世界史英雄列伝(34) 後周の世宗 柴栄 - 五代随一の名君 - (前編)
中国史で唐の滅亡(907年)から宋の建国(960年)までの50年余りを「五代十国時代」と言います。中原を押さえた後梁・後唐・後晋・後漢・後周の五代と、地方政権である十国がめまぐるしく興亡を繰り返した激動の時代でした。
その中で随一の名君、いや中国の歴史を通じても屈指の名君といって良い後周の二代皇帝世宗(柴栄)をご紹介します。私は彼が好きでこの時代に関する本を読みふけったものです。
柴栄は後周の初代皇帝「太祖」郭威の妻の弟の子でした。幼いころから郭威のもとで養われ、郭威が後周を建国すると将軍として活躍します。954年、太祖が没すると実子がいなかったことから柴栄が後継者に指名されます。二代皇帝「世宗」の誕生でした。
このあたり、東ローマ(ビザンツ)帝国のユスチニアヌス大帝と酷似しています。叔父の皇位を継いだことと、それまで将軍として活躍したこと。しかし、ユスチニアヌスが皇帝になってから軍事を部下の将軍に任せたのとは対照的に、世宗は最後まで軍の最高指揮官として戦場に立ちました。
世宗即位の直後、早くも危機が訪れます。山西省にあった北漢が、契丹族の援軍を得て皇帝即位直後の混乱期を狙って侵攻してきたのです。
世宗は、諸将の反対を押し切って自らこれを迎え撃ちます。戦場は高平でした。戦いの火蓋が切られると案の定戦意の低い一部の兵が敵方に寝返ります。このときばかりは世宗も敗北を覚悟しました。しかし、世宗が将軍時代に抜擢した武将、趙匡胤(後の宋の太祖)らの奮戦でしだいに押し返し始めます。ここを戦機とみた世宗は全軍に突撃命令を出しました。自ら陣頭にたった世宗に恐れをなした北漢軍は、雪崩を打って敗走します。大逆転勝利でした。
世宗はしかし、この勝利に驕らず国力の育成に努めました。後編では世宗の改革と征服事業を見て行きます。
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