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2009年10月

2009年10月24日 (土)

聖都イドリースと迷宮都市フェズ

 私が生涯のうちで行ってみたい所。インカ帝国の失われた空中都市マチュピチュのことは以前記事にしました。それと同じくらい行ってみたい所の一つが、モロッコにある古都フェズです。

 迷宮都市として世界遺産にも登録されたフェズですが、歴史あるこの町と同じくらいモロッコという国そのものにも魅かれるのです。


 モロッコは、マグレブ地方(アフリカ大陸北部のイスラム化した地域。広義にはエジプトからモロッコまでを含む)の最西端に位置し、剽悍なベルベルの遊牧民が歴史を形作ってきました。

 ある時はイベリア半島や遠くサハラを越えて黄金都市トンブクトゥウまでも支配下に置いたダイナミックな歴史を持ち、現在のモロッコ王家(アラウィー朝)は1660年以来、紆余曲折はありながら現代まで続いています。


 
 その中で、フェズはある時は王朝の首都になり、またある時は反乱軍の根拠地になりながら悠久の歴史を紡いできました。モロッコと言うとカサブランカが有名ですが、歴史の生き証人という意味ではフェズには遠く及びません。私は生涯一度でも良いから訪れたいと心に誓っています。



 ところでフェズですが、その歴史はある一つの王朝と不可分の関係にあります。それが今回紹介するイドリース朝と、そのゆかりの町、聖都ムーラーイ・イドリースです。



 イドリースが人の名前らしいという事は皆さんも想像できるでしょう。王朝の創始者イドリース・イブン・アブドゥッラーは亡命者でした。それも単なる人物ではなく正統カリフ、アリーとファーテマの血を引く高貴な生まれです。


 彼がなぜ亡命することになったかと言うと、アッバース朝内の内紛が原因でした。ここで歴史通の読者は疑問に思われるでしょう。アリーの子孫ならイスラム教シーア派、そしてアッバース朝はシーア派の王朝、優遇されることはあっても亡命せざるを得ない状況になるのはおかしいではないかと?


 しかし、同じシーア派と言ってもカリフ位を独占したいアッバース家にとってイドリースの存在は邪魔以外の何者でもありませんでした。


 命からがら辺境の地西マグレブに逃げてきたイドリースは、現地ベルベル人首長たちに推戴され788年イドリース朝を開きます。



 実はその30年前にも同じような事件がありました。アッバース朝成立のとき、前王朝ウマイヤ朝への一族皆殺しから九死に一生を得てこの地に逃げてきた王子がいたのです。その名はアブドル・ラフマーン。当ブログ世界史書庫第1回でも紹介した後ウマイヤ朝の創始者です。


 この時もベルベル人たちは悲運の王子を温かく迎え入れ、イベリア半島に送り出しています。そして今回も…。砂漠に生きる民、ベルベル人たちの困窮者が頼ってきたらこれを迎え入れ助けるという温かさを感じさせてくれるエピソードです。


 またモロッコの地は、異端者にも寛容な社会だったように思います。アブドル・ラフマーンは正統なスンニ派の後継者、そしてイドリースもまた正統なシーア派の後継者でした。宗派の違いに関係なくベルベル人たちは迎え入れたのです。モロッコの地は多くの異端を生む土地柄ではありました。

 イスラム教が伝わってきた後も、土着のベルベル人の信仰と融合して独自のイスラム社会を形成していたのです。その環境が民族としての寛容さを生みだしたのでしょう。



 イドリース1世は、王朝を開いた後もその権力基盤は弱いものでした。各地の首長に推戴されたため、その勢力を封建領主として認め、そのバランスの上に統治するという形態でした。



 それでも曲がりなりにも西マグレブ(現モロッコ)の地を一つにまとめ上げ王国としたのは大きな功績でしょう。彼は晩年、新王国の首都としてふさわしい地を定め、都市建設を計画しました。しかし志半ばで倒れ、息子のイドリース2世がそれを引き継ぎます。このようにして建設されたのがフェズの町でした。一方イドリース1世はそれまでの首都だった地に立派な廟を造られ葬られます。この町がムーラーイ・イドリース聖市です。現代でもイドリースは正統カリフの後継者として、聖者として国民の信仰を集めているそうです。


 フェズ、この地を選定したイドリース1世はさすが慧眼だったと思います。フェズは古代ローマから続くアフリカ大陸北岸を東西に貫く街道上に位置します。エジプトから発しカサブランカまで続く道です。

 さらに北、ジブラルタル海峡に面したタンジールから南下し遠くサハラ砂漠を越えて黄金都市トンブクトゥウに至る黄金街道との交点に当たるのです。


 まさにモロッコの心臓部と言っても良い場所でした。息子イドリース2世はフェズを首都にふさわしい都市として完成させました。



 イドリース朝は、各地の君侯が力をつけ始め、相対的に王権が低下したことから衰退し974年滅びます。しかしフェズはその重要性から歴代王朝の首都になるか、あるいは重要な都市として滅びることなく現在に至っています。



 幾度かの破壊もありましたが、そのたびに奇跡的に蘇り、さらにイベリア半島やチュニジアの動乱から逃れてきた亡命者(技術者が多い)も受け入れたため独特の文化が育ちました。スペイン・アンダルシア地方の優雅な建築文化とイスラム伝統の精密な抽象画、幾何学模様が融合し独特の美を形成しているそうです。


 その歴史のように迷宮都市として複雑に入りこんでいるフェズ旧市街は、1981年世界遺産になりました。一生に一度は訪れたい町です。悠久の歴史に思いを馳せるために…。

ヴァンダル族の興亡    - ゲルマン民族大移動の一典型 -

 最近、「ヴァンダル興亡史」(松谷健二著・中公文庫)なる本を読みました。松谷氏の「カルタゴ興亡史」を以前読んで感銘を受けたのでこの本を読んでみたんですが、これも面白かったです。


 作者の文章力もありますが、民族の興亡をダイナミックに描く良書でした。



 ところで、私はゲルマン民族の大移動をただ野蛮人が文明世界を荒らしまわる大災厄としてしかとらえていませんでした。もともとローマ贔屓という事もありましたが、中部ヨーロッパからはるばるカルタゴ(現チュニジア)まで移動し王国を建国したヴァンダル族など海賊の親玉くらいにしか思っていませんでしたし、東ローマ帝国の英雄、ベリサリウスに滅ぼされた存在として軽く見ていたきらいがありました。


 ところが本書を読んでイメージが一変したことを白状します。




 そもそもゲルマン民族の大移動とは、紀元前後から2~3世紀に渡る世界的な寒冷化が根本原因だったらしいです。遊牧民族はその被害をストレートに受け、生きるために移動したのだそうです。

 北方アジアの草原地帯から叩き出されたフン族(匈奴の末裔とも言われています)が、ユーラシア西部に移動したために、玉突き的にそこにいたゲルマン諸族が押し出されて文明世界だったローマ帝国領内に侵入したのがゲルマン民族大移動の始まりでした。

 しかし、そこにもともと住んでいた人たちにとってはたまったものではありません。ゲルマン民族の側にも生きるために仕方ないとの言い分はあるでしょうが、暴行・略奪・強姦などのあらゆる災厄を受けた文明世界の人々にとっては迷惑この上なかったでしょう。


 当時のローマ帝国が、腐敗し宮廷内の権力闘争ばかりで精兵を誇ったローマ軍がすっかり弱体化していたのも悲劇の要因でした。討伐軍を送るものの敗北を繰り返し、かえって帝国領奥深くまで侵略を許す始末でした。


 その主なものは、今のベルギーあたりにいたフランク族がガリア(現フランス)へ。西ゴート族が南ガリアからヒスパニアへ。東ゴート族がイタリア半島へ。そして本稿で紹介するヴァンダル族などはジブラルタル海峡を越えて遠く北アフリカまで移動しています。



