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2009年6月26日 (金)

北条時行と中先代の乱

 どうも、私鳳山はマイナーな人物が好きなようです。北条時行?そんな執権、鎌倉時代にいたっけ?疑問に思われるのもごもっともです。実は彼は執権になっていません。いや、正確には幕府の滅亡でなれなかったという表現が妥当でしょう。

 1333年、後醍醐天皇の綸旨を受けた新田義貞は上野国で挙兵、鎌倉を攻めて北条一族を滅ぼします。第14代執権北条高時以下、一族すべて自刃して果てました。

 ただ一人生き残ったのは、高時の次男時行だけでした。炎上する鎌倉を脱出し、乳母の実家である信濃の豪族諏訪頼重を頼って落ち延びます。このとき7歳前後だったと言われています。
 諏訪頼重は、高時の弟で、時行には叔父にあたる北条泰家から、北条家再興を託されていたそうです。頼重に匿われた時行ですが、建武の新政に破綻が見えてくると信濃において挙兵します。1335年7月の事です。10歳前後の幼児にできるはずはありませんから、諏訪頼重に擁立されたという事でしょう。

 反乱軍は、当時鎌倉にいた足利尊氏の弟、直義を破り鎌倉を占拠します。あわてた新政府は足利尊氏を征東将軍に任じ、反乱を鎮圧させます。ちなみに、このとき尊氏は「征夷大将軍」職を望んだと言われていますが、後醍醐天皇に拒否されたため、背くことを決めたとか。

 反乱軍が鎌倉の主だったのは、わずか20日ほどでした。尊氏によって鎮圧され諏訪頼重は自刃、時行は行方をくらまします。これを「中先代の乱」と呼びます。北条氏を先代、足利氏を当代とすると、ちょうど中間になることから名付けられました。

 次に時行が姿を現したのは、宮方の鎮守府大将軍北畠顕家が陸奥から攻め上って足利氏を討ったときでした。時行はこのとき南朝に帰順します。北畠軍が、青野原(現関ヶ原)で足利幕府の大軍を破った時、時行も従軍していたそうです。しかし、このまま幕府軍を追って近江に攻め込もうと主張した時行の意見は入れられず、北畠軍は伊賀路から大和の国に入りました。しかし、ジリ貧になり和泉国堺浦石津で高師直率いる幕府軍に破れ、顕家は戦死します。

 どの時点で、時行が袂を分かったか不明ですが、三度目には幕府を滅ぼした新田義貞の遺児義宗、義興と共に1352年、上野国で挙兵します。幕府を滅ぼした加害者と被害者の連合は皮肉ですが、またしても鎌倉を一時占領しました。
 足利尊氏は、次男の基氏(初代鎌倉公方)とともに、これを攻め、ついに時行は捕らえられます。翌1353年、鎌倉龍ノ口で処刑され、名実共に北条得宗家はここに滅びました。このとき時行は30歳に満たない若さでした。まさに数奇な、波乱に満ちた生涯といえます。

 私鳳山は、彼のような不遇の一生をおくった人物に深く同情します。ですから一人でも多くの人に知ってほしいのです。学校の歴史では、一行にも満たない記述ですまされる北条時行ですが、このような人物もいたのだと知って頂ければ幸いです。

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