周防大内一族 - 西国の雄 - (前編)
この前尼子氏を紹介したので、今回はそのライバル、周防の大内氏を書きます。
大内家の始祖伝説では、百済の聖明王の王子、琳聖太子が周防国多々良浜に着き、その子孫が周防国大内村に住んだ事から、姓を多々良、氏を大内としたとされています。しかしこれは、よくある家系伝説というべきもので、周防国の在庁官人で勢力を蓄えた一族であろうといわれます。
多々良(大内)氏は、源平合戦の時には源氏に属して戦います。鎌倉時代を通して周防に勢力を扶植し、建武の新政では大内長弘が周防守護に任ぜられます。南北朝時代も、はじめは南朝に属し、大内弘世は北朝方の周防守護、鷲頭弘直を滅ぼし周防を統一します。さらに長門に進出して北朝方守護厚東氏を追い防長二州を大内氏が統一すると、足利尊氏の誘いを受け、防長二州の守護にするという条件で、あっさり北朝方に寝返りました。この弘世の時代に本拠を山口に移します。
その子、義弘は北朝方の有力武将として九州、山陰で武功を上げ周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の六ヶ国の守護に任ぜられました。この義弘はなかなかの野心家で、将軍足利義満に不満を持つ鎌倉公方足利氏満と結び、謀反を企みます。しかし陰謀は発覚し、1399年応永の乱で泉州堺に籠城した義弘は、幕府の大軍に攻められて自刃しました。
大内氏は、その弟盛見が家督を継ぎます。教弘、政弘、義興と続き、この義興の代に最盛期を迎えました。勘合貿易を細川氏と争い、1523年には現地、寧波で合戦騒ぎを起こします。やがて細川氏を締め出し貿易を独占するようになりました。その威勢は本拠防長二州の他に石見、安芸、備後、豊前、筑前の七ヶ国に及び、勘合貿易で得た莫大な富を背景に西国一の大大名に成長しました。本拠山口は「西の京都」と呼ばれるほどの繁栄ぶりでした。
義興は、生涯を合戦の中で過ごし、九州の少弐、大友、そして晩年には台頭してきた山陰の尼子経久と干戈をまじえます。
1500年、前足利将軍である義稙が明応の政変で京を追われ大内氏を頼ると、義興はこれを山口で保護します。1508年には、義稙を奉じて七ヶ国の勢二万余騎を率いて上洛しました。同じく京を追われていた管領細川高国と結び、将軍足利義澄を追放、義稙を将軍職に復します。
管領代、山城守護として十一年京の地で威勢を振るいましたが、各地で反乱が絶えず、しかも大内氏に従って上洛していた尼子経久が、早々に帰国しあろうことか大内領を窺い始めました。国元の情勢が不安定になった義興は京都支配を断念、1518年帰国の途につきます。
尼子経久は、得意の謀略で安芸の毛利氏など大内方の有力被官を次々と取り込み、大内氏は一時劣勢に立たされました。しかし、1524年安芸の佐東銀山城の戦いで尼子軍を破った事から、ようやく勢力は回復に向かいます。1528年安芸出陣中に病を得、山口に帰還してまもなく義興は死去します。享年五十二歳。
後を継いだ嫡男、義隆は父とは似ても似つかない柔弱な男でした。この義隆の代で大内氏は滅びます。次回は大内氏滅亡について見ていきましょう。
« 尼子経久 - 梟雄と呼ばれた男 - | トップページ | 周防大内一族 - 西国の雄 - (後編) »
「 日本史」カテゴリの記事
- 義経=チンギス汗説が物理的に成立しない理由(2024.08.29)
- 中世の兵站(2024.08.27)
- 長州藩諸隊の兵力(2024.08.09)
- 幕末の蝦夷地の話(2024.08.07)
- 会津戦争余話2 ヤーゲル銃とミニエー銃(2024.08.05)
コメント