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2009年6月26日 (金)

坂本竜馬 - 維新回天の奇跡 -

 司馬遼太郎の「竜馬がゆく」はあまりにも有名です。歴史家の中には実際はそれほどの活躍はしなかったと指摘する者もいますが、私は小説の竜馬像の印象が深いため、こちらを信じたいと思います。
 以前、NHKで「薩長同盟における竜馬の活躍はなかった」と論じた番組が放映されました。長州藩家老の手紙を証拠としていましたが、藩の体面もあるので、はたして真実を書くだろうかと疑問に思った記憶があります。ケチをつければどうとでもつけられますし、歴史的事実も解釈によってどのようにでも曲げられるのではないでしょうか?
 むしろ、一介の浪人が天下を動かし維新回天の大業を成し遂げたことが日本史上の奇跡だったのです。

 幼年時代のエピソードは「竜馬がゆく」に譲るとして、嘉永六年(1853年)江戸の北辰一刀流・千葉定吉道場に入門したことは、竜馬にとって将来、有形無形に役立ちました。千葉門からは維新で活躍した志士を多く輩出しています。
 文久元年(1861年)武市瑞山の土佐勤王党に参加、二年後には脱藩して国事に奔走します。このころ勝海舟に師事、神戸海軍操練所建設に尽力しました。慶応元年(1865年)長崎で亀山社中(後の海援隊)を創設します。
 
 竜馬が普通の志士と違ったのは、勝海舟の薫陶を受けたからでしょう。勝は当時としては稀有の「日本人」としての意識をもった人物でした。竜馬は勝の影響で、大所からものを見、無私無欲の精神で行動しました。これが多くの人を惹きつけた理由でしょう。

 竜馬の業績として最大のものは、なんといっても薩長同盟締結でしょう。犬猿の仲の薩長を、まず物の面から結びつけるという発想は、現実主義者の竜馬でなければ出てこない発想でした。これが後の明治維新の原動力になるのですから、竜馬の偉大さは計り知れません。
 慶応三年(1867年)土佐藩との関係を修復した竜馬は、海援隊を創設します。「船中八策」を起草し、後藤象二郎を通じて大政奉還を実現しました。

 しかし、同年12月京都近江屋において陸援隊隊長、中岡慎太郎と共に何者かによって暗殺されます。
享年三十二歳。


 ざっと生涯を振り返りましたが、これが一介の浪人の事跡である事を考えると奇跡に近いと思います。司馬遼太郎も小説で書いていますが、竜馬は「天が動かしている」としか言えません。
 師の勝海舟と共に、竜馬がいなかったら明治維新はなかったと思います。そればかりか他のアジア諸国と同様欧米列強の植民地になっていたことは確実です。我々日本人は竜馬に感謝しなければならないでしょう。

 ところで竜馬の妻は楢崎竜ですが、私は千葉佐奈子と結婚して欲しかった。お竜さんファンには申し訳ないんですが、お似合いの夫婦とは言えません。竜馬に貰った形見の袴の袖を大切に保管し、生涯独身を通し、墓碑に「坂本龍馬室」と刻ませた佐奈子さんのけなげな生き方に感動しています。

 海援隊は人材を輩出していますが、特筆すべきは陸奥陽之助(宗光)でしょう。後年カミソリの異名を持ち外務大臣として活躍した彼でしたが、海援隊時代は皮肉屋で切れ者であるため、円満さに欠きトラブルを起こしてばかりいました。そんな陸奥を竜馬は欠点まで含めて「面白いやつ」とかわいがりました。陸奥も竜馬を深く慕っていたそうです。竜馬暗殺の時、京にいた陸奥は復讐を誓い、同士とともに当時暗殺の黒幕といわれていた紀州藩出身の三浦休太郎を天満屋に襲ったほどでした。後年、陸奥は竜馬についてよく懐かしがったそうです。

 また、師である勝海舟も「薩長連合、大政奉還、あれはみんな竜馬がひとりでやったことさ」と述懐しています。

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