砲要員など第1陣だけで2千人以上の軍事顧問団をスペインに派遣します。最終的にはおそらく万単位のソ連軍事顧問団がいたと想像させられます。

 一方イタリアは、正規師団1個と、ファシスト青年団の志願兵からなる3個師団(一部正規兵あり)の5万以上の大軍を送り込みます。空軍海軍も積極的にフランコ軍支援を行いました。

 ドイツはこれらの国とは違い理性的に対応します。空軍が主力のコンドル軍団(コンドル義勇軍)に若干の陸軍部隊のみ。ただし支援体制だけは充実し多数の整備兵のほかに88㎜高射砲からなる防空部隊まで持っていました。それでも航空機は戦闘機、爆撃機を合わせても最大で130機以内にとどまります。




 まず航空戦ですが、緒戦で数にものを言わせて圧倒したフランコ軍は、ソ連製のI-15、I-16が登場してくると危機に陥ります。独伊がスペインに送り込んだ旧式のハインケルHe51やフィアットCR32では太刀打ちできなくなりました。しかもソ連製戦闘機はどんどん増強され最終的には1千機も援助されました。爆撃機もソ連製のSB2爆撃機をフランコ軍側戦闘機は撃墜できず我が物顔でスペインの上空を飛びまわります。ドイツが派遣したポケット戦艦ドイッチランドを攻撃し中破に追い込んだのもSB2でした。

 ドイツ軍の爆撃機He111や急降下爆撃機Ju87スツーカも、自軍戦闘機が性能で劣るため十分なエスコートを受けられず苦戦します。この状況はドイツが最新鋭機メッサーシュミットBf109B型を1937年スペイン戦線に投入するまで続きます。Bf109はさすがに最新鋭機でした。I-15、I-16をその性能で圧倒し再びフランコ軍に制空権を取り戻しました。

 以後この優位は変わらず、数で押す人民戦線軍を質で凌駕するという緒戦とは全く逆の状況が最後まで続きました。




 次に陸戦を見てみましょう。内戦勃発時陸軍の多くが参加したフランコ軍は、民兵と外国からの義勇軍中心の人民戦線軍よりも有利でした。しかし陸戦でもソ連製のT-26戦車などの新型戦車が登場すると苦戦するようになります。フランコ軍はもちろんイタリア軍やドイツ軍にもこれを撃破できる車両はありませんでした。ドイツのⅡ号戦車が特殊砲弾を使用して500m以内の近距離ならかろうじて撃破できるくらいでした。この当時のソ連戦車は、ようやく世界各国が37mm砲搭載の戦車を開発しているとき、45mmという強力な主砲と機動力を持って世界を一歩も二歩もリードしていました。

 この先進性が、のちにT-34という傑作戦車を生み出す土壌でした。しかも空軍と違い最後まで新鋭戦車が投入されませんでしたから、機甲戦の不利は最後までフランコ軍を苦しめます。

 そんな中、ドイツのフォン・トーマ大佐(当時、のち将軍。名機甲部隊指揮官となる)は能力に劣る戦車でも集団で使用し、有機的に運用すれば機動力で圧倒できるという事実に気づきます。後方支援も足の遅い砲兵ではなくて空の砲兵である急降下爆撃機にまかせれば良いと。スペインで得られた戦訓は早速ドイツ本国に送られます。こうして完成したのがのちの電撃戦戦術でした。

 逆にソ連は、戦車だけで突進しても歩兵が付いてこなければ戦果の拡大は得られないとの戦訓から諸兵科連合部隊戦術を学びました。

 こうしてスペインの戦場で得られた戦術が第2次世界大戦で実際に使用され、戦史に一時代を築くこととなるのです。




 最後に海軍の戦いを見ていきましょう。スペイン海軍は戦艦2隻、重巡2隻を中心になかなかの勢力を持っていました。しかし内戦が始まると戦艦は1隻ずつ仲良く両陣営に分けられます。本格的海戦は起こらず機雷や事故で戦闘能力を失いどちらも戦局に全く寄与しないまま終わりました。むしろ活躍したのはイタリア海軍です。と言っても表立って活動できないイタリア海軍は潜水艦を使って地中海上の人民戦線側に軍需物資を運ぶ輸送船を次々と撃沈していきました。ソ連船はもとより英米の輸送船まで沈めたためイギリスが激怒します。

 「今後地中海で国籍不明の潜水艦を発見した場合、容赦なく沈める」というイギリスの強硬な申し出をなんとイタリアはぬけぬけと賛成したのです。このあたりのイタリア外交はまさに絶頂期であったといえます。地中海でイタリア潜水艦を沈める能力を持っていた海軍は英仏だけでしたから、これらの輸送船に対する攻撃を控えただけでした。

 英米もファシズムと共産主義の共倒れを願って両陣営に援助していましたから、こうなると黙りこまざるを得なくなります。それよりもフランコ軍は輸送船の入ってくる港を占領することに全力を挙げるようになりました。

 一方、フランコ軍はポルトガルの港という絶対の安全圏を持っていました。ポルトガルはイベリア半島の赤化を恐れ密かにフランコを援助していたのです。武器や弾薬もまずポルトガルが英米から買い、それを陸路を通じてフランコ軍に流すという方法で安定的供給を保っていました。

 兵站の面ではすでに勝負がついていたと言えるでしょう。制海権を完全に握ったフランコ軍はドイツのポケット戦艦まで地中海に引き込み人民戦線側の通商破壊を続けました。






 海空は完全にフランコ軍の優勢、陸だけがソ連製の高性能戦車の力で互角を保っていましたが、ソ連軍事顧問団の引き上げとともにこれも勝負がつきました。人民戦線の勝ち目はこうしてみるとかなり薄かったと言えるかもしれません。

内戦の行方    - シリーズ スペイン内戦② -

 スペイン内戦勃発直後の両陣営の勢力は、おおざっぱにいって旧カスティリアと中心とする中央部の高原地帯、セビリアを中心とするアンダルシアの西半分、イベリア半島対岸のモロッコ植民地がフランコ軍の勢力下、それ以外が人民戦線側に入りました。

 軍隊は精鋭のモロッコ駐屯軍を主力とする陸軍の約8割がフランコ軍の勢力下にはいりました。ここで一言述べさせていただくと、フランコ軍というのは正確な表現ではありません。確かにフランコは指導的立場にはありましたが、もう一人の有力な指導者としてエミリオ・モラ・ビダールがいました。彼はバスク地方攻略戦の途中、なぞの飛行機事故で亡くなります。フランコがライバルであるモラを暗殺したのではないかという説が流れましたが、両者の関係は良好であったという証言もあります。ただしこれによってフランコの独裁体制が確立したのも事実です。真相は謎としておきましょう。

 一方、空軍、海軍は半々でした。なかでも海軍では数々の悲劇が起こりました。逃げ場のある陸軍と違って海上行動中の海軍艦艇では逃げ場がありません。海上でフランコの蜂起を聞かされた海軍では、フランコの味方に付こうとする士官と、人民戦線に忠誠を誓う水兵の間に銃撃戦が起こった艦もありました。

 ある艦では士官すべてが銃殺され水兵に乗っ取られたものや、両者が争っているうちに艦がフランコ側の軍港に入ってしまい、否応なくフランコ軍についてしまったケースもありました。内戦の間、海軍が振るわなかったのは開戦初頭の混乱が大きな原因でした。


 諸外国の対応ですが、共産政権よりはファシスト政権がましとして冷やかに見守った英米、同じ共産政権の危機に全力を挙げて応援したソ連、スペインと同じく人民戦線内閣が成立し当初スペインに援助を与えながら政府が2年で崩壊したため急速に手を引いたフランス、共産政権による包囲体勢を防ぐため積極的に軍事援助を行った独伊などさまざまでした。


 他方、民間では悪の全体主義を倒すため54カ国から5万以上の若者たちが義勇軍を結成し、国際旅団として人民戦線側に立ち参戦します。もちろん筋金入りの共産主義者が大半でしたが、左翼の宣伝に騙され純粋に正義を信じる者、冒険心を満たすためだけに参加した若者なども少なくなかったのです。

 彼らの悲劇については、のちに詳しく述べたいと思います。


 国内の支持層も、都市部では労働者を中心にして人民戦線側支持、農村部はカトリック系農民を中心に保守派のフランコが根強い支持を受けていました。兵力は互角、ただ正規軍の多いフランコ軍は一枚岩でしたが、人民戦線側は社会主義者、共産主義者、無政府主義者(アナーキスト)の対立が抜き差しならぬものになっておりフランコ軍と対峙中にも勢力争いで流血の事態に至るなど呆れるばかりの内情でした。そしてこれが最大の敗因ともいわれます。


 そんな人民戦線が曲がりなりにも1939年まで持ちこたえたのは、ソ連の莫大な軍事援助があったからでした。これものちに詳しく書きますが、T‐26、BT‐5などの当時最新鋭の戦車、I‐15、I‐16などの戦闘機はフランコ側のドイツ、イタリア製の戦車や戦闘機を圧倒するほどの活躍をします。

 
 おおざっぱな内戦の経過を振り返ると、まず首都マドリード攻略を企図したフランコ軍の攻撃を人民戦線軍が撃退します。以後首都は内戦終結近くまで人民戦線軍が保持しました。

 フランコ軍は人民戦線の飛び地のようになっているバスク地方の攻略に切り替え激しい攻撃を加えます。このときピカソの絵で有名なゲルニカ爆撃が敢行されました。人民戦線側はカタルニャ、バレンシア、ムルシアの地中海沿岸部とマドリードを中心とした中央部を支配するのみでした。しかも古都トレドは激しい攻防戦のすえフランコ軍の手中に落ちマドリードは大海の中にたたずむ孤島のような状態におかれます。

 人民戦線政府は早々と地中海沿岸のバレンシアに脱出し、市民と義勇軍は置き去りにされました。そんな絶望的な状況のなかで頑強に抵抗した彼らは称賛に値すると思います。

 1937年秋には、だれの目にもフランコ軍有利が明らかになります。人民戦線側はこの劣勢を打開するため1938年夏大攻勢に出ました。北東部の大都市バルセロナとマドリードの間の地域を打通するためスペイン北東部を流れる大河エブロ川沿いにいたフランコ軍を10万の部隊が攻撃します。

 これは当時の人民戦線政府軍が集められた最大の兵力でした。この地域のフランコ軍を撃破することで休戦の道を探ろうとする最後の賭けでした。戦闘は100日にわたって繰り広げられます。

 フランコ軍は、この危機に際し各地から30万以上の部隊を集結させます。一進一退の攻防でしたが、早くも8月10日にはソ連軍事顧問団が撤収を開始しました。これはアメリカ軍の南ベトナム撤兵と同じくらいの衝撃を人民戦線に与えます。ソ連としては遠く極東の地でノモンハンなどの国境紛争を日本と争っていたため余裕がなくなったというのが理由でしたが、置き去りにされた人民戦線側としてはたまったものではありません。ソ連製兵器だけが唯一の拠り所だったからです。

 もちろんいくらかの兵器は残されましたが、それを動かす人がいない以上同じ戦闘力は得られません。そのなかでエブロ川の戦いは11月15日まで続きました。

 事実上エブロ川の戦いが天王山でした。この戦いに敗北した人民戦線軍の組織的抵抗は終わり残敵掃討の段階に入ります。以後バルセロナを中心とするカタルニャ地方が占領され、1939年1月22日人民戦線臨時首都のバレンシア陥落、3月28日マドリードにフランコ軍が入城して内戦は終結します。


 1939年3月30日内戦終結宣言が出されました。人民戦線首脳は首都が陥落するはるか前からフランスなどの外国に逃亡しています。最後まで抵抗した人民戦線側の人間に対する弾圧は苛烈を極めました。歴史上ここまで無責任な政権はあまりないような気がします。あの腐敗していた南ベトナム政府でさえ首都陥落の直前までサイゴンに残っていたではありませんか!

 おそらく政府首脳が脱出した後でも、兵士たちは絶望的な戦いを続けていたはずです。両軍とも近親憎悪からお互いに残虐行為を繰り返し、捕虜になってもいずれは殺されると分かっていたでしょうから兵士たちの絶望はいかばかりか…。

 歴史にIFは禁物ですが、人民戦線政府がマドリードから逃げ出さずに死守していれば、ソ連の覚悟も違ったものになったのではないかと思います。あるいはバレンシアで彼らは死ぬべきでした。革命に殉ずるのですから本望でしょう。何百万という犠牲者を出しておいて自分たちだけが生き残ろうというさもしい考えでは戦争は負けるに決まっています。

 そして彼らが華々しく散ってこそ人民戦線の正義というものが歴史に残ったのではないですか?


 むろん共産主義政権を容認するものではありませんが…。


 その後のスペイン史を簡単に振り返ってこの稿を終わりにしたいと思います。スペインはフランコによるファシスト独裁政権が1975年のフランコ死去まで続きます。スペインこそが歴史上最後のファシスト国家といってもよいでしょう。

 フランコはしたたかな外交で国難を切り抜けました。第2次大戦が勃発しても内戦での疲弊を理由に中立を保ち、戦後には宿敵であったソ連や中国とも国交を樹立します。曲がりなりにもスペインを滅亡させず経済を復興させ国民生活を安定に導いた功績は認めなければいけません。

 独裁政権という影の部分はあるとしても。彼の信条として、「腐敗した民主政治よりは清廉な独裁政治の方が良い」というものが根底にあるような気がしてなりません。実際彼はチャウシェスクなど他の独裁者に比べれば生活ぶりは質素だったといいますから。


 いろいろ批判はあるにしても彼が世界史的に見て傑物だったことは間違いないでしょう。フランコは遺言によって後継者にカルロス(国王)を指名します。以後スペインは民主国家として生まれ変わり現在に至っています。

内戦はなぜ起こったか?    - シリーズ スペイン内戦① -

 最近、スペイン内戦のことを考えることが多いです。ファシズムなどの全体主義が人類にとって不幸をもたらす体制だったということは歴史が証明していますが、民主主義と社会主義のどちらが良かったのか?という命題についていまだ結論がでていません。むろん世界の大多数の人間は民主主義がよりましだろうということでコンセンサスが得られているんですが、いまだ中国をはじめ社会主義、共産主義の国家があるのも事実。


 その結論を出すのに多くのヒントを与えてくれるのは、じつはこのスペイン内戦だったのではないかと愚考する次第です。

 私は何回かに分けてこの問題を考えていこうと思っています。その前にスペイン内戦を知らない人のために…


『スペイン内戦(スペインないせん、Guerra Civil Española、1936年7月 - 1939年3月)とは、第二共和政期のスペインで勃発した内戦。マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府と、フランシスコ・フランコ将軍を中心とした右派の反乱軍とが争った。反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦が支援し、フランコをファシズム陣営のドイツ・イタリアが支持するなど、第二次世界大戦の前哨戦としての様相を呈した。』(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)



 一応シリーズとして

(1)スペイン内戦の原因  

(2)戦争の経過

(3)独・伊とソ連の軍事援助と陸海空の戦闘

(4)コンドル軍団とゲルニカ爆撃 バスクの悲劇

(5)国際旅団とジャック・白井

を予定しています。



 本稿では、スペイン国民のすべてを巻き込んだ内戦がなぜ起こったのかについて考察したいと思います。


 意外に思われるかもしれませんが、第2次大戦前には社会主義、共産主義は今で言うと民主主義とあまり変わらないものという認識が蔓延していました。これは巧妙な左翼側の宣伝もあったでしょう。さらには、戦後明らかになる社会主義、共産主義国による人権弾圧、自国民の虐殺の事実を誰も知りませんでしたから。

 むしろ国民を抑圧する体制である全体主義国家こそが悪だというものが多かったのです。だからこそ自らファシストを宣言し人民戦線政府に対して反乱を起こしたフランコ将軍派を悪と決め付け、人民戦線政府こそ民主主義を守る正義の政府という(今から見ると噴飯ものの)彼らの宣伝を信じ、アーネスト・ヘミングウェイやジョージ・オーウェルなどの知識人までがこれを応援するという状況が現れたのだと思います。当時の若者たちが、熱狂して人民戦線側の義勇軍、国際旅団に大挙して参加したのも正義を信じたからでしょう。


 しかし内戦の本質はそんな生易しいものではありませんでした。作家の三野正洋さんはスペイン内戦の遠因は米西戦争にあったと指摘しています。私は彼の本を読んで衝撃を覚えました。

 米西戦争こそ、それまで植民地帝国の余喘を保っていたスペインを決定的に凋落させた戦争であり、その戦争で新興国アメリカに敗れたことでスペイン社会の様々な矛盾があふれてくるのを防いできた軍部に対する国民の信頼を失墜させ、矛盾をむき出しにさらけ出すようになってしまったのが根本の原因であったとする彼の主張は卓見だと思います。

 それまで植民地からの収奪に頼り内政に心を配らなかった当時のスペインは、貴族と教会が国土の80%もの土地を占有するという前近代国家でした。農民は貧しく産業も発展していないため、都市の労働者も苦しい生活を強いられていました。

 スペイン政府としてもこの状況にただ手をこまねいていたわけではなく何回か土地改革を試みてはいました。しかしスペイン継承戦争、ナポレオン戦争などでスペイン王権は統治者としての権威を失墜し、軍部までが国民の信頼を失ったとなっては効果があるはずもなく、事態はますます悪化していったのです。


 このままではいけないとスペイン人の誰もが考えていました。中でも都市の知識人と労働者を中心とする左翼は、成功している(ように見えた)ソ連のような共産主義体制国家の樹立こそこの危機的状況を解決するただ一つの手段だと思い始めていました。