 もともとヴァンダル族は北欧あたりにいたと推定されます。それが新天地を求めてバルト海を渡り2世紀のころにはドイツ東部からポーランド西部あたりのシュレジェン地方に定着していたそうです。


 それが4世紀におこったゲルマン民族大移動に巻き込まれ大移動を余儀なくされます。まずドナウ上流からライン川に沿ってガリアに西進、途中フランク族と戦って敗れピレネー山脈をを越えてヒスパニアに落ち着きました。現地のローマ人総督は、これを追い払う力はなく定住を認める代わりに軍役につくことを要求します。

 ただ、この状態に我慢ならないローマは姦計を持ってこれを追いだしにかかりました。その当時イタリア半島に侵入の構えを見せていた西ゴート族を懐柔し、ヒスパニアのヴァンダル族を討ったらその地を割譲するという密約を結んだのです。


 ローマとしてはゲルマンの蛮族同士どちらが滅んでも痛くも痒くもなかったでしょう。しかもこの戦いで勝った方とて無傷で済むはずはない。そこを滅ぼせば一石二鳥だと思ったことでしょう。


 ヒスパニアの戦いは悲惨を極めました。ヴァンダルは同胞と思っていたスエビ族に裏切られ大敗を喫してしまいます。


 時のヴァンダル族の王、ゲイゼリックは思い切った手段に出ます。ヒスパニアでの王国建国を諦め、ジブラルタル海峡を渡って北アフリカの地に新しい国を建てるという計画でした。時に429年のことです。



 ヴァンダル族が最後に落ち着いた南ヒスパニアはアンダルシア地方と呼ばれています。おそらく語源はヴァンダルの地という意味でしょう。そこから海峡を押し渡ったヴァンダル族はおよそ8万だったと言われています。その中で戦闘員は2万弱くらいだったと予想されます。

 まさかそのような方向から蛮族が攻めてくるとは思っていなかったローマ軍はあわてます。ローマ軍が駐屯するカルタゴの地にヴァンダル族が至るまでほとんど抵抗らしい抵抗はなかったそうです。


 予想もしなかった方向から現れた敵を前に、現地のローマ軍はなすすべもなく壊滅します。ゲイゼリックはカルタゴを都とし北アフリカ一帯を支配するヴァンダル王国を建国しました。439年のことです。



 ヨーロッパではヴァンダル族のイメージは最悪です。ヴァンダリズムとは野蛮の意味だそうです。それというのもヴァンダル族は異端アリウス派のキリスト教徒、欧州で主流になりつつあったカトリックはこれを嫌い悪しざまに書いた記録を残しています。当時の文明地帯であったガリアや北アフリカを暴行略奪し、さらにはカトリック教徒も弾圧したのですから、知識層であったカトリック教会の憎しみを買ったのです。作者によれば、他のゲルマン諸族も似たり寄ったりのはずなのにヴァンダル族だけが特に悪く書かれたのはカトリック教会を敵に回したからだろうと推測しています。


 ゲイゼリックは王国を建国した後強大な海軍を建設します。もともと海洋民族だった記憶があったのでしょう。西地中海ではローマ艦隊を幾度も破り制海権を握りました。ヴァンダル海軍は海賊として西地中海一帯を荒らしまわりました。これで莫大な富を蓄積します。


 しかし王国は長くは続きませんでした。477年ゲイゼリックは波乱にとんだ生涯を閉じます。90歳近い高齢だったと伝えられています。


 良くも悪くもゲイゼリックの個性によって支えられていた王国でした。その後は無能な国王が続き当時西ローマ帝国を奪ったオドアケルを倒しイタリア半島に国を建国していた東ゴート族に敗れシチリア島を失いました。国内でもアリウス派であった少数の支配者に反抗しカトリック勢力の反乱が相次ぎました。

 ヴァンダルの政治は、建国後はそれほど悪政ではなかったそうですが、宗教的な対立は深刻だったのでしょう。しかも現地土着のムーア人も反抗を繰り返し王国内は内紛が絶えませんでした。


 悪い事に東ローマ帝国には中興の英主ユスティニアヌス大帝が即位していました。彼はヴァンダル王国が弱体化したのを好機と捉え、名将と誉れ高かったベリサリウスを総司令官に任命し533年遠征軍を派遣します。兵力は歩兵1万と騎兵5千ほど。一国を滅ぼすには余りにも少数でした。しかし、遠くコンスタンティノポリスからはるばるチュニジアまで送るのですからこれが限界だったのかもしれません。


 遠征軍は当時友好関係を保っていた東ゴート族の領土であるシチリア島にいったん落ち着きます。そのころヴァンダル王国内ではサルディニア島とリビアに反乱がおこっていました。ベリサリウスは情報を集め、反乱軍に援軍を派遣します。

 
 そしてヴァンダル本土が手薄になった隙を突いて海峡を押し渡りました。ヴァンダル最後の王ゲリメルはあわてて迎撃しますが、カルタゴ郊外の戦いで大敗します。ゲリメルは首都を捨て西のヌミディアの山中に逃れました。ここで残兵をかき集め最後の決戦を挑みますが、ここでもベリサリウスの指揮の前に完敗し、軍は四散しました。ゲリメルは少数の側近だけを従え山中の村に逃げ込みます。

 一方、東ローマ軍はあえてこれを追撃せずカルタゴに入城し人心の安定に努めました。ゲリメルの逃げ込んだ山中には抑えの兵だけを残し奪回した北アフリカの統治に専念する方針でした。


 このベリサリウスの判断は正解だったと思います。率いている兵も少ないので、もし反乱でもおこされたら収拾のつかない状況に陥ったことでしょう。534年食料の乏しくなったゲリメルは降伏し、ここにヴァンダル王国は滅亡しました。


 ゲイゼリックがジブラルタル海峡を押し渡って建国してからわずか100年足らずの寿命でした。フランク王国のように後世の仏・独・伊に受け継がれたのとは違い、跡形もなく消えたために弁護する者がいなかったのでしょう。カトリック勢力と対立したのも致命的でした。


 
 ヴァンダルのその後ですが、ベリサリウスの凱旋に連れて行かれたゲリメルは命だけは助けられて土地をもらい安楽な余生を送ったそうです。一部のヴァンダル族は東ローマ本国に送られ帝国各地に分散して住まわされました。のこった庶民はそのまま現地に同化しチュニジア人の祖先の一部となったことでしょう。

世界史英雄列伝(39) 『ヌールッディーン・マフムード・ザンギー』 反十字軍の英雄

 久々の英雄列伝更新は、マイナーな中東の英雄です。ヌールッディーン、おそらく歴史通の方でも知っている方は少ないとは思いますが、中東史において重要な役割を果たした人物です。


 私の世界史的なイメージでは、後周の世宗・柴栄あるいはインドのシェール・シャーとかぶるのです。まあこの二人と比べたら在位は長かったですが…。




 ヌールッディーン・マフムード・ザンギー(1118年~1174年・在位1146年~1174年)は、シリアとイラク北部を支配したザンギー朝(1087年~1146年)の第2代スルタンです。

 ザンギー朝の創始者イマードゥッディーン・ザンギーは、もともとセルジューク・トルコの武将でしたが父の代から独立を図り、バスラ太守のときセルジューク朝のスルタンを反乱から救った功績でイラク北部モスルの太守に任ぜられ力を蓄えます。ダマスカスの土着勢力やそのころ中東にできつつあった十字軍国家と戦っていました。

 そして1144年に十字軍国家エデッサ伯国の都エデッサを落としたことで、一躍イスラム世界の英雄と称えられ自立を果たします。ザンギー朝の成立です。

 しかし1146年ザンギーは奴隷に暗殺されてしまいます。誕生したばかりの王朝はザンギーの二人の息子に分割継承されました。兄のサイフッディーン・ガーズィーがイラク北部、弟のヌールッディーンがシリア北部のアレッポ周辺です。


