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2009年6月13日 (土)

扶余族と空白の4世紀 (後編)

 邪馬台国当時の日本の風俗は、入墨などあきらかに南方系です。しかし朝鮮半島に固執し連年兵を出す大和朝廷は北方系のにおいがします。角髪(みずら)と呼ばれる上古における髪形も遊牧民族に見られる髪型だともいいます。特に百済に対する異常なまでの肩入れぶり、たかが鉄資源だけで当時の超大国『唐』と滅亡を覚悟してまで戦うでしょうか?


 ここでヒントになるのが、先に紹介した「騎馬民族征服王朝説」です。任那に日本の植民地があったとされますが、邪馬台国あるいはその後裔に半島進出するだけの力があっただろうか?という疑問は、逆に任那=伽耶諸国(かやしょこく)こそが故地であったとするなら私は納得できます。

 紀元前後には鉄器生産が確立していたとされる伽耶。高句麗・百済と建国してきた扶余民族が同地支配を固め、その先には海峡を挟んで未知の国があった。邪馬台国という国が盟主となり支配していたが、今は諸国あい争い乱れている。そのとき征服者が考えるのは一緒です。
 ノルマンディ公ウィリアムが考えるとおり、あるいはコルテスやピサロが考えるとおり、海を渡って征服してやろうと思うのは自然だったのではないでしょうか。しかも自分には馬と先進的な武器がある、と。


 江上説では、まさに空白の4世紀に南朝鮮にいた扶余族が北九州に上陸、後100年ほど続く九州王朝の開祖になったとされます。(第一の建国)現天皇家の始祖はここにあり、応神天皇の時代に畿内征服をはたし大和朝廷になった(第二の建国)のだそうです。なにぶん昔に読んだ本なので細かいところで間違いがあるかも知れませんが、大筋ではこうだったと思います。


 私は、現天皇家に遊牧民族の祭儀がのこっていないことから、扶余族がそのまま現天皇家になったとは考えていません。土着系の三輪王朝の末裔、あるいは河内王朝(応神天皇からはじまる騎馬民族王朝と見ています)を滅ぼし、取って代わった東国系の継体王朝が天皇家の先祖だったと思っています。

 ただ、九州王朝は一時期扶余族=天孫族の支配下にあったのではないかと考えています。朝鮮半島出兵も九州王朝を中心になされた。出兵したのは故地である伽耶を守るため。そして同族である百済王家を助けるためだったと思います。ただ九州王朝崩壊の時期がわかりません。527年の筑紫君磐井の乱か(磐井は九州の王=倭王と考えられます)、それとも663年の白村江の大敗北の後か。 
 磐井の乱なら、526年が継体天皇の河内王朝平定の時機ですから辻褄が合うのですが、聖徳太子の国書問題などを考慮すると663年の白村江説も棄てられません。


 「日出ずるところの天子」という表現は、国力はともかく軍事力においては中華に匹敵するか、あるいは凌駕していた北方騎馬民族でなければできない表現です。一時は中原を制した鮮卑と同系と目される扶余族でなければ考え付かない発想だと思うのは私だけでしょうか?今は小国だが、かってはお前達に勝った事もあるんだぞという自信が、そうさせたのかもしれません。


 支離滅裂で纏まらない文章で恐縮ですが、

①高句麗・百済の支配民族である扶余族による征服王朝が九州王朝。

②九州王朝が東征し機内を平定して河内王朝(応神天皇以後)を建国した。

③河内王朝は東国勢力である継体王朝に滅ぼされた。

④継体王朝は九州に残った王権を倒し文字通り日本国の大王(おおきみ)になった。

今のところ私はこう考えています。

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