最後の勝利者 - 奥州藤原氏初代 藤原清衡 -
何年か前、NHK大河ドラマで『炎(ほむら)立つ』(原作・高橋克彦)という奥州藤原氏を描いた作品があったのを憶えていますか?
私は、その中で藤原清衡を演じた村上弘明の大ファンなんで、興味深く見ていました。ところで、この藤原清衡という人、普通なら広大な奥州の支配者にはなれない境遇の人でした。しかし、運命のいたずらから奥州を手に入れることができました。
前九年の役で、奥州・奥六郡の支配権を手に入れたのは、源頼義ではなく援軍として頼義を援けた、出羽の清原氏でした。清原武貞は恩賞として安部頼良の娘を賜ります。しかしこの娘はすでに結婚していて幼子がいました。夫は在庁官人でありながら安部氏の反乱に加担した亘理権大夫・藤原経清でした。
この幼子こそ、後の清衡です。
出羽についで、陸奥奥六郡の支配者になった清原氏でしたが、前九年の役で安部氏を挑発しながら戦いのあと、朝廷に勢力拡大を怖れられ出羽守に任ぜられるだけにとどまった、源氏の棟梁、源義家は面白くありませんでした。もっとも欲していた「鎮守府将軍」の地位を清原武則に持っていかれた彼は、虎視眈々と機会を待っていました。
安部氏の娘は武貞との間に、家衡という子を設けます。清原氏は武則、武貞と続いて清衡の異母兄真衡が当主になっていました。そんな中、源義家が陸奥守として多賀城に赴任します。
清原氏の中で、前九年の役の恩賞に対する不満から、叔父の吉彦秀武(きみこのひでたけ)が乱を起こします。秀武は清衡・家衡の兄弟に「このままでは、お前たちもいずれ兄真衡に滅ぼされるぞ」とそそのかします。二人は秀武の誘いに応じ挙兵しました。そんな中、秀武討伐に向かっていた真衡が急死しました。
これをチャンスと見た義家は、清原氏の内訌に介入し、清衡・家衡の兄弟に奥六郡の遺領を配分しました。後の内紛の種を残すため、わざと立場の悪い清衡に豊かな胆沢・江刺・和賀の三郡を与え、嫡子である家衡に残りを与えました。出羽の本領を継いだ家衡でしたが、義家がなにかと清衡を贔屓して自分をないがしろにしているのが不満でした。
ここで吉彦秀武がまた登場します。家衡をそそのかして清衡を討たせました。清衡の屋敷を急襲し妻子眷属を殺害した家衡でしたが、清衡は危機一髪、逃れて義家のもとに庇護されます。義家にとっては思う壺でした。清衡を助けるという大義名分を得た義家は兵を集め、清原家衡を討ちます。清衡の下には、清原氏の支配で不満を持っていた安部氏の旧臣たちが集まりかなりの兵力となりました。源氏の兵とあわせ三千騎となった大軍は、奥六郡を制圧し出羽に入りました。時に1086年、これが「後三年の役」の始まりでした。
家衡は初め要害の「沼の柵」に籠もりますが、大きな勢力を持っていた叔父、清原武衡がこれに加担し本拠「金沢の柵」に籠城することを勧めたため、こちらに移りました。攻防は地の利にあかるい清原軍が有利に進め、源氏方は苦戦しました。義家は、朝廷に何度も援軍を頼みますが、これを私闘とみた朝廷は無視します。
そんな中、なんと吉彦秀武が投降し源氏方に加わりました。戦いの張本人でありながら、行く末を見極めこちら側についたのでした。数万にも膨れ上がった源氏方は「金沢の柵」を包囲し続けます。兵糧が尽きた籠城軍は、夜陰に紛れて逃亡を図りますが捕らえられました。家衡は処刑、叔父武衡は戦死し、ここに後三年の役は終結します。
しかし、あくまで私闘と見た朝廷は恩賞を拒みます。義家は陸奥の砂金を一手に押さえていたため、しかたなくそれを味方の恩賞に当てましたが、戦いで何一つ得ることができなかったため、腸が煮えくり返る思いでした。ただ、義家が私財を投げうって恩賞に当ててくれたことに関東武士たちは感激し、以後関東の地は源氏の地盤となります。
こうして、空白となった清原氏の遺領は、ただ一人生き残った清衡のものとなりました。清衡は亡き父の姓を名乗り、藤原清衡となります。奥州藤原氏の始まりでした。
苦労人の彼は、朝廷との関係を重視し貢物を贈り続けました。源氏の勢力拡大を怖れる朝廷もこれに応じ、清衡を鎮守府将軍に任じます。
清衡は、首都を平泉に定め大寺院の建設に励みます。有名な中尊寺の建立を見届け、1128年、波乱の人生を終えます。享年73歳。
以後、源頼朝に滅ぼされるまで80年にわたり奥州藤原氏は栄えました。
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