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2009年6月13日 (土)

内戦の行方    - シリーズ スペイン内戦② -

 スペイン内戦勃発直後の両陣営の勢力は、おおざっぱにいって旧カスティリアと中心とする中央部の高原地帯、セビリアを中心とするアンダルシアの西半分、イベリア半島対岸のモロッコ植民地がフランコ軍の勢力下、それ以外が人民戦線側に入りました。

 軍隊は精鋭のモロッコ駐屯軍を主力とする陸軍の約8割がフランコ軍の勢力下にはいりました。ここで一言述べさせていただくと、フランコ軍というのは正確な表現ではありません。確かにフランコは指導的立場にはありましたが、もう一人の有力な指導者としてエミリオ・モラ・ビダールがいました。彼はバスク地方攻略戦の途中、なぞの飛行機事故で亡くなります。フランコがライバルであるモラを暗殺したのではないかという説が流れましたが、両者の関係は良好であったという証言もあります。ただしこれによってフランコの独裁体制が確立したのも事実です。真相は謎としておきましょう。

 一方、空軍、海軍は半々でした。なかでも海軍では数々の悲劇が起こりました。逃げ場のある陸軍と違って海上行動中の海軍艦艇では逃げ場がありません。海上でフランコの蜂起を聞かされた海軍では、フランコの味方に付こうとする士官と、人民戦線に忠誠を誓う水兵の間に銃撃戦が起こった艦もありました。

 ある艦では士官すべてが銃殺され水兵に乗っ取られたものや、両者が争っているうちに艦がフランコ側の軍港に入ってしまい、否応なくフランコ軍についてしまったケースもありました。内戦の間、海軍が振るわなかったのは開戦初頭の混乱が大きな原因でした。


 諸外国の対応ですが、共産政権よりはファシスト政権がましとして冷やかに見守った英米、同じ共産政権の危機に全力を挙げて応援したソ連、スペインと同じく人民戦線内閣が成立し当初スペインに援助を与えながら政府が2年で崩壊したため急速に手を引いたフランス、共産政権による包囲体勢を防ぐため積極的に軍事援助を行った独伊などさまざまでした。


 他方、民間では悪の全体主義を倒すため54カ国から5万以上の若者たちが義勇軍を結成し、国際旅団として人民戦線側に立ち参戦します。もちろん筋金入りの共産主義者が大半でしたが、左翼の宣伝に騙され純粋に正義を信じる者、冒険心を満たすためだけに参加した若者なども少なくなかったのです。

 彼らの悲劇については、のちに詳しく述べたいと思います。


 国内の支持層も、都市部では労働者を中心にして人民戦線側支持、農村部はカトリック系農民を中心に保守派のフランコが根強い支持を受けていました。兵力は互角、ただ正規軍の多いフランコ軍は一枚岩でしたが、人民戦線側は社会主義者、共産主義者、無政府主義者(アナーキスト)の対立が抜き差しならぬものになっておりフランコ軍と対峙中にも勢力争いで流血の事態に至るなど呆れるばかりの内情でした。そしてこれが最大の敗因ともいわれます。


 そんな人民戦線が曲がりなりにも1939年まで持ちこたえたのは、ソ連の莫大な軍事援助があったからでした。これものちに詳しく書きますが、T‐26、BT‐5などの当時最新鋭の戦車、I‐15、I‐16などの戦闘機はフランコ側のドイツ、イタリア製の戦車や戦闘機を圧倒するほどの活躍をします。

 
 おおざっぱな内戦の経過を振り返ると、まず首都マドリード攻略を企図したフランコ軍の攻撃を人民戦線軍が撃退します。以後首都は内戦終結近くまで人民戦線軍が保持しました。

 フランコ軍は人民戦線の飛び地のようになっているバスク地方の攻略に切り替え激しい攻撃を加えます。このときピカソの絵で有名なゲルニカ爆撃が敢行されました。人民戦線側はカタルニャ、バレンシア、ムルシアの地中海沿岸部とマドリードを中心とした中央部を支配するのみでした。しかも古都トレドは激しい攻防戦のすえフランコ軍の手中に落ちマドリードは大海の中にたたずむ孤島のような状態におかれます。