 一方、右翼の側でも軍部を中心にたとえ個人の権利を一時制限しても全体主義国家体制での強力な改革こそ危機打開の道だと考えはじめていました。


 疲弊した国家を何とかしたいという考えは一つでしたが、その手段の違いがのちに国民全部を巻き込んだ流血の事態に陥らせるのですから、まさに悲劇でした。


 スペイン各地で左右両勢力による小競り合いは続きました。そんななか1936年総選挙が行われます。人民戦線派58%、ナショナリスト28%、残りは中間派という結果でした。

 実はそれ以前の1931年それまで続いていたプリモ・デ・リベラ将軍による軍事独裁政権を倒し左翼勢力が第2共和政政府を樹立していたのですが、1933年に右派が政権を奪い返すなど混乱が続いていたのです。1931年国王アルフォンソ13世も左翼政権誕生を機に退位していたので国民をまとめる象徴が何もないまま混乱だけが際限なく拡大されるという末期的状況でした。


 この総選挙でも、左翼政権が自分たちに都合のよい選挙制度を作り有利な態勢で選挙を行ったという批判が右派から上がりました。実際調べてみると、左派47%、ナショナリスト43%という得票率でした。

 国民の不満は大規模なストライキ、左右両派のテロという事件によってさらに増幅されます。これはもはや内戦にならないのが不思議なくらいでした。ある資料によると左右両派のテロの犠牲者が1800人を上回ったというほどです。

 そしてついに、右派の輿望を集めるフランシスコ・フランコ将軍の実権を奪うため、人民政府が彼を閑職であるバレアス諸島守備隊の司令官に左遷しようとしたことが発火点となりました。

 フランコ将軍自身、国家の危機的状況を救うには軍部による統治以外ないと公言しており、人民戦線政府に睨まれていましたから、フランコこそスペインの救世主と信じる軍部の青年将校たちは激昂しました。

 1936年7月18日、青年将校に推される形でフランコはついに立ち上がります。人民戦線政府打倒を公式に宣言し、配下の部隊に戦闘開始を命令しました。

 以後33か月にわたってスペイン全土、全国民を巻きこんだ内戦が勃発したのです。

 
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 第2部では、内戦の大まかな経過を述べたいと思います。いつ完結するか分かりませんが、情熱の続く限り努力したいと考えているところです。

『徴姉妹の乱』

 ベトナムの北部トンキン湾に面した一帯は、漢字で越南と書きます。伝説では中国の戦国時代に滅ぼされた越の一派が南下してこの地に至ったものとも言われています。一方お隣のタイは、同じく楚と同族と言われていますから、漢民族の拡大とともに辺境に追いやられたのでしょう。越族もタイ族(楚)も華中から華南にかけて広く分布していたと想像されます。


 トンキン湾沿岸に落ち着いた越族でしたが、秦王朝が大陸を統一するとこの地にも進出してきます。嶺南三郡のひとつ象郡がこの地におかれますが、秦末の混乱期に南海郡太守の趙佗が桂林郡と象郡を合わせて独立、「南越国」を建国しました。

 これが漢民族によるベトナム支配の始まりとして民族に深く記憶されました。ところでベトナム人はおとなしく異民族支配を受け入れる民族ではありませんでした。何度も反乱をおこしついには独立を勝ち取るまでになりました。特に元朝には三度も侵略を受けながら得意のゲリラ戦法で撃退に成功しています。


 そのベトナム史上最初の異民族支配に対する反乱が、この『徴姉妹の乱』です。


 反乱の指導者である姉の徴側(ちょうそく[チュン・チャック])と妹の徴弐(ちょうに[チュン・ニ〕)は、ベトナムのジャンヌ・ダルクとも称され国民的英雄になっているそうです。この姉妹、生没年は不詳ですが老婆やおばさんだと面白くないので、うら若き美女として書きすすめます。



 南越が漢の武帝によって滅ぼされると、北ベトナムは再び異民族支配を受け入れます。漢はこの地に交趾郡を設け支配しますが、時の太守、蘇定(水滸伝に出てくる曾家の武芸副師範じゃありません、同じ名前だけど・爆)が悪政を布いたため越人たちの不満は限界に達しつつありました。

 徴氏は土地の有力者で、漢人太守に代わって租税を取りまとめる役をしていたそうですが、あるとき徴側は夫である詩索(ティ・サック)を漢軍に殺されてしまいます。

 殺された理由ははっきりしないのですが、漢人にとって異民族である越人は税を取り立てる対象で奴隷だという認識しかなかったのではと想像します。辺境に来るような者は、ひと財産を築くためひどい収奪をしていたのでしょう。あまりの暴虐ぶりに抗議した詩索をうるさくなった蘇定が殺したというのが真相に近いのでしょう。


 しかし、これがきっかけとなって紀元40年越人たちはついに怒りを爆発させ、漢族支配に対する反乱を起こしました。反乱軍のリーダには土地の有力者で詩索の妻でもあった徴側とその妹、徴弐が祭り上げられました。加わったのは合浦・九真・日南各郡65の県の貉将・貉侯と言いますから北ベトナムのほとんどが反乱に加わったのでしょう。


 徴姉妹は戦象の上に乗って反乱軍を指揮、またたくまに駐留していた漢軍を撃破します。もともと剽悍な民族である越族が異民族支配に怒っていたのでその強さは恐るべきものでした。

 徴側は「徴王」を自称し、自らの宮殿を築き独立を宣言します。事態を憂慮した後漢の光武帝は名将、伏波将軍・馬援を総大将、劉隆を副将に任じ反乱鎮圧を命じます。

 馬延は大軍では補給が困難だからと、2万の兵力で進軍しました。しかしそれでもジャングル地帯を進む漢軍は補給に苦しんだといいます。悪天候と疫病にも悩まされました。

 一方、徴軍も厭戦気分が蔓延していたため決戦に訴えるしかありませんでした。紀元43年両軍は浪泊と言う場所でぶつかります。

 数は徴軍のほうが勝っていたはずですが、初めて対戦する漢の正規軍、しかも名将馬延の指揮となれば勝負は見えていました。大敗した徴軍は数千の戦死者を出し1万人が捕虜になりました。

 徴姉妹は側近とともに危機を脱しましたが、馬延の追及は厳しくついに捕らえられ処刑されます。姉妹の首は遠く後漢の首都洛陽に送られ晒されました。

 
 馬延が完全にこの地を制圧するには数年かかったと言います。負けはしましたが、強大な異民族に抵抗した徴姉妹の名はその後も深く民族に記憶されました。いまでもベトナムの人たちは彼女たちを愛し、通りの名にしたり、神として祀っているそうです。

兵站面から見た『シュリーフェン計画』

u 皆さんは『シュリーフェン計画』なるものをご存じでしょうか?よほど戦史や世界史に詳しい方でないとご存じないと思いますが…

『シュリーフェン・プラン』とは --------------------------------------------------------------

 シュリーフェン・プラン(Schlieffen-Plan)は、19世紀後期のドイツ帝国の軍人アルフレート・フォン・シュリーフェンによって立案された、西部戦線におけるドイツ軍の対フランス侵攻作戦計画である。
 ドイツ帝国宰相ビスマルクの外交政策はフランスを孤立に追い込むことを目的としていたが、1890年にビスマルクが失脚すると、その外交政策の中軸であったロシアとの独露再保障条約は延長されなかった。さらに1894年、フランスとロシアは露仏同盟を締結し、ドイツが対フランス・ロシアの二正面作戦に直面する可能性は高まった。

ドイツ参謀総長シュリーフェンは、二正面戦争解決の手段として、フランスを全力で攻撃して対仏戦争を早期に終結させ、その後反転してロシアを全力で叩こうと考えた。こうして立案された「シュリーフェン・プラン」は、フランス軍が主力を置く独仏国境地帯を直接攻撃するのを避け、ドイツ軍の主力が中立国ベルギーに侵攻し、イギリス海峡に近いアミアンを通過。その後は反時計回りにフランス北部を制圧していき、独仏国境の仏軍主力を背後から包囲し殲滅するというものであった。作戦の所要時間は1か月半とされた。

【フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より】
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 シュリーフェン計画は、ビスマルク退陣後、二正面作戦を余儀なくされたドイツが生き残るために時の参謀総長シュリーフェンが立案した大作戦です。

 東方のロシアの動員速度が遅いことを利用し、東プロイセンには抑えの兵力だけを残し、全軍の85%の兵力で西部国境に大軍を集結し、電撃的にフランスを制圧した後にロシアに兵力を振り向け勝利するという計画でした。


 しかしあまりにも博打の要素が大きく、後任の参謀総長小モルトケ(大モルトケの甥)はこの計画を修正し、東西の兵力比を抑え本来ならオランダまで巻き込んだ西部戦線右翼の旋回をベルギー通過まで抑制し、そのために第1次世界大戦でドイツが負けたと歴史家に非難されました。


 私も最初はそれを信じていたんですが、最近読んだ本『補給戦』(中公文庫・マーチン・ファン クレフェルト 著)で、まったくの誤りだと分かりました。

 この本は18世紀から20世紀までの戦史における兵站を扱った良書で、補給戦の実態を具体的な数字を挙げて記し目から鱗でした。


 著者によると、普墺戦争以来鉄道を利用した兵站でドイツ軍が勝利したという通説は誤りだそうです。たしかにドイツ軍は鉄道を利用し兵力や物資を運ぶのに長け、兵站拠点を前線に進出させていくことで充分な補給を得ていたというのが通説でした。


 しかし実態は計画通り進むことは少なく、軍隊の前進に補給部隊が追い付くことができずに混乱をきたし、部隊は敵からの鹵獲品や現地徴発で急場を凌いだそうです。

 確かに言われてみれば第2次世界大戦においても、超大国アメリカですらノルマンディ上陸後アルデンヌ攻勢を受けるまで補給には苦しみました。


 一説によると1個師団が1日に消費する物資は300tだそうです。仮に20個師団とすると1日で300×20で6千トン。これが1か月で18万トンという膨大な数になります。

 貨物列車と車両を総動員しても国庫に対する負担はものすごい数になります。よく日本は補給を軽視したと非難されますが、アメリカにおいてさえこうなのですから、貧乏国家の日本では土台無理な話だったのです。まして海上輸送のコストまでかかるとしたら…。


 話を本題に戻しますと、参謀総長シュリーフェン自身は鉄道を利用した補給計画を立てていました。戦場になる欧州西部はもっとも鉄道網が発達した地帯で、大体1個軍団に1本補給線として鉄道網が利用できるようにしていました。

 しかし、その鉄道は常に安全というわけではありません。敗退する敵軍による爆破もあるでしょうし、後方ではパルチザンの破壊もあるでしょう。さらに敵も、相手に自国の鉄道網を利用されるのを防ぐため要所要所に要塞を築き、鉄道網を寸断していました。

 ドイツ軍は、これに迂回線を建設することで対処しようとしましたが、兵力をこちらに回すと戦闘正面での衝力が弱体化します。後方のパルチザン対策にも兵力を取られ、最終的な西部戦線での勝利のカギであるスピードが大きく削がれることになるのです。


 なかでも一番の問題は最右翼の第1軍でした。計画ではオランダ・ベルギーを縦断し大西洋をかすめるようにしてパリ近郊に至る長大な行軍を余儀なくされます。戦闘ももちろん大変ですが、それ以上に長大な補給線の維持は実現不可能でした。

 小モルトケは、参謀総長に就任してすぐシュリーフェンプランのこの欠陥に気づき、計画を修正したのです。小モルトケは戦闘区域を縮小し第1軍の旋回をベルギー中央部を通るように修正しました。

 戦史研究家は、そのためにベルギー軍主力が旋回面の外にあるアントワープ要塞に逃れることを許し、スピードを削がれたためにドイツは西部戦線で敗退したと非難しています。なかには無能呼ばわりしている史家さえいるのです。


 しかし、実態は兵站面からみてシュリーフェン計画は実現不可能でした。小モルトケはそれをなんとか実現できるよう現実的に修正しただけだと思います。成功しなかったとはいえパリ50キロの近郊まで曲がりなりにも接近することができたのですから、国力の限界を考えるとあれが精一杯だったのかもしれません。


 兵站の面から、あらためて戦史を見直すと気付かないところが見えてきて勉強になります。

世界史英雄列伝(38) 『シェール・シャー』 インド史上一代の英傑

 久しぶりの英雄列伝更新、しかも世界史カテゴリーで最も人気のないインドシリーズでございます(爆)。

 もの凄い私のブログのファンでインドシリーズを読んだという記憶力の良い奇特な人は、憶えていらっしゃると思いますが(そんな人はごく一握りですが…苦笑)、『アクバル大帝と第2次パーニーパットの戦い』の記事でムガール朝二代皇帝フマユーンをインドから叩き出し自らのスール朝を建国したシェール・シャーは非常に興味深い人物だと紹介した事があります。
http://blogs.yahoo.co.jp/houzankai2006/11498104.html

 あの時は資料が揃わなくて、アフガン貴族出身であること、かってはムガール朝にも仕えていたこと、一代で王朝を築いたシェール・シャーは短い治世の中統治機構を整備し、それがインドでの覇権を奪回したムガール朝アクバル大帝によって受け継がれたこと、くらいしか分かりませんでした。

 今ある程度資料がそろいましたのでこの機会にご紹介します。

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 シェール・シャー(1486年~1545年、在位1540年~1545年)は、インド・ビハール州で生まれました。ビハールはインダス川中流から下流域あたり、ベンガルに近いところです。彼の家系はもともとアフガン貴族出身でインドの征服王朝であるロディ朝に仕えていました。

 シェールの父は、ビハールの一地方の領主でした。15歳のとき遊学してアラビア語、ペルシャ語を学んだと伝えられています。彼は幼少から優れた資質を見せその行政手腕から父の領地の管理を任されていたそうです。しかし継母との折り合いが悪く、家を飛び出してそのころロディ朝を滅ぼしてインドに覇権を確立しつつあったバーブルに仕えました。

 ただバーブルの覇権が確立した時期は、第1次パーニーパットの戦いのあった1526年ですから、シェールがバーブルの下に赴いたのはその前だった可能性があります。

 だとすると、恐るべき慧眼です。まだ海のものとも山のものともつかないバーブルに将来性を見出したのですから恐れ入ります。そのころのバーブルは本拠のサマルカンドをシャイバーニー・ハーンのウズベック族に奪われ、奪回を図るも失敗、仕方なくインドに矛先を変えてパンシャブ地方を巡ってロディ朝と抗争を繰り返していたところでした。

 一応シェールがバーブル軍に従軍したのは1527年4月から1528年6月と資料にありますので、その線で話を進めましょう。


 一代の英雄バーブルは1530年、アーグラでの地において48歳で崩御します。そのころシェールは一時仕えていたビハール太守バハール・ハーンの下に戻っていたようです。バハールもシェールの才能を認めていて、幼い我が子ジャラールの家庭教師兼統治代行者(日本で言えば摂政に当たるでしょうか?)に任ぜられます。

 しかし、バハールが死去すると権力は次第にシェールのもとに集まりました。程なくしてビハール州の実質的支配者になったシェールは1531年、バーブルの後を継いだ息子の二代皇帝フマユーンに反旗を翻し独立を宣言します。

 ジャラールや他のアフガン貴族達には寝耳に水でした。彼らは隣国ベンガルのムハンマド・シャーと同盟を結びシェールを除こうとします。しかし機先を制したシェールは電撃的にベンガルに侵攻し1534年にはベンガル軍をキウル川で破りました。

 1537年頃にはベンガルの支配権も確立し、シェールはビハールと併せた国の領主となっていました。ジャラール一派がどうなったのかは不明ですが、戦いに敗れ殺されたか、宗主国であるムガール皇帝フマユーンのもとへ逃れたかどちらかでしょう。

 日の出の勢いのシェールに対し、フマユーンはついにその重い腰をあげます。しかしムガール軍は1539年のチャウサ、1540年のカナウジの戦いで相次いでシェール軍に敗れ逆に本拠地に攻め込まれる始末でした。

 1540年、ムガール帝国の首都デリーと要衝アーグラが陥落します。皇帝フマユーンは命からがら逃げ出しサファビー朝ペルシャに亡命しました。彼がサファビー朝の援軍を得て再びインドに帰って来るのは15年後のことです。

 シェール・シャーはデリーにおいて即位、スール朝の建国を宣言します。54歳になっていました。シェールはその後もムガール側に残ったパンシャブ地方やラージプート族への戦いを続けます。1545年彼が死去するときには北インド一帯を占める大帝国が出現していました。

 彼は5年間という短い治世の間に行政・司法の仕組みを整え税制を改革し道路網を整備して経済の発展に努めました。これはインドを奪還したムガール帝国がそのまま受け継いだことからも、その優秀性がうかがえます。例えば彼が創始した貨幣制度で誕生したルピーは今でもインドや周辺諸国で流通しています。

 中国史において、後周の世宗・柴栄の治績にも匹敵するようなシェール・シャーの統治でした。


 しかしスール朝は後継者に恵まれませんでした。1553年に第二代スルターン、イスラーム・シャーの統治が終わると後継者争いで帝国は分裂し、そこをペルシャで逼塞していたフマユーンに衝かれ1555年には再びデリーがムガールの手に戻ります。その後三代皇帝アクバルが即位すると分裂していた各王朝はことごとくムガールに滅ぼされました。

 
 王朝の寿命はわずか15年、インド史においては仇花のような政権でしたが、その影響は現在までも続いています。


 とすれば、シェール・シャーという人物はインド史上において一代の英傑だったと言えるのではないでしょうか。

謎の民族「ヒクソス」と出エジプト記

 皆さんは旧約聖書出エジプト記をもとにした映画「十戒」をご覧になった事はありますか?チャールトン・へストンがモーセを演じて、エジプト王の圧政から逃れ紅海を割ってユダヤ人を導く奇跡を示したクライマックスはあまりにも有名ですよね。

 エジプトを脱出したユダヤ人はすくなくとも数万、あるいは数十万もいたような感じでしたが、私鳳山の悪い癖は、なぜそんな大量のユダヤ人がエジプトにいたのかという事に疑問を感じたのです。

 モーセのようにエジプト王の養子になって宰相になった者などごく少数で、大部分は奴隷のような境遇だったように見受けられました。当時のエジプトはたしかに大国で近隣諸国を圧する勢いでしたが、それにしても異民族数十万とは多すぎます。戦争で征服し捕虜にしたにしてもそんなに増えますか?あんまり多すぎると、こんどは彼等が蜂起して王権を奪われる可能性もでてくるのではないでしょうか?


