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2009年6月13日 (土)

兵站面から見た『シュリーフェン計画』

u 皆さんは『シュリーフェン計画』なるものをご存じでしょうか?よほど戦史や世界史に詳しい方でないとご存じないと思いますが…

『シュリーフェン・プラン』とは --------------------------------------------------------------

 シュリーフェン・プラン(Schlieffen-Plan)は、19世紀後期のドイツ帝国の軍人アルフレート・フォン・シュリーフェンによって立案された、西部戦線におけるドイツ軍の対フランス侵攻作戦計画である。
 ドイツ帝国宰相ビスマルクの外交政策はフランスを孤立に追い込むことを目的としていたが、1890年にビスマルクが失脚すると、その外交政策の中軸であったロシアとの独露再保障条約は延長されなかった。さらに1894年、フランスとロシアは露仏同盟を締結し、ドイツが対フランス・ロシアの二正面作戦に直面する可能性は高まった。

ドイツ参謀総長シュリーフェンは、二正面戦争解決の手段として、フランスを全力で攻撃して対仏戦争を早期に終結させ、その後反転してロシアを全力で叩こうと考えた。こうして立案された「シュリーフェン・プラン」は、フランス軍が主力を置く独仏国境地帯を直接攻撃するのを避け、ドイツ軍の主力が中立国ベルギーに侵攻し、イギリス海峡に近いアミアンを通過。その後は反時計回りにフランス北部を制圧していき、独仏国境の仏軍主力を背後から包囲し殲滅するというものであった。作戦の所要時間は1か月半とされた。

【フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より】
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 シュリーフェン計画は、ビスマルク退陣後、二正面作戦を余儀なくされたドイツが生き残るために時の参謀総長シュリーフェンが立案した大作戦です。

 東方のロシアの動員速度が遅いことを利用し、東プロイセンには抑えの兵力だけを残し、全軍の85%の兵力で西部国境に大軍を集結し、電撃的にフランスを制圧した後にロシアに兵力を振り向け勝利するという計画でした。


 しかしあまりにも博打の要素が大きく、後任の参謀総長小モルトケ(大モルトケの甥)はこの計画を修正し、東西の兵力比を抑え本来ならオランダまで巻き込んだ西部戦線右翼の旋回をベルギー通過まで抑制し、そのために第1次世界大戦でドイツが負けたと歴史家に非難されました。


 私も最初はそれを信じていたんですが、最近読んだ本『補給戦』(中公文庫・マーチン・ファン クレフェルト 著)で、まったくの誤りだと分かりました。

 この本は18世紀から20世紀までの戦史における兵站を扱った良書で、補給戦の実態を具体的な数字を挙げて記し目から鱗でした。


 著者によると、普墺戦争以来鉄道を利用した兵站でドイツ軍が勝利したという通説は誤りだそうです。たしかにドイツ軍は鉄道を利用し兵力や物資を運ぶのに長け、兵站拠点を前線に進出させていくことで充分な補給を得ていたというのが通説でした。


 しかし実態は計画通り進むことは少なく、軍隊の前進に補給部隊が追い付くことができずに混乱をきたし、部隊は敵からの鹵獲品や現地徴発で急場を凌いだそうです。

 確かに言われてみれば第2次世界大戦においても、超大国アメリカですらノルマンディ上陸後アルデンヌ攻勢を受けるまで補給には苦しみました。


 一説によると1個師団が1日に消費する物資は300tだそうです。仮に20個師団とすると1日で300×20で6千トン。これが1か月で18万トンという膨大な数になります。

 貨物列車と車両を総動員しても国庫に対する負担はものすごい数になります。よく日本は補給を軽視したと非難されますが、アメリカにおいてさえこうなのですから、貧乏国家の日本では土台無理な話だったのです。まして海上輸送のコストまでかかるとしたら…。


 話を本題に戻しますと、参謀総長シュリーフェン自身は鉄道を利用した補給計画を立てていました。戦場になる欧州西部はもっとも鉄道網が発達した地帯で、大体1個軍団に1本補給線として鉄道網が利用できるようにしていました。

 しかし、その鉄道は常に安全というわけではありません。敗退する敵軍による爆破もあるでしょうし、後方ではパルチザンの破壊もあるでしょう。さらに敵も、相手に自国の鉄道網を利用されるのを防ぐため要所要所に要塞を築き、鉄道網を寸断していました。

 ドイツ軍は、これに迂回線を建設することで対処しようとしましたが、兵力をこちらに回すと戦闘正面での衝力が弱体化します。後方のパルチザン対策にも兵力を取られ、最終的な西部戦線での勝利のカギであるスピードが大きく削がれることになるのです。


 なかでも一番の問題は最右翼の第1軍でした。計画ではオランダ・ベルギーを縦断し大西洋をかすめるようにしてパリ近郊に至る長大な行軍を余儀なくされます。戦闘ももちろん大変ですが、それ以上に長大な補給線の維持は実現不可能でした。

 小モルトケは、参謀総長に就任してすぐシュリーフェンプランのこの欠陥に気づき、計画を修正したのです。小モルトケは戦闘区域を縮小し第1軍の旋回をベルギー中央部を通るように修正しました。

 戦史研究家は、そのためにベルギー軍主力が旋回面の外にあるアントワープ要塞に逃れることを許し、スピードを削がれたためにドイツは西部戦線で敗退したと非難しています。なかには無能呼ばわりしている史家さえいるのです。


 しかし、実態は兵站面からみてシュリーフェン計画は実現不可能でした。小モルトケはそれをなんとか実現できるよう現実的に修正しただけだと思います。成功しなかったとはいえパリ50キロの近郊まで曲がりなりにも接近することができたのですから、国力の限界を考えるとあれが精一杯だったのかもしれません。


 兵站の面から、あらためて戦史を見直すと気付かないところが見えてきて勉強になります。

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コメント

私もほぼ同意見です、特にドイツは第2次大戦でも
バルバロッサ作戦で似た様な失敗をくりかえすのです。
歴史は繰り返すということでしょうか。

KOさん、近代戦は特に兵站の概念無くしては語れませんし、それなくして語るのは素人です。

日本は戦後軍事を学ぶことすら拒否しているため、まともな論者がほとんどいません。嘆かわしいかぎりです。

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