阿蘇神社と阿蘇一族
熊本といえば阿蘇山が一番有名です。この世界最大級のカルデラは9万年前にできました。600立方キロメートル(ほぼ富士山全体に匹敵)という途方もない噴出物で、山頂が跡形もなく吹き飛んだといいますから、噴火前にどれくらいの標高があったか想像もつきません。火砕流は九州の半分を覆い、冷えてできた火砕流台地は、現在の宮崎県高千穂から大分竹田にも広がっています。
東西18キロ、南北25キロのカルデラの中に、いくつもの市町村を含んでいる(カルデラ内だけで阿蘇郡という一つの郡がある)のですから、知らない人には想像もつかないでしょう。
カルデラ内には、湧水が豊富で、平坦な地形のため古くから人が住み、農業が発達していました。
ここに伝説があります。大昔の外輪山は切れ目がなく、中は巨大な湖になっていたそうです。阿蘇の神、健磐龍命(たていわたつのみこと)が一部を蹴破って水を流し、現在のカルデラ平野ができたとのこと。その場所、立野は熊本平野から阿蘇地方に入る玄関口になっています。
健磐龍命を祭ったのが、肥後一ノ宮「阿蘇神社」です。創立は孝霊天皇九年(紀元前282年)と伝えられますが、もとより伝説の域をでません。ただ、少なくとも古墳時代には阿蘇国造という豪族がいたのは確認されています。おそらく神官阿蘇一族はその後裔ではないかと推定されています。
日本史に詳しい方なら、信濃の豪族諏訪氏が、諏訪大社の大祝から武士団化し戦国大名になったことをご存知かと思いますが、ここ阿蘇氏も同様でした。肥後の有力武士団として南北朝期には、菊池氏と並び九州南朝勢力を支え活躍しました。戦国時代に入ると、肥後守護家菊池氏の衰退をながめつつ、肥後・日向の阿蘇神領を中心に勢力を拡げ、最盛期には三十六万石の領土を誇ったといいます。
しかし、隣国の竜造寺、島津の侵略を受け、最後は1585年、阿蘇惟光のとき、島津義久の軍勢の攻撃によって本拠浜の館と岩尾城を落とされ逃亡、豊臣秀吉を頼ります。九州征伐後、神官職は認められますが、大名としての領土は取り上げられここに戦国大名阿蘇氏は滅亡します。しかし、かえってそのことによって一族は生き残り明治に到りました。阿蘇氏は、男爵を授けられます。現在の神官もその子孫だそうです。
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