九頭竜川の合戦 - 朝倉氏、戦国大名への試練 -
応仁の乱で越前守護斯波氏の武将として活躍した朝倉孝景は、敵側である細川氏の誘いを受け、主家斯波氏に反旗を翻します。同じく越前守護代であった甲斐氏と共同し越前から斯波氏を追い出しました。
その後、甲斐氏との抗争にも勝利し、朝倉氏は越前支配を確立します。これが戦国大名朝倉氏の始まりでした。
幕府は、朝倉氏の実効支配を受け越前守護に任じます。しかし面白くないのは斯波氏や、加賀に追い出された前守護代甲斐氏でした。これら反朝倉勢力は、越前内の一向宗大寺と結びついて反抗の機会を待っていました。おりしも、加賀は一向一揆が守護の富樫氏を滅ぼし『百姓の持ちたる国』と化していました。一向宗も越前の本願寺領国化を狙っていましたので、両者の利害は一致、20万もに及ぶ大軍が越前国境を越えました。時に1506年です。
急報を受けた時の当主、三代貞景は対応に苦慮します。朝倉方は最大限動員しても2万足らず、敵は一揆勢とはいえ、10倍の大軍です。朝倉方は、一族で武勇に名高い越前敦賀城主、教景(のちの宗適)を総大将に任命しました。
朝倉方は、多勢に無勢で押し捲られ最後の防衛拠点、九頭竜川の線まで下がりました。ここを突破されると本拠一乗谷まで一直線です。一揆勢と朝倉軍は中角、中ノ郷、鳴鹿の三箇所の渡河点をめぐって激戦を繰り返しました。ここで教景は思い切った策に出ます。強引に手勢を率い中ノ郷の渡河点を逆に押し渡り一揆勢主力に斬りこみをかけました。この教景の武勇に一揆側は大混乱に陥ります。
思いもかけない教景の攻撃で、士気が崩壊した一揆勢は大軍であるために、回復もならず浮き足立ちます。この機会を逃さず朝倉方は大攻勢に転じました。たまらず一揆勢は壊走しました。朝倉方の大勝利です。朝倉教景の武名は全国に轟きました。
出家して「宗適」と号した教景は、貞景、孝景(初代とは別人)、義景と三代に仕え一族の重鎮として宗家を補佐します。1555年、加賀出陣中に病を発した宗適は、そのまま帰国して没します。享年七十九歳。
以後、名補佐役のいなくなった朝倉氏は徐々に衰退し1573年、織田信長の攻撃をうけ滅亡しました。
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