趙奢と趙括 父と子の相克 (前編)
中国戦国時代中期から末期にかけては、次第に勢力を拡大する西の強国『秦』が他の六国を圧迫し征服していく歴史でした。
そのなかで秦に対抗できる勢力は、武霊王の時代に胡服騎射の軍制改革でにわかに強大化した趙です。武霊王の横死後子の恵文王が継ぎますが、まだまだ侮れぬ実力を保っていました。
趙の恵文王の弟に平原君・勝がいました。戦国の四君の一人で食客3千人を誇る権力者でしたが、ある時平原君の家来七名が罪を得て殺されてしまいます。調べてみると平原君の領地に徴税に来た役人に、治外法権だからと拒否したため役人に訴えられて処罰されたといいます。
烈火のごとく怒った平原君は、その徴税官を呼び出し殺そうとします。しかし彼は理路整然と反論し「国家の危急存亡の時に権力者でしかも王の弟である平原君が見本を見せなければ税を納める者がいなくなる」と言いました。平原君も馬鹿ではありません。冷静に考えるとこの男の言い分ももっともと認め、さらに権力者にも媚びない堂々とした態度に感服しました。
徴税官の人物を認めた平原君は趙王に推挙します。徴税官は名を趙奢(ちょうしゃ)といいました。趙奢は平原君の期待に応え軍功を重ね将軍になりました。
ある時、秦が趙西北の要衝、閼与(あつよ)を襲います。恵文王は閼与を救うため家臣に諮問しました。
「誰ぞ、閼与を救える者はいないか?」
しかし、名将と名高かった廉頗も有名な楽毅の一族で自身も有能で王の信頼厚かった楽乗も険阻な地形に難色を示します。
苛立った王は、静かに控えている趙奢に尋ねました。しばらく考えていた趙奢は
「両将軍の仰る通り地形は険阻、迎撃は困難でしょう。しかし条件は両軍ともに同じはず。勇気ある将が勝つでしょう」と答えます。
この言を良しとした恵文王は、救援軍の将に趙奢を任命しました。
こうして趙奢は軍を率い閼与救援に向かったのですが、首都邯鄲から三日行軍するとどういうわけか軍を止め陣地を築きはじめます。間者の報告を受けた秦軍の将は不審に思いさらに情報を集めました。
いつまでも動こうとしない趙軍を見て、目的が閼与救援ではなく首都防衛にあると判断した秦軍は安心して閼与攻撃を始めました。
しかしこれこそ趙奢の策だったのです。秦の間者が紛れ込んでいることを察知していた趙奢は、間者が報告のために軍を抜け出した後を追うように、にわかに軍を発し閼与に急行しました。
すっかり油断していた秦軍は、閼与攻撃中に背後から趙軍に襲いかかられ壊滅的打撃を受けてしまいます。四分五裂になった秦軍を追って大勝利をあげた趙奢は、この戦功で馬服君に封ぜられ名将廉頗、完璧の使者藺相如と並ぶ名声を得ました。
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