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2009年6月13日 (土)

扶余族と空白の4世紀 (中編)

 古代朝鮮三国時代、すなわち高句麗・百済・新羅。ヨン様の太王四神記で興味を持った人も多いと思いますが(ヨン様目当てだけで、そんな殊勝な奴はいないか?爆)、少なくとも高句麗・百済については旧満州から朝鮮半島北部に分布していた『扶余』(ふよ、プヨ)という民族が建国に関わっているといわれています。


 扶余族はツングース系騎馬民族で鮮卑とは系統的に近く、中国史料によれば、扶余族は、穀物には適しているが果物は余り育たない土地に定住し、勇敢だが他国への侵略はせず、歌舞飲酒を好み、慎み深く誠実であったと記録されているそうです。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)


 韓国では、朝鮮民族の祖である高句麗を建てた扶余族が満州に住んでいたので、満州までがわが民族の故地であるという主張がなされているそうなんですが、実態はどうも違うみたいです。


 まず、扶余は本当に騎馬民族だったか?という疑問ですが私は半農半牧の民族で厳密な意味での遊牧民ではなかったと判断しています。中国資料によっても、匈奴のような遊牧民独特の習俗は見られず、むしろ農耕民に近い存在ではなかったかと考えます。
 西洋史中東史でいうところのトルコ民族のような存在、あるいはトルコ民族よりもされに農耕にシフトした民族だったのかもしれません。といいますのもトルコ族は豚を飼っていたため移動速度が遅く、他の遊牧民から馬鹿にされる存在だったのです。そのかわり簡単な農耕もでき他の遊牧民よりも地に足の着いた生活ができていたように思います。もちろん戦争になれば、主力は騎兵ですから歩兵中心の農耕民族の軍隊よりは圧倒的に強く、農耕に理解があるためその後の占領政策も上手くいきやすいのです。さらに付け加えるならオスマン朝のイェニチェリ(異民族の子弟を集めてイスラム教に改宗させ厳しい訓練を施した皇帝直属の近衛歩兵軍団)の存在も、純粋な遊牧民族ではなく半農半牧の民族だったからこそできたのではないかと。そこから類推すれば、別に扶余族は騎馬民族征服説否定論者が言うように大量の馬が輸送できないから海を渡って侵略できないのでなく、歩兵だけで十分侵略できたのではないかと考えます。


 有名な話ですが、モンゴルが金を征服したとき、金の住民を皆殺しにして中原を牧草地にしようという意見を本気で言ったモンゴルの将軍がいたそうですから、遊牧民の農耕民理解はこの程度だったのです。


 また扶余族が朝鮮民族の祖という意見も疑問です。扶余族が建てた百済では『百済王の姓は夫余氏であり、自ら「於羅瑕」と称していたこと、一方、民衆は「鞬吉支」と呼んでおり、どちらも王の意味であることを特記している』(ウィキペディアより)とされています。

 どういうことかというと、支配層と被支配層の民族が異なる二重言語国家、すなわち扶余族による征服王朝であったといえるのです。これは高句麗においても同様ですが、新羅に関してははっきりとした記述がありません。もしかしたら新羅は唯一朝鮮民族固有の国家だったのかもしれません。



 百済も高句麗も唐と新羅の連合軍に滅ぼされ、一部の支配層は日本へ、ある一部は満州に逃れて渤海国を建国したわけですから、扶余族が朝鮮固有の民族だという主張は無理があります。一部は朝鮮族に吸収されたのでしょうが、もともと違う民族だったのです。


 なかなか空白の4世紀に話が進まないのでいらいらしている方もいらっしゃるのではないかと思います。もう少しまってください。最低限これらの知識がないと話が進められないのです。扶余族のことが分かった時点で、古代朝鮮三国時代について述べます。

 紀元前2世紀末から4世紀にかけて朝鮮半島南部には馬韓、弁韓、辰韓と呼ばれる小国家群がひしめきあっていました。例えば辰韓は12の小国に分かれ、そのうちの斯蘆國が他の11国を併合して新羅を建国したとされています。同じく馬韓では百済が統一勢力となったそうですが、その間にある弁韓は、ここも12国に分かれていたそうですが統一勢力が現れず最後は新羅に滅ぼされたそうです。

 弁韓は、日本史における任那と地域が重なり鉄の一大産地でもあったそうです。加羅あるいは伽耶諸国(かやしょこく)と呼ばれるこの地域になぜ統一勢力が現れなかったのでしょうか?高句麗や百済が扶余族の建てた国だとすると、この伽耶諸国の支配層も扶余族だった可能性が非常に高いと思いませんか?

 そしてこの地域に対する大和朝廷の異常なまでの固執ぶり。たしかに古代において鉄の産地を押さえることの重要性は分かりますが、新羅に当地が征服され、隣国百済が滅ぼされた後も、4万2千という当時の国力から考えてありえないほどの大軍を半島に送って百済を復興しようとした行為。



 ちりばめられた謎のピースを1片1片繋ぎ合わせて見えてきた全貌、次の後編で私なりの結論を出そうと思います。

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