 なぜ分裂してしまったのか不明ですが、おそらくお決まりのお家騒動があったのでしょう。国土が半分になったうえに十字軍の矢面に立つ西側を継承したのですからヌールッディーンの立場には困難が予想されました。


 しかし彼は28歳で王位を継ぐと、父に勝る武勇と智謀でこのころエデッサ伯領が取り戻していたエデッサの街を再奪回します。更に1149年にはアンティオキア公国の公爵レーモン・ド・ポワティエとの戦いに勝利、1150年にはエデッサ伯領を完全に滅ぼしました。

 ヌールッディーンは容姿端麗かつ勇敢な戦士だと伝えられていますが、残念ながら肖像画は見つかりませんでした。イスラム世界には偶像崇拝が禁止されているので肖像画は描かれなかった可能性が高いのです。肖像画や銅像などがあるサラディンは例外です。もっともこれものちの想像で描かれたという説もありますが…。


 生涯を通じて十字軍と戦い続けた彼は、ついに1154年父がついに手に入れられなかった念願のダマスクスに入場します。かってのウマイヤ朝の首都で中東の要衝でもあったダマスクスは以後彼の王朝の首都になりました。



 しかし彼の活躍は、かえって欧州側に危機感を募らせます。押し寄せた第2回十字軍とレバノン、シリアの地で血で血を洗う抗争を繰り返すようになりました。

 ちょうどこの時、エジプトのファーティマ朝が十字軍国家の盟主とも言うべきエルサレム王国に攻撃され、救援を求めてきました。


 ヌールッディーンは重臣シール・クーフに軍を授けファーティマ朝救援に赴かせます。この時同行したのがシール・クーフの甥のユースフ・イブン・アイユーブ、つまり後のサラーフ・アッディーン(サラディン)でした。

 シール・クーフとユースフは、ヌールッディーンの期待に応えエルサレム王国の侵略を撃退します。そしてそのままエジプトに留まりエジプトをザンギー朝の影響下に置きました。

 1168年シール・クーフが死去すると、その地位は甥のユースフに受け継がれます。ユースフは宰相兼軍最高司令官に就任し、事実上のエジプトの支配者になりました。ユースフはこのままファーティマ朝を滅ぼし、自らのアイユーブ朝を創始します。


 ユースフの動きを苦々しく思っていたヌールッディーンでしたが、自らは十字軍との戦いで身動きが取れなかったのでしばらく放置していました。


 1171年と73年、ヌールッディーンはユースフに対し自らのエルサレム攻撃に参陣を促します。しかしこれをユースフが拒否したため両者の関係は悪化しました。


 1174年、ヌールッディーンはエジプトを従わせるため遠征軍の準備を始めました。ところがその最中の5月、熱病にかかって急死してしまいます。


 もしヌールッディーンのエジプト遠征が実現していたら、両者の将帥としての力量を考えるとユースフが負けていたかもしれません。歴史に名を残すのはユースフではなく彼であったかもしれないのです。運命の皮肉でした。


 ヌールッディーンの死後、幼い息子が後を継ぎますがザンギー朝は急速に瓦解します。逆に1185年シリアに侵攻してきたユースフによって吸収され、滅亡しました。以後はユースフ・イブン・アイユーブつまりサラーフ・アッディーンが中心となって歴史が動き始めるのです。





 ヌールッディーンの統治と何だったのでしょうか?彼は常に戦陣にあって部隊を指揮し戦い抜きました。一方、文化面でもアレッポ、ダマスクスなどにヌーリーヤ学院(al-Madrasa al-Nūrīya)を創設します。これはセルジューク朝のニザーミーヤ学院と並びシリア一帯におけるハナフィー法学派などのスンナ派教学の振興に大いに貢献したそうです(ウィキペディアより)。


 
 こうして見てみると、サラーフ・アッディーンのアイユーブ朝はザンギー朝ヌールッディーンという土台があって初めて成立したものだともいえます。私が冒頭で後周の世宗やシェール・シャーの生涯と似ているといった意味はそういうことです。

商業国家カルタゴの興亡   (完結編)

 カルタゴに科せられた巨額の戦争賠償金2万タラント。現代の貨幣換算でいくらになるでしょうか?イメージ的には200兆円くらいに思えます。もちろん一括で払えるような金額ではありませんでした。

 カルタゴは、この天文学的な賠償金を50年の分割払いとすることでローマに許しを請いました。


 海外領土をすべて失い、現在のチュニジアにあたるアフリカの本土しか残らなかったカルタゴは、内陸を灌漑し豊かな農地として蘇らせます。本来の商人としての血でしょうか、お家芸とも言える交易で富を築き賠償は順調に支払われました。


 紀元前191年には、残りの賠償金を一括して払いたいとローマに申し出るほどでした。しかし逆にこれがローマの警戒を生むことになります。あれだけ痛めつけて二度と立ち上がることはないと安心していたカルタゴが奇跡の復興を遂げたからです。


 ローマは秘かにカルタゴを滅ぼすべく手を打ち始めます。カルタゴの西隣りのヌミディアでは、カルタゴに協力的だった前族長を追い、ローマに協力したマニシッサが王となっていました。

 マニシッサはローマの本心を悟り、それを自己の勢力拡大に利用すべくカルタゴへの攻撃を開始します。カルタゴは勝手に戦争することをローマから禁じられていましたから、調停をローマに頼みます。


 しかし、カルタゴを滅ぼす本心があるローマは、常にマニシッサに有利な裁定しか下しませんでした。


 マニシッサはローマの態度を良い事に、カルタゴ領をどんどん蚕食していきました。


 カルタゴ政府では、「ローマの裁定はあてにならないから、自らの手で侵略者と戦おう」という抗戦派と「あくまでローマに従うべし」という穏健派が激しく対立します。しかし、ヌミディア領がカルタゴ市に近づくにつれて抗戦派の力が強まりました。


 抗戦派とて、ローマの許可を得ず勝手に戦争を始める意味は十分わかっていました。ローマはそれこそ待ってましたとばかりカルタゴ懲罰の軍を派遣してくるに決まっています。しかし、座して死を選ぶよりは戦って死ぬ方がましだという悲壮な覚悟を決めていたのです。それは一般のカルタゴ市民の思いでもありました。




 紀元前149年、カルタゴはついに挙兵します。もちろんローマに勝てるなどと思っているカルタゴ市民は一人もいませんでした。ある程度の戦果をあげ講和に持ち込もうという甘い考えもありませんでした。全員玉砕、これこそがカルタゴ全市民の覚悟だったのです。


 武器の製造も禁じられていたカルタゴでしたが、挙兵後カルタゴ市内で市民総出で武器の製造にあたります。日産で盾百、剣三百、投槍五百、投石用カタパルト数台が製造されたと言います。


 死を覚悟しての戦いでしたから、カルタゴ市を要塞化してローマ軍を待ちました。


 一方、ローマは総司令官に第2次ポエニ戦争の英雄、大スキピオ・アフリカヌスの養子、アエミリウス・スキピオ(小スキピオ)を任命しました。兵力は不明ですが、おそらく十万近い大軍だったと思います。

 他方、友人だと思っていたローマにカルタゴ征服の野望を土壇場で邪魔されたマニシッサは、大きく落胆しこの世を去りました。81歳の高齢だったと伝えられます。

 ローマは、マニシッサのような強力な土着勢力が残るのを好まず、彼の領土は三人の息子に分割されました。こうして後顧の憂いを絶った小スキピオ率いるローマ軍は、カルタゴ市を包囲し、いちばん外側の巨大な三重の城壁に取り付きます。


 死を覚悟したカルタゴ軍は頑強に抵抗しローマの第1次攻撃を跳ね返します。力攻めでは損害が大きくなるばかりだと悟った小スキピオは包囲に切り替え長期戦の構えを取りました。


