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2009年6月13日 (土)

悲劇のメキシコ皇帝マクシミリアン (前編)

 ここに一枚の絵があります。マネ作「マクシミリアンの処刑」です。ご覧になった方も多いと思いますが、私もこの絵を見て強く興味を惹かれました。
 なぜ、皇帝は処刑されなければならなかったのか?そして彼は何故このメキシコの地に来たのか?調べていくうちにマクシミリアンの数奇な一生に深く同情する自分がいました。

 マクシミリアンは1832年、オーストリア皇帝であった名門ハプスブルグ家のフランツ2世の孫として生まれました。彼の父フランツ・カールは兄で皇帝であったフェルディナント1世の後を継ぐ事を辞退したため、息子でマクシミリアンの兄にあたるフランツ・ヨーゼフが即位します。

 このとき皇帝は18歳、マクシミリアンは16歳でした。クソ真面目な兄と違って、マクシミリアンは自由奔放な性格で、ウィーンっ子の人気も高かったそうです。フランツ・ヨーゼフの皇后が有名なエリザベートですが、マクシミリアンにもこの頃縁談が持ち上がりました。ベルギー王レオポルド1世の息女、シャルロットです。明るい勝気な性格の彼女をみてマクシミリアンは一目惚れしました。若い夫婦は仲むつまじかったそうです。

 若いマクシミリアンも、政治の表舞台に登場するときがきます。1857年、マクシミリアンはオーストリア領北イタリアの総督に任命されました。この地はミラノとべネチアを中心とする要地で、ロンバルディア平原の大半を占めていました。時はサルディニアによるイタリア統一戦争の真っ只中、重要な役目です。
 しかし、張り切るマクシミリアンは戒厳令を一部撤回したり、自由選挙を実施するなど開明的な政策を行ったため保守派の反発をくらいます。民族解放闘争の末、イタリア統一を画策していたサルディニア王国の首相、カブールは困惑します。オーストリアの圧政から解放するという大義名分が、マクシミリアンの解放的政策によって台無しになるからです。

 カブールは、ウィーン宮廷の保守勢力に秘かに働きかけます。皇帝フランツ・ヨーゼフ自身も保守的性格だったので、この作戦は図に当たりました。皇帝はマクシミリアンの開放政策を苦々しく思っていました。宮廷の保守勢力からマクシミリアンの政策がいきすぎだとささやかれると、1858年、弟を解任し軍政を敷きました。しかし、翌年1859年フランスの援助を受けたサルディニア王国がオーストリアに宣戦布告、大敗したオーストリアは、ロンバルディア平原を放棄させられました。

 失意のうちに領地トリエステに戻ったマクシミリアンでしたが、1860年代にはいってまもなく悪魔の囁きがやってきます。張本人は時のフランス皇帝ナポレオン3世でした。
 マクシミリアンに、「メキシコ皇帝に就任する気はないか?」という打診です。

 簡単に当時のメキシコ情勢を振り返りましょう。1519年アステカ王国はコルテスによって滅ぼされました。以後メキシコはスペインの植民地にされ300年圧政下におかれます。
 ナポレオン1世がスペイン本国を占領した後、一応独立国になったメキシコでしたが王党派、共和派、保守派、リベラル派などが入り乱れて50年の間に40人の大統領が登場するという混乱振りでした。次第に実権はアメリカと結んだ進歩派と、欧州列強とくにフランスと結んだ保守派が握っていきす。

 進歩派が有利でしたが、1861年南北戦争によってアメリカの援助が中断されると、保守派は巻き返しのチャンスとばかりフランス、ナポレオン3世に接近しました。

 このような情勢下でのメキシコ皇帝就任打診でした。マクシミリアンはこれにどう関わっていくのか?後編に続きます。

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