 そこで私はヒクソスという異民族の存在を考えました。

『ヒクソスはエジプト第2中間期と呼ばれる時代に古代エジプトに登場した人々。彼らは一般にシリア・パレスチナ地方に起源を持つ雑多な人々の集団であったと考えられている。ヒクソスと言う呼称は「異国の支配者達」を意味する古代エジプト語、「ヘカ・カスウト」のギリシア語形に由来する。ヘカ・カスウトはしばしば「羊飼いの王達」とも訳されていたが、現在では誤訳であるとされている。

トリノ王名表によれば6人のヒクソス王が108年間在位したと伝えられている。マネトの記録によれば第15王朝の王も6人とされており、一般に「ヒクソス」、「ヒクソス政権」などと表現した場合、第15王朝を指す。また、第15王朝を大ヒクソス、第16王朝を小ヒクソスと呼ぶ場合もある。』(ウィキペディアより)


 ヒクソスは鉄器と戦車を使ってエジプト中王国を滅ぼし一時エジプトを支配した異民族です。ナイル上流のテーべの豪族が立ち上がってヒクソス支配を撃ち破りこれを駆逐して新王国を成立させるのですが、
出エジプト記の時代は新王国(紀元前1570年頃 - 紀元前1070年頃)の出来事だとされます。

 ヒクソスの出自は謎とされています。一説ではフルリ人とも言われますが、大雑把に見てシリア・パレスチナに住んでいた西セム系の人々の集団だったという説が有力になっています。


 そこで出エジプトの話。ここから先は暴論でキリスト教やユダヤ教関係者が怒り狂うかもしれないんですが、まあこういう見方もあるということで大目に見てくださいませ。

 西セム系のなかには当然ユダヤ人も入ります。むしろヒクソスを形成する有力な民族ではなかったかと推測します。だから大量にエジプトに流入した。しかし、異民族支配は長く続かず、エジプトの実権はエジプト人に取り戻されてしまいます。残されたユダヤ人達はどうなったか?どこに行ったか?そりゃ一部は戦車に乗って一目散にパレスチナに逃れたでしょう。
 でもかっての満蒙開拓団のように、逃げる手段を持たなかった人々はエジプトに残らざるを得なかったと思います。支配者と被支配者の関係が逆転してしまった。エジプト人は、かっての支配の恨みもありますからことのほか辛くあったのではないですか?

 ということは、エジプトの圧政から逃れた出エジプトも、もとはといえば征服者としてエジプトに来たユダヤ人が悪い。自業自得ではないかと。歴史学者もあからさまに言わないだけで、うすうす気付いているのではと邪推したくなります(笑)。



 わたしは別にユダヤ人が嫌いなわけではないですよ。むしろ周囲を敵に囲まれても国威を示し、独立を保っているイスラエル国家に敬意さえ抱いてるくらいなんですから。ただ、こう考えると合理的だと思うだけでして。許して~!(笑)

邯鄲の戦い   - 信陵君の義 -

 趙の国力を大きく衰退させた長平の戦いから二年、紀元前258年秦は趙の都邯鄲を大軍を持って包囲します。率いる秦将は名将白起。趙の滅亡は時間の問題となりました。

 しかし、秦の宰相范雎はこのまま白起が趙を滅ぼす大功をあげると勲功が巨大になりすぎ自分を凌ぐようになると警戒し秦王に白起の罷免を進言します。昭襄王も楚を破り国都を陥れ、韓魏を攻めては24万を殺し、長平では趙兵40万を生き埋めにした白起がこれ以上大功をあげるのを恐れているのは同じでした。

 君臣の意見は一致し白起は秦軍の大将を罷免されます。これに不満を持った白起は以後病気と称して家に篭ります。その後形勢が変わって出馬要請があってもこれを固辞し続けたため秦王は怒り自害をさせました。これが悲劇の英雄、白起の最期です。


 一方、邯鄲ですが将は代わっても秦軍の有利な状況は同じでした。長平の戦いで国内の成年男子すべてを失ったといわれるほど打撃を受けていた趙は、首都邯鄲を守る兵も老弱の兵か、未成年の少年兵ばかりでした。必死の防戦も遠巻きにして兵糧攻めをする秦軍に陥落は時間の問題となっていました。

 邯鄲の兵糧は尽き、趙の孝成王の叔父で宰相であった平原君・勝は他国に救援を求めるべく使者を各地に派遣します。大国楚は食客たちの活躍もあり春申君を動かし楚王の救援軍派遣をとりつけます。しかし、平原君が一番期待したのは隣国・魏の援軍でした。

 実は魏の宰相、信陵君・無忌は妻の弟だったのです。平原君は何度も使者を出して援軍を要請します。しかし、秦はすでに魏に手を回し趙に援軍を出したら魏を先に攻めると脅していたのでした。


 信陵君の必死の嘆願にも、秦を恐れる魏王はうんとは言いませんでした。業を煮やした平原君は
「貴方は実の姉を見殺しにするのですか?」と詰問の手紙さえ出しました。


 国王と平原君の板ばさみになり苦慮する信陵君は、自分の食客数百名だけで援軍に向かおうと決意します。しかし食客の一人侯嬴に諌められます。
「貴方の手勢だけでは犬死するだけです。ここは国軍を動かすべきでしょう。王の手元から割符を盗み軍の指揮権を奪いなさい」と策を授けられた信陵君は、侯嬴の言う通りに見事割符を手に入れました。


 この割符を使って将軍の晋鄙に兵を出すように求めますが、晋鄙はこれを疑って出兵を拒否します。王に確認をすると主張する晋鄙。このままでは割符を盗んだ事がばれてしまいます。

 やむなく信陵君は命令違反としてこれを殺しました。非常手段で兵権を握った信陵君は十万の魏軍を率い邯鄲に急行します。魏の援軍に最後の勇気を振り絞った趙軍は呼応し内外から秦軍を攻めたため、ついに包囲は解け秦軍は敗走しました。


 邯鄲を救ったのは信陵君の義でした。しかし勝手に魏軍を動かした事には変わりありません。安釐王の怒りを買うことは分かっていました。信陵君は
「私は罪があるが、命令に従っただけの魏軍には罪がない」と軍隊だけを本国に帰し、自分は食客とともに趙に亡命しました。


 趙は信陵君を救国の英雄と大歓待しましたが、魏はそのために秦の恨みを買い連年侵略を受けることになりました。困り果てた安釐王は信陵君に帰国するよう手紙を書きました。

 はじめは疑っていた信陵君でしたが、祖国の危機を見捨てる事ができずついに帰国します。王と信陵君はお互いに涙を流して再会を祝したそうです。信陵君の義は天下に鳴り響いていました。

 将軍として五ヶ国の軍を指揮した信陵君は、秦軍を撃ち破り魏を滅亡から救いました。信陵君がいる限り魏を侵略できないと悟った秦は、殺された晋鄙の食客を雇い信陵君が魏の王位を狙っているとの流言を流させます。

 魏王は、天下に名声が轟いていた信陵君を疑うようになりました。これで鬱々とした信陵君は酒びたりの日々をおくりついに体を壊し死去します。




 信陵君は義侠に富み人には謙り、士を愛しました。後の人々からも愛され漢の高祖・劉邦は特に彼を敬愛したといいます。信陵君の出身地だった大梁を通るたびに信陵君の祭祀を行い、信陵君の墓守として五家にその役目を与えたそうです。

趙奢と趙括   父と子の相克   (後編)

 時は流れます。恵文王はすでになく名将趙奢が病を得て亡くなったころ趙国に再び危機がやってきました。

 地図を見てもらうと分かりますが、韓という国は黄河を挟んで南北に広がっています。もともと黄河の北、いわゆる上党郡が本拠地で黄河の南にあった鄭国を滅ぼして拡大したのが韓でした。

 しかし、中原の真ん中に位置する韓は連年秦の侵略を受けついに上党郡を秦に割譲することで和平を模索します。韓王は上党郡守に秦へ領土を明け渡すように命じました。

 ところが侵略者である秦に反感を持っていた郡守は、同じ思いを持っていた住民と図り秘かに使者を送って趙に上党を献上してしまいます。趙は恵文王の子、孝成王の時代でしたが秦と戦争になるという群臣の反対を押し切りこれを受けてしまいました。

 当然、烈火のごとく怒った秦は大軍を送って趙を攻めさせました。あわてた孝成王は名将廉頗を将として国中から兵を集めこれを防がせます。

 廉頗は陣を築き、堅守しました。名将廉頗の守る陣は容易に抜けず戦線は膠着します。秦の宰相范雎はこの状況を打開するため秘かに趙の都邯鄲に間者を送り込み、こう言わせます。
「廉頗はすっかり老いた。このまま対陣を続ければそのうち死ぬだろう。秦がもっとも恐れるのは名将趙奢の息子、趙括(ちょうかつ)が将になることである。」

 噂を聞いた孝成王は、秦軍より大軍を率いながら戦おうとしない廉頗に苛立っていたこともあり、渡りに船とばかり廉頗を解任し趙括を趙軍の総大将に任命しました。


 そのころ病の床にあった藺相如は、この話を聞き書面を送って孝成王を諌めます。
「趙括は兵法家として評判が高いですが、実戦の経験がありません。国家の危機です。あまりにも危険が大きすぎます。廉頗を代えてはなりません。」

 さらに趙括の母までが孝成王に訴えでました。
「我が夫趙奢は、兵法論で息子の括と議論して言い負かされましたが決して括を認めませんでした。理論と実戦が違う事を知っていたからです。また夫は将軍に任命された時、自分の財産を分け与え兵と同じものを食べ兵と労苦をともにしましたが、息子は将軍に任命されるとせっせと良い土地を買い集め財産を独り占めしようとしています。
 わが夫は、遺言で息子が将軍に任命されても絶対に受けてはならぬと言い残しました。王様、なにとぞ今回の決定を取り消してくださいませ」

 老いた母の必死の嘆願も王には届きませんでした。
「もう決まった事じゃ。何も言うな」
「では趙括が敗北しても、一族に罪が及ばないようにしてくださいませ。」という母の願いだけが受け入れられました。


 趙軍の大将が趙括に代わったことを知った秦は、自軍の将を名将白起に交代させ、万全の体勢でこれを待ち受けます。

 一方、趙括は総攻撃の準備を始めていました。趙はこの時に備えて全土から兵を総動員し40万以上も集めていました。秦軍はおそらくその半分もいなかったでしょう。

 白起は弱兵を前に出し、趙軍の突撃を誘います。大軍に兵法なし、と言います。趙括の読みでは数で秦軍を押し潰せると考えたのでしょう。陣を出た趙軍は軽騎兵を先頭にして逃げる秦軍を追撃します。


 しかしこれこそ白起の罠でした。突出した趙軍はいつの間にか伏兵に退路を断たれ長平の地で秦軍の重包囲下に置かれます。糧道を断たれた趙括は、このまま飢え死にするよりはと、一か八かの突撃で秦軍の包囲を破ろうとしました。

 これを待ち構えていた秦軍は、遠巻きにして弓や弩で攻撃します。全身針鼠のようになって趙括は戦死しました。もはや抵抗する気力もない趙軍40万は秦軍に降伏します。

 白起は、大軍を養う兵糧もなく反乱の恐れのある趙軍をことごとく生き埋めにして殺しました。この時の趙の死者は非戦闘員も含め45万にも及んだといいます。今でも長平の古戦場跡ではおびただしい人骨がでてくるそうです。


 趙はこの戦いで成年男子をことごとく失ったと言われるほどの損害を受けました。事実上この戦いによって秦の覇権が確立します。



 趙の栄光を担った父趙奢。趙滅亡の原因を作った不肖の息子趙括。あまりにも対照的な生涯は我々に人生と国家の命運というものを考えさせてくれます。

趙奢と趙括   父と子の相克   (前編)

 中国戦国時代中期から末期にかけては、次第に勢力を拡大する西の強国『秦』が他の六国を圧迫し征服していく歴史でした。

 そのなかで秦に対抗できる勢力は、武霊王の時代に胡服騎射の軍制改革でにわかに強大化した趙です。武霊王の横死後子の恵文王が継ぎますが、まだまだ侮れぬ実力を保っていました。



 趙の恵文王の弟に平原君・勝がいました。戦国の四君の一人で食客3千人を誇る権力者でしたが、ある時平原君の家来七名が罪を得て殺されてしまいます。調べてみると平原君の領地に徴税に来た役人に、治外法権だからと拒否したため役人に訴えられて処罰されたといいます。

 烈火のごとく怒った平原君は、その徴税官を呼び出し殺そうとします。しかし彼は理路整然と反論し「国家の危急存亡の時に権力者でしかも王の弟である平原君が見本を見せなければ税を納める者がいなくなる」と言いました。平原君も馬鹿ではありません。冷静に考えるとこの男の言い分ももっともと認め、さらに権力者にも媚びない堂々とした態度に感服しました。

 徴税官の人物を認めた平原君は趙王に推挙します。徴税官は名を趙奢(ちょうしゃ)といいました。趙奢は平原君の期待に応え軍功を重ね将軍になりました。


 ある時、秦が趙西北の要衝、閼与(あつよ)を襲います。恵文王は閼与を救うため家臣に諮問しました。
「誰ぞ、閼与を救える者はいないか?」
しかし、名将と名高かった廉頗も有名な楽毅の一族で自身も有能で王の信頼厚かった楽乗も険阻な地形に難色を示します。

 苛立った王は、静かに控えている趙奢に尋ねました。しばらく考えていた趙奢は
「両将軍の仰る通り地形は険阻、迎撃は困難でしょう。しかし条件は両軍ともに同じはず。勇気ある将が勝つでしょう」と答えます。

 この言を良しとした恵文王は、救援軍の将に趙奢を任命しました。



 こうして趙奢は軍を率い閼与救援に向かったのですが、首都邯鄲から三日行軍するとどういうわけか軍を止め陣地を築きはじめます。間者の報告を受けた秦軍の将は不審に思いさらに情報を集めました。

 いつまでも動こうとしない趙軍を見て、目的が閼与救援ではなく首都防衛にあると判断した秦軍は安心して閼与攻撃を始めました。


 しかしこれこそ趙奢の策だったのです。秦の間者が紛れ込んでいることを察知していた趙奢は、間者が報告のために軍を抜け出した後を追うように、にわかに軍を発し閼与に急行しました。

 すっかり油断していた秦軍は、閼与攻撃中に背後から趙軍に襲いかかられ壊滅的打撃を受けてしまいます。四分五裂になった秦軍を追って大勝利をあげた趙奢は、この戦功で馬服君に封ぜられ名将廉頗、完璧の使者藺相如と並ぶ名声を得ました。

扶余族と空白の4世紀 (後編)

 邪馬台国当時の日本の風俗は、入墨などあきらかに南方系です。しかし朝鮮半島に固執し連年兵を出す大和朝廷は北方系のにおいがします。角髪(みずら)と呼ばれる上古における髪形も遊牧民族に見られる髪型だともいいます。特に百済に対する異常なまでの肩入れぶり、たかが鉄資源だけで当時の超大国『唐』と滅亡を覚悟してまで戦うでしょうか?


