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2009年6月26日 (金)

『米百俵』と小林虎三郎

 今、『日本を変えた44人の改革者』という本を読んでいます。長岡が生んだ二人の偉人、一人は河井継之助、そしてもう一人が小林虎三郎でした。
 「米百俵」の話は、なんとなく知っていたのですが、この本で彼の人となりを詳しく紹介してあったので興味深く読みました。

 小泉首相の2001年の所信表明演説で、『痛みを伴う改革』の例えとして登場したのでご存知の方も多いと思います。小林虎三郎は、佐久間象山門下で吉田松陰(寅二郎)と並んで二虎と評されるほどの俊英でした。虎三郎は象山の影響を受け、開国論者でしたが、主君牧野忠雅の怒りに触れ10年間謹慎生活を強いられます。その間、片目を失明したり、結核になったりして死の淵を彷徨いました。

 幕末の長岡藩は、河井継之助が実権を握り改革を推進していきました。軍備を増強し新政府軍との衝突もやむなしとする河井に、虎三郎はことごとく反対します。和平派として対立しますが、結局、長岡藩は戦争に突入、城下は焦土と化し、藩士の三分の一が戦死するという凄まじさでした。
 藩が存亡の危機に立ったとき、小林虎三郎はようやく藩に登用されます。戊辰戦争で長岡藩は7万4千石の領土を、わずか2万4千石にまで削減されました。明治初年、長岡藩士は、戦争の傷も癒えぬまま貧乏のどん底にあえいでいました。

 そんなおり支藩の三根山藩から米百俵が届きます。これを知った藩士たちは、喜んで長岡藩大参事だった虎三郎のもとに行って、これを分けてくれるように頼みました。
 しかし、虎三郎はきっぱりと拒絶します。「荒廃した長岡藩を復興するには有為の人材を育成する事が第一である。わたしは、これをもとに学校を新設するつもりだ。」
 虎三郎の説明を聞いた藩士たちは激怒しました。虎三郎は「どうか将来のために我慢してくれ」と、必死で藩士たちを説得します。彼らも、虎三郎の藩を思う気持ちと熱意にうたれ、ついにこれを承諾しました。

 虎三郎は、富国強兵が国家のとる道だと認識しながらも、そのためには国民の強化が必要であると考えていました。つまりどれだけ熱心に学業に勉めているものが多いか、で決まるという考えです。また、歴史教育こそ教育の根幹だと認識し、日本史には特に力を入れました。さらに最先端の学問、物理学・化学・哲学なども教え、多くの人材を輩出しました。もっとも有名なのは、後に連合艦隊司令長官になった山本五十六です。

 このような、立派な業績を残した小林虎三郎の話を、小泉さんは軽々しく言うべきではありませんでした。痛みを伴う改革で、何が良くなったのでしょうか?将来どのように良くなるのでしょうか?
 改革を述べるのは結構。しかし小泉さんに、小林虎三郎のような命をかけた使命感がはたしてありましたか?『米百俵』の話をする以上は、そこまでの覚悟がなければなりません。

 今の世に、小林虎三郎のように命をかけて教育を改革する、という気概をもった人物がはやく出てきてくれることを、切に願っています。

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