日向伊東一族
日向伊東氏は、鎌倉時代、曽我兄弟の仇討ちで殺された工藤祐経の子孫と言われています。鎌倉時代、日向の地頭職を得て下向、土着したそうです。ただ宗家は関東に残っており、南北朝時代、足利尊氏の正室赤橋(北条)登子の所領である穆佐院を守るため、尊氏の命で伊東祐持が下向。都於郡三百町を賜ったのが日向伊東氏初代となった経緯だそうです。
南北朝時代の1336年、足利一門の畠山直顕が日向守護として下向します。伊東氏ら日向の豪族もこれに従い南九州の南朝勢力と戦いました。しかし、1351年中央で尊氏・直義対立(観応の擾乱)が起こると事態は複雑怪奇な方向に進みます。
直義支持派の畠山直顕と、尊氏支持派の薩摩守護島津氏が対立し戦端を開きます。両派は生き残りのために南朝に付いたりして離合集散を繰り返しました。こうなってくると、それぞれが自分の所領を守るための戦いとなってしまい、北朝・南朝は関係なくなってしまいました。
1352年、畠山直顕は日向諸将と大隈南部の豪族肝付氏を従え島津氏を討つべく大隈国に侵入します。一時は滅亡寸前に追い込まれた島津氏久は、なんと懐良親王の南朝に降伏しました。これによって宮方の援軍を得た島津軍がようやく加治木城から畠山勢を追い出すことに成功しました。
幕府は、畠山と島津のどちらが味方か分からず豊後の大友氏や、九州探題の一色氏に問い合わせたそうです。これに対して大友氏は「文和元年以後はどちらが敵でどちらが味方かわからない」と答えたほどでした。
このとき直顕は、飫肥城の伊東氏に援兵を求めますが、落ち目の畠山氏に反応は冷ややかでした。直顕は本拠の穆佐院高城に帰って再起を図ります。しかし、弱り目に祟り目で1358年、宮方の菊池武光が薩摩の島津氏久に参陣を促して、日向に侵入しました。宮方の大軍を見て支えきれぬと見た直顕は三俣院高城に籠城します。これを宮方が猛攻しついに城は落ちました。畠山直顕父子は行方をくらまします。
畠山氏没落後、日向守護には島津氏が補されました。しかし日向諸将はこれに反発し伊東氏は露骨に敵対します。伊東氏五代、祐尭は日向中部から島津氏の勢力を撃退しました。島津氏と結んでいた土持氏を下すと伊東氏は日向において急速に強大化します。その子、六代祐国の代にはほぼ日向一円を制圧、幾つかの内訌の末、1536年十代義祐が佐土原城で家督を継ぐころには四十八の支城を日向全土に張り巡らせ全盛期となりました。
義祐は、大隈の肝付氏と同盟し島津氏を攻めます。日向における島津氏の最後の拠点、飫肥城を攻略し悲願の日向統一を成し遂げました。しかし晩年、奢侈と中央の京文化に溺れ衰退します。そしてようやく国内を統一した島津氏は1572年、木崎原の合戦で逆襲します。島津義弘は十倍以上の伊東勢を完膚なきまでに破りました。1577年には、島津氏の攻勢に耐えかねて義祐は逃亡します。三男祐兵は京に上って羽柴秀吉に仕えました。
1587年、九州征伐で道案内役を務めた功により祐兵は再び飫肥城主に返り咲きます。1600年の関ヶ原でも東軍に組し5万7千石の所領を安堵されました。飫肥藩伊東氏は幕末まで続きます。なお、天正遣欧使節の一人、伊東マンショは義祐の孫にあたります。
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