扶余族と空白の4世紀 (前編)
248年伝説の邪馬台国の女王卑弥呼が狗奴国との戦いの中で死去、後継者に一族の少女、壹与(台与)が擁立されます。この時13歳だったと伝えられています。
おりしも魏使張政が邪馬台国に滞在しており、帰任する張政に掖邪狗ら20人を同行させ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5,000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだそうです。(ウィキペディアより)
その後壹与は266年にも朝貢しているとされますが、以後日本の記述は中国の文献から絶えます。それが再開したのは倭の五王の時代。413年東晋に倭王讃が貢物を献じたという記述が現れ以後、讃、珍、済、興、武と五代に渡って中国南朝に朝貢した記録が残っています。
ではその間はどうなっていたのでしょうか?少なくとも日本の代表が邪馬台国ではなく、大和朝廷(ここでは一応そう表現しておきます)に移っていたことだけは確かですが、100年以上の歴史の空白の間に何があったのか明確な回答は出ていません。
邪馬台国がそのまま大和朝廷になったのか?それとも邪馬台国を滅ぼした勢力が大和朝廷になったのか?謎のままです。とくに4世紀の記録がまるまる欠落しています。これを『空白の4世紀』と呼び、専門家だけでなくアマチュア研究家まで巻き込んで侃々諤々議論が戦わされています。
ではいったいこの間何が起こっていたのでしょうか?私も素人ながらこの論戦に参加しようと思います。ただ知識が浅く何の学術的根拠は示せませんがそのあたりはご容赦ください。
突然ですが皆さんは「騎馬民族征服王朝説」というものをご存知ですか?昭和23年東大東洋文化研究所教授だった江上波夫氏が発表した仮説で
①ズボンの着用や騎乗などの遊牧騎馬民族由来の文化が5世紀頃の日本列島で急速に広まっている
②古墳文化が後期に入ってそれまでの南方的・農耕文化的な副葬品が、北方的・軍事的な副葬品に移り文化の断絶がみられる。
③記紀の天孫降臨説話や神武東征神話が、高句麗など朝鮮半島の開国説話と共通の要素を持っている。
④『日本書紀』の中に高句麗の王を「高麗の神子」と呼びかけ、同じ天孫族としての意識が見られる。
などを根拠に、4世紀に北方騎馬民族が日本に渡来しそれまでの農耕文化であった邪馬台国を滅ぼし征服したのではないかとする学説です。
発表当時、一大センセーションを巻き起こしたんですが、当時から現在に至るまで風当たりが強く学会の拒絶反応はもの凄いものがあったそうです。江上説に対する反論として
①考古学の成果からみて、古墳時代の前期(2世紀後半-4世紀)と中・後期(5世紀以降)の間には、両者の文化に、連続性もみられる。
②皇室の祭儀に騎馬民族に由来するとされるものが見当たらず、農耕的なものしかない。
③日本列島の王墓とされる古墳に、高句麗や百済の王陵にみられる双墳がほとんどみられない。前方後円墳は2世紀後半から3世紀前半にかけての畿内で発生していることが明らか。
④近世に至るまで日本では家畜の去勢などの遊牧民的な習慣がほとんど無い。
⑤神話に関しては、北方系よりもむしろ南方系に共通する要素が見られる。
⑥小国分立の状態がつづき統一王朝の形成されなかった任那の諸国が、倭国だけは例外的に征服できたとは考えられない。
というものがあげられ、学会においては否定論者のほうが大部分となっています。
実を言いますと、私が歴史に興味を持ったきっかけがこの『騎馬民族征服王朝説』でして、小学校時代、子供向けに書かれた本を偶然手に取り、以後夢中になって調べた思い出があります。前置きが非常に長くなりましたが、この説をベースにして私の考える日本古代史を紹介していこうと思います。
« 世界史英雄列伝(37) 春秋の大軍師 「范蠡」(はんれい) | トップページ | 扶余族と空白の4世紀 (中編) »
「 世界史」カテゴリの記事
- 古代の農業生産力(2023.01.31)
- キュロス2世とマッサゲタイの女王(2022.11.09)
- 秦の昭襄王を苦しめた北方遊牧民義渠(ぎきょ)(2022.08.31)
- 匈奴配下のローマ兵?(2022.08.29)
- 朝鮮出兵時の朝鮮八道石高(2022.08.27)
« 世界史英雄列伝(37) 春秋の大軍師 「范蠡」(はんれい) | トップページ | 扶余族と空白の4世紀 (中編) »
コメント