 ここでヒントになるのが、先に紹介した「騎馬民族征服王朝説」です。任那に日本の植民地があったとされますが、邪馬台国あるいはその後裔に半島進出するだけの力があっただろうか?という疑問は、逆に任那=伽耶諸国(かやしょこく)こそが故地であったとするなら私は納得できます。

 紀元前後には鉄器生産が確立していたとされる伽耶。高句麗・百済と建国してきた扶余民族が同地支配を固め、その先には海峡を挟んで未知の国があった。邪馬台国という国が盟主となり支配していたが、今は諸国あい争い乱れている。そのとき征服者が考えるのは一緒です。
 ノルマンディ公ウィリアムが考えるとおり、あるいはコルテスやピサロが考えるとおり、海を渡って征服してやろうと思うのは自然だったのではないでしょうか。しかも自分には馬と先進的な武器がある、と。


 江上説では、まさに空白の4世紀に南朝鮮にいた扶余族が北九州に上陸、後100年ほど続く九州王朝の開祖になったとされます。(第一の建国)現天皇家の始祖はここにあり、応神天皇の時代に畿内征服をはたし大和朝廷になった(第二の建国)のだそうです。なにぶん昔に読んだ本なので細かいところで間違いがあるかも知れませんが、大筋ではこうだったと思います。


 私は、現天皇家に遊牧民族の祭儀がのこっていないことから、扶余族がそのまま現天皇家になったとは考えていません。土着系の三輪王朝の末裔、あるいは河内王朝(応神天皇からはじまる騎馬民族王朝と見ています)を滅ぼし、取って代わった東国系の継体王朝が天皇家の先祖だったと思っています。

 ただ、九州王朝は一時期扶余族=天孫族の支配下にあったのではないかと考えています。朝鮮半島出兵も九州王朝を中心になされた。出兵したのは故地である伽耶を守るため。そして同族である百済王家を助けるためだったと思います。ただ九州王朝崩壊の時期がわかりません。527年の筑紫君磐井の乱か(磐井は九州の王=倭王と考えられます)、それとも663年の白村江の大敗北の後か。 
 磐井の乱なら、526年が継体天皇の河内王朝平定の時機ですから辻褄が合うのですが、聖徳太子の国書問題などを考慮すると663年の白村江説も棄てられません。


 「日出ずるところの天子」という表現は、国力はともかく軍事力においては中華に匹敵するか、あるいは凌駕していた北方騎馬民族でなければできない表現です。一時は中原を制した鮮卑と同系と目される扶余族でなければ考え付かない発想だと思うのは私だけでしょうか?今は小国だが、かってはお前達に勝った事もあるんだぞという自信が、そうさせたのかもしれません。


 支離滅裂で纏まらない文章で恐縮ですが、

①高句麗・百済の支配民族である扶余族による征服王朝が九州王朝。

②九州王朝が東征し機内を平定して河内王朝(応神天皇以後)を建国した。

③河内王朝は東国勢力である継体王朝に滅ぼされた。

④継体王朝は九州に残った王権を倒し文字通り日本国の大王(おおきみ)になった。

今のところ私はこう考えています。

扶余族と空白の4世紀 (中編)

 古代朝鮮三国時代、すなわち高句麗・百済・新羅。ヨン様の太王四神記で興味を持った人も多いと思いますが(ヨン様目当てだけで、そんな殊勝な奴はいないか?爆)、少なくとも高句麗・百済については旧満州から朝鮮半島北部に分布していた『扶余』(ふよ、プヨ)という民族が建国に関わっているといわれています。


 扶余族はツングース系騎馬民族で鮮卑とは系統的に近く、中国史料によれば、扶余族は、穀物には適しているが果物は余り育たない土地に定住し、勇敢だが他国への侵略はせず、歌舞飲酒を好み、慎み深く誠実であったと記録されているそうです。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)


 韓国では、朝鮮民族の祖である高句麗を建てた扶余族が満州に住んでいたので、満州までがわが民族の故地であるという主張がなされているそうなんですが、実態はどうも違うみたいです。


 まず、扶余は本当に騎馬民族だったか?という疑問ですが私は半農半牧の民族で厳密な意味での遊牧民ではなかったと判断しています。中国資料によっても、匈奴のような遊牧民独特の習俗は見られず、むしろ農耕民に近い存在ではなかったかと考えます。
 西洋史中東史でいうところのトルコ民族のような存在、あるいはトルコ民族よりもされに農耕にシフトした民族だったのかもしれません。といいますのもトルコ族は豚を飼っていたため移動速度が遅く、他の遊牧民から馬鹿にされる存在だったのです。そのかわり簡単な農耕もでき他の遊牧民よりも地に足の着いた生活ができていたように思います。もちろん戦争になれば、主力は騎兵ですから歩兵中心の農耕民族の軍隊よりは圧倒的に強く、農耕に理解があるためその後の占領政策も上手くいきやすいのです。さらに付け加えるならオスマン朝のイェニチェリ(異民族の子弟を集めてイスラム教に改宗させ厳しい訓練を施した皇帝直属の近衛歩兵軍団)の存在も、純粋な遊牧民族ではなく半農半牧の民族だったからこそできたのではないかと。そこから類推すれば、別に扶余族は騎馬民族征服説否定論者が言うように大量の馬が輸送できないから海を渡って侵略できないのでなく、歩兵だけで十分侵略できたのではないかと考えます。


 有名な話ですが、モンゴルが金を征服したとき、金の住民を皆殺しにして中原を牧草地にしようという意見を本気で言ったモンゴルの将軍がいたそうですから、遊牧民の農耕民理解はこの程度だったのです。


 また扶余族が朝鮮民族の祖という意見も疑問です。扶余族が建てた百済では『百済王の姓は夫余氏であり、自ら「於羅瑕」と称していたこと、一方、民衆は「鞬吉支」と呼んでおり、どちらも王の意味であることを特記している』(ウィキペディアより)とされています。

 どういうことかというと、支配層と被支配層の民族が異なる二重言語国家、すなわち扶余族による征服王朝であったといえるのです。これは高句麗においても同様ですが、新羅に関してははっきりとした記述がありません。もしかしたら新羅は唯一朝鮮民族固有の国家だったのかもしれません。



 百済も高句麗も唐と新羅の連合軍に滅ぼされ、一部の支配層は日本へ、ある一部は満州に逃れて渤海国を建国したわけですから、扶余族が朝鮮固有の民族だという主張は無理があります。一部は朝鮮族に吸収されたのでしょうが、もともと違う民族だったのです。


 なかなか空白の4世紀に話が進まないのでいらいらしている方もいらっしゃるのではないかと思います。もう少しまってください。最低限これらの知識がないと話が進められないのです。扶余族のことが分かった時点で、古代朝鮮三国時代について述べます。

 紀元前2世紀末から4世紀にかけて朝鮮半島南部には馬韓、弁韓、辰韓と呼ばれる小国家群がひしめきあっていました。例えば辰韓は12の小国に分かれ、そのうちの斯蘆國が他の11国を併合して新羅を建国したとされています。同じく馬韓では百済が統一勢力となったそうですが、その間にある弁韓は、ここも12国に分かれていたそうですが統一勢力が現れず最後は新羅に滅ぼされたそうです。

 弁韓は、日本史における任那と地域が重なり鉄の一大産地でもあったそうです。加羅あるいは伽耶諸国(かやしょこく)と呼ばれるこの地域になぜ統一勢力が現れなかったのでしょうか?高句麗や百済が扶余族の建てた国だとすると、この伽耶諸国の支配層も扶余族だった可能性が非常に高いと思いませんか?

 そしてこの地域に対する大和朝廷の異常なまでの固執ぶり。たしかに古代において鉄の産地を押さえることの重要性は分かりますが、新羅に当地が征服され、隣国百済が滅ぼされた後も、4万2千という当時の国力から考えてありえないほどの大軍を半島に送って百済を復興しようとした行為。



 ちりばめられた謎のピースを1片1片繋ぎ合わせて見えてきた全貌、次の後編で私なりの結論を出そうと思います。

扶余族と空白の4世紀 (前編)

 248年伝説の邪馬台国の女王卑弥呼が狗奴国との戦いの中で死去、後継者に一族の少女、壹与(台与)が擁立されます。この時13歳だったと伝えられています。

 おりしも魏使張政が邪馬台国に滞在しており、帰任する張政に掖邪狗ら20人を同行させ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5,000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだそうです。(ウィキペディアより)

 その後壹与は266年にも朝貢しているとされますが、以後日本の記述は中国の文献から絶えます。それが再開したのは倭の五王の時代。413年東晋に倭王讃が貢物を献じたという記述が現れ以後、讃、珍、済、興、武と五代に渡って中国南朝に朝貢した記録が残っています。


 ではその間はどうなっていたのでしょうか?少なくとも日本の代表が邪馬台国ではなく、大和朝廷(ここでは一応そう表現しておきます)に移っていたことだけは確かですが、100年以上の歴史の空白の間に何があったのか明確な回答は出ていません。

 邪馬台国がそのまま大和朝廷になったのか?それとも邪馬台国を滅ぼした勢力が大和朝廷になったのか?謎のままです。とくに4世紀の記録がまるまる欠落しています。これを『空白の4世紀』と呼び、専門家だけでなくアマチュア研究家まで巻き込んで侃々諤々議論が戦わされています。



 ではいったいこの間何が起こっていたのでしょうか?私も素人ながらこの論戦に参加しようと思います。ただ知識が浅く何の学術的根拠は示せませんがそのあたりはご容赦ください。



 突然ですが皆さんは「騎馬民族征服王朝説」というものをご存知ですか?昭和23年東大東洋文化研究所教授だった江上波夫氏が発表した仮説で

①ズボンの着用や騎乗などの遊牧騎馬民族由来の文化が5世紀頃の日本列島で急速に広まっている

②古墳文化が後期に入ってそれまでの南方的・農耕文化的な副葬品が、北方的・軍事的な副葬品に移り文化の断絶がみられる。

③記紀の天孫降臨説話や神武東征神話が、高句麗など朝鮮半島の開国説話と共通の要素を持っている。

④『日本書紀』の中に高句麗の王を「高麗の神子」と呼びかけ、同じ天孫族としての意識が見られる。


などを根拠に、4世紀に北方騎馬民族が日本に渡来しそれまでの農耕文化であった邪馬台国を滅ぼし征服したのではないかとする学説です。




 発表当時、一大センセーションを巻き起こしたんですが、当時から現在に至るまで風当たりが強く学会の拒絶反応はもの凄いものがあったそうです。江上説に対する反論として

①考古学の成果からみて、古墳時代の前期(2世紀後半-4世紀)と中・後期(5世紀以降)の間には、両者の文化に、連続性もみられる。

②皇室の祭儀に騎馬民族に由来するとされるものが見当たらず、農耕的なものしかない。

③日本列島の王墓とされる古墳に、高句麗や百済の王陵にみられる双墳がほとんどみられない。前方後円墳は2世紀後半から3世紀前半にかけての畿内で発生していることが明らか。

④近世に至るまで日本では家畜の去勢などの遊牧民的な習慣がほとんど無い。

⑤神話に関しては、北方系よりもむしろ南方系に共通する要素が見られる。

⑥小国分立の状態がつづき統一王朝の形成されなかった任那の諸国が、倭国だけは例外的に征服できたとは考えられない。


というものがあげられ、学会においては否定論者のほうが大部分となっています。


 実を言いますと、私が歴史に興味を持ったきっかけがこの『騎馬民族征服王朝説』でして、小学校時代、子供向けに書かれた本を偶然手に取り、以後夢中になって調べた思い出があります。前置きが非常に長くなりましたが、この説をベースにして私の考える日本古代史を紹介していこうと思います。

世界史英雄列伝(37) 春秋の大軍師 「范蠡」(はんれい)

 中国春秋時代のクライマックス、呉越の戦いについては当ブログでも何度か紹介したと思います。しかしそれは伍子胥や孫武など呉側の人物ばかりでした。今度はライバルである越王勾践(こうせん)側から見た呉越の戦いを描こうと思います。

 登場するのは越王勾践を助けて最後には呉を滅ぼした軍師、范蠡です。彼が初めて登場するのは紀元前496年のすい李(すみません、字が出てこない)の戦いでした。

 一時は中原に覇を唱えた呉の六代王闔閭(こうりょ)が、蛮族(越族、ベトナム人の先祖といわれる)でありながら金属資源などで急速に台頭してきた越を、後顧の憂いを断つために討った戦いです。

 圧倒的に強力な呉軍を前に、范蠡は奇策を献策します。越軍は罪人を集めた部隊を次々と呉軍の前に出し、挨拶をさせてからことごとく自刎させます。これは三隊も続きました。この驚くべき蛮勇に呉軍があっけに取られていたその瞬間、隙をついた奇襲部隊が側面や背後から呉軍に襲いかかります。


 文明圏である中原ではありえないような戦い方に呆然としていた呉軍がこれを支えられるはずもありません。またたくまに壊走し闔閭はこのときの戦傷がもとで死去します。


 いまわの際に、闔閭は太子の夫差に遺言しました。
「お前は父のこの屈辱を忘れてはならんぞ」
 王位を継いだ夫差は、以来薪の上に寝て、痛みと共に復讐を忘れないようにして機会を待ちました。
(臥薪嘗胆の故事)


 三年がたちました。夫差が日夜復讐を企み軍隊を訓練していると聞いた越王勾践は、逆に先手を打って呉を討とうとします。しかし范蠡はこれを諌めました。
「今は戦うべき時ではありません。先年の戦いの傷も癒えておりません。国力を蓄えるべきです」

 しかし、勾践は反対を押し切って出兵します。夫椒山で逆に呉軍に大敗し五千の手勢とともに会稽山に立て籠もった勾践は、死を覚悟しました。

 「諦めるのは早うございます。呉王の側近伯嚭(はくひ)は賄賂に目がないとか。彼に大金を贈ってとりなしを頼んでは?重宝を献上し、ひたすら王に仕えると言えば呉王とて考えを変えるはずです。」
 この范蠡の献策によって、越は大夫の文種を呉の陣営に遣わします。

 賄賂が効果を発揮したのか、勾践は許されました。夫妻ともども呉の王宮で奴隷のごとく仕えた勾践を見て夫差は、安心し帰国を許します。


 范蠡は、さらに国一番の美女西施を呉王に贈り夫差を油断させました。一方、勾践も屈辱を忘れないように苦い肝を舐めて日夜復讐を誓います。(嘗胆)


 越に対しすっかり警戒心を忘れた夫差は、亡父の遺志を継ぐべく連年のように中原に出兵します。さらに越から贈られた莫大な財宝と美女によって贅沢の限りをつくした呉は、次第に国力を衰退させていきました。

 このような夫差に対し、呉を支えてきた名臣たちはあるいは去り、あるいは殺されてしまいます。残されたのは伯嚭のような奸臣ばかりとなっていました。


 呉王夫差は、中原の大国晋と会盟し主導権を争うばかりになっていました。父闔閭が実力では凌駕していながら、ついになし得なかった快挙です。会盟を主導することができれば、名実ともに覇者になれるのですから。


 ところが、留守を守る国許から急使が飛び込んできます。長年沈黙を保っていた越が挙兵し、呉の都を囲んでいるというのです。


 夫差はこのことを隠し、軍隊による示威行動で晋公を脅しなんとか会盟に成功すると急遽国許に戻りました。


 さしもの強兵である呉軍も、連年の戦いで疲弊し何度かの戦いの末、王城のある姑蘇(いまの蘇州)に包囲されてしまいます。

 夫差はかって勾践の命を助けたことを思い出し和平の使者をだしました。越王はこれを許そうとします。しかし范蠡は、諌めました。
「いけません。かって天が越を呉に賜ったのに、夫差は天命に逆らってこれを取らなかったのです。今天は呉を越に賜ろうとしています。天が与えたものを受け取らないとかえって罰を与えられます。
 そのいい例が今の呉王ではありませんか。王にはよろしくご賢察ください」

 それでも勾践は夫差の命をとるのが忍びず、孤島に流して命だけは助けようと申し出ます。使者の復命を受けた夫差は
「越王のご厚情には感謝しますが、私はすでに老いました。とても王にお仕えする事はできません。」
そう言って自ら命を絶ちました。
 


 こうして呉を滅ぼした勾践は、北上して斉・晋の諸侯と会盟し周室に貢物を献上しました。覇者となって得意の絶頂にあった勾践に、范蠡は引退を申し出ます。

 「長年苦労を共にしてきたそなたに、これから報いようとしていたところだ。考え直すことはできぬか?」

 勾践の引止めにもかかわらず、范蠡は固辞しついに越を去りました。さらに宰相となっていた文種に書面を送ります。
「越王はその人相を観ていると、苦労は共にできても楽しみはともにできない相です。このままでは貴方の行く末は危うい。早く去ったほうが良い」
【『飛鳥尽きて良弓蔵され、狡兎死して走狗烹らる』(飛ぶ鳥がいなくなれば良い弓は仕舞われ、狡賢い兎が死ねば猟犬は煮て食われてしまう】というのはこのときの范蠡の言葉だといわれています。


 文種はこれを読んで、病と称し屋敷に引きこもりました。しかし、王の側近が
「文種は反乱を起こそうとしております。病と称して朝廷に出てこないのがその証拠です」と讒言します。これを真に受けた勾践は文種を捕らえようとします。ついに文種は自害しました。
「あのとき范蠡の言う事を聞いて引退すべきだった。私の迷いが今日の結果となったのだ。」



 
 一方、范蠡はどうなったのでしょうか?鴟夷子皮(しいしひ)と名を変え、斉に移り住んだ彼は、軍師の才を商売に生かし巨万の富を築き上げます。ある人が彼の正体に気付き斉の宰相として迎えようとしているのを聞いた范蠡は
「家にいては千万の富を蓄積し、官については卿相となる。富貴は長く続くものではない」という言葉を残すと、財産を整理し持ち運べるものだけを選んで、のこりはことごとく使用人や友人知人に分け与え再び去っていきます。


 陶(山東省西部、東西交通の要地で当時商業で栄えていた)の地に落ち着き朱公と名乗った范蠡は、ここでも財を築きました。
 朱公(范蠡)の商売は、農業・牧畜を基本とし安いとき安いところで商品を仕入れ、高い時高いところで売るという方法でした。十分の一の利益を心がけ、時機をみて財物を転がし、ここでも数億の富を蓄積するようになりました。陶朱公といえば、大富豪の代名詞とも言われています。


 このあともエピソードがあるのですが、もはや紙面もつきました。その話は別の機会に譲るとしましょう。いかがです、まさに人生の達人ともいうべき生涯ではありませんか?

