平安時代最大の悪女 - 薬子の変 -
世界史上、悪女といえばネタに事欠きませんが、わが日本を見た場合、世界史でいう意味での悪女といったら、この藤原薬子しか、すぐには思い出せません。何しろ、上皇を担いで現天皇に謀反をおこし、国家を乗っ取ろうとしたのですから。
あまり皆さんはご存知ないと思いますが、けっこうエグイ人なんです。古代の権力者、藤原不比等の子がそれぞれ家を建て北家、式家、南家、京家と分かれたのは、日本史の授業で憶えておられる方もいらっしゃるでしょう。まず南家は藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱で奈良時代末に滅びます。京家は振るわず、平安時代初期、残ったのは北家と式家でした。
藤原薬子は、この式家の藤原種嗣の娘として生まれます。同じ式家の中納言縄主と結婚し三男二女ももうけました。ここまでなら平凡な一生なのですが、長女が時の平城天皇の妃となった事から運命がおかしな方向に進みます。
なんと、平城天皇は娘でなく母親の方を気に入り、寵愛します。いくら早婚の時代とはいえ、年頃の娘がいる母なら、三十歳は越えていたでしょう。よほどの美人だったのでしょうか?イメージ的には女優の黒木瞳さんのような感じだったのかもしれません。娘は矢田亜希子、平城天皇は伊藤英明ですね(笑)。どっかのドラマみたい。冗談はさておき、薬子は天皇に取り入り、政にくちばしをはさみだします。その兄仲成も重用され、兄妹で国政を壟断しました。
809年病弱な平城天皇は、位を弟嵯峨天皇に譲り奈良平城京に退きます。おもしろくない兄妹は上皇となった平城を焚きつけ、嵯峨天皇から位を奪い返し平城京に遷都するよう画策します。宮廷内にはいまだに薬子らと気脈を通じている貴族たちも多く、陰謀は成功するかに見えました。
810年、平城上皇は平城京に遷都令をだします。天皇と上皇の関係では、当時も上皇が上と考える者たちも多かったのです。
嵯峨天皇は、急報をうけると直ちに立ち上がります。上皇側の機先を制し、薬子の官位を剥奪しました。ついで京に残っている上皇側の貴族を次々と逮捕します。
これを知った上皇方は強硬手段に訴え、挙兵しました。上皇と、輿に乗った薬子は兵を率い、東国に向かい大軍を集めようとします。古代の壬申の乱の故知に倣おうとしたのでしょう。
上皇が東国に入れば、天皇方は決定的に不利になります。嵯峨天皇は坂上田村麻呂らを遣わして、東国へ通じる関を閉ざすべく軍隊を出しました。
行く手を天皇方の大軍がさえぎっているという報告をうけた平城上皇は、怖気づいて軍を平城京に返します。田村麻呂らの軍は、これを追って、事件の元凶の一人、藤原仲成を捕らえました。仲成は京に送られ射殺されます。企てが失敗に終わったことを悟った平城上皇は出家して罪を逃れようとしました。絶望した薬子は、毒を飲んで自殺します。
こうして、平安時代初期を震撼させた「薬子の変」は終結しました。藤原式家種継流は滅び、残りは北家のみになりました。北家の当主、冬嗣は嵯峨天皇側に組し、このときも功を上げたそうです。時勢を冷静に見極める目を持っていたのでしょう。冬嗣は、蔵人頭から最終的には左大臣まで出世し、北家隆盛の基を築きました。この子孫から有名な藤原道長が生まれ、五摂家が誕生することになります。
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藤原薬子は種継の娘。
藤原南家で藤原仲麻呂の乱で滅んだのは仲麻呂流だけです。
清貫(867-930)大納言、範光(1154-1213)権中納言とかがいます、藤原信西も南家。
投稿: mo | 2013年5月 1日 (水) 19時57分
moさん、間違いを指摘してくれるのは有難いがもう少し書き方に注意してもらわないと。
別に私は貴方の親戚でも親友でもないんだし。本来なら無礼なコメントは削除するところですよ。
投稿: 鳳山 | 2013年5月 2日 (木) 14時22分