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2009年6月26日 (金)

尼子経久 - 梟雄と呼ばれた男 -

 出雲の戦国大名尼子氏、西国の大大名大内氏と中国地方の覇権を争い最後は毛利元就に滅ぼされることになる大名家です。
 ライバルの大内家が、鎌倉以来着々と中国地方に勢力を扶植し大勢力になったのと比べると、尼子氏はただ一代で勃興した新興勢力でした。それを成した人物、尼子経久をご紹介しましょう。

 尼子氏は、もともと出雲国の守護代でした。主家京極氏が東軍に属したため、応仁の乱では、隣国山名氏の侵略をうけます。当時の守護代は経久の父、清定でした。勇猛で知られる彼のおかげで出雲は守りぬかれました。

 そのころ嫡子である経久は、人質という意味もあり、京の京極氏の館で過ごしていました。多感な少年時代を京で過ごし、文化を吸収し、かつ京の人物のつまらなさも実感していたのでしょう。
 1478年、二十歳で家督を継ぐと経久は守護京極氏を無視する政策をとります。京極氏の領地を横領し、幕命に従わず、一種の独立国になった観がありました。
 京極氏が幕府に訴えたため追討を受け、経久は居城、月山冨田城を追われます。守護代には新たに塩冶掃部介が任ぜられます。

 通常なら、これで終りでした。しかし、経久は旧臣の山中、亀井、真木、川副らを糾合し、河原者の集団「鉢屋賀麻党」を味方につけます。遊行の集団で芸能を司り、時には忍びの術を使う事もあったといいます。名前からすると「サンカ」にゆかりのある者たちともとれますが、よく分かっていません。

 1486年元旦、恒例により新年を賀する千秋万歳を舞うため鉢屋賀麻党70名あまりが、月山冨田城に招かれます。尼子経久は大晦日から城の裏手に手勢を率い潜んでいました。
 城中が酒宴にあけくれていたころ、鉢屋賀麻党の手引きで尼子軍が城内に乱入します。不意を衝かれた城方は大混乱に陥り次々と討たれました。塩冶掃部介は抵抗を諦め、妻子を殺し、自らも自害して果てます。

 こうして、経久は再び月山冨田城主に返り咲きます。1488年には三沢氏を下し出雲を統一しました。守護の京極氏はなすすべもありません。実力で手に入れた出雲国は、尼子氏のものでした。
 経久は、侵略の手を各地に拡げます。安芸や備後で、反大内の策動をし、伯耆の南条宗勝を攻めました。このとき嫡子の政久が戦死するという事件がおきます。名将と謳われ、将来を嘱望された嫡子の戦死は、日の出の勢いの尼子氏に暗雲を投げかけるものでした。しかし、気を取り直して南条氏を滅ぼし、1521年には石見に侵入します。中国地方十一ヶ国に勢力を拡げ西国の雄大内氏と、堂々と互する大勢力に一代にして築き上げました。

 ただ、晩年は不幸でした。三男で塩冶氏を継いでいた興久の謀反、1537年家督を譲った嫡孫、晴久の軽率な性格を気に病みます。
 晴久は1540年安芸の毛利元就を三万の大軍で攻めます。吉田郡山城の戦いでは、大内氏の援軍を得た寡兵の元就にいいようにあしらわれ敗北してしまいます。尼子氏の行く末を案じながら経久は、1541年死去しました。享年八十三歳。

 尼子経久は北条早雲と並ぶ下克上の典型でした。毛利元就が手本にしたほどの謀略の天才で、私鳳山は世間が評した「天性無欲の人」も謀略の可能性が高いと見ています。ともかく山陰地方に生まれた偉大な男であったことは間違いありません。

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