人生最後の大逆転   - 秦の宰相、百里奚(ひゃくりけい) -

 昔は人生五十年と言われていました。長寿時代の現代でも六十歳をすぎるとリタイアしなければなりません。そんな中、人生七十歳にして大逆転が起こった人物がいます。彼の人生を見ると、今不幸のどん底のあっても希望を捨ててはいけないなと痛感させられます。

 その人物とは、中国春秋時代、名君といわれた秦の穆公(ぼくこう)の下で宰相になった百里奚という人です。宮城谷昌光氏の短編「買われた宰相」でも知られる彼の人生を簡単にご紹介します。

 百里奚は楚の出身とも許が生誕地とも言われはっきりしません。若い頃青雲の志を抱き諸国を回ったそうです。斉を訪れた時、飢えて倒れたところを斉人の蹇叔(けんしゅく)に助けられます。
 蹇叔は地主の三男坊だという気楽な身分であったためか、意気投合しいっしょに旅を続けることになりました。

 ところで、当時の斉は政治が乱脈を極め襄公が臣下に殺されるという異常事態でした。伝手があって襄公に仕えないかという話がきていたのですが、蹇叔の反対によって取りやめになりました。
 蹇叔は地元だけに、現政権の危うさがわかっていたのでしょう。結果的に百里奚たちは命を救われました。

 次に百里奚は周王朝の王子の一人に仕えようとします。このときも蹇叔は反対します。はたして、この王子は王に反逆しますが2年後敗死してしまいます。ここでも命が助かったわけです。

 百里奚は周の都洛邑から黄河を渡った北にある小国、虞へと仕官しようとします。ここでもまた蹇叔の反対にあいますが、すでに老境にさしかかっていた百里奚は、親友である蹇叔の反対を押し切り仕官をしてしまいます。これで蹇叔と袂を分つことになりました。


 百里奚は才覚があったのでまもなく大臣に取り立てられます。やっと我が世の春が訪れたかに見えました。しかし、蹇叔の懸念通り不幸がやってきました。
 隣国、晋の献公が虞に侵攻しこれを滅ぼしてしまうのです。大臣であった百里奚は捕虜になり、奴隷に落とされてしまいます。


 あるとき晋の献公は、隣国秦の穆公に自分の娘を嫁に出すことになりました。可愛い娘に箔をつけるため百里奚を従者として送ることを献公は考えました。

 なんという運命の皮肉でしょう、小国とはいえ大臣だった者が奴隷として送り出されるのです。自嘲の笑を浮かべた百里奚は、将来に絶望し行列から逃げ出します。


 一方、晋から差し出された名簿をみた穆公は、百里奚がいないことに気付きます。興味を憶えた公は、いろいろ調べさせて百里奚が賢人であることが分かりました。

 八方手を尽くした穆公は、逃げ出した百里奚が楚人に捕らえられ、羊飼いにさせられているところを発見します。大げさに迎えると楚に百里奚の賢才を知られると恐れた穆公は、百里奚を逃げた奴隷を取り戻す代金として羊の皮五枚(五羖)で買い戻しました。


 穆公は百里奚と対面し、三日三晩語り合うほどでした。まもなく百里奚は秦の宰相として取り立てられます。このとき七十歳を過ぎていたといわれています。
 百里奚は穆公の期待に応え、後進国であった秦を有力な国に作り変えました。その後20年間宰相を務めます。穆公の人を見る目は確かだったといえるでしょう。


 ところで、蹇叔ですが百里奚はこの親友のことを忘れてはいませんでした。百里奚は巷間に隠れていた蹇叔を見つけ出すと、穆公に推挙します。蹇叔もまた秦の大臣として賢才を発揮したそうです。



 いかがでした、人生最後まで諦めてはいけないと思いませんでしたか?このような人生もあるのだということが分かっただけでも良かったと思いませんか?私は彼の人生を見て希望が湧きました!

砂漠に消えた幻の国「楼蘭王国」

楼蘭(ろうらん Loulan 推定されている現地名はクロライナ Kroraina)は現在の中国領新疆ウイグル自治区に存在した都市、及びその都市を中心とした国家。西域南道沿い、孔雀河下流のロプノール(Lop-Nur)湖の西岸に位置し、シルクロード交易で栄えた。紀元前77年に漢に影響下で国名を鄯善と改称したが、楼蘭の名はその後も長く用いられ続けた。

                      - フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より -

 彷徨える湖として有名なロプノールの湖畔に栄えた古代王国です。1900年へディンの探検隊によって遺跡が発見されました。

 ヘディンの記録によると、楼蘭の遺跡から生けるがごとき美少女のミイラを発見しその後埋め戻したといわれています。それが現在みつかっている「楼蘭の美少女」ミイラかどうかは不明ですが、アーリア系の金髪と白い肌をした美少女だったそうです。

 紀元前19世紀から歴史を持ちシルクロードの中継貿易地として栄えましたが、漢と匈奴の間で争奪戦を繰り返され衰退し忽然と砂漠の中に消えました。ロプノール自体も砂漠の中にあって水深が浅いため、上流のダム建設によって干上がり現在は存在しないそうです。

 まさに幻の王国といわれています。現在この地は中国の核実験場になっており近づけません。滅びた後にまで漢民族は楼蘭の人々を苦しめ続けるのでしょうか?

「カンネーの戦い」 名将ハンニバルの理想的包囲殲滅戦

 第二次ポエニ戦争序盤の天王山とも言うべきカンネーの戦い。第一次ポエニ戦争敗北の復讐のため、イスパニア(現スペイン)を植民地化したカルタゴ(本拠は現チュニジア)の名将ハンニバル・バルカスが有名なアルプス越えで宿敵ローマに挑戦した戦役です。

 まさかアルプスを越えて敵がイタリア半島に侵入すまいと油断していたローマは、ハンニバルの戦術に翻弄されトレビア河畔、トラシメネス湖畔で連敗します。

 長距離を遠征してきた軍がもっとも嫌がるのは、持久戦に持ち込まれることです。時のローマ執政官ファビウスはカルタゴ軍の弱点を見抜き、決戦を避け敵が消耗するのを待ちました。しかし、ローマ市民はファビウスを弱腰だと非難します。素人はどうしても目先のことしか見えないものです。

 ローマを直接攻撃するリスクを考え、同盟都市の離反を図りローマを弱体化する戦術をとったハンニバルはイタリア半島南部にいました。ローマはファビウスに代え、新たに任命したアエミリウス・パウルスとテレンティウス・ウァロに4個軍団を与えハンニバルとの決戦に臨みます。

 両軍はアドリア海に面したアプリア地方カンネーの地で激突しました。BC216年のことです。


 まず両軍の兵力を見てみましょう。
 ローマ軍は主力の軍団兵5万5千を含めた歩兵7万、騎兵6千。さらに後方には1万の予備軍を置きます。一方カルタゴ軍はハンニバルが鍛え上げた重装歩兵3万2千、軽装歩兵8千、地中海世界最強を誇ったヌミディア騎兵4千を含む1万。騎兵戦力では劣勢なもののローマ軍がほぼ倍の兵力です。

 まともにぶつかればさしもの精鋭カルタゴ軍といえど不利は免れません。そこでハンニバルは陣形に工夫をこらしました。

 ローマ軍は、主力である重装歩兵を中央、その前面に軽装歩兵。右翼にローマ騎兵、左翼に同盟市の騎兵を配置しました。

 対してカルタゴ軍は、右翼に最強のヌミディア騎兵、左翼にガリア騎兵、中央に歩兵部隊という配置はローマ軍と同様でしたが、この歩兵の配置にこだわりました。
 ハンニバルは、ローマ軍が中央突破を図ってくると見抜き、わざと前衛に弱兵であるガリア歩兵を弓なりに薄く配置しました。その両端に精鋭のカルタゴ重装歩兵を置き、軸として戦列が崩れないようにします。その間隔は約2キロ。その背後には主力のカルタゴ重装歩兵が待ち構えていました。


 ハンニバルの意図は、先端が開かれてから明らかになります。両軍がぶつかると士気の低いガリア歩兵は重厚なローマ歩兵に押され、後退しました。ただ両端のカルタゴ重装歩兵が持ちこたえ、中央だけが後退し逆にカルタゴ側に弓なりになります。しかし、背後にカルタゴ重装歩兵がいるためなんとか戦列は維持されました。

 一方、両翼の騎兵同士の戦闘は数に勝るカルタゴ軍の勝利に終わっていました。もともとローマ軍は騎兵を重視しておらず、主力の重装歩兵が敵陣中央を突破することで決着がつくと読んでいました。しかし、これこそハンニバルの巧妙な罠だったのです。

 崩れそうで崩れないカルタゴ軍の戦列。しかし、中央でローマ軍が押しているためちょうどカルタゴ軍がローマ軍を包囲している形になっていました。そこへローマ騎兵を追い払ったカルタゴ騎兵が背後から襲いかかります。これこそハンニバルが意図した完成形でした。

 完全な両翼包囲です。ローマ軍も勇敢に戦いましたが、外周から次々と討たれ次第にやせ細っていきました。戦いが終わった時、戦場には二人の執政官を含む5万のローマ軍の死体が残されたいたと言います。一方カルタゴ軍の損害は死傷者5千。後の軍事教科書にも載る少数の兵力による完全な包囲殲滅戦でした。


 ローマは主力軍がほとんど全滅するという損害を受けますが、そこで滅びないのがローマのローマたる所以です。再び持久戦に転じたローマは、大スキピオという若き天才の出現を待って反抗に転じます。
 カルタゴ本国の政争で満足な増援を受けられなかったハンニバルが南イタリアで釘付けになっている隙を突いて、スキピオはカルタゴ本国へ奇襲上陸をはたします。ザマの地で、再び両軍が合間見えた時、ハンニバルの戦術をそっくり真似たスキピオの前に、ハンニバルはついに敗れることになるのです。

「タージ・マハル廟」と悲劇の皇帝シャー・ジャハン

タージ・マハル(Taj Mahal, ताज महल, تاج محل)は、インド北部アーグラにある総大理石造の墓廟建築。1632年着工、1653年竣工。1983年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、ペルシャやアラブ、果てはヨーロッパから2万人もの職人を集め、22年の歳月をかけて建造させたといわれているインド=イスラーム文化の代表的建築。シャー・ジャハーンが、愛妃ムムターズ・マハルの死(1630年)を悼んで建設したという逸話は有名。

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 世界遺産にも登録され、インドの観光名所としてあまりにも有名なタージ・マハル。ムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハンが亡くなった愛妃ムムターズ・マハルを偲んで建造したといわれています。
 本人は、ヤムナー川を挟んで自分の黒い廟を建造し大理石の橋で繋ぐ計画だったそうですが、ついに実現する事はありませんでした。

 といいますのも、最後は実の息子である第6代皇帝アウラングゼーブによってアーグラ城に幽閉され失意の晩年を送ったからです。

 では、なぜこのような悲劇に見舞われたのでしょう?それはムガール帝国恒例の後継者争いが原因でした。シャー・ジャハンには有力な4人の皇子がいました。
 嫡男のダーラー・シコーは父と共に首都デリーにあり後継の最有力と見られていました。だだ他の三人の皇子は国境の守備を任されていたため有力な軍隊を保有していました。
 次男のシャー・シュジャーはベンガル方面、三男のアウラングゼーブはデカン方面、四男のモラード・バクシュはグジャーラート方面(西南インド)を領していました。

 後継者争いに敗れれば殺される決まりでした。それだけに各皇子は必死になります。シャー・ジャハンが病気になるとダーラーが統治を代行しますが、これが父を幽閉したものだと言いがかりをつけ各皇子は蜂起しました。

 このなかで最も狡猾なのは三男のアウラングゼーブです。武勇だけで考えの足らない弟モラードを騙し、「自分は皇帝になる野心はないが、争いに負けて殺されるのも嫌だ。お前が私の生命の保証をしてくれたら、皇帝即位できるよう協力しよう。自分は出家させてくれれば満足だ。」と言います。

 モラードはこれを信用し両者は連合してデリーに攻め込む方針を決めました。一方ダーラーはシャー・シュジャーの軍を破り、ベンガルに追い返したばかりでした。
 そこへ連合軍が攻め込んだのですからたまりません。敗北しデリーを追われてしまいます。首都に入場したアウラングゼーブは、「弟は皇帝になるには乱暴すぎる」と言いがかりをつけてモラードの軍権を奪ってしまいます。初めからこうする計画でした。騙されたと悟ったモラードでしたが後の祭りです。幽閉され最後は殺されていまいます。

 アウラングゼーブはアフガン方面に逃れたダーラー、ベンガルに逃げ込んだシャー・シュジャーの軍を相次いで撃破し実力で第6代皇帝の位をもぎ取りました。ダーラーも捕らえられ殺されます。シャー・シュジャーはビルマ方面に逃亡したといわれますが消息を絶ちます。おそらく現地の土侯に殺害されたのでしょう。

 さすがにアウラングゼーブも病気であった父を殺害することだけは思いとどまります。その代わり離宮のあったアーグラに幽閉し死ぬまで軟禁したのです。

 哀れなシャー・ジャハンは自分の廟を建設する夢も破れ、寂しく死んでいったことでしょう。アウラングゼーブの時代がムガール帝国の絶頂期でした。

世界史英雄列伝(36)カミッロ・ベンソ・コンテ・ディ・カヴール

◇1810年8月10日 - 1861年6月6日
 サルディニア王国そして統一イタリア王国初代宰相

 西ローマ帝国滅亡以来、ながらくイタリア半島は外国に支配されるか小邦分裂状態で統一勢力がありませんでした。それを統一したのはサルディニア島と西北イタリアを領土とするサルディニア王国のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世でした。
 カヴールは国王を助けて統一イタリアという奇跡を実現します。実現不可能とみられていた統一は、まさにカブールの外交能力によって成されます。

 当時北イタリアの大部分はハプスブルグ家オーストリアの領地でした。これがイタリア統一の最大の障壁となります。カブールは、小国サルディニアの力ではこれを奪い返すことが不可能であると痛感していました。

 そこでカヴールはフランスのナポレオン3世と結び列強フランスの力を利用して統一しようと目論見ます。しかし、これは一歩間違うとイタリアの主人がオーストリアからフランスに代わるだけという最悪の結果も考えられました。まさに紙一重、綱渡りのような外交です。

 カヴールは徹底した現実主義者でした。1855年クリミア戦争が起こると、英仏に味方してクリミア半島に1万5千の部隊をおくり援助します。1858年のパリ講和会議にも出席し英仏に恩を売り、サルディニアの国際的な地位向上をはたしました。

 さらに1858年7月、ナポレオン3世とプロンビエールの密約を結び、サボイとニースを見返りに対オーストリア戦争にフランスを参戦させることを約束させます。
 カヴールは1859年イタリア統一戦争を開始しました。サルディニア軍7万、フランス軍12万8千、対してオーストリアは22万、サルディニア一国では勝負にならないことは明らかでした。

 連合軍はロンバルディア平原に進出し各地でオーストリア軍を撃破しました。サルディニアがロンバルディアを併合するとパルマやトスカナでもオーストリアに対する反乱が起き住民投票で次々とサルディニアに編入されました。

 破竹の勢いのサルディニアに不安を持ったナポレオン3世はオーストリアと単独講和するという裏切り行為にでます。結局サルディニアは北部イタリアを統一することだけで断念するしかありませんでした。

 ここで一人の男が登場します。革命家ガリバルディです。イタリア統一に燃える彼は1000名の義勇兵を集めシチリア島に進撃しました。そしてなんと農民反乱と呼応してナポリ王国の支配下だったシチリア島を開放、海を渡って半島に上陸するとナポリ王国まで滅ぼすのです。
 ガリバルディは数万に膨れ上がった軍勢を率いローマに進軍する動きを見せました。しかし教皇領であるローマを攻めることに国際的な非難があがることを危惧したカヴールは、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に出馬を要請します。
 国王直卒のサルディニア軍とガリバルディ軍はナポリの北テアーノで合流、国王と革命家は劇的な対面を果たしました。ガルバルディはナポリ王国の住民投票でサルディニアに編入することが決まったと報告し自分の占領地を献上します。このあと革命家はカプリ島に引退し余生を過ごしました。

 1861年、教皇領を除きイタリア統一が成ったことを宣言し、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は初代イタリア国王に即位しました。

 カヴール自身は1861年6月6日に死去しますが、1866年ヴェネツィア、1870年教皇領がイタリアの領土に編入されイタリア統一は完成しました。首都もトリノからローマに移されます。

 まさにカヴール外交の勝利でした。

「龐涓この樹の下にて死せん」 - 孫臏兵法 -

 中国戦国時代中期、孫子の兵法で有名な孫武五世の孫に孫濱(そんぴん)という者がおりました。斉(今の山東省の大部分)の国の住人で、若い頃鬼谷子のもとで兵法を学びます。その仲間に魏の国の龐涓(ほうけん)という者がいました。
 二人は共に学び親友となります。大地主でいわば趣味で兵法を学んでいる孫濱と違い、貧しい龐涓は兵法で身を立てなければなりませんでした。しかし、学べば学ぶほど孫濱に及ばないことを痛感させられます。

 学を修めて孫濱は故郷斉に帰りました。一方龐涓は魏の国に仕え、またたく間に将軍に登りつめます。孫濱は親友の出世を伝え聞き、祝うために魏に赴きました。大歓待を受ける孫濱でしたが、龐涓が身の回りの世話をさせるために付けた若い女奴隷に恋をしてしまいます。
 孫濱は彼女を斉に連れて帰ろうとしますが、女が故郷魏から離れたくないと言ったため魏に残る事にしました。
 親友の打ち明け話を聞いた龐涓は複雑な表情をします。しかしそのあと、「なんとか君が仕官できるようにしよう」と答え話はまとまったかに見えました。

 そんなある日の事です。狩りに誘われた孫濱は、「公務が終りしだい合流する」という龐涓に先立って約束した山に先に入ります。ところがその山は、魏公室の陵墓に連なるご禁制の山でした。そうとは知らない孫濱は、たちまち役人に捕まってしまいました。まもなく龐涓がきて誤解を解いてもらえると安心していた孫濱でしたが、何日たっても龐涓はやってきませんでした。

 はめられた、と気付いた時には遅すぎました。自分より才能のある孫濱が魏に仕えれば、いずれ取って代わられると恐れた龐涓の罠だったのです。ただ親友を殺すまではないと両足を切断して、額に罪人の印の入墨をするに止めました。
 以後、孫濱は自嘲の意味をこめて孫臏(臏は膝頭の骨の意味)と改名します。この日以来、彼は復讐の鬼と化すのです。

 あるとき、魏の国に斉から田忌という将軍が使者としてやってきます。奴隷部屋に入れられていた孫臏は、あのときの女奴隷の手引きで斉の使者に面会しました。会ってみてその賢才ぶりに惚れこんだ田忌は、秘かに自分の馬車に孫臏を隠して斉に連れ帰ります。以後、孫臏は田忌の客分として仕えました。そして孫臏に好意を持った田忌は威王に推薦までしてくれました。

