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2009年6月26日 (金)

関東管領上杉一族 (後編)

 山内上杉氏と、扇谷上杉氏を比べた場合、大人と子供の関係と評されていました。嫡流として関東管領職をほぼ独占していた山内家にたいして、扇谷家はそれに従いながら存在していました。
 ただ、上杉禅秀の乱で鎌倉公方、永享の乱で山内上杉憲実と常に勝つほうに味方ししたたかに生き延びてきます。

 そして十五世紀末、定正の代に、扇谷家に家宰、太田資長(道灌)が現れます。道灌は名将でした。独創的な足軽による奇襲戦法で戦いに勝利し、また築城術にも優れていました。江戸城は彼の築城として有名ですが、他に川越城、岩槻城も道灌の縄張りです。
 扇谷家は彼の活躍で、相模、武蔵に勢力を広げ、本家山内家をしのぐ大勢力になります。また、歌人、文人としても有名で「山吹」のエピソードは人口に膾炙しています。その名は都にもとどろき、定正の名代として上洛した時は京の貴紳はこぞって饗応したと言います。
  
 そんな太田道灌でしたが、不幸なことに主君定正の疑いを受けます。一説によると山内家の陰謀だとも言われていますが、讒言を信じた定正に謀殺されます。このとき、道灌は「当方滅亡!」と叫んだといいますが、歴史は実際その通りに動きました。

 道灌生存中は、関東に指一本ふれなかった伊豆の伊勢宗瑞(後の北条早雲)が露骨に侵略の手を伸ばしてきたのです。扇谷上杉氏の有力被官、小田原の大森氏を謀略により滅ぼすと、扇谷領相模を蚕食しはじめます。しかし無能な定正はなすすべもありませんでした。
 
 早雲、氏綱、氏康という北条氏興隆の歴史は、そのまま扇谷上杉氏衰退の歴史でもありました。
 ようやく北条氏の脅威に気付き、山内家と扇谷家は和睦します。山内上杉憲政、扇谷上杉朝定、古河公方足利晴氏の連合軍八万余騎が、北条氏の最前線川越城を囲みます。1546年の事です。
 守将は勇将、北条綱成。兵力は三千でした。急報をうけた北条氏康は、小田原から八千の兵を率いて駆けつけますが、大軍を前になすすべがありません。
 氏康は、降伏を申し出て、連合軍を油断させます。そして夜陰に乗じて敵の本陣を急襲。城からも綱成勢が打って出ました。油断していた連合軍は、不意をつかれて大混乱に陥ります。こうなると大軍だけに始末が悪く、乱戦の中扇谷上杉朝定は討ち取られてしまいます。憲政、晴氏らは、ほうほうの体で自領に逃げ帰ります。
 「川越夜戦」と後に称された戦いによって、関東の主人公は北条氏に移りました。本拠地上野国平井城に逃げ込んだ憲政でしたが、北条氏康は二万の兵力をもって、1552年平井城を攻撃しました。たまらず憲政は、越後の長尾景虎をたよって落ち延びます。

 もともと、山内家には、庶流の越後上杉氏から顕定が養子にはいって継いでいました。その越後上杉氏を滅ぼしてのは、景虎の父為景でした。そんな過去の恨みを言っておれないほど切羽詰っていたのでしょう。

 義に厚い景虎は、快く憲政一行を迎えます。情にほだされた憲政は上杉の名跡と関東管領職を景虎に譲りました。景虎は上杉政虎と名乗ります。後の上杉謙信の誕生です。

 憲政は隠居し、府内に館を与えられました。生涯で最も平穏な時期だったことでしょう。しかし1579年、謙信死後に起こった跡目争い「御舘の乱」に巻き込まれて殺されてしまいます。ここに名門山内上杉氏は滅びました。

 上杉氏は、謙信の養子景勝が継ぎますが、血脈的には何の関係もありません。こちらは米沢藩上杉氏として幕末まで続きます。

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