 カルタゴ側もこの日の来るに備え食料を運びこんでいます。包囲は3年の長きにわたって続けられました。


 カルタゴ軍の一時の熱狂は絶望に変わっていました。食料も底をつきあとは死ぬばかりでした。カルタゴ軍の抵抗が日増しに弱くなるのを見届けた小スキピオは総攻撃の命令を下します。


 最終攻撃は城壁と港の両方から行われました。カルタゴ兵は力尽き次々と討たれていきました。ローマ軍は港と市街地をほぼ制圧します。しかし、生き残ったカルタゴ市民は高台にあるビュルサの丘の神殿に籠り絶望的な抵抗を始めました。


 神殿包囲から7日目、カルタゴの軍使がローマ陣営を訪れ生き残った市民の命乞いをします。小スキピオがこれを許すと女子供を中心とした5万もの餓死寸前の市民がふらふらと迷い出てきました。


 足手まといの非戦闘員をローマ軍に委ね、残ったまだ戦える男たちは最後の戦いを開始します。ローマ軍はこれを攻撃し、全員が玉砕しました。そのとき神殿に火が放たれます。火災は瓦礫と化したカルタゴ市街全域に広がり、鎮火するのに十日以上かかったと伝えられます。


 小スキピオは、炎上するカルタゴ市を眺めながら涙を浮かべたそうです。側近が不思議に思って尋ねると
「いつかローマにもこのような滅びの日が来るかと思えば、涙を流さずにはいられないのだ」と答えたと伝えられています。


 
 生き残った5万のカルタゴ市民はすべて奴隷として売り払われました。ローマ軍は市街を完全に破壊し、二度と蘇らないよう市街地と周辺の農地に塩を播いたと言われます。


 以後、この地はローマの属州アフリカとして新たな時代を迎えます。カルタゴ市は滅亡しましたが、周辺に住むフェニキア系市民は残りました。5世紀ごろ聖アウグスティヌスはこの地にポエニ語が方言としてまだ残っていることを確認しています。



 建国から七百年、一時は西地中海を囲む大帝国を築いたカルタゴ。しかしその滅亡はあっけないものでした。商人的気質によって勢力を拡大し、また商人的気質によって領土を失いました。しかし、その最後に輝きを見せたことはせめてもの慰めでしょう。


 先の大戦の敗北によって牙を抜かれ戦う事を忘れた日本。利益だけを優先し国家としての誇りをどこかに置き忘れた民族はどのような運命を辿るのでしょうか?



 カルタゴのように滅亡寸前までそれに気づかなければ手遅れです。カルタゴの興亡の歴史は日本にとっても良い教訓を与えてくれるのだと思います。

商業国家カルタゴの興亡   (後編)

 カンネーでの歴史的大敗はローマ本国に動揺を与えました。しかしローマはあわてはしましたが、決して取り乱すことはありませんでした。


 積極策を捨て、かって執政官ファビウスが採ったように、なるだけ野戦は避けハンニバル軍に付かず離れず追撃する軍が一つ、ハンニバル軍が去った後占領された都市を取り戻す軍が一つ、と二つの軍を編成しハンニバル軍にあたりました。


 これをやられるとハンニバル軍は苦しくなります。敵の本土で戦っているわけですから、シーソーゲームのようになってしまうのです。しかもローマ側は無限に損害を回復できますが、カルタゴ側はそれができません。

 そうこうしているうちにローマは余裕ができ始めました。制海権をずっと握っているという強みもありました。ハンニバルと対峙する軍とは別に、ハンニバルの根拠地であるヒスパニア攻略を目指す軍団を編成します。


 その司令官には、25歳のプブリウス・コルネリウス・スキピオが任命されました。これはローマの大英断と言っても良い人事でした。スキピオは父と共に数多くの戦陣を経験し名将という評価が高まってはいましたが、それにしても思い切った抜擢でした。


 スキピオ率いる軍は歩兵2万5千、騎兵2千5百。優勢な海軍を使い上陸から6日と言う強行軍でカルタゴ・ノヴァに到着すると、そのまま火の出るような攻撃を行いわずか2日で攻略してしまいます。鮮やかな奇襲攻撃でした。

 ヒスパニアを守っていたハンニバルの弟、ハストルバルはスキピオとの決戦に敗れ、兄と合流すべくイタリア半島に向かいました。


 しかし、アルプスの出口でローマ軍の待ち伏せに会い全滅してしまいます。南イタリアの戦場で、自陣営に投げ込まれた変わり果てた弟の頭部を見てハンニバルは絶望したことでしょう。


 カルタゴ本国もハンニバル支援の動きがなかったわけではありません。しかし制海権のない悲しさ、援軍や物資を載せた船団は海戦で敗れ拿捕されたり座礁したりしました。


 その絶望的状況でもハンニバルはイタリア半島南部で必死に戦っていました。



 一方、ヒスパニアを奪取しローマに凱旋したスキピオは、この膠着した状況を打破するにはカルタゴ本土への侵攻しかないと元老院で訴えます。あまりにも投機的すぎるという批判の声もありましたが、ヒスパニアでの武勲がそれを黙らせました。

 紀元前204年スキピオは、歴戦のヒスパニア従軍兵を中心に正規軍団2万9千、騎兵2千5百の兵力でアフリカの地に上陸します。騎兵戦力の不足はスキピオ自身痛感しており、長らくカルタゴ騎兵戦力の中心であったヌミディアの部族のうち、族長に対する不満分子であるマニシッサに使者を送り味方につけることに成功しました。これで精強なヌミディア騎兵4千、歩兵6千の援軍を得たスキピオ軍は、カルタゴ各地を電撃的に攻略し首都カルタゴを臨む地に布陣します。


 名将スキピオに対抗するにはハンニバルしかいませんでした。カルタゴ政府は急遽イタリア半島に使者を送りハンニバルに帰国を促します。勝ちはしないにしても負けてはいなかったハンニバルですが、本国の危機をほっておくわけにはいきません。断腸の思いでイタリア半島を離れることになります。


 帰国するとハンニバルはローマ軍に対抗するため兵を集めます。これで歩兵4万、戦象80頭の軍を編成しますが、それはもはやかっての精強なハンニバル軍ではありませんでした。歴戦の兵士たちは数年に渡るイタリア半島の戦陣で倒れ、残っているものはわずか。大半は寄せ集めで士気も低い兵士でした。


 紀元前202年秋、カルタゴ南方ザマの地で両軍はぶつかります。カンネーとは逆に優勢な騎兵戦力を持っているのはローマ軍の方でした。ハンニバルがかって率いていた精強なヌミディア騎兵はイタリア半島の戦いで消耗しつくしていたからです。


 ハンニバルは、歩兵部隊を3段に分けて先陣に傭兵、中段に新兵、後段にハンニバルにずっとつき従ってきた古参兵を配しました。最前列には戦象部隊。これで敵の先陣を突き崩すことで勝敗を決しようという作戦でした。巧緻を極めたカンネーと比べ、ハンニバルの戦術が大きく後退しているように思えます。しかしそれは訓練もままならない寄せ集めの軍隊に取れる選択肢がなかったからです。


 一方スキピオはオーソドックスな中央に歩兵、両翼に騎兵を配する布陣をします。ただ中央の歩兵は通常と違い、部隊間の幅を大きくとっているのが特徴でした。


 戦いはカルタゴ軍の戦象の突撃から始まりました。ローマ軍は広く取った部隊間の間隔を利用しその隙間に戦象を追い込みます。一度突進すると曲がることのできない戦象は前に突っ走るしかありませんでした。そこへ両側から投槍で攻撃し、戦象隊はほとんど戦局に寄与することなく壊滅します。

 ローマ軍両翼の騎兵部隊は、数の有利を生かしカルタゴ軍の騎兵を粉砕すると、そのまま後方からカルタゴ軍を包囲しました。


 まるでカンネーの再現です。スキピオはハンニバルの戦術を学び、応用することでこの戦いに勝利しうることを確信していたのです。


 カンネーとは逆に完全包囲を受けたカルタゴ軍は全滅します。ハンニバルは死地を脱するとその足でカルタゴに向かい、元老院に無条件降伏をするよう進言します。頼みのハンニバルが敗れた以上、元老院も抵抗の意思はありませんでした。