 その後、魏が趙を攻め、窮地に陥った趙は斉に救いを求めました。威王は孫臏を将軍に任命しようとしましたが、「自分は刑罰をうけた不具者で適当ではありません」と辞退したため、田忌を大将に、孫臏を軍師にして事にあたらせました。

 すぐに趙の首都邯鄲に急行しようとした田忌に対して
「もつれた糸を解くには、むやみに引っ張るものではありません。今、魏の首都大梁は、精兵が出払って手薄です。こちらを攻めれば魏軍はあわてて囲みを解いて急行してくるに違いありません。そこを待ち構えて叩くのです」と孫臏は答えます。(囲魏救趙の計)
そして龐涓率いる魏軍を待ち構えていた斉軍は『桂陵の戦い』で散々に撃ち破りました。

 それから13年後、再び斉と魏はぶつかりました。因縁の両者の最後の対決です。またしても孫臏は田忌に策を授けました。
「魏は斉軍を柔弱と侮っております。我が軍は退却しながら竈をまず10万、次の日に7万と少しずつ減らしなさいませ。龐涓は斉兵が逃亡していると読んで、少数の騎兵だけで追ってくるはずです。そこを待ち伏せしましょう。」
 はたして、斉軍の竈の数が日を追うごとに減少している事に気付いた龐涓は、
「斉兵が臆病なことは前から知っていたが、ここまでとは…。これではいくら孫臏が策を弄しても無駄であろう」と冷笑して、昼夜兼行でこれを追いました。

 敵の行程をはかってみると馬陵の地に日暮れ頃に到着すると読んだ孫臏は、大木を切り倒し、幹を白く削ります。そして『龐涓この樹の下にて死せん』と大書すると道端に大きく掲げさせました。
 四方に伏兵を配し、弩兵一万を潜めさせます。そして「あの目印に松明が灯ったら、そこをめがけて射よ」と命じました。

 龐涓は、日暮れすぎに馬陵に差し掛かります。なにやら大木に文字が書いてあるのを不審に思い松明を掲げさせ文字を読みました。その瞬間、1万本の弩が一斉に発射されます。大混乱に陥った魏軍は同士討ちを始めました。ようやく自分が孫臏の罠に掛かったと悟った龐涓は
「儒子(こぞう)に名を成さしてしまったか…」と自嘲の笑いを残しながら、自ら首を刎ねて自害しました。孫臏はこの馬陵の戦いで天下に名をあらわし、今の世まで兵法書が伝わっています(司馬遷当時、漢代のこと)。

悲劇のメキシコ皇帝マクシミリアン (後編)

 メキシコ保守派からの申し出はナポレオン3世を喜ばせました。メキシコに親仏的な君主国を誕生させれば間接的にフランスがメキシコを支配することができます。
 ナポレオン3世は、傀儡国家の皇帝候補をまずメキシコの旧宗主国スペインのブルボン家からさがしました。しかし適当な王族がいなかったため欧州の名門ハプスブルグ家に白羽の矢が立ったわけです。
 意外にもフランツ・ヨーゼフ皇帝は、フランスの申し出を好意的に迎えます。これで反抗的なマクシミリアンを厄介払いできると思ったのでしょうか。

 マクシミリアン自身ははじめ不安でしたが、フランス側からバラ色の未来をせっせと吹き込まれると次第に乗り気になります。
 マクシミリアンは、メキシコ国民が自分の皇帝就任を望んでいるという証拠を見せてくれれば皇帝に就任しても良いという条件をフランス側にだします。
 しかし、こんなことは容易いことでした。メキシコに大軍を送り込み進歩派のファレス大統領を首都から追っ払っていたフランス軍は、住民に強制させてマクシミリアンを皇帝に推すという嘆願書を集めさせました。このような事実など知る由もないマクシミリアンは、それならばと納得します。


 1864年5月28日、2万3千のフランス軍とともにマクシミリアンはメキシコに上陸しました。このときマクシミリアン31歳、悲劇の幕はついに開きます。6月12日、首都メキシコシティに到着した一行は盛大な歓迎を受けました。メキシコ皇帝マクシミリアンの誕生でした。

 実質フランスの傀儡に過ぎない皇帝でしたが、理想主義者のマクシミリアンはそれに気付きませんでした。報道の自由を保障する法律、信教の自由を認める法律など開放的政策を打ち出す皇帝は、しだいに浮き上がっていきます。しかも南北戦争終結でアメリカの援助が再開された進歩派が、各地で巻き返しを図りだします。

 近代的装備のフランス軍に正面からぶつかっても敵わない進歩派の軍隊は、ゲリラ戦を遂行して敵を悩ませます。これにはフランス軍もヘトヘトになります。補給線をズタズタにされ、損害は日増しに増大していきました。フランス本国では、「わが国はいつまでメキシコにかかわっているのだ」という世論が沸き起こり、苛立ったナポレオン3世は、現地のフランス軍司令官に「決戦によって一気に進歩派を殲滅せよ!」という電報を打ちます。
 しかし、これは無理な要求でした。炎天下の砂漠を行軍したフランス軍は戦闘よりも病気で被害を増大させました。アメリカから、メキシコのフランス軍即時撤退を要求され、拒否すれば軍事介入も辞さないと申し出られると、ナポレオン3世はメキシコから手を引く事を決断します。

 1865年、ナポレオン3世に「フランス軍はメキシコから撤退する」と一歩的に通告されたマクシミリアンは困惑しました。どう考えても事態は悪化するばかりです。
 怒った皇后シャルロットは、ナポレオン3世に直談判すべく単身フランスに乗り込みます。ナポレオン3世の裏切りを激しく責め、怒りの余り失神することもしばしばでした。老獪なナポレオン3世はこれをのらりくらりとかわし、埒があかないと思った彼女はローマ法王にし対メキシコ十字軍をおくるよう嘆願しました。しかし時代が違います。彼女の戯言に耳を傾ける国は一国もありませんでした。

 シャルロットは、メキシコの夫に手紙を書きますが、その中身は悪魔、地獄、裏切り、死のオンパレードでした。怒りの余り精神に異常をきたした彼女は、「私を毒殺しようとする者がいる!」と口走るようになります。こまった法王庁は、ブリュッセルから実弟フランダース伯爵を呼び寄せ、引き取らせました。しかし彼女にとってはそれが幸いだったのかもしれません。夫の悲劇を知らずに済んだのですから。


 フランス軍の全面撤退で皇帝政府は揺れ動きました。退位を望むマクシミリアンでしたが、彼がいなくなると殺されることが分かっている保守派が大反対します。結局退位は思いとどまらざるをえませんでした。皇帝軍は最後の決戦をすべくケレタロに向かいます。総勢2万1500。マクシミリアン自らが率いました。人口4万、メキシコのほぼ中央に位置するこの町は、ただ保守派の根拠地というだけで選ばれたにすぎません。なべ底のそこのような地形で、またたくまに敵の重包囲下に置かれました。

 苦しい戦いの末、皇帝軍はついに降伏します。ファレス派は公開裁判の末、マクシミリアンに死刑を宣告しました。これには援助していたアメリカでさえ反対し助命嘆願運動が欧州各地で起こりました。文豪ヴィクトル・ユーゴーも参加したそうです。マクシミリアンは傀儡に過ぎず、悪の元凶がフランス、ナポレオン3世であったことは明らかでした。
 兄であるオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフも二度とメキシコに介入しない代わりに弟を許してほしいと申し出ましたが、ファレスは、生かしていては保守派の心の拠り所になるマクシミリアンを許すつもりはありませんでした。

 もはや、死を覚悟したマクシミリアンはハプスブルグ家の一員として恥ずかしくない死に様をすることだけを考えるようになります。母、兄皇帝、妻シャルロットに遺書を書き記すと、1867年6月19日処刑の朝を迎えました。

 マクシミリアンはポケットから金時計を取り出し、ふたを開き中の妻シャルロットの肖像に接吻すると「これを妻に形見として渡し、この世で私が最後に見たのは妻の姿だ、とお伝えください」と傍らの神父に渡し、静かに処刑場に向かいます。

 目隠しを拒否し、胸に手を当て高らかに叫びました。
「私はすべての人を許す。皆もまた私を許してほしい。神よ!これが流される最後の血となりますように。メキシコ万歳!」
 7発の銃声が鳴り響きます。享年35歳。最後まで付き従った皇帝軍のマルケス、メヒアの二人の将軍も後を追いました。

 遺体は軍艦にのせられ故国オーストリアに還されます。遺体と対面した母后ゾフィーは
「なんと可愛そうに、罪人のように処刑されるとは…」と嗚咽をもらしその後は人が変わったように陰鬱な性格となり、2年後世を去ります。シャルロットは夫の死後も生きながらえました。ベルギーに移住し狂人としての余生をおくります。1927年寂しく亡くなったそうです。夫の死も知らず、栄光の日々も忘れ去って…。

悲劇のメキシコ皇帝マクシミリアン (前編)

 ここに一枚の絵があります。マネ作「マクシミリアンの処刑」です。ご覧になった方も多いと思いますが、私もこの絵を見て強く興味を惹かれました。
 なぜ、皇帝は処刑されなければならなかったのか?そして彼は何故このメキシコの地に来たのか?調べていくうちにマクシミリアンの数奇な一生に深く同情する自分がいました。

 マクシミリアンは1832年、オーストリア皇帝であった名門ハプスブルグ家のフランツ2世の孫として生まれました。彼の父フランツ・カールは兄で皇帝であったフェルディナント1世の後を継ぐ事を辞退したため、息子でマクシミリアンの兄にあたるフランツ・ヨーゼフが即位します。

 このとき皇帝は18歳、マクシミリアンは16歳でした。クソ真面目な兄と違って、マクシミリアンは自由奔放な性格で、ウィーンっ子の人気も高かったそうです。フランツ・ヨーゼフの皇后が有名なエリザベートですが、マクシミリアンにもこの頃縁談が持ち上がりました。ベルギー王レオポルド1世の息女、シャルロットです。明るい勝気な性格の彼女をみてマクシミリアンは一目惚れしました。若い夫婦は仲むつまじかったそうです。

 若いマクシミリアンも、政治の表舞台に登場するときがきます。1857年、マクシミリアンはオーストリア領北イタリアの総督に任命されました。この地はミラノとべネチアを中心とする要地で、ロンバルディア平原の大半を占めていました。時はサルディニアによるイタリア統一戦争の真っ只中、重要な役目です。
 しかし、張り切るマクシミリアンは戒厳令を一部撤回したり、自由選挙を実施するなど開明的な政策を行ったため保守派の反発をくらいます。民族解放闘争の末、イタリア統一を画策していたサルディニア王国の首相、カブールは困惑します。オーストリアの圧政から解放するという大義名分が、マクシミリアンの解放的政策によって台無しになるからです。

 カブールは、ウィーン宮廷の保守勢力に秘かに働きかけます。皇帝フランツ・ヨーゼフ自身も保守的性格だったので、この作戦は図に当たりました。皇帝はマクシミリアンの開放政策を苦々しく思っていました。宮廷の保守勢力からマクシミリアンの政策がいきすぎだとささやかれると、1858年、弟を解任し軍政を敷きました。しかし、翌年1859年フランスの援助を受けたサルディニア王国がオーストリアに宣戦布告、大敗したオーストリアは、ロンバルディア平原を放棄させられました。

 失意のうちに領地トリエステに戻ったマクシミリアンでしたが、1860年代にはいってまもなく悪魔の囁きがやってきます。張本人は時のフランス皇帝ナポレオン3世でした。
 マクシミリアンに、「メキシコ皇帝に就任する気はないか?」という打診です。

 簡単に当時のメキシコ情勢を振り返りましょう。1519年アステカ王国はコルテスによって滅ぼされました。以後メキシコはスペインの植民地にされ300年圧政下におかれます。
 ナポレオン1世がスペイン本国を占領した後、一応独立国になったメキシコでしたが王党派、共和派、保守派、リベラル派などが入り乱れて50年の間に40人の大統領が登場するという混乱振りでした。次第に実権はアメリカと結んだ進歩派と、欧州列強とくにフランスと結んだ保守派が握っていきす。

 進歩派が有利でしたが、1861年南北戦争によってアメリカの援助が中断されると、保守派は巻き返しのチャンスとばかりフランス、ナポレオン3世に接近しました。

 このような情勢下でのメキシコ皇帝就任打診でした。マクシミリアンはこれにどう関わっていくのか?後編に続きます。

呉子の兵法

 中国戦国時代初期、名君として名高かった魏の文侯は広く天下に人材を求めていました。あるとき呉起と名乗る者が仕官を求めます。
 文侯は宰相の里克に尋ねました。
「呉起とはどういう男だ?」これに対し里克は
「呉起は名誉心強く色好みですが、兵を用いされれば司馬穣苴(司馬法を記した伝説の兵法家)も上は超せますまい。」
「それほどの男か」文侯は呉起を将軍に取り立てました。

 魏に仕官するや、呉起はその才能を存分に発揮します。西の秦を討って西河地方を奪い、魏を強国に押し上げました。呉起は文侯に信頼され西河の太守として秦や韓ににらみを利かせます。呉起の在任中はあえて両国は手を出しませんでした。

 やがて文侯が没し、子の武侯が立つと呉起の周囲はあやしくなりました。西河の太守、将軍として名声高かった呉起は、宰相の位を狙います。しかし、宰相に任ぜられたのは田文でした。田文は謙虚に呉起を立てたので波風は立たなかったのですが、その没後宰相の位はまたしても他人のものになりました。

 宰相になった公叔座は、魏の公主を妻に持つだけで出世した凡庸な人物です。いつか呉起にその地位を取って代わられるのではないかと不安に思い武侯に讒言しました。まだ若い武侯は、この讒言を信じます。

 すっかり宮仕えに嫌気がさした呉起は、官位を返上し南方の楚に向かいました。かねてから呉起の名声を聞いていた楚の悼王は、亡命してきた呉起をさっそく令尹(楚の官制で宰相にあたる)に任命します。ここでようやく念願の宰相になった呉起は、悼王の期待に応え改革を断行しました。

 楚の国は大国でしたが、歴史が古いため公族や貴族達の力が強く、王権は制限されていました。呉起は楚を強国にするため不用の官を廃し、公族たちの俸禄を削ったり、停止したりします。そして浮いたお金は国軍の強化に充てました。
 呉起はこの兵を率いて南方の百越を討ち、北では陳と蔡を併合します。さらに韓・魏・趙の三国を討ち、秦を撃破しました。楚はまたたくまに強大国に成長します。

 呉起は、国内では権力を奪われていた公族や貴族達から恨まれていました。しかし、呉起は悼王の寵愛をバックに諸改革を次々と実行していきました。

 ところが最大の庇護者であった悼王が亡くなります。このときを待っていた公族たちは兵を挙げて呉起を襲いました。改革者として諸人に恨まれていたうえ、よそ者であった呉起は、孤立し進退窮まります。

 呉起は悼王の柩が安置してあった部屋に逃げ込み、柩に取りすがりました。反乱軍はこれにかまわず矢を射かけ、呉起を殺します。このとき王の柩にも多くの矢が刺さりました。

 悼王の葬儀が済み、太子が後を継ぎました。新王は王の柩に矢を射掛けた者たちをことごとく捕らえます。呉起を倒すために柩にまで矢を射た無礼に怒っていたのです。これに連座して処刑された家は七十二家に及んだそうです。呉起最後の兵法でした。これで復讐は成ったのです。

 ここまで読まれた皆さんはお気づきだと思いますが、秦の商鞅の生涯と酷似していることに驚かせられます。改革者の最期は悲劇で終わるのでしょうか?
 秦が商鞅の死後も順調に改革の道を進め天下を統一したのに対し、楚はその後振わなくなります。秦と比べ貴族の力の強かった楚では、王権が弱まり総力戦の戦国時代では生き残るのがやっとの状態でした。 ただ、最終的に秦を滅ぼすのが楚の出身であった項羽と劉邦だったのは歴史の皮肉かもしれません。

『ヤルムークの戦い』と「アッラーの剣」ハーリド

 7世紀初頭、ローマ帝国とペルシアの東西両大国の戦いは実に700年にも及んでいました。一進一退の攻防は途中に平和を挟んで微妙なバランスを保っていたのです。
 ササン朝ペルシャの攻勢を撥ね返し、シリアの地を久々に奪還した時のビザンツ皇帝ヘラクレイオス。しかし、そのころ南のアラビア半島にはムハンマドを開祖とするイスラム帝国が勃興していました。

 イスラム帝国の発展は、当時ビザンツ(東ローマ)とササン朝が戦争状態にあり、南方にかまっている状況になかったという幸運が寄与していました。そしてムスリムの騎兵たちは、その幸運を最大限に生かす力をもっていたのです。

 「アッラーの剣」の異名をもつハーリド・イブン=アル=ワリード。生年は不詳。初めは異教徒の側で戦いましたが、のちイスラム教に改宗。ムハンマドの長子ザイドを指揮官とするシリア遠征に参加。ザイド戦死後は残軍をまとめメディナへ帰還、このときムハンマドから「アッラーの剣」の称号を授けられます。

 ハーリドはムハンマドの死後、跡を継いだアブー・バクルの命を受け再びシリア征服の遠征に出撃しました。率いる兵はアラブの精鋭、騎兵4万。
 パレスティナでビザンツの前哨線を突破すると主邑ダマスカスを包囲、6ヶ月の攻防の末、これを降しました。この突如現れた危機に皇帝ヘラクレイオスは、弟テオドロスを総大将に5万(一説には20万)の兵力を与えて迎え撃たせます。

 両軍は、ヨルダン北西部、ヤルムーク河畔で対峙しました。小競り合いののち、636年8月20日、いよいよ雌雄を決するべく両軍は出撃します。夏の砂漠地帯、焦熱地獄で体力を消耗させつつあるビザンツ軍に対し、アラブの騎兵は慣れていました。
 また、砂漠の戦闘に長けたハーリドが指揮することもイスラム側が有利でした。戦いはイスラム軍が北側に回りこんでヤルムーク河とラッカード河の合流する三角地点にビザンツ軍を追い詰めたことにより勝負ありました。

