甲斐武田一族(前編)
戦国時代に活躍した武田信玄は、皆さんご存知だと思います。武田氏は甲斐源氏の嫡流で初代新羅三郎源義光以来、二十代も続いた由緒ある名門でした。
その歴史は波乱に飛んでおり、何度も滅亡の危機を経ながら続きました。まさに、激動の歴史です。少々長くなるかもしれませんが、我慢してお付き合いください。
初代新羅三郎義光は、鎮守府将軍源頼義の三男です。後三年の役の時に苦戦する兄の源義家を助けるため都での官位を捨てて奥州へ向った話は有名です。
その子義清が常陸国武田郷を領したことから武田氏を称したとも、甲斐に下って北巨勢郡武田村が発祥の地とも言われはっきりしていません。一説では、甲斐に配流されてきたとも言われ面白いです。
義光の四代目、信義の時代に源平の争乱がありました。信義は甲斐源氏を率いて頼朝に従い戦功を上げます。このとき甲斐守護が確立しました。甲斐源氏は、同じ源氏の名門ということで頼朝の猜疑を受け、安田義定ら多くの一族が命を落とします。このような犠牲を払いながら武田氏は甲斐に根付くのです。
承久の変にも戦功を上げ、武田氏は安芸守護を与えられます。当時は代官を派遣していたそうです。鎌倉幕府は、やがて実権を北条氏に乗っ取られますが、多くの源氏と同じく武田氏も北条氏に従います。
南北朝時代の当主十代信武は、笠置山攻めでは幕府軍の一手の大将でした。1335年北条時行が挙兵した中先代の乱では恩義忘れがたく北条方に組します。その後、足利尊氏に降り戦功をあげ甲斐守護職を守り通します。十一代信成の時代に、弟の氏信が安芸・若狭の守護に補されます。この氏信が安芸武田、若狭武田氏の祖とも言われています。氏信は安芸に下向し土着しました。
応永二十三年(1416年)、関東の地を揺るがす上杉禅秀の乱が起こりました。禅秀の舅にあたる十三代信満は反乱軍に組し、鎌倉府の軍勢に本拠甲斐国を攻められ自害します。武田氏最大の危機でした。中篇では、武田氏がどのように復興していったのかを見ていきたいと思います。
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