今山合戦 - 竜造寺氏台頭への序曲
元亀元年(1570年)、豊後の大友宗麟は6万の兵を率いて肥前佐賀城に竜造寺隆信を攻めます。自身は筑後高良山に本陣を置き、寄せ手の大将として甥の大友親貞を起用します。大友氏の大軍を目の当たりにした肥前の諸将は、ことごとく大友方に寝返り竜造寺氏は孤立、落城は時間の問題でした。
しかし、大逆転が起こります。その前に、ここに到るまでの状況を説明したいと思います。
鎌倉以来、北九州に勢力を張っっていた小弐氏は、周防の大内氏の圧迫を受け本拠大宰府を追われます。肥前に逃れてきた小弐氏でしたが、大内軍はなおも追撃の手を緩めず、田手畷で両軍は激突します。戦いは小弐氏被官、竜造寺家兼の奮戦もあり小弐軍が勝ち、小弐氏は命脈を保つ事ができました。しかし、大内氏は何度も肥前に侵攻、竜造寺家兼は和睦の道をさがして大内義隆に接近します。これを裏切りとみた小弐氏重臣、馬場頼周は竜造寺氏の台頭を恐れていた事もあり謀略によって家兼以外の竜造寺一門を討ち果たします。当主小弐冬尚もこれを黙認していたふしもあり、これによって竜造寺氏は小弐氏と絶縁します。1544年のことです。
筑後の蒲池氏を頼った家兼でしたが、彼を慕う肥前の豪族らが挙兵、家兼は肥前佐賀城を回復します。そして宿敵、馬場頼周を討ち果たしました。このとき家兼93歳、信じられないですが、実話です。
家兼は、さすがにお家再興をはたして安心したのか大往生を遂げます。遺言により後を継いだのは、仏門に入っていた曾孫の円月でした。
円月は、還俗して胤信と名乗ります。大内義隆と結んだ胤信は、その一字をもらって隆信と名を変えます。肥前の熊と恐れられた竜造寺隆信の誕生でした。
1559年、隆信は旧主、小弐冬尚を肥前勢福寺城に攻め滅ぼします。小弐氏にとっては、竜造寺氏こそお家再興の鍵だったのに、それを逃した報いでした。名族小弐氏はここに滅びます。
それより前、1551年中国から北九州に勢力を張った大内義隆は、家臣陶晴賢に背かれあえない最期を迎えていました。小弐氏衰退後、大内氏と北九州の支配権を争っていた豊後の大友宗麟は筑前、筑後を抑え着々と勢力を広げていました。宗麟がつぎにねらったのは肥前でした。小弐氏亡き後、統一勢力のない肥前は魅力的な獲物として宗麟には映っていました。次々と諸将が大友氏に従う中、しかし肥前佐賀城主竜造寺隆信だけが従いませんでした。
宗麟は、豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後6カ国の勢、6万余の大軍で佐賀城を囲みます。それが冒頭の情勢です。
絶望的な状況の中、隆信の重臣で義弟にもあたる鍋島直茂が奇襲を進言します。一か八か、それしか活路はありませんでした。今山に本陣を置く大友親貞の本陣にわずか700の兵で夜陰に乗じて襲い掛かります。信じられない事に、親貞は酒宴の真っ最中でした。大軍に安心し、油断していたのでしょう。無能な親貞はあっけなく討ち取られました。総大将をうしなった大友軍は総崩れします。ありえないような逆転劇でした。
それにしても、大友宗麟には詰めの甘さがめだちます。自身が中心になって攻めるべきでした。後方の高良山でのんびり落ちるのを待っている場合ではありません。これが一時期6カ国の守護を兼ねながら九州を統一できなかった原因でしょう。
この戦いは、戦場の名前を取って今山合戦と呼ばれます。これ以後竜造寺氏は急速に台頭、豊後の大友、薩摩の島津と共に九州を三分するほどになります。まさに起死回生の逆転劇、桶狭間の合戦に匹敵するほどの戦いでした。
« 名族菊池一族の興亡 | トップページ | 北条時行と中先代の乱 »
「 日本史」カテゴリの記事
- 義経=チンギス汗説が物理的に成立しない理由(2024.08.29)
- 中世の兵站(2024.08.27)
- 長州藩諸隊の兵力(2024.08.09)
- 幕末の蝦夷地の話(2024.08.07)
- 会津戦争余話2 ヤーゲル銃とミニエー銃(2024.08.05)
コメント