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2009年6月26日 (金)

箱館戦争 - 蝦夷共和国の夢 -

 明治元年、江戸無血開城を不服とした軍艦奉行、榎本武揚は開陽丸を旗艦とする幕府艦隊8隻を率いて仙台へ向かいました。そこで旧幕府軍を糾合し戦おうとしたのですが、当の仙台藩が新政府に降伏したため、やむなくここを離れます。
 現地で新撰組ら旧幕府軍を吸収、新天地を求めて北海道へ針路をとりました。旧幕府軍は、鷲ノ木から3000の兵力で上陸。大鳥圭介、土方歳三の二手に分かれて函館(当時は箱館)に進軍します。
 10月22日、峠下の戦いで箱館府軍を撃破、10月26日には五稜郭へ無血入城しました。蝦夷地には唯一、松前藩がありました。新政府側だったため、降伏を勧告しますが拒否されます。土方を大将とする700の軍勢が、松前城を攻め海上からの砲撃支援を受けて落城させます。松前藩主は青森に逃亡しました。この攻略作戦の途中、開陽丸が暴風雪にあい座礁、10日後に沈没します。これによって制海権を維持できなくなり、新政府軍の上陸を許す事になりました。

 ともかく、榎本らは1869年1月「蝦夷共和国」設立を宣言します。榎本は選挙により総裁に就任しました。諸外国にも認められ独立政権としての体裁を整えます。
 しかし、泥縄式の建国は財政の困難をもたらしました。貨幣を偽造したり売春婦にまで課税して、住民の反感をかいます。しかも、箱館在住の豪商から金品を徴収しようとしますが、これは土方歳三の強硬な反対にあって中止になります。土方はこの戦いの行方が見えていて、なにも悪評を残すこともあるまいと考えていたそうです。それでも住民の不信感は拭えませんでした。蝦夷共和国の運命はすでに傾いていたのです。

 共和国軍は、新政府艦隊が宮古湾に停泊しているという情報を得ると、これを奇襲します。(宮古湾開戦)しかし、ガトリング砲の強力な反撃にあい失敗しました。撤退中に高雄を失うという悲劇もおまけにつきます。

 4月9日、新政府軍2000が乙部に上陸しました。まもなく松前城を回復し、箱館に進軍します。大鳥圭介率いる500は、木古内口で敗れますが、搦め手の二股口を守備していた土方隊300はしばしば新政府軍を撃破しました。しかし本道の友軍が敗れたため、やむなく撤退し、戦いは五稜郭をめぐる攻防に移りました。
 5月11日、箱館総攻撃開始。弁天台場では新撰組の生き残りが孤立していました。土方は、仲間を助けようと一本木関門を出撃。陣を守る官軍は「何者か?」と尋ねると、馬上の土方は、
「新撰組副長、土方歳三。参る!」と単騎斬り込みました。乱戦の中、土方は敵弾に倒れます。土方歳三の遺体は、他の戦死者と共に五稜郭に埋葬されたとも、別の場所に安置されていたとも言われています。

5月14日、弁天台場降伏。海軍も新政府艦隊に攻撃され全滅しました。5月16日、千代ヶ岡陣地全滅。新政府軍参謀、黒田了介(清隆)は、榎本に降伏を勧める使者を出します。
 黒田に好感を持った榎本は、『海律全書』を使者に託し「この本はオランダから持ち帰った大切な本です。戦禍で焼けるのは惜しい。どうか日本のために役立てて欲しい。」と言わせます。
 ますます、黒田は感じ入りました。榎本を殺すのは惜しいと思い、再度降伏を勧める使者を出します。
 榎本もまた、黒田の人柄にうたれ、部下の命と引き換えに降伏を申し出ました。5月18日、この日をもって蝦夷共和国は滅びました。

 その後、収監された榎本でしたが、極刑をのぞむ長州に対し、黒田は懸命に助命嘆願運動を行いました。その後、西郷まで動かし、ついに明治5年、榎本は釈放されます。その後、榎本は明治8年にはロシアとの間に「千島・樺太交換条約」を締結。逓信大臣、農商務大臣を歴任しました。
 黒田了介の目も確かなら、それに応え日本のためにつくした榎本も立派でした。

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