 ローマの戦後処理は厳しいものでした。カルタゴはヒスパニアを含むすべての海外領土を失い、2万タラントという巨額な賠償金を科せられます。カルタゴ本土以外での戦争を禁じられ、本土においても戦う場合はローマの許可がいるという完全な属国とされたのです。


 過酷な条件でしたが、滅ぼされるよりはましでした。ただ敗戦時にありがちの戦争の首謀者の処刑、この場合はハンニバルでしたが、はありませんでした。異例でしたが、ハンニバルがそれだけカルタゴに頼りにされている証拠でした。


 ハンニバルは引き続き軍の総司令官の地位にとどまり疲弊したカルタゴの復興に当たります。しかしハンニバルに脅威を感じていたローマは、ハンニバルが責任のある地位にとどまることを許さず、これを逮捕すべく使節団をカルタゴに派遣しました。

 これにはハンニバルに敵対する商人貴族たちのローマへの讒言があったと言われています。ローマの動きをいち早く察知したハンニバルは、カルタゴから脱出し東に向かいます。ある時はセレウコス朝、ある時はポントスと、ローマに敵対するオリエント諸国に出没し国王の顧問として宿敵ローマを悩まし続けました。


 業を煮やしたローマは、ある時小国ビチュニアの宮廷にハンニバルがいることを突き止め、彼の引き渡しを国王に要求します。もはや逃げ切れないと悟ったハンニバルは、自ら毒杯を仰ぎ命を絶ちました。時に紀元前183年、享年は不明ですが、60歳を過ぎていたことは確かでしょう。


 これが世界史上不世出の英雄、ハンニバルの最期でした。





 ハンニバルの没落、そして死をもってカルタゴの滅亡としても良いのですが、カルタゴという国家自体はもう少し続きます。前・中・後編では描ききれなかったカルタゴ興亡史、次回完結編にて筆を置くことといたしましょう。

商業国家カルタゴの興亡   (中編)

 第1次ポエニ戦争で疲弊したカルタゴ、にもかかわらず国家の再建も二の次で自己の利益追求にのみ汲々とする商人貴族たち。愛国者ハミルカル・バルカスにとって祖国の現状は絶望でしかありませんでした。

 両雄並び立たず、きたるローマとの戦争は今のままでは戦わずして決着がついてしまう。浮かれているカルタゴ元老院で一人だけ覚めていた彼の取った道は、新天地ヒスパニアに赴くことでした。

 ヒスパニアの地で力を蓄え、ローマとの戦争に備える。彼の構想は、しかしカルタゴの誰も賛同しませんでしたし、おそらく彼もそれを知っていたでしょう。

 ハミルカルは、軍人貴族であったバルカ家の一門、子飼いの部隊のみを率いて旅立ちます。それを冷ややかに見守る政敵たちは、疎ましいハミルカルがヒスパニア統一戦争のさなかに現地人に殺されることを望んでいました。ヒスパニア総司令官の地位は厄介払い以外の何物でもなかったでしょう。


 当時のヒスパニアに、カルタゴの勢力がどこまで及んでいたかは分かっていません。ガデスなど一部植民都市はありましたが、領土的野心の低いカルタゴの領域はほとんど内陸には及んでなかったとみて良いでしょう。


 ハミルカルは、ヒスパニア東南岸に良港を抱えたカルタゴ・ノヴァ(新カルタゴの意味。後のカルタヘナ)を建設することから始めました。


 ここをヒスパニアの首都、策源地として内陸へ進出していこうと思っていました。娘婿で副将であったハストルバルと共に時には力で、時には外交で現地部族を従えていきます。そこから兵を募り、ハミルカルは歩兵5万、騎兵6千、戦象2百の軍隊を作り上げます。それは今までの能力の低い傭兵部隊ではなく、陸軍大国ローマのそれにも匹敵する精強な軍隊でした。


 ハミルカルがヒスパニアに渡って9年、バルカ家はこの地に確固たる基盤を作り上げることに成功しました。ハミルカルが現地人との戦いに戦死すると、娘婿のハストルバルが後を継ぎます。彼もまた勢力拡大に努めヒスパニアのカルタゴ勢力はローマにとって無視できない勢力になって来たのです。


 ローマはカルタゴに詰問の使節団を送ります。しかしカルタゴ元老院の回答は「これはローマに賠償金を払うための開発である。しかも責任はバルカ家にあり、交渉は直接そちらにあたってくれ」という無責任なものでした。

 ローマはハストルバルと直接交渉し、両者の勢力範囲をヒスパニア北東のエブロ川で区切ることに決めます。地図を見てもらうと分かる通りイベリア半島の大半はバルカ家のものと認めたに等しい取り決めでした。


 紀元前221年、ハストルバルは暗殺されます。後継者には25歳になっていたハミルカルの長男ハンニバル・バルカスが就きました。


 ハンニバルは、名将であったハミルカルの能力を受け継ぎ、軍事的才能ではむしろ遥かにしのいでいました。彼がいつのころからローマに対する復讐を考えていたのか不明ですが、その復讐戦に入るきっかけは、むしろローマ側の責任でした。

 エブロ川の南岸にサグントゥムという都市があります。ローマとの取り決めではカルタゴ側の勢力範囲でしたが、サグントゥムはカルタゴ支配を嫌いローマと同盟を結んでしまいます。ローマは使節を派遣し、サグントゥムをローマ側に引き渡すよう強硬に要求しました。

 明らかな挑発行為でした。エブロ協定違反であるばかりでなく、無視できなくなったカルタゴ勢力を戦争に引き込み滅ぼそうという意図があったのはまちがいありません。


 ハンニバルはローマの要求を一蹴、みずから軍を率い紀元前218年反抗したサグントゥムを攻略します。当時カルタゴ本国にいたローマ外交使節団は、これを暴挙としてカルタゴ元老院を非難します。しかし、いままでバルカ家に非協力的だったカルタゴ本国は、このときはじめてローマの要求を拒否するのです。

 本国政府の豹変の理由は不明です。しかしハンニバルの快進撃を見てどうやらこの戦争は勝てそうだという皮算用をしたのは間違いないでしょう。しかしこの腰の定まらない態度は最終的にハンニバルの足を引っ張ることになります。


 ともかく外交交渉は決裂、戦争の時代に入りました。第2次ポエニ戦争の勃発です。


 ハンニバルは、本拠ヒスパニアにも十分な守備兵力を残し歩兵3万8千、騎兵8千、戦象37頭を率いてローマとの戦いに出陣しました。


 ローマがハンニバル軍の進発を知ったときには、ハンニバルはすでにロンバルディア平原を望むアルプス南麓に到達していました。ハンニバルは、ローマの同盟国であるマッシリアのあるガリア南岸を避け、ローマが予想もしない険しいアルプス山脈を越えるルートを取っていたのです。


 しかし、難行軍でカルタゴ軍は半減していました。途中合流したガリア兵でその穴は埋められましたが、精強な部隊の不足の影響は後々響くことになります。



 建国以来久しく本土に敵を入れていないローマはあわてました。すでにヒスパニア遠征の準備をしていた部隊もハンニバル軍迎撃に振り向けます。しかしハンニバルの巧みな待ち伏せ攻撃を受け何度となく惨敗を繰り返しました。

 ハンニバルは戦術的勝利を繰り返すことで、ローマと同盟を結んでいたラテン諸国都市に動揺を与え、ローマ同盟から離反させ自陣営に引き込むことをもくろんでいましたが、何度敗北してもローマ同盟は微動だにしませんでした。それだけローマの支配が巧みであり、他都市の住民の心をつかんでいた証拠です。

