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2009年6月13日 (土)

悲劇のメキシコ皇帝マクシミリアン (後編)

 メキシコ保守派からの申し出はナポレオン3世を喜ばせました。メキシコに親仏的な君主国を誕生させれば間接的にフランスがメキシコを支配することができます。
 ナポレオン3世は、傀儡国家の皇帝候補をまずメキシコの旧宗主国スペインのブルボン家からさがしました。しかし適当な王族がいなかったため欧州の名門ハプスブルグ家に白羽の矢が立ったわけです。
 意外にもフランツ・ヨーゼフ皇帝は、フランスの申し出を好意的に迎えます。これで反抗的なマクシミリアンを厄介払いできると思ったのでしょうか。

 マクシミリアン自身ははじめ不安でしたが、フランス側からバラ色の未来をせっせと吹き込まれると次第に乗り気になります。
 マクシミリアンは、メキシコ国民が自分の皇帝就任を望んでいるという証拠を見せてくれれば皇帝に就任しても良いという条件をフランス側にだします。
 しかし、こんなことは容易いことでした。メキシコに大軍を送り込み進歩派のファレス大統領を首都から追っ払っていたフランス軍は、住民に強制させてマクシミリアンを皇帝に推すという嘆願書を集めさせました。このような事実など知る由もないマクシミリアンは、それならばと納得します。


 1864年5月28日、2万3千のフランス軍とともにマクシミリアンはメキシコに上陸しました。このときマクシミリアン31歳、悲劇の幕はついに開きます。6月12日、首都メキシコシティに到着した一行は盛大な歓迎を受けました。メキシコ皇帝マクシミリアンの誕生でした。

 実質フランスの傀儡に過ぎない皇帝でしたが、理想主義者のマクシミリアンはそれに気付きませんでした。報道の自由を保障する法律、信教の自由を認める法律など開放的政策を打ち出す皇帝は、しだいに浮き上がっていきます。しかも南北戦争終結でアメリカの援助が再開された進歩派が、各地で巻き返しを図りだします。

 近代的装備のフランス軍に正面からぶつかっても敵わない進歩派の軍隊は、ゲリラ戦を遂行して敵を悩ませます。これにはフランス軍もヘトヘトになります。補給線をズタズタにされ、損害は日増しに増大していきました。フランス本国では、「わが国はいつまでメキシコにかかわっているのだ」という世論が沸き起こり、苛立ったナポレオン3世は、現地のフランス軍司令官に「決戦によって一気に進歩派を殲滅せよ!」という電報を打ちます。
 しかし、これは無理な要求でした。炎天下の砂漠を行軍したフランス軍は戦闘よりも病気で被害を増大させました。アメリカから、メキシコのフランス軍即時撤退を要求され、拒否すれば軍事介入も辞さないと申し出られると、ナポレオン3世はメキシコから手を引く事を決断します。

 1865年、ナポレオン3世に「フランス軍はメキシコから撤退する」と一歩的に通告されたマクシミリアンは困惑しました。どう考えても事態は悪化するばかりです。
 怒った皇后シャルロットは、ナポレオン3世に直談判すべく単身フランスに乗り込みます。ナポレオン3世の裏切りを激しく責め、怒りの余り失神することもしばしばでした。老獪なナポレオン3世はこれをのらりくらりとかわし、埒があかないと思った彼女はローマ法王にし対メキシコ十字軍をおくるよう嘆願しました。しかし時代が違います。彼女の戯言に耳を傾ける国は一国もありませんでした。

 シャルロットは、メキシコの夫に手紙を書きますが、その中身は悪魔、地獄、裏切り、死のオンパレードでした。怒りの余り精神に異常をきたした彼女は、「私を毒殺しようとする者がいる!」と口走るようになります。こまった法王庁は、ブリュッセルから実弟フランダース伯爵を呼び寄せ、引き取らせました。しかし彼女にとってはそれが幸いだったのかもしれません。夫の悲劇を知らずに済んだのですから。


 フランス軍の全面撤退で皇帝政府は揺れ動きました。退位を望むマクシミリアンでしたが、彼がいなくなると殺されることが分かっている保守派が大反対します。結局退位は思いとどまらざるをえませんでした。皇帝軍は最後の決戦をすべくケレタロに向かいます。総勢2万1500。マクシミリアン自らが率いました。人口4万、メキシコのほぼ中央に位置するこの町は、ただ保守派の根拠地というだけで選ばれたにすぎません。なべ底のそこのような地形で、またたくまに敵の重包囲下に置かれました。

 苦しい戦いの末、皇帝軍はついに降伏します。ファレス派は公開裁判の末、マクシミリアンに死刑を宣告しました。これには援助していたアメリカでさえ反対し助命嘆願運動が欧州各地で起こりました。文豪ヴィクトル・ユーゴーも参加したそうです。マクシミリアンは傀儡に過ぎず、悪の元凶がフランス、ナポレオン3世であったことは明らかでした。
 兄であるオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフも二度とメキシコに介入しない代わりに弟を許してほしいと申し出ましたが、ファレスは、生かしていては保守派の心の拠り所になるマクシミリアンを許すつもりはありませんでした。

 もはや、死を覚悟したマクシミリアンはハプスブルグ家の一員として恥ずかしくない死に様をすることだけを考えるようになります。母、兄皇帝、妻シャルロットに遺書を書き記すと、1867年6月19日処刑の朝を迎えました。

 マクシミリアンはポケットから金時計を取り出し、ふたを開き中の妻シャルロットの肖像に接吻すると「これを妻に形見として渡し、この世で私が最後に見たのは妻の姿だ、とお伝えください」と傍らの神父に渡し、静かに処刑場に向かいます。

 目隠しを拒否し、胸に手を当て高らかに叫びました。
「私はすべての人を許す。皆もまた私を許してほしい。神よ!これが流される最後の血となりますように。メキシコ万歳!」
 7発の銃声が鳴り響きます。享年35歳。最後まで付き従った皇帝軍のマルケス、メヒアの二人の将軍も後を追いました。

 遺体は軍艦にのせられ故国オーストリアに還されます。遺体と対面した母后ゾフィーは
「なんと可愛そうに、罪人のように処刑されるとは…」と嗚咽をもらしその後は人が変わったように陰鬱な性格となり、2年後世を去ります。シャルロットは夫の死後も生きながらえました。ベルギーに移住し狂人としての余生をおくります。1927年寂しく亡くなったそうです。夫の死も知らず、栄光の日々も忘れ去って…。

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