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2009年6月13日 (土)

世界史英雄列伝(36)カミッロ・ベンソ・コンテ・ディ・カヴール

◇1810年8月10日 - 1861年6月6日
 サルディニア王国そして統一イタリア王国初代宰相

 西ローマ帝国滅亡以来、ながらくイタリア半島は外国に支配されるか小邦分裂状態で統一勢力がありませんでした。それを統一したのはサルディニア島と西北イタリアを領土とするサルディニア王国のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世でした。
 カヴールは国王を助けて統一イタリアという奇跡を実現します。実現不可能とみられていた統一は、まさにカブールの外交能力によって成されます。

 当時北イタリアの大部分はハプスブルグ家オーストリアの領地でした。これがイタリア統一の最大の障壁となります。カブールは、小国サルディニアの力ではこれを奪い返すことが不可能であると痛感していました。

 そこでカヴールはフランスのナポレオン3世と結び列強フランスの力を利用して統一しようと目論見ます。しかし、これは一歩間違うとイタリアの主人がオーストリアからフランスに代わるだけという最悪の結果も考えられました。まさに紙一重、綱渡りのような外交です。

 カヴールは徹底した現実主義者でした。1855年クリミア戦争が起こると、英仏に味方してクリミア半島に1万5千の部隊をおくり援助します。1858年のパリ講和会議にも出席し英仏に恩を売り、サルディニアの国際的な地位向上をはたしました。

 さらに1858年7月、ナポレオン3世とプロンビエールの密約を結び、サボイとニースを見返りに対オーストリア戦争にフランスを参戦させることを約束させます。
 カヴールは1859年イタリア統一戦争を開始しました。サルディニア軍7万、フランス軍12万8千、対してオーストリアは22万、サルディニア一国では勝負にならないことは明らかでした。

 連合軍はロンバルディア平原に進出し各地でオーストリア軍を撃破しました。サルディニアがロンバルディアを併合するとパルマやトスカナでもオーストリアに対する反乱が起き住民投票で次々とサルディニアに編入されました。

 破竹の勢いのサルディニアに不安を持ったナポレオン3世はオーストリアと単独講和するという裏切り行為にでます。結局サルディニアは北部イタリアを統一することだけで断念するしかありませんでした。

 ここで一人の男が登場します。革命家ガリバルディです。イタリア統一に燃える彼は1000名の義勇兵を集めシチリア島に進撃しました。そしてなんと農民反乱と呼応してナポリ王国の支配下だったシチリア島を開放、海を渡って半島に上陸するとナポリ王国まで滅ぼすのです。
 ガリバルディは数万に膨れ上がった軍勢を率いローマに進軍する動きを見せました。しかし教皇領であるローマを攻めることに国際的な非難があがることを危惧したカヴールは、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に出馬を要請します。
 国王直卒のサルディニア軍とガリバルディ軍はナポリの北テアーノで合流、国王と革命家は劇的な対面を果たしました。ガルバルディはナポリ王国の住民投票でサルディニアに編入することが決まったと報告し自分の占領地を献上します。このあと革命家はカプリ島に引退し余生を過ごしました。

 1861年、教皇領を除きイタリア統一が成ったことを宣言し、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は初代イタリア国王に即位しました。

 カヴール自身は1861年6月6日に死去しますが、1866年ヴェネツィア、1870年教皇領がイタリアの領土に編入されイタリア統一は完成しました。首都もトリノからローマに移されます。

 まさにカヴール外交の勝利でした。

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