 
 かといって直接首都ローマを攻略するには兵力が不足していました。一説には当時のローマの動員兵力は75万とも言われています。これだけの潜在兵力を持った古代国家はほとんどありません。人的資源の圧倒的有利さもまた、ローマを世界帝国に押し上げた要因でした。


 ハンニバルはローマの直接攻略を諦め、ギリシャ系都市が多く、比較的離反させやすいイタリア半島南部攻略に切り替えます。これは一応の成果を得ました。なかでも南部の要衝カプアの離反はローマにとって痛手でした。


 紀元前216年、ハンニバルはイタリア半島の長靴のアキレス腱部分に当たるアプリア地方カンネーを攻撃します。ローマはこのまま放置していては南部諸都市の離反を増大させ収拾のつかない状況になると危惧し、ハンニバルと最終決戦をする決意を固めました。


 二人の執政官ヴァロとパウルスに率いられた8万の大軍がカンネーに進撃しました。一方ハンニバル軍は5万弱、戦闘の経過は以前記事に書いたので割愛しますが、後世包囲殲滅戦の教科書に載るくらいの圧倒的なハンニバル軍の勝利に終わります。(カンネーの戦い)


 しかし、この大敗は逆にローマ側の団結を促すことになりました。潜在的地力の差はこの後じわじわとボディブローのようにハンニバルを苦しめ始めるのです。


 次回は、第2次ポエニ戦争の後半とカルタゴの滅亡を描く予定です。

商業国家カルタゴの興亡   (前編)

 古代地中海世界、強大な海軍力を持ち貿易で富を蓄積し繁栄した商業国家カルタゴ。富によって支配しながら、その利益至上主義のために軍備を怠り結局は滅んでいきました。

 その滅亡が現代日本にも相通じるような気がしてなりません。日本が今後どう生きるかの参考になればとの思いから、カルタゴの興亡の歴史をご紹介したいと思います。



 カルタゴは現在のチュニジアにあった都市国家です。建国の時期は諸説ありますが紀元前800年前後というのが有力視されています。ギリシャ人とともに地中海をまたにかけた海洋民族フェニキア人が建てた国です。


 今のレバノン地方にシドンやティルスなどの都市国家を築いたフェニキア人は、背後の山から採れる良質のレバノン杉を使って船を建造し地中海に出て行きました。土地の貧しさから海に進出せざるを得なかったギリシャ人と違いレバノン地方は農業生産力の高い豊かな地方でしたが、エジプトやヒッタイト、バビロニア、アッシリアなどの強豪がひしめくオリエントでは、やはり発展性が阻害されたのでしょう。


 記録によるとフェニキア人は遠くジブラルタル海峡を越えアフリカ西岸まで達したといいますから古代海洋民族の行動力には驚かされます。(イギリスやグリーンランドまで言ったという説もあり)




 フェニキア人の求めるものは貿易によりもたらされる富でした。遠くイベリア半島に金銀を中心とする豊富な鉱物資源を発見したフェニキア人たちは、ジブラルタル近くにガデスという植民都市を建設して交易の拠点とします。


 カルタゴは、フェニキア本土とガデスを結ぶちょうど中継地点としてティルスからの移民たちのよって建設されました。
 はじめは単なる中継地点に過ぎなかったカルタゴですが、その絶妙な位置により西方の貴金属と東方の穀物、陶器などの文化財の交易センターとしてしだいに発展していきます。最盛期には周囲数十キロの城壁で囲まれ人口40万を誇る地中海世界有数の大都市に成長しました。



 この富の力を背景にして、カルタゴは本土フェニキアをしのぐ大発展を遂げます。強大な海軍を持ちアフリカ北岸やイベリア半島、サルディニア島、シチリア島に植民都市を建設していきます。

 一方、フェニキアと同じ海洋民族であったギリシャ人もシチリア島のシュラクサイ(現シラクサ)や、イタリア半島南部のタレントゥム(現タラント)、フランス南部のマッシリア(現マルセイユ)などに植民都市を築いていました。

 
 交易路で競合する両海洋民族の衝突はいずれ必至の状態でした。なかでもシュラクサイは、シチリア島の豊かな農業生産力に支えられ人口40万を超えるギリシャ最大(ということは世界最大?)の大都市に成長し、全シチリアの支配権をめぐりカルタゴの覇権に挑戦します。



 利益最優先の国家にありがちですが、当時カルタゴは市民軍を廃し傭兵中心の軍制に改めていました。豊かな生活を享受するようになった市民が命の危険がある戦争を厭うようになったためです。これはオリエント諸国にも当てはまる状況で、ようするに堕落でした。


 これが共和制の最後まで国民皆兵を捨てなかったローマに、最終的に敗れた原因でもありました。


 シュラクサイもカルタゴと同じく傭兵中心の軍制でしたから、両者の戦争はどうにもしまらない経過をたどります。同盟都市が敵に包囲されて危機に陥り救援を求められても、遠征に莫大な軍費がいるなどのくだらない理由で取りやめになったりするという事を繰り返した揚句、一時はシュラクサイの僭主(非合法な手段で政権を奪った扇動政治家)アガトクレスに本土上陸を許し、カルタゴを包囲されるようになります。


 さすがにこの時はカルタゴも懲りたとみえ、市内から市民軍を招集し何とか撃退に成功します。



 どうもカルタゴは、敵の徹底的撃滅を考えず商売に影響しない限りほっておくほうが良いという考えを持っていたようです。領土に対する執着心のなさと言っても良いかもしれません。このためシチリア島征服も徹底できず、西半分を影響圏下に置くことで満足していた節があります。


 このために紀元前280年から紀元前275年にかけてエピロス王ピュロスと新興国ローマとの間の戦争にも傍観を決め込み、さらにはローマの求めに応じて同盟まで結ぶ始末でした。

 タレントゥムなどギリシャ系諸都市の傭兵に過ぎないピュロスとローマのどちらが将来の危険となるか展望がない証拠です。ピュロスがどんなに暴れまわったとて所詮はギリシャ世界の中の話です。一時的にシチリア島を占領しても同じギリシャ系諸都市の反抗でとん挫するに決まっています。一方ローマは、着実にイタリア半島を南下し強固な支配体制を固めていました。

 もしローマがシチリアに進出してきた場合、寄せ集めの傭兵で対抗できる可能性は極めて低いと言わざるを得ません。それなのに確固たる戦略を欠くカルタゴは、ローマから示された大量の銀の延べ棒に目が眩みやすやすと同盟を結んだのでした。


 体質が、利にのみ執着する商人そのもの。目先の利益で将来の危険を買ってしまったようなものでした。



 そしてその誤った判断は、大きなしっぺ返しとなってカルタゴに襲いかかります。ローマによってイタリア半島のギリシャ系諸都市を滅ぼされたシュラクサイは身の不安を感じカルタゴと同盟します。一方シチリアの東北、海峡部でイタリア半島と接するメッシナでは、傭兵崩れのマルス組というやくざまがいの勢力が実権を握っていました。

 マルス組は、周辺の略奪を繰り返しましたからついにシュラクサイの討伐を受けました。ところがマルス組は、あろうことかローマに救援を求めたのです。


 ローマ元老院のなかには、やくざまがいのマルス組を救援することは正義に反するという意見もありましたが、これで合法的にシチリア島に進出できるという主戦派に押し切られメッサナ救援の部隊派遣を決めます。紀元前264年のことです。


 これが史上名高い第1次ポエニ戦争の発端でした。(ポエニとはラテン語でフェニキア人のこと)
 ローマ軍3万はシチリアに上陸します。カルタゴはハミルカル・バルカス(ハンニバルの父)を将軍にしてこれにあたらせました。カルタゴ軍の兵力もおそらく3万前後だと思います。傭兵軍なのであまり大規模にできないのが悩みでした。


 ハミルカルは善戦しますが、やはり陸戦はローマ軍に一日の長があります。劣勢の地上戦を優勢な海軍力で支えているというのがこの戦争の特徴でした。しかし、ローマは戦争の勝敗を決するのは海軍力だと見定め、支配下の都市も総動員して海軍力の整備に邁進します。


