源氏一族の内訌と平氏の台頭
清和天皇
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貞純親王
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源経基
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満仲
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頼光 頼親 頼信(河内源氏祖)
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摂津源氏 頼義
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義家 義綱 義光
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義宗 義親 義国 義忠 義時 義隆
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為義 新田義重 足利義康 石川義基 若槻頼隆
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義朝
私鳳山が、日本史資料のベースとしているのは中公文庫『日本の歴史』シリーズです。ちょうど後三年の役について調べていたら、その後の源氏一族の血なまぐさい内訌の文章を見つけました。
これは堂上貴族たちの陰謀によるものでしたが、それによって源氏の勢力は一時的に大きく衰えました。日本史の授業ではおそらく習う事のない話、ご紹介しようと思います。
1091年、郎党の田畑をめぐって源義家が弟義綱と都で合戦騒ぎを起こそうとしていた最中、朝廷から諸国の百姓に田畑を義家に寄進する事を禁じる宣旨が出されました。
喧嘩両成敗なら、弟義綱にも同様の処分があってしかるべきでしたが、こちらは何のお咎めもありませんでした。
武士の棟梁として『天下第一武勇の士』と讃えられた義家と、弟義綱では声望に天と地ほどの差があったのは分かるとしても、この処分は一方的過ぎました。明らかに朝廷は源氏の勢力を削ぐ方向に向かっていました。それまで、貴族の番犬と思われていた武士が、所領を拡大させることによって貴族と対抗できる勢力に成長しつつあることの裏返しでもありました。
ただ、このままでは義家の不満は爆発しかねません。1098年朝廷は義家に昇殿を許し、貴族の仲間入りさせます。しかし同時に、義家に代わる勢力として弟義綱にたいし優遇策をとりはじめます。
1093年、出羽で反乱がおこります。反乱自体はたいしたことなかったのですが、追討使に任ぜられた陸奥守源義綱は、これを平定し賊の首及び降人らを京都に送ります。都中が義綱の武勇に興奮の坩堝と化しました。その夜に、早くも上皇から使者が来て臨時の叙位があり従四位下に叙せられます。さらに陸奥守から美濃守に転じました。
これは、後三年役で苦労して平定しながら、朝廷から一顧だにされなかった兄義家の場合とは雲泥の差でした。これをみても朝廷が源氏一族を分裂させようとしている事が分かります。
1106年、源義家は六十八歳の生涯を終えます。義家が源氏宗家の正嫡として定めていた四男義忠が刃傷沙汰に巻き込まれて1109年二十六歳で死亡すると、源氏一族は棟梁の座をめぐって争います。義家の長男義宗は早世し、後を継ぐべき次男義親は粗暴の振る舞いがありました。義綱は棟梁の地位を虎視眈々と狙っていました。
しかし、義忠暗殺の下手人の一人として、義綱の三男義明の名前が上がりました。このことで義綱自身も追討されることとなります。追討使に任じられたのは義親の長男為義でした。
義綱は追討を怖れて東国に奔りますが、長子義弘、次男義俊、四男義仲、五男義範、六男義公はことごとく自害して果てます。都に隠れていた三男義明も、追手に見つかって抵抗の末殺されました。義綱自身は上皇の庇護があったので命だけは助けられ佐渡に流されました。これによって義綱一族はほとんど滅亡します。一方義家の弟義光も、義忠暗殺に関与していたふしがありましたが、実行者を消すことによって真相を闇に葬ります。
追討使為義は、この功により左衛門尉に任ぜられますが、このときわずか十四歳でした。源氏一族はこれによってほとんど瓦解に等しい損害を受けました。時の権力者白河上皇は源氏の壊滅を傍観していました。ばかりか、源氏の内訌に同族を追討使に任じて事件を深刻化し、それを早めさえしていたのです。代わって台頭してきたのは伊勢平氏でした。平正盛は、上皇に取り入ることによって信頼を得、上皇自身も源氏に代わる従順な武力を求めていたため、両者の利害が一致したものでした。
これが、後々の源平の争いの遠因となりました。そして後に源頼朝が鎌倉に幕府を創ることによって貴族政治は終りを遂げ、武士の時代が始まっていきます。
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