 河を背にしたビザンツ軍は絶体絶命です。頑強に抵抗するビザンツ軍でしたが、先陣の一角が崩れると雪崩をうつように険しい渓谷に追い落とされました。かろうじて対岸に渡ることのできた兵士も、先回りされたアラブ騎兵に殺戮されます。総司令官テオドロスをはじめ実に4万人の戦死者を出してビザンツ軍は大敗しました。

 これによってビザンツ帝国は、海陸交通の要衝、シリアを失陥します。アンティオキアで敗戦の報告を受けた皇帝ヘラクレイオスは、退却し小アジアに抜けるタウルス峠に差し掛かったとき
「さらばシリアよ!そなたは敵にとってなんとすばらしい国土であろうか」と叫んだと言われています。

 一方、シリアを得たことはイスラム帝国の発展にとって大いに力になりました。この後ササン朝を滅ぼし空前の大発展を遂げます。
 大勝利の英雄ハーリドはどうなったでしょうか?第2代カリフとなったウマルと不仲だったため、決戦前夜彼の罷免を告げる書簡を受け取っていました。勝利の後、この事実を公表したハーリドは潔く引退します。シリアの地で隠棲し、その5年後ひっそり息を引き取ったと伝えられています。

ナンダ朝 - カースト制度への最初の抵抗者 -

 古代インドにおいて、おそらくアーリア人の侵入によって成立したであろうカースト制度。祭祀階級であるバラモンを最高位に、戦士階級として実際の統治を司ったクシャトリア。一般民衆であるバイシャ、被征服民で奴隷階級に落とされたスードラ。これとは別にバリアと呼ばれるカースト以下の不可触賎民もいます。

 これは、現在に至っても連綿と続きカーストが違うと結婚もできないそうです。誰が考えても理不尽な身分制度ですが、古代においてもこれを疑問に思い、反発した人がいました。だいたい紀元前4世紀頃といわれています。

 スードラ出身(おそらく被征服民族ドラヴィダ人)のマハーパドマという風雲児がいました。当時北インドで有力な国であったシシューナガ朝マガダ国(仏典にでてくる釈尊の教団を保護したビンビサーラ王の王朝)を滅ぼし、すべてのクシャトリアを絶滅させたといわれます。
 このあたりは記録が乏しく、どのような手段で王朝を滅ぼしたのかわかりません。ナンダ朝の成立でした。王自体がスードラ出身ですから、カースト制度は崩壊したも同然です。事実、この王朝は実力さえあれば出世できたらしく、後にナンダ朝を滅ぼすチャンドラグプタも若くして将軍に取り立てられたほどです。
 
 北インドを力で押さえつけていたナンダ朝ですが、旧来の特権階級であるバラモンには忌避されたようです。事実、チャンドラグプタが王朝に反逆すると、バラモン出身のカウティリアが参謀についたくらいです。おそらくナンダ朝の崩壊がはやかったのはバラモン階級や、生き残ったクシャトリア階級がチャンドラグプタの反乱軍を支持したからでしょう。

 初代マハーパドマは88年統治したという伝説がありますが、もとよりこれは誇張でしょう。ただ長期政権だったことは間違いありません。この人も記録がちゃんと残っていれば英雄として伝えられたでしょう。ナンダ朝は九代続きます。

 文献資料が少なく実態がはっきりしないのですが、ギリシャ人の残した記録では、この王朝のもとでインドの度量衡が確立したそうです。ナンダ王は9億9千万枚の金貨を保有し莫大な富を持っていたと伝えられます。

 ナンダ朝最後の王、ダナナンダは首都パータリプトラをチャンドラグプタの反乱軍に落とされ、一族もろとも処刑されました。こうしてカースト制度を無くすチャンスだった王朝は、旧勢力の反撃によって滅ぼされました。以後、現在に到るまでカースト制度は残りつづけます。

ディアドコイ(後継者)戦争

 BC323年、稀代の英雄アレキサンドロス大王は、帝国の首都と定められたバビロンで没します。後継者を尋ねられて「もっとも強き者に…」という遺言を残して。

 このとき正妻ロクサンヌは身ごもっていましたが、まもなく生まれた男児(アレキサンドロス4世)に広大な帝国の維持は不可能でした。大王の異母弟アリダイオスがフィリッポス3世として立ち、共同統治するということでひとまず落ち着きます。
 
 しかし各地に封じられたアレキサンドロスの有力な将軍達は、大王の遺言を忘れてはいませんでした。
その筆頭は摂政として帝国全体に睨みを利かす将軍ベルディッカス。各地の有力諸侯は以下の通り。

 アンティゴノス:フリギア、パンフュリア(小アジアからシリア北部にかけて)
 アンティパトロス:マケドニア本国
 エウメネス:カッパドキア、パフラゴニア(小アジア北東部)
 プトレマイオス:エジプト
 リュシマコス:トラキア
 レオンナトス:ヘレポントス(小アジア西部)
 セレウコス:ベルディッカス配下のバビロン総督

 まず行動を起こしたのはベルディッカスでした。自分の地位を磐石にするため大王の母オリュンピアスに大王の妹クレオパトラとの結婚を勧められると、アンティパトロスの娘との婚約をあっさり破棄します。これに怒ったアンティパトロスは、エジプトのプトレマイオスらと結び、反ベルディッカス連合を結成しました。一方、ベルディッカスもこれに対抗するためエウメネスを支援し勢力拡大を図ります。
 しかし、ベルディッカスはエジプト遠征中に、彼に不満を抱いていた部下のセレウコスらに暗殺されました。大王の家族は、ベルディッカスの死後マケドニア本国へ戻されます。
 
 ところがマケドニアを支配していたアンティパトロスが急死し後継者争いが巻き起こりました。その最中、敵対勢力に利用されるのを恐れたアンティパトロスの息子、カッサンドロスによって母子とも殺害されます。大王の直系の子孫はこれで断たれました。

 各地で将軍達が争う中、台頭してきたのは小アジアからシリア、メソポタミア北部まで勢力を拡げたアンティゴノスでした。BC316年ガビエネの戦いでライバルであるエウメネスを下すと、時代はアンティゴノス対他のヘレニズム諸侯という図式になっていきました。
 
 アンティゴノスに圧迫されたバビロン総督セレウコスは、エジプトのプトレマイオスを頼って亡命します。プトレマイオスはこれを支援して再びセレウコスをバビロン総督に復帰させました。
 一時は、マケドニアのカッサンドロス、エジプトのプトレマイオスを破ったアンティゴノスでしたが、かえって反対勢力を結集させるという結果になりました。

 BC301年、アンティゴノスは勢力を回復したセレウコスとリュシマコスの連合軍とイプソスで激突しました。兵力はそれぞれ8万前後と互角でしたが、連合軍は戦象の数(400対73)で圧倒しており結局これが勝敗を左右しました。アレキサンドロス時代の「ハンマーと金床戦術」のような高度な戦術はいつしか忘れ去られ、力と力の単純なぶつかり合いになってしまったこの戦いによって、アンティゴノスは敗死します。後継者にもっとも近かった男の最期でした。

 以後、マケドニアのカッサンドロス、エジプトのプトレマイオス、小アジアからイランまでの広大な領土を有するセレウコスの三人が勝ち残りそれぞれ王となります。大王の遺領は彼らによって分割されました。

 一方、イプソスの戦いで敗れたアンティゴノスの息子デメトリオスは小アジアに残った領地を細々と守っていましたが、その子アンティゴノス2世の時代に、カッサンドロスの死後混乱するマケドニア王国の内紛に介入しBC294年、マケドニア王となりました。以後マケドニアはアンティゴノス家が支配します。

 これら三国は、いずれも西方に台頭してきた新興のローマに滅ぼされることになります。ヘレニズム時代の終焉、そしてローマの時代の始まりでした。

世界史英雄列伝(35) 宋の太祖 趙匡胤 - 非凡なる凡人 - (後編)

 宋の太祖は人材にも恵まれていました。弟の趙匡義(二代、太宗)は将軍としても有能で優れた補佐役でしたし、宰相の趙普は学問こそありませんでしたが現実主義者で有能な行政家でした。
 これら諸将の活躍で、976年太祖が没する頃には呉越・北漢の二国を残し、中国をほぼ統一することができました。

 さて、統一した天下でしたが放っておけばまた戦乱の世に逆戻りでした。太祖は戦乱の元凶を節度使だと判断し、最後は単なる名誉職にします。しかしその方法も彼らしい人間くさいやり方でした。
 ある日、太祖は建国の功臣たちと酒宴をしていました。宴たけなわのとき、太祖は突然憂い顔になります。
 「そなたたちは、どうせ朕の地位を狙っておるのだろう?」
 この言葉にびっくり仰天した諸将は口々に否定し、太祖をなだめました。後日、互いに相談した諸将は参内して、太祖に自らの軍権を返上することを申し出ます。
 喜んだ太祖は、彼らに莫大な恩賞を授け一生富貴に暮らせるようにして、これに報いました。

 また、滅ぼした諸国の王族達も殺したりせず、手厚く保護しました。これにより敵国の抵抗が弱められ統一が早まりました。計算ずくというより、太祖の優しい性格によるものでしょう。

 文人によるシビリアンコントロールを強化したのも太祖です。ただこれにより宋の軍事力が弱体化し滅亡の原因になったことは事実でした。科挙を改善し、文治主義を確立しました。宋は空前の経済的発展を遂げます。

 幼君から国を奪うというと、日本では徳川家康を連想しますが、太祖は逆に滅ぼした王家の子孫を保護することによって国を保ちました。優しい性格もありますが、徳によって国を治めた証明でしょう。
 宋の太祖趙匡胤は、史家の間でも評判がよく歴代皇帝で最高点をあげる者もいます。私も世界の歴史をみても、他に例のないような屈指の名君だと評価します。

世界史英雄列伝(35) 宋の太祖 趙匡胤 - 非凡なる凡人 - (前編)

 959年、五代随一の名君といわれる後周の世宗が崩御すると、後を継いだのはわずか七歳の恭帝でした。皇帝の代替わりの混乱期に付けこむのは契丹族の得意戦法です。このときも大軍を起こして国境を越えてきます。

 後周朝廷では、国家存亡の危機に殿前都点検(近衛軍長官)趙匡胤に全権を預け事に当たらせることにしました。首都開封を進発した北伐軍は陳橋の駅で一泊します。
 いつものように深酒をして眠り込んでいた趙匡胤は、夜半周りが騒がしいのに気がつき目を覚ましました。すると、自分はいつのまにか黄包(天子が着る服)を着せられ、諸将が万歳をしてるではありませんか。

 「どういうことだ?」いぶかしげに訪ねると、弟で腹心の趙匡義が代表して答えました。
 「兄上を天子に推戴することを、諸将たちで話し合って決めました。」
 「わしを謀反人に仕立てあげる気か!」
 「兄上はすでに天子だけしか着る事を許されない黄包を着ています。謀反はすでに始まっております」
 「・・・」
 「現陛下は幼帝(七歳)におわします。戦乱の世を統べていくには恐れながら力不足でございます。国 を保つには兄上に天子になって頂くしかないのです。」
 「嫌だといったら?」
 「兄上を刺し殺し、我らは自害して果てる所存です」
 「・・・、わかった」

 歴史上、自分から望まずに皇帝になった人物は趙匡胤だけでしょう。実直で与えられた仕事を誠実にこなす彼は、天才肌だった世宗に厚く信頼されます。だだ実直だっただけでなく軍事的才能もあったのでしょう。殿前都点検にまで登りつめたのはその証明です。

 客観的にみて、当時の状況は七歳の幼帝で治められるような生易しいものではなかったはずです。通常、趙匡胤ほどの地位にあれば自分が皇帝になって世を治めようとする野心がでてきて当然でした。しかし、彼は諸将に推戴されるまで、そのような野心など毛ほどもなかったのです。
 伝えられる肖像画を見ていただくと分かりますが、彼はユーモラスな顔をしています(失礼)。徳のある長者とでもいいますか。ともかく乱世を治めるのに彼ほどふさわしい人物もいませんでした。

 開封に戻った趙匡胤は、恭帝から禅譲を受け「宋」を建国します。廟号は太祖ですので、以後は太祖で統一します。帝位につくに際し太祖は諸将に約束させます。

 一、旧帝室である柴氏一族にけっして危害を加えないこと。
 二、言論を理由に士大夫を殺してはならない。

 この言葉は、太祖趙匡胤の遺訓とされ歴代皇帝はこれを守りました。実際、柴氏は貴族として大切に扱われ300年も続いたそうです。

 後編では太祖の統一事業と晩年を見ていきます。

世界史英雄列伝(34) 後周の世宗 柴栄 - 五代随一の名君 - (後編)

 唐王朝を滅ぼしたのは節度使と呼ばれる軍事力と地方統治権を有する者達です。実際、五代の各皇帝も前王朝を滅ぼした節度使たちでした。

 地方軍閥と化した節度使をそのままにしては朝廷を脅かす存在になります。世宗は殿前軍(近衛軍)を編成し皇帝直属としました。同時に節度使の軍権を削り弱体化を図ります。これによって皇帝権力を強化しました。

 また「三武一宗の法難」と呼ばれる最後の仏教弾圧を行ったのも彼でした。ただ今までの弾圧が、道教勢力からの働きかけが原因であったのに対し、今回はただ経済的な理由でした。世宗は廃仏令と僧侶の還俗を命じます。当時は兵役逃れで僧になるものが多かったそうです。また仏教勢力は莫大な富を蓄えていました。
 実際、没収した財産は軍事費などの国家財政に充てられます。こうして国力育成に努めた世宗は、955年、四川省にあった蜀を攻め四州を奪います。次に当時最大の経済大国だった南唐を攻め、経済基盤であった塩の大産地がある長江以北の南唐領を割譲させました。

 こうして後方を固めた世宗は、959年懸案だった契丹とその衛星国である北漢を攻めるため北伐を開始します。燕雲十六州のうち南方の二州をまたたくまに降し、さらに北上しようとしたとき、世宗は突然病に倒れました。都開封に帰還するも病は好転せずついに崩御します。享年三十九歳、わずか五年の治世でした。

 十分中国を統一する力量をもった世宗の惜しまれる死でした。中途に終わった統一事業は、世宗の死後、無血クーデターにより帝位についた世宗に最も信頼された殿前都点検・趙匡胤によって完成されます。

 宋の太祖趙匡胤は、柴氏に惨い仕打ちをせず子々孫々まで大切にしたそうです。余談ですが、水滸伝で有名な小旋風の柴進は、この世宗の子孫だと伝えられます。

世界史英雄列伝(34) 後周の世宗 柴栄 - 五代随一の名君 - (前編)

 中国史で唐の滅亡(907年)から宋の建国(960年)までの50年余りを「五代十国時代」と言います。中原を押さえた後梁・後唐・後晋・後漢・後周の五代と、地方政権である十国がめまぐるしく興亡を繰り返した激動の時代でした。

 その中で随一の名君、いや中国の歴史を通じても屈指の名君といって良い後周の二代皇帝世宗(柴栄)をご紹介します。私は彼が好きでこの時代に関する本を読みふけったものです。

 柴栄は後周の初代皇帝「太祖」郭威の妻の弟の子でした。幼いころから郭威のもとで養われ、郭威が後周を建国すると将軍として活躍します。954年、太祖が没すると実子がいなかったことから柴栄が後継者に指名されます。二代皇帝「世宗」の誕生でした。

 このあたり、東ローマ(ビザンツ)帝国のユスチニアヌス大帝と酷似しています。叔父の皇位を継いだことと、それまで将軍として活躍したこと。しかし、ユスチニアヌスが皇帝になってから軍事を部下の将軍に任せたのとは対照的に、世宗は最後まで軍の最高指揮官として戦場に立ちました。

 世宗即位の直後、早くも危機が訪れます。山西省にあった北漢が、契丹族の援軍を得て皇帝即位直後の混乱期を狙って侵攻してきたのです。
 世宗は、諸将の反対を押し切って自らこれを迎え撃ちます。戦場は高平でした。戦いの火蓋が切られると案の定戦意の低い一部の兵が敵方に寝返ります。このときばかりは世宗も敗北を覚悟しました。しかし、世宗が将軍時代に抜擢した武将、趙匡胤(後の宋の太祖)らの奮戦でしだいに押し返し始めます。ここを戦機とみた世宗は全軍に突撃命令を出しました。自ら陣頭にたった世宗に恐れをなした北漢軍は、雪崩を打って敗走します。大逆転勝利でした。

 世宗はしかし、この勝利に驕らず国力の育成に努めました。後編では世宗の改革と征服事業を見て行きます。

世界史英雄列伝(33) チャンドラグプタ - マウリア朝の創始者 -

 アケメネス朝を滅ぼし、遠く東を目指したアレキサンドロス大王。破竹の勢いのマケドニア軍は紀元前326年カイバー峠を越えインド侵入を果たしました。ヒュダスペス河畔で現地の王ポロスを破り、インドへの道を開きます。

 そんな中、インド中央部への道案内を申し出た一人の若者がいました。その人物はサンドロコットスと呼ばれます。彼こそ後にマウリア朝を開くチャンドラグプタだと言われています。
 このチャンドラグプタは、並みの若者ではありませんでした。ヒマラヤ地方のマウリアという小氏族に生まれた彼は、インド北部を支配していたナンダ朝マガタ国に仕え、若くして将軍に登りつめます。
 しかし、国王への反乱に失敗し追放されていました。アレキサンドロスのもとに現れたのも、マケドニア軍を利用してナンダ朝を滅ぼそうという野望を持っていたのかもしれません。

