鬼の城(きのじょう)と温羅伝説
岡山県総社市、吉備高原南端の山上に、鬼の城(きのじょう)と呼ばれる朝鮮式山城の遺跡があります。いつ、誰が築いたかも不明で文献も遺されていません。伝説では温羅(うら)という鬼が築いたといわれています。
(温羅伝説)
崇神天皇のころ、吉備の国に空を飛んでやってきた者がいた。百済の王子で名を温羅(うら)といい、新山に城を築いて都へ向かう荷駄や船を襲い、婦女子をかどわかした。人々は恐れ、そこを鬼の城と呼んだ。
大和朝廷は、温羅を退治するため孝霊天皇の王子吉備津彦命を派遣した。命は吉備の中山に陣を敷き片岡山に石盾を築いて戦いの準備をした。合戦が始まると命は弓を射た。しかし、温羅が石を投げ返すため、矢はことごとく撥ね返された。そこで命は同時に二本の矢を射た。一本は石に撥ね返されるが、もう一本は温羅の左目に命中した。
驚いた温羅は雉に姿を変え逃げ出した。すると命は鷹に変身して追いかける。温羅は、鯉になって、自分の左目から血が流れて川になった血吸川に入って逃げた。今度は命は鵜になって、ついに温羅を捕まえた。温羅は降参し、吉備の冠者の称号を命に献上し、処刑された。温羅の首は吉備津神社のお釜殿の下に埋められ、天災が起こる前には、うなり声をあげて知らせるという。これが、吉備津神社につたわる釜鳴神事のおこりである。
どうです?興味深いでしょう。これは何らかの事実に基づくと思います。調べてみると、いろんな説があるのですが、一番しっくりした説は、この話は大和朝廷の古代吉備王国侵略を表しているのだそうです。百済系の渡来人でたたら製鉄の技術者集団がこの地に住み、鬼の城を築き、吉備の人々と交流したのではと言われています。地元では意外に温羅の人気が高いのも、その傍証だそうです。むしろ侵略者は吉備津彦命(=大和朝廷)ではなかったでしょうか?
古代吉備王国と温羅の関係は不明ですが、温羅が王国の支配者か、あるいは相当関係の深い人物だったろうと推定されます。
朝鮮式山城というと、白村江で敗北した大和朝廷が、唐の侵略を怖れて日本各地に築いた城で、筑前大野城などが有名ですが、不思議な事に鬼の城のことは日本書紀にも何の記述もないそうです。他の城の記述があるにもかかわらずです。
ということは、大和朝廷に関係ない人物の築城と推定するのが自然です。古代吉備王国の浪漫、『鬼の城』いちどは行ってみたいところです。
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