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2009年6月13日 (土)

「龐涓この樹の下にて死せん」 - 孫臏兵法 -

 中国戦国時代中期、孫子の兵法で有名な孫武五世の孫に孫濱(そんぴん)という者がおりました。斉(今の山東省の大部分)の国の住人で、若い頃鬼谷子のもとで兵法を学びます。その仲間に魏の国の龐涓(ほうけん)という者がいました。
 二人は共に学び親友となります。大地主でいわば趣味で兵法を学んでいる孫濱と違い、貧しい龐涓は兵法で身を立てなければなりませんでした。しかし、学べば学ぶほど孫濱に及ばないことを痛感させられます。

 学を修めて孫濱は故郷斉に帰りました。一方龐涓は魏の国に仕え、またたく間に将軍に登りつめます。孫濱は親友の出世を伝え聞き、祝うために魏に赴きました。大歓待を受ける孫濱でしたが、龐涓が身の回りの世話をさせるために付けた若い女奴隷に恋をしてしまいます。
 孫濱は彼女を斉に連れて帰ろうとしますが、女が故郷魏から離れたくないと言ったため魏に残る事にしました。
 親友の打ち明け話を聞いた龐涓は複雑な表情をします。しかしそのあと、「なんとか君が仕官できるようにしよう」と答え話はまとまったかに見えました。

 そんなある日の事です。狩りに誘われた孫濱は、「公務が終りしだい合流する」という龐涓に先立って約束した山に先に入ります。ところがその山は、魏公室の陵墓に連なるご禁制の山でした。そうとは知らない孫濱は、たちまち役人に捕まってしまいました。まもなく龐涓がきて誤解を解いてもらえると安心していた孫濱でしたが、何日たっても龐涓はやってきませんでした。

 はめられた、と気付いた時には遅すぎました。自分より才能のある孫濱が魏に仕えれば、いずれ取って代わられると恐れた龐涓の罠だったのです。ただ親友を殺すまではないと両足を切断して、額に罪人の印の入墨をするに止めました。
 以後、孫濱は自嘲の意味をこめて孫臏(臏は膝頭の骨の意味)と改名します。この日以来、彼は復讐の鬼と化すのです。

 あるとき、魏の国に斉から田忌という将軍が使者としてやってきます。奴隷部屋に入れられていた孫臏は、あのときの女奴隷の手引きで斉の使者に面会しました。会ってみてその賢才ぶりに惚れこんだ田忌は、秘かに自分の馬車に孫臏を隠して斉に連れ帰ります。以後、孫臏は田忌の客分として仕えました。そして孫臏に好意を持った田忌は威王に推薦までしてくれました。

 その後、魏が趙を攻め、窮地に陥った趙は斉に救いを求めました。威王は孫臏を将軍に任命しようとしましたが、「自分は刑罰をうけた不具者で適当ではありません」と辞退したため、田忌を大将に、孫臏を軍師にして事にあたらせました。

 すぐに趙の首都邯鄲に急行しようとした田忌に対して
「もつれた糸を解くには、むやみに引っ張るものではありません。今、魏の首都大梁は、精兵が出払って手薄です。こちらを攻めれば魏軍はあわてて囲みを解いて急行してくるに違いありません。そこを待ち構えて叩くのです」と孫臏は答えます。(囲魏救趙の計)
そして龐涓率いる魏軍を待ち構えていた斉軍は『桂陵の戦い』で散々に撃ち破りました。

 それから13年後、再び斉と魏はぶつかりました。因縁の両者の最後の対決です。またしても孫臏は田忌に策を授けました。
「魏は斉軍を柔弱と侮っております。我が軍は退却しながら竈をまず10万、次の日に7万と少しずつ減らしなさいませ。龐涓は斉兵が逃亡していると読んで、少数の騎兵だけで追ってくるはずです。そこを待ち伏せしましょう。」
 はたして、斉軍の竈の数が日を追うごとに減少している事に気付いた龐涓は、
「斉兵が臆病なことは前から知っていたが、ここまでとは…。これではいくら孫臏が策を弄しても無駄であろう」と冷笑して、昼夜兼行でこれを追いました。

 敵の行程をはかってみると馬陵の地に日暮れ頃に到着すると読んだ孫臏は、大木を切り倒し、幹を白く削ります。そして『龐涓この樹の下にて死せん』と大書すると道端に大きく掲げさせました。
 四方に伏兵を配し、弩兵一万を潜めさせます。そして「あの目印に松明が灯ったら、そこをめがけて射よ」と命じました。

 龐涓は、日暮れすぎに馬陵に差し掛かります。なにやら大木に文字が書いてあるのを不審に思い松明を掲げさせ文字を読みました。その瞬間、1万本の弩が一斉に発射されます。大混乱に陥った魏軍は同士討ちを始めました。ようやく自分が孫臏の罠に掛かったと悟った龐涓は
「儒子(こぞう)に名を成さしてしまったか…」と自嘲の笑いを残しながら、自ら首を刎ねて自害しました。孫臏はこの馬陵の戦いで天下に名をあらわし、今の世まで兵法書が伝わっています(司馬遷当時、漢代のこと)。

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