 何度かの海戦で勝敗は分かれましたが、最後はローマ海軍が制海権を奪取、アフリカ上陸に成功します。これにはさすがのカルタゴも抗戦意欲を失い講和に傾きました。


 紀元前241年、23年にもわたる大戦争でカルタゴはシチリアの支配権を失い、3200タラントという莫大な賠償金を科せられます。



 しかし、さらなる災厄がカルタゴを襲うのです。ある意味自業自得でしたが…。


 カルタゴが傭兵中心の軍制であることは先に触れました。その主な供給源はリビアです。戦争中カルタゴは、リビアから多くの傭兵を雇い、さらに戦費としても莫大な税金を掛けました。


 何年も軍役についていた傭兵たちには未払いの賃金がありました。復員に際し、カルタゴの商人貴族たちは、あろうことかこれを値切ろうとしたのです。戦争が終わった以上無駄な出費は避けたいという本音でした。抗議した傭兵たちをカルタゴから遠く離れた都市に遠ざけ、体よく追っ払おうと画策したカルタゴ政府でしたが、ついに傭兵たちの怒りが爆発します。


 傭兵たちは、スペンディオスとマトースを指導者に大規模な反乱をおこしました。反乱を起こしたのは今まで戦ってきたベテランです。傭兵に頼り市民軍を廃止していたカルタゴになすすべはありませんでした。


 ハミルカルの政敵で、当時カルタゴの実権を握っていたハンノは、あわてて市民の中から軍を徴兵しこれにあたりますが、鎧袖一触でした。


 こうなれば背に腹は代えられません。主戦論者でカルタゴ本国から遠ざけられシチリア島で復員作業にあたっていたハミルカルに急使が飛びます。カルタゴ元老院の全権委任を受けたハミルカルは、歴戦の兵1万を率いてアフリカに渡りました。


 さすがにハミルカルは名将でした。一時は首都カルタゴが包囲されるほどの危機でしたが、ハミルカルはかっての部下たちを激戦の末破ります。こうしてカルタゴの危機は去りました。


 しかし軍人貴族として長くカルタゴの軍籍にあったハミルカルは、カルタゴ本国の堕落にほとほと愛想が尽きていました。いずれローマとの再戦が避けられないと考えた彼は一族と子飼いの部隊を率いて遠くヒスパニアの地に渡ります。このとき9歳になる長男ハンニバルも同行したと伝えられます。


 海軍が壊滅し、制海権がローマの手に渡った以上カルタゴがローマに対抗するには陸戦しかないという深謀遠慮の末の行動でした。ヒスパニアの地で勢力を蓄え、遠くない将来のローマとの戦争に備えようというハミルカルの意図を見抜いたカルタゴ貴族はいませんでした。むしろ主戦派のハミルカルをはじめとするバルカ家の一門を厄介払いできると喜んだほどです。


 自己の利益しか頭になく、国家の大計などには思いも及ばない商人貴族のなかにあって多くの軍人を輩出してきたバルカ家は異色の存在でした。ハミルカルの政敵たちはヒスパニアで彼が失敗し、現地人に殺されるのを望んでいたはずです。しかし彼はやり遂げました。



 次回は、ハミルカルのヒスパニア経営、そしてハンニバルによる復讐戦、第2次ポエニ戦争について見ていくことにしましょう。

2009年10月15日 (木)

『海の民』の謎

 皆さんは海の民というものをご存知ですか?よほどの世界史通でないとご存じないと思いますが

【海の民(うみのたみ, Sea Peoples)は、東地中海沿岸を放浪し、古代エジプトの第19王朝後期また特に第20王朝のラムセス3世5年にエジプト領内への侵犯を試みた諸集団に使われる総称的呼称である。「海の民」という語はエジプトの記録では用いられていなかったが、後世一般化した。】(ウィキペディア)というものです。


 古代エジプトに侵入し中王朝を滅ぼした謎の民族ヒクソスとともにオリエント史上謎と言われている民族です。ヒクソスに関しては当ブログで一応の推理はしましたが(キリスト教関係者からは総反発を食らいましたが…苦笑)、海の民についても私独自の(独断と偏見の)推理をしてみたいと思います。


 まず海の民ですが、民族系統は不明。古代地中海世界においてけっこうやらかしています。

①ギリシャに侵入しミケーネ文明を崩壊させる。(紀元前1150年頃)
②ヒッタイトを滅ぼす。(紀元前1190年)
③エジプトに侵入し新王朝のラムセス3世と戦うがこれは撃退される。ただしその結果エジプト王朝は衰退。

 それ以外に、地中海東岸の諸都市国家も侵入を受け破壊されたそうです。



 最新の研究では、ヒクソスと同様この海の民も多くの民族の複合勢力だったらしく
◇アカイワシャ人 - ホメロスの伝えるところのアカイア人、すなわちミケーネ文明の担い手であったギリシア人
◇トゥルシア人 - エトルリア人
◇ルカ人 - 小アジア南西部のリュキア人
◇シェルデン人 - サルデーニャ人
◇シェクレシュ人 - シチリア人

などがいたみたいです。その故地は小アジア西岸(イオニア地方)あるいはバルカン半島東岸の黒海に面した地方だと言われています。

 アカイア人などは、まんまギリシャ人でペロポネソス半島に侵入したイオニア人はアカイア系の一派だと言われています。他はドーリア人とアイオロス人(世界史で習いましたね?)。


 民族系統不詳と言われたイタリア半島の先住民エトルリア人も海の民の子孫らしいんですね。




 では海の民はどこから来たのかということですが、一応有力な説は小アジア西岸です。鉄器と戦車で古代オリエント世界を席巻したヒッタイトですが、本拠地小アジア(アナトリア半島)で、半島の西岸にあったアルザワという異民族の国に接しています。バビロニアを滅ぼし、当時の超大国エジプトと互角の戦いをしたヒッタイトほどの強国が、なぜ本拠地近くに異民族国家の存在を許していたのか謎です。

 征服するほどの価値がなかったのか、それとも意外と強敵で滅ぼせなかったのか不明です。


 このアルザワがもしかしたら海の民そのものではないか?という説もあります。アルザワとアカイワシャ(アカイア)って名前も似てる気がしますし。

 ではそのアルザワ人たちはどこから来たのかという問題が出てきます。
 私の考えでは、海の民の勢力にもちろんアルザワも入っているようには思えるのですが、主流ではないような気がします。



 ギリシャ人の故地はドナウ河流域だとされますから、私はどうしてもドナウ文明説を考えてしまうんです。ドナウ文明説は私の大好きな漫画「MASTER キートン」などでも語られていますから知っている人も多いと思いますが、漫画の中でも語られている通り石の文明ではなく木の文明だったために遺跡が残りにくく、発見が遅れているとされています。ドナウ河は文明が発展できる条件がそろっていたそうですし。
(豊かな農業生産を行える平野、人口など…)


 学会での評価は知りませんが、ドナウ河流域にいくつかの遺跡が発見されているそうですし、見事な黄金細工が発掘されたそうですからもしドナウ文明が実証されればロマンがありますね。


 ギリシャ人とはもしかしたらドナウ文明を担った人たちだったのでは?と想像しています。何らかの天変地異でドナウ流域に住めなくなった人たちが各地に脱出し、その民族大移動の一つが海の民の流れだったのではないか?と推理します。


 ある程度の文明をもっていたのなら、当時の先進国であったエジプトやヒッタイトと互角の戦いをすることもできただろうと思います。案外アルザワと海の民の一派のアカイア人は同族でそれを頼ってまず小アジア西岸に押し寄せたのかもしれませんね。

 そこへ、ちょうど隣国ヒッタイトが内乱と飢饉で国力が弱っているという情報を得て彼らが攻め込んだのが滅亡につながったのでしょう。一方、エジプトに向かった時には当初の民族の存亡を賭けたような勢いをなくしていたためエジプトは撃退できたのかもしれません。