 人民戦線政府は早々と地中海沿岸のバレンシアに脱出し、市民と義勇軍は置き去りにされました。そんな絶望的な状況のなかで頑強に抵抗した彼らは称賛に値すると思います。

 1937年秋には、だれの目にもフランコ軍有利が明らかになります。人民戦線側はこの劣勢を打開するため1938年夏大攻勢に出ました。北東部の大都市バルセロナとマドリードの間の地域を打通するためスペイン北東部を流れる大河エブロ川沿いにいたフランコ軍を10万の部隊が攻撃します。

 これは当時の人民戦線政府軍が集められた最大の兵力でした。この地域のフランコ軍を撃破することで休戦の道を探ろうとする最後の賭けでした。戦闘は100日にわたって繰り広げられます。

 フランコ軍は、この危機に際し各地から30万以上の部隊を集結させます。一進一退の攻防でしたが、早くも8月10日にはソ連軍事顧問団が撤収を開始しました。これはアメリカ軍の南ベトナム撤兵と同じくらいの衝撃を人民戦線に与えます。ソ連としては遠く極東の地でノモンハンなどの国境紛争を日本と争っていたため余裕がなくなったというのが理由でしたが、置き去りにされた人民戦線側としてはたまったものではありません。ソ連製兵器だけが唯一の拠り所だったからです。

 もちろんいくらかの兵器は残されましたが、それを動かす人がいない以上同じ戦闘力は得られません。そのなかでエブロ川の戦いは11月15日まで続きました。

 事実上エブロ川の戦いが天王山でした。この戦いに敗北した人民戦線軍の組織的抵抗は終わり残敵掃討の段階に入ります。以後バルセロナを中心とするカタルニャ地方が占領され、1939年1月22日人民戦線臨時首都のバレンシア陥落、3月28日マドリードにフランコ軍が入城して内戦は終結します。


 1939年3月30日内戦終結宣言が出されました。人民戦線首脳は首都が陥落するはるか前からフランスなどの外国に逃亡しています。最後まで抵抗した人民戦線側の人間に対する弾圧は苛烈を極めました。歴史上ここまで無責任な政権はあまりないような気がします。あの腐敗していた南ベトナム政府でさえ首都陥落の直前までサイゴンに残っていたではありませんか!

 おそらく政府首脳が脱出した後でも、兵士たちは絶望的な戦いを続けていたはずです。両軍とも近親憎悪からお互いに残虐行為を繰り返し、捕虜になってもいずれは殺されると分かっていたでしょうから兵士たちの絶望はいかばかりか…。

 歴史にIFは禁物ですが、人民戦線政府がマドリードから逃げ出さずに死守していれば、ソ連の覚悟も違ったものになったのではないかと思います。あるいはバレンシアで彼らは死ぬべきでした。革命に殉ずるのですから本望でしょう。何百万という犠牲者を出しておいて自分たちだけが生き残ろうというさもしい考えでは戦争は負けるに決まっています。

 そして彼らが華々しく散ってこそ人民戦線の正義というものが歴史に残ったのではないですか?


 むろん共産主義政権を容認するものではありませんが…。


 その後のスペイン史を簡単に振り返ってこの稿を終わりにしたいと思います。スペインはフランコによるファシスト独裁政権が1975年のフランコ死去まで続きます。スペインこそが歴史上最後のファシスト国家といってもよいでしょう。

 フランコはしたたかな外交で国難を切り抜けました。第2次大戦が勃発しても内戦での疲弊を理由に中立を保ち、戦後には宿敵であったソ連や中国とも国交を樹立します。曲がりなりにもスペインを滅亡させず経済を復興させ国民生活を安定に導いた功績は認めなければいけません。

 独裁政権という影の部分はあるとしても。彼の信条として、「腐敗した民主政治よりは清廉な独裁政治の方が良い」というものが根底にあるような気がしてなりません。実際彼はチャウシェスクなど他の独裁者に比べれば生活ぶりは質素だったといいますから。


 いろいろ批判はあるにしても彼が世界史的に見て傑物だったことは間違いないでしょう。フランコは遺言によって後継者にカルロス(国王)を指名します。以後スペインは民主国家として生まれ変わり現在に至っています。

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