 マケドニア軍兵士は、これ以上の東進を拒否。アレキサンドロスはついに軍を返します。チャンドラグプタの野望は潰えたかに見えました。ところが彼は、マケドニア軍の軍制を学び自分の軍隊に生かす知恵を持っていました。子飼いの部隊を騎兵・歩兵・戦車・象兵に編成し直すとインダス地方で挙兵。現地を支配していたマケドニアの駐留軍をまたたく間に駆逐します。

 このとき、チャンドラグプタはバラモン(祭祀階級)出身のカウティリアという人物を参謀に迎えます。後に「実利論」という著書をあらわす冷徹なマキャベリストであったカウティリアの智謀を加えチャンドラグプタ軍はますます強化されました。

 インダス地方を席巻したチャンドラグプタに脅威を感じたナンダ朝の王、ダナナンダは将軍バッサダーラに大軍を授けて鎮圧に向かわせます。これを難なく撃破したチャンドラグプタは軍をマガタ国の首都、パータリプトラに進軍させました。
 激しい攻防戦の末、首都を落としたチャンドラグプタは、ダナナンダをはじめとするナンダ朝の王族をことごとく処刑、自らマウリア朝を開きました。紀元前317年頃だと言われています。

 宰相となったカウティリアは強力な中央集権体制を築きあげました。高度な官僚制と、精強な常備軍をもったマウリア朝は、拡大の一途をたどります。紀元前305年、チャンドラグプタは後継者戦争を生き残ったシリアのセレウコスと戦い、インダスからバクトリア南部に到る4州を割譲させました。
 紀元前293年、チャンドラグプタが亡くなる頃にはインダスからガンジスまでの北インド全域を征服し、三代アショカ王の時代にはインド亜大陸をほぼ統一、インド史上最初の統一王国となりました。

 古代インド人は歴史を記録する習慣がなかったため、伝説に彩られた生涯ですが、世界史的にみてチャンドラグプタが不世出の英雄であることは間違いないでしょう。

世界史英雄列伝(32) 管仲 - 中国・春秋時代の大宰相 -

 英雄列伝の記事もついに32個めになりました。今回は中国・春秋時代に斉の桓公を援けて最初の覇者にした管仲(字は夷吾)を書きます。

 三国志で有名な諸葛亮は、若い頃自分を管仲・楽毅になぞらえたそうです。また「衣食足りて礼節を知る」と言う言葉は、「管子・牧民編」の「食廩実則知礼節、衣食足則知栄辱」からきています。

 管仲は若い頃、斉の大臣の家系である鮑叔牙と親友でした。貧困だった彼は鮑叔牙と商売をしますが、いつも騙して多く利益をとりました。しかし、人格者の鮑叔牙は笑ってこれを許しました。

 二人は、斉の公子にそれぞれ仕えます。管仲は公子糾に、鮑叔牙は公子小白に。当時の斉公で両公子の兄にあたる襄公は実の妹と通じる異常者で、治世は乱脈を極めました。命の危険を感じた両公子はそれぞれ隣国に亡命します。そんなとき襄公は家臣に殺されてしまいました。

 隣国「魯」に亡命していた公子糾は魯公の後押しで斉に向かいます。一方公子小白は亡命先の「莒」(きょ)から斉に向かいました。
 管仲は先回りして、小白の行列を待ち伏せします。管仲の放った矢が当たって、小白は倒れました。これでライバルを倒したと安心した公子糾は魯軍とともにゆっくり斉の首都臨淄に向かいました。

 しかし、臨淄ではすでに小白が即位していました。実は矢はベルトの止め金に当たっていました。鮑叔牙の助言でとっさに死んだふりをし、首都に急行していたのです。
 待ち構えていた小白の軍勢にさんざんに撃ち破られた公子糾は魯に逃げ帰ります。

 小白は、死後「桓公」と諡号されますから、以後桓公で通します。桓公は自分を殺そうとした管仲が憎くてたまりませんでした。これを殺そうと計ったところ鮑叔牙が進言します。
「我が君が斉一国の君主で満足されるなら私が宰相でも足ります。しかし、天下の覇者を目指されるなら管仲を用いるべきでしょう。」
 この言葉によって、管仲は許され斉の宰相に任ぜられました。
 
 後年、管仲は述懐しています。「私がもと貧困であった時、鮑叔と商売したことがある。その儲けを分配する時自分の取り分を多くしたが鮑叔は私のことを貪欲だとは言わなかった。私が貧しいと知っていたからだ。 - 中略 - 公子糾の敗れたもうた時、召忽は殉死した。私は牢に入れられ辱めを受けたが、鮑叔は私を恥を知らぬ男とは言わなかった。私が小さな節義に恥ずかしがらず、功名が天下に現れないことを恥としていると知っているからだ。私は父母から生を受けたが、私をまことに知っているのは鮑子である。」

 後世、「管鮑の交わり」と称される親友、鮑叔牙の推挙によって世にでた管仲は見事にその期待に応えます。海に面した小国であった斉を製塩業など殖産興業に務め、富国強兵政策を推し進めました。また外交でも大義名分を重視し衰微しつつあった周室を援け、諸侯を集めて桓公を盟主とする会盟を開き、桓公を春秋時代最初の覇者にします。
 斉は、管仲の時代に春秋時代有数の大国に成長しました。
 
 鮑叔牙は自分が宰相になるチャンスがあったにもかかわらず管仲を推挙し、自分は次位に甘んじます。天下の人は、管仲の賢明を讃える以上に鮑叔牙がよく人を知る明があったと讃えました。

美女と兵法家 - 孫子の兵法の凄み -

 孫子の兵法で有名な孫武の生涯は謎に包まれています。司馬遷の『史記』でも一つのエピソードを記すのみです。だだそのエピソードだけで孫子の兵法の真髄に触れた気がするのは私だけでしょうか?
 有名なエピソードなので知っている方も多いとは思いますが、もしご存知じゃない方は
 当ブログ『伍子胥 - 復讐に捧げた生涯 - 前・後編』をご参照ください。
  http://blogs.yahoo.co.jp/houzankai2006/20192242.html
  http://blogs.yahoo.co.jp/houzankai2006/20192672.html

 いつの時代かはっきりしませんが、だいたい紀元前510年前後の頃だと思ってください。中国春秋時代末期、豊富な鉱物資源で中原の覇権争いに介入しつつあった長江下流域を領土とした『呉』。その若き王闔廬(こうりょ)は宿敵『楚』を討つため、広く人材を求めていました。 
 楚から亡命して、王の信頼厚い伍子胥はある人物を推挙します。兵法を治め、王の覇業の助けになる人物と最大限の賛辞とともに、彼の著書十三篇を王に贈りました。

 数日後、伍子胥が闔廬に著書を読んだか尋ねると、「まだ読んでいない」との返事でした。さすがに伍子胥も腹に据えかねて「王は人材を求めていらっしゃるのではなかったのですか?」と聞くと
「数日後に連れてまいれ。直接人物を確かめる」と答えました。

 約束の日、伍子胥は風采の上がらぬ一人の男を伴いました。孫武と名乗った男がどうしても有能な人物とは見えなかった闔廬は、孫武という男をからかおうとします。
「先生の著書十三篇は読ませていただいた。なかなか興味深い本であった。しかし机上の空論と現実とは違うのではないか?」
 すると、風采の上がらぬ男とは思えない返事が返ってきました。
「兵法とは戦いの真理でございます。いついかなる場合でも現実に対応できなければ役にたちません。」
 この答えを小癪におもった王は
「ほう、いついかなる場合とな。それでは宮中の美女をつかって軍事訓練ができようか?」
 横で見ていた伍子胥は、王の悪ふざけを苦々しく思いました。しかし、自信たっぷりに請け負う孫武の訓練振りにも興味をおぼえます。
「承知いたしました。」孫武は早速訓練を始めました。

 宮中の美女180人は王の寵姫二人を隊長にして二隊に分けられます。庭に出て女達に矛を持たせた孫武は、太鼓を打ったら前進、左といったら左、右といったら右を向け、と取り決めを言い渡します。
 そして、太鼓を打つと女達はどっと笑いました。何度繰り返しても同じです。美女達も遊びとしか思っていませんでしたので当然です。
 台上で見ていた闔廬も、腹を抱えて笑いました。

 しかし、孫武の顔色が一変します。
「取り決めが明白を欠き、軍律の説明不十分であれば自分の責任である。だが、もはや明白になっているのに、法に従わぬのは役目の者の罪である。」
 二人の寵姫の首を打たせようとしました。これには闔廬も慌てます。
「将軍が兵を用いる腕前は分かった。余はこの二人がおらんと食事も喉に通らんのだ。処刑はまってくれぬか。」
 しかし、孫武は
「それがし、命を受けて将となった以上は『君命も受けざるところあり』と申します。」と言って、二人の首を打たせました。
 すると、美女達に緊張が走りもはや笑い出す者は一人も出ませんでした。新たに任命した隊長以下、一糸乱れぬ統率振りです。
 孫武は使いをやって王に報告させます。
「兵士はすっかり訓練できました。どうか王は下に降りてご覧くださりませ」
 しかし、寵姫二人を斬られた王は、意気消沈して
「ご苦労であった。将軍は宿舎に入って休息するがよい」
と、立ち去ろうとしました。

「王は言を好まれるばかりで実行はおできにならないのでございます。」孫武もまた立ち去ろうとしました。これを見て伍子胥は王に進言します。
「もうお分かりでしょう。彼を立ち去らせることは呉国にとって大きな損失ですぞ。王の覇業が成るか成らぬか、彼にかかっております。王にはどうかご賢察ください!」
 闔廬も凡庸な男ではありません。伍子胥の言わんとすることが分かりました。非凡な才能を持つ孫武が、もし敵国『楚』に用いられたら、戦う前から勝負があったようなものです。
 孫武を引き止めた王は、彼を客卿(外国出身の貴族)にし、将軍に任命しました。後に呉が楚を滅亡寸前に追い込んだのには孫武の活躍があったことは言うまでもありません。

世界史英雄列伝(31) チンギス汗 - 後編 - 『草原の覇者』

 ケレイト族のトオリル=ハーン、ジャダラン族のジャムカと同盟を結び三大勢力の一つとなったモンゴルでしたが、まだまだ他の二つに比べると大人と子供ほどの力の差がありました。
 テムジンは盟友(アンダ)であるジャムカの傘下にはいって勢力の拡充を図ります。初めは両者の仲は良好でした。しかし、テムジンの声望を慕い各地の部族がモンゴル族に参加し、それがジャムカ配下の部族にまで及び始めたので、両者の仲は次第に険悪になっていきました。
 
 自分の配下がどんどんテムジンの方に去っていく現実にいらだったジャムカは、奇襲によってテムジンを秘かに葬り去ろうと企みます。危険を察知したテムジンは傘下の部族を引き連れてジャムカのもとを去りました。
 ある日、ジャムカの一族がテムジン配下の部族の家畜を略奪しようとして反対に殺される事件が起こります。これにより両者の関係は決裂しました。両者はバルジェット平原で激突します。1195年のことです。
 「十三翼の戦い」と呼ばれるこの戦いで勝利したのは強大なジャムカでした。しかし、捕虜を釜茹でにするなど残虐な振る舞いによって人望を失い、逆に敗れたテムジンの方に投ずる部族が続出します。
 テムジンは敗戦の痛手を、急速に回復しました。

 同年、金がモンゴル高原西部に割拠するナイマン部を攻撃します。テムジンはトオリル=ハーンと共同してこの討伐戦に参加、金より「百人長」の称号を授けられます。トオリルは「王」の称号を与えられ、以後「王(ワン)=ハーン」と名乗ります。これが中国の歴史書にテムジンが登場した最初だと言われています。

 1202年、王(ワン)=ハーンと同盟して、東方諸族の盟主となっていたジャムカを攻撃したテムジンは、その軍を破りケレイトと並ぶ二大勢力に成長します。しかし、両雄並び立たず、両者は一方を倒す機会を虎視眈々と狙っていました。
 1203年、ジャムカは王(ワン)=ハーンを頼って亡命してきます。ジャムカの讒言を容れた王(ワン)=ハーンはテムジンの牧地を襲います。不意打ちで敗れたテムジンはオノン川から北に逃れ体勢を立て直しました。
 そして反対にケレイト族の本営を探し出し急襲します。油断していた王(ワン)=ハーンは討たれ、モンゴルはついに高原の中央を占める大勢力になりました。ただ、またしても宿敵ジャムカを取り逃がします。

 1205年、高原に残った敵西方のナイマン部と北方のメルキト族を討ったテムジンは、ついに宿敵ジャムカを捕らえました。テムジンはかっての盟友で、むかしボルテを取り戻すときに協力してくれた恩を思い出し、ジャムカを助けようとします。
 しかし、誇り高き英雄はこの申し出を拒否、「高貴な死に方で殺されるのが望みだ」と答えました。ジャムカの望みとおり処刑したテムジンは、彼を遺言通り小高い丘の上に葬りました。

 1206年2月、テムジンは本拠地オノン川上流に旗下のすべての部族の代表を集めクリルタイを開きます。この集会で「大ハーン」の位に就いたテムジンは、以後『チンギス汗』と名乗りました。

 蒼き狼の子孫達はついにモンゴル高原の覇者になったのです。以後彼らの征服欲は世界に向けられました。剽悍な騎馬軍団は中国・中東・ヨーロッパを荒らしまわります。モンゴル帝国の時代でした。

世界史英雄列伝(31) チンギス汗 - 前編 - 『蒼き狼の登場』

 世界史英雄列伝もついに31回を数えるようになりました。思い返せばこのブログを始めたきっかけはこの英雄列伝が書きたかったからでした。今回は誰でも知っているチンギス汗をご紹介します。しかし、高原を統一してからの征服事業は知っていても、その生い立ちはあまり知られていないのではないかと思います。


 もともとモンゴルという名は、この高原に割拠する一部族の名前にすぎませんでした。記録の習慣のない彼ら遊牧民の歴史は周辺の中国の文献にあたるしかないのですが、テムジン幼少期の記録はありません。多くは彼らの民族的叙事詩『元朝秘史』に頼るしかないので、はっきりとした年代が不明です。だいたい12世紀の終りから13世紀初頭のできごとだと思ってください。

 チンギス汗は即位する前、テムジンという名前でした。テムジンの属するボルジギン氏族はモンゴル部の有力家系で、父エスガイの時代に高原中央部を占める大勢力ケレイト部のトオリル=ハーンと同盟を結び勢力を拡げます。
 テムジンの母、ホエルンはオルクヌウト部族出身でメルキト族に略奪され、それをエスガイが二重に略奪して妻にしたものでした。まもなく妊娠したホエルンはテムジンを生みますが、どちらの子供かはっきりと分かりませんでした。この出生の秘密がテムジンの生涯を悩まします。彼は、『蒼き狼と白き牝鹿の子孫』であるモンゴル部族の子供である事を証明するために戦い続けたとも言えます。
 現代人の我々から見ると壮絶な話ですが、文化と言えるものもない高原では、遊牧民たちは生きるためには奪い殺すという弱肉強食の生存競争のなかに暮らさなければならなかったのです。

 エスガイは成長したわが子のために、文明国「金」との国境に近く文化的生活をおくっていたオンギラト族のボルテという娘を婚約者にします。しかし、テムジンがボルテを正式に迎える前に、エスガイは宿敵タタル族に宴席に招かれそこで毒殺されてしまいました。

 指導者を失ったモンゴル族は混乱に陥ります。エスガイ以外に有力指導者のいないボルジギン氏族に代わってタイチュウト氏族がモンゴル部の実権を握りました。寡婦ホエルンとテムジンたち家族を除いて、部族民ことごとくがタイチュウトに寝返りました。
 のけ者にされたテムジン一家はオノン川上流を遡り自分達だけの牧地をつくります。孤立していたため物資の交換もままならず生活は悲惨を極めました。
 さらに追い討ちをかけるように、テムジン一家の息の根をとめるべくタイチュウト族が襲撃します。かろうじて逃げおおせた一家は、さらに上流に逃れるしかありませんでした。

 ある時、遊牧民にとってもっとも大切な馬8頭が盗まれるという事件が起こります。これを追跡したテムジンは、途中立ち寄った部族で話を聞いて追跡に協力してくれた一人の若者と出会います。目から鼻に抜ける才気を持った若者と、テムジンは意気投合します。この若者こそ後にモンゴル帝国勃興に尽力した四俊の一人、ボウルチュその人でした。

 成人したテムジンは小さいながらも一つの勢力となります。彼を慕ってボウルチュをはじめ多くの人材が集まりました。テムジンはオンギラト族から妻ボルテを迎え幸せな生活をおくっていました。
 しかし、20年前ホエルンを奪われたメルキト族は復讐の時を狙っていました。テムジンが部族を留守にした隙を突いて新妻ボルテを略奪します。

 怒り狂ったテムジンでしたが、メルキト族をテムジン一人で相手にすることは無謀でした。テムジンは高原の実力者ケレイト族のトオリル=ハーンの力を借りることにしました。かねてからメルキトの勢力を目障りに思っていたトオリル=ハーンは協力を快諾、ジャムカという者と共同して攻める事を提案します。自分とあまり変わらぬ年代のジャムカと盟友(アンダ)の誓いを結んだテムジンは三方からメルキト族を攻撃し、滅ぼしました。

 ところがようやく奪い返したボルテは妊娠していました。涙ながらにテムジンの子だと訴えるボルテを尻目にテムジンは生まれてきた子供にジュチ(客人)という名前を与えました。
 父と同様ジュチもまた過酷な運命を背負わされたのです。蒼き狼の子孫だということを証明するためにジュチもまた戦い続けなければなりませんでした。

 トオリル=ハーン、ジャムカと結んだテムジンは高原で一目置かれる存在になっていきました。後編ではテムジンのモンゴル高原統一の歴史を見ていきます。

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