 民族移動が目的だけに、各地で落ち着いた後は急速にその勢いをなくし海の民はばらばらになってしまったのでしょう。生き残りが目的なら、安住の地を得たら移動する必要がありませんからね。


 こう考えていくと、昔からヨーロッパはダイナミックに民族が移動していたんですね。もしかしたら世界中そうかもしれません。東アジアでもタイ族や越族は華中、華南あたりから南下して今の土地に落ち付いていますからね。インドのアーリア人も中央アジアが故地ですし。


 日本みたいな豊かな自然に恵まれた土地に落ち着いた民族は幸せだったでしょう。お隣のトンスル民族などは寒冷で痩せた土地にしか住めなかったから日本が羨ましくて粘着しているんでしょうね(苦笑)。

大宛   幻の汗血馬を求めて…

 太初元年(紀元前104年)、漢の武帝の命を受けた「弐師将軍」李広利は、数万の兵を率いて万里の長城の西の終着駅、玉門関を出立します。

 目指すのは、一日に千里(漢里で約500km)を走るという幻の名馬「汗血馬」の故郷大宛(現在の中央アジア、フェルガナ盆地)です。

 武帝がなぜ名馬を欲したかというと、連年打ち続く北方の騎馬民族『匈奴』との戦いを有利にするためでした。国力を傾けて宿敵・匈奴と戦い続けていた武帝でしたが、防衛戦では有利に戦えるようになったものの、敵地に侵攻して戦局を覆すにはどうしても漢に産する馬では駄目でした。

 軍馬として優秀な蒙古馬を得られない以上、それに匹敵する、いやそれ以上の名馬が必要だったのです。


 「汗血馬」、不思議な名前でしょう。一説には皮膚にいる寄生虫の影響で汗をかくときうっすらと血がにじむために名付けられたとも言われます。現在この地方で産する汗血馬の子孫といわれるアハルテケ種は4152kmを84日間で走破したという記録が残っているくらいですからかなりの名馬であったことは間違いないでしょう。


 
 しかし李広利の第一回大宛遠征は失敗に終わります。罪人や不良少年たちを集めて形だけの軍隊をつくったためか兵の質は最悪で逃亡兵が相次ぎました。タクラマカン砂漠と天山山脈を越える長大な遠征に対する準備不足もあり、食糧にも事欠くありさま。仕方なく撤兵した李広利は敦煌に引き返します。

 報告を受けた武帝は激怒し、「玉門関から中に入れば斬る」と命じました。もともと武帝が李広利に大役を授けたのは、寵姫李夫人の兄だったためで、愛する李夫人の兄に手柄を立てさせてやろうとの考えがあったのです。

 こうなればいくら寵姫の兄とて立場は危うくなります。失敗すれば今度こそ本気で死罪にされるはずでした。

 武帝は、再び李広利に軍を授けます。今度は正規兵六万に三千頭の馬、さらに補給用として十万頭の牛、一万頭のラクダを与えました。


 決死の覚悟で挑んだ李広利は、苦難の長旅を耐えフェルガナ盆地に到着しました。

 大宛はアーリア系民族の国だったと伝えられます。貴山城を治とする王によって統治され、支配下のオアシスは70余、戸数6万、人口30万。馬やブドウを特産とし豊かな国でした。

 突如の侵略者に果敢に抵抗する大宛でしたが、李広利も失敗すれば殺されるので必死でした。包囲は40日余りにも渡って続けられたそうです。


 そしてついに大宛王は漢軍に降伏します。李広利は貢物として得た汗血馬三千頭を従え意気揚々と凱旋しました。しかし過酷な道のりで長安についたころには千頭に減っていたそうです。


 武帝の喜びようは凄いものでした。李広利は功によって淮西候に封じられました。

 武帝は、汗血馬を使って漢の馬の馬格改良に取り組みます。そしてついには匈奴を撃破することに成功したのです。


 一方征服された大宛は漢の保護国となり、その後衰退しました。最後はソグド人の勢力に飲み込まれたと伝えられています。



 最後に李広利のその後を記して終わりにします。紀元前99年(天漢2年)、汗血馬によって馬格が改良された漢の騎兵隊を率いた李広李は、副将で別路をとっていた李陵の軍が匈奴の奇襲を受け全滅、李陵が降伏という事件に見舞われます。


 このときは寵姫の兄という事もありお咎めなしだったのですが、後で考えるとこの事件は人生の絶頂期から転落へのターニングポイントでした。


 征和3年(紀元前90年)、李広利はふたたび勅命を受け匈奴討伐に出兵します。しかしこの時宮中では、広利の縁戚であり丞相であった澎侯・劉屈氂(武帝の甥、劉勝の子)によって、現皇太子を廃し李夫人の子昌邑王・劉髆を皇太子にするという陰謀がなされていました。

 李広利ももちろん一枚噛んでいたと言われていますが、陰謀は間もなく反対派の讒言によって発覚。怒った武帝は劉屈氂の一族と、連座した李広利の妻子をことごとく処刑しました。


 事件の顛末を聞き絶望した李広李は匈奴に投降します。匈奴の王はこれを重用しますが、他の降人の嫉妬を受け讒言され殺されてしまいました。



 幻の名馬、汗血馬。そのために国は滅び、人は殺されました。余談ですが、三国志に登場する名馬『赤兎』はこの汗血馬の子孫だとも言われていますが定かではありません。

遥かなるバクトリア王国

 バクトリア(紀元前255年頃 - 紀元前139年頃)とは、現在のアフガニスタン北部バクトラを中心としたアレクサンドロス大王の後継者が建てたギリシア人王国で、代表的なヘレニズム国家の一つ。バクトリア王国は王統交替・勢力盛衰が頻繁で、王権が弱く、地方の王が権力を持ち、しばしば国家が分裂した。

                           - 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 -



 皆さんはバクトリアという国のことをご存知でしょうか?世界史を習いたての学生さんはピンとくるかもしれませんが、卒業して何十年と経ってる一般の方はすっかり忘れてしまっているでしょう。

 私はこのバクトリアという国が最近気になっています。

 いわゆるヘレニズム諸国の一つで、セレウコス朝シリアの辺境の太守が建国した国です。その版図は今のアフガニスタンからタジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンにかけて。

 このような遠い中央アジアにありながら、ギリシャ人が支配層を形成し、ギリシャ語が公用語になるというユニークな国家でした。ちょうど契丹人の建国した西遼(カラキタイ)と形態が似ていますね。西洋と東洋の違いはありますが。


 建国者のディオドトスがどのような人物だったかも気になります。純粋なギリシャ人だったかそれともギリシャと現地人の混血だったか?

 ディオドトスは「千の都市の総督」(ラテン語で"Theodotus, mille urbium Bactrianarum praefectus")と呼ばれていており、王国は東方随一の富を誇っていたそうですからその繁栄ぶりがしのばれます。

 しかし、民族国家ではなく異民族の支配王朝だったため現地に根づくことができず、王権は常に不安定だったそうです。


 その滅亡も何が何だか分からないうちに訪れます。まず中央アジアの部分が北方騎馬民族のトハラ族に奪われ、残ったアフガン以南の部分も現地の部族であったクシャン族に滅ぼされました。大体1世紀こののことです。

 その前に、バクトリアの領域はゴビ砂漠を越えて東方からやってきた大月氏国の侵入を許し王国は有名無実の存在となっていたそうですから、その意味ではいつ滅びたのかはっきりしません。

 ちなみにクシャン族の建てた王朝こそ、仏教を保護したカニシカ王で有名なクシャーナ朝です。


 しかし、国は滅びてもギリシャ人たちはこの地に住み続けガンダーラ仏教美術などにも大きな影響を与えています。その美術品が流れ流れて日本の奈良正倉院にあるのですから、なんだか歴史のロマンを感じますね。

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