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2009年6月26日 (金)

浪岡御所北畠氏の盛衰

 九州の片田舎に住んでいると、東北には浪漫を感じます。奥州藤原氏、安東水軍、津軽氏と南部氏の対立。非常に興味深い歴史です。
 今回紹介する、浪岡御所北畠氏の歴史もそんな浪漫のひとつです。

 南北朝時代、南朝の重臣北畠親房の嫡男、顕家はわずか十六歳で陸奥へ下向、陸奥守、ついで鎮守府大将軍として二度にわたり足利幕府軍を破ります。上洛軍を率い青野原で大勝しますが、その後振るわず畿内各地を転戦、最後には和泉堺・石津浜で幕府方の高師直軍に敗れ戦死しました。このときわずか二十一歳だったといいます。陸奥から同行していた南部・伊達などの東北勢も討ち死にしました。

 顕家には遺児がいたそうです。名を顕成といい南部氏の庇護の下、船越の地に潜伏していました。北畠氏がいつの時代に浪岡に入部したのかは、諸説あって不明です。文中二年(1373年)説、応永年間(1394年~1428年)説などがあります。
 私見では、南北朝合一が1392年なされ、北畠氏を庇護していた八戸南部氏が、嫡流家三戸南部守行の説得で幕府に降り、南朝の重臣である北畠氏を領内に匿いきれなくなったので、安東氏との境界である浪岡に移したのではないかと考えます。
 そうなると応永年間説が浮かび上がってくるのですが、詳細は不明です。

 二代顕成、三代顕元と続き、四代顕邦の時代には浪岡居住は確実だと思われます。北畠氏は浪岡御所と呼ばれました。
 御所の称号は摂家か将軍家しか許されておらず、北畠氏はそれだけの名門として尊崇されました。
 似たような例として、土佐の一条氏があります。こちらは五摂家の一つという超名門で中村御所と呼ばれました。

 次の五代顕義の時に、浪岡城を築城します。次第に北畠氏は勢力を蓄え始めました。六代顕具、七代顕統、八代具永、九代具統と続きますが、資料によってはない名前もあってはっきりしません。
 この九代具統の時が全盛期でした。南部氏と安東氏の争いで、津軽地方から安東氏が追われると、この地の支配は北畠氏に任されます。戦国大名の支配と言うよりは、中央の室町幕府のように、権威としてただ君臨するのみのような気がします。まだまだ、奥州では鎮守府将軍、陸奥守北畠氏の名前は権威ある存在でした。
 具統は津軽地方の支配を強化して、南部一族の大光寺、八戸、三戸、大浦氏らと共同統治します。しかし、十代具運の時、庶流の川原御所の乱が起こり衰退します。次の顕村の代が最後でした。
 
 1578年、津軽地方統一に燃える大浦為信は、南部氏の津軽郡代石川(南部)高信を石川城に攻め滅ぼすと、矛先を浪岡城にむけます。

 大浦為信は浪岡領内に一揆を扇動し、重臣を調略します。三方から大浦勢が城に攻め込んだとき、次々と城内から寝返りがおき、城に火をかけました。浪岡城はろくに戦わず落城、当主顕村は捕らえられ、西根の寺院に幽閉されます。翌日、顕村は自害し、ここに150年にわたってこの地を支配した浪岡御所北畠氏は滅びました。

 大浦為信は、実父石川高信を殺された、南部家当主信直(本家に養子に入っていた)の怒りを買い、討伐を受けますが、逆にこれを破り津軽支配を固めます。政治、外交感覚も抜群で、いち早く中央の豊臣秀吉に誼を通じ、大浦家がもともと津軽の地を領していたと言いくるめ、本領安堵されました。為信は津軽氏を称します。
 後日これを知った南部家中は怒り狂ったそうですが、いくら秀吉に訴えても、本領安堵状を出しているため、取り上げられませんでした。これが、後々まで両家の不和のもととなり、江戸時代には参勤交代する津軽侯の行列に、鉄砲を撃ち込もうとした南部藩士がいたそうです。

 いかがでした?東北地方の最北端で繰り広げられた戦国ドラマ、楽しんでいただけたでしょうか?

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