周防大内一族 - 西国の雄 - (後編)
大内義隆は、自ら先頭に立って戦に赴くタイプではありませんでした。しかし大内家は大国であったので重臣陶興房、杉興連ら重臣たちに戦を任せ、じぶんは本拠山口で安穏の日々をおくれたのです。
戦乱を逃れて京から公家や文人たちが山口に逃げ込みます。義隆は彼らを保護し、ために山口は京文化が花咲きました。
一度は父に倣い、上洛を試みますが情勢はそれどころではありませんでした。もし上洛できても、尼子氏に領国を奪われて本も子も無くなってしまいます。
1550年、義隆に面会したフランシスコ・ザビエルは山口の繁栄ぶりを書き記しています。しかし、義隆の戦績は惨憺たるものでした。1540年の吉田郡山城の戦いでは勝利するも(ほとんどは毛利元就の活躍ですが)、その余勢をかって尼子氏の本拠出雲国月山冨田城を攻めた攻囲戦では、逆に内通者が続出し大敗してしまいます。
この敗北ですっかりヤル気を失った義隆は、政治的関心をうしないもっぱら文人的傾向を強めます。奸臣相良武任らを重用し、武断派の陶隆房らは遠避けられました。これには武断派の面々は強い不満を持ちます。
1551年、周防守護代陶隆房がついに兵を挙げました。内藤氏ら重臣たちの誰も義隆を助けようとはしませんでした。家臣の心はすでに離れていたのです。孤立した義隆は、山口を棄て長門に逃亡します。逃亡途中の長門大寧寺で陶軍に追いつかれ、自害して果てました。享年四十五歳。ここに栄華を誇った大内氏は滅亡します。
陶隆房は、大友氏から養子にはいっていた義長を大内家当主に据え、自身は晴賢と改名し大内家の旧領を支配します。そのころ安芸では、ドサクサに紛れて毛利元就が国内を統一していました。1557年、元就は大内義隆のともらい合戦と称して、陶晴賢に挑みます。有名な『厳島の合戦』で、晴賢を滅ぼし大内氏の旧領はそっくり元就の手に入りました。やがて元就は、出雲の尼子氏も滅ぼし中国地方を統一し大勢力になるのです。
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