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2009年10月24日 (土)

商業国家カルタゴの興亡   (前編)

 古代地中海世界、強大な海軍力を持ち貿易で富を蓄積し繁栄した商業国家カルタゴ。富によって支配しながら、その利益至上主義のために軍備を怠り結局は滅んでいきました。

 その滅亡が現代日本にも相通じるような気がしてなりません。日本が今後どう生きるかの参考になればとの思いから、カルタゴの興亡の歴史をご紹介したいと思います。



 カルタゴは現在のチュニジアにあった都市国家です。建国の時期は諸説ありますが紀元前800年前後というのが有力視されています。ギリシャ人とともに地中海をまたにかけた海洋民族フェニキア人が建てた国です。


 今のレバノン地方にシドンやティルスなどの都市国家を築いたフェニキア人は、背後の山から採れる良質のレバノン杉を使って船を建造し地中海に出て行きました。土地の貧しさから海に進出せざるを得なかったギリシャ人と違いレバノン地方は農業生産力の高い豊かな地方でしたが、エジプトやヒッタイト、バビロニア、アッシリアなどの強豪がひしめくオリエントでは、やはり発展性が阻害されたのでしょう。


 記録によるとフェニキア人は遠くジブラルタル海峡を越えアフリカ西岸まで達したといいますから古代海洋民族の行動力には驚かされます。(イギリスやグリーンランドまで言ったという説もあり)




 フェニキア人の求めるものは貿易によりもたらされる富でした。遠くイベリア半島に金銀を中心とする豊富な鉱物資源を発見したフェニキア人たちは、ジブラルタル近くにガデスという植民都市を建設して交易の拠点とします。


 カルタゴは、フェニキア本土とガデスを結ぶちょうど中継地点としてティルスからの移民たちのよって建設されました。
 はじめは単なる中継地点に過ぎなかったカルタゴですが、その絶妙な位置により西方の貴金属と東方の穀物、陶器などの文化財の交易センターとしてしだいに発展していきます。最盛期には周囲数十キロの城壁で囲まれ人口40万を誇る地中海世界有数の大都市に成長しました。



 この富の力を背景にして、カルタゴは本土フェニキアをしのぐ大発展を遂げます。強大な海軍を持ちアフリカ北岸やイベリア半島、サルディニア島、シチリア島に植民都市を建設していきます。

 一方、フェニキアと同じ海洋民族であったギリシャ人もシチリア島のシュラクサイ(現シラクサ)や、イタリア半島南部のタレントゥム(現タラント)、フランス南部のマッシリア(現マルセイユ)などに植民都市を築いていました。

 
 交易路で競合する両海洋民族の衝突はいずれ必至の状態でした。なかでもシュラクサイは、シチリア島の豊かな農業生産力に支えられ人口40万を超えるギリシャ最大(ということは世界最大?)の大都市に成長し、全シチリアの支配権をめぐりカルタゴの覇権に挑戦します。



 利益最優先の国家にありがちですが、当時カルタゴは市民軍を廃し傭兵中心の軍制に改めていました。豊かな生活を享受するようになった市民が命の危険がある戦争を厭うようになったためです。これはオリエント諸国にも当てはまる状況で、ようするに堕落でした。


 これが共和制の最後まで国民皆兵を捨てなかったローマに、最終的に敗れた原因でもありました。


 シュラクサイもカルタゴと同じく傭兵中心の軍制でしたから、両者の戦争はどうにもしまらない経過をたどります。同盟都市が敵に包囲されて危機に陥り救援を求められても、遠征に莫大な軍費がいるなどのくだらない理由で取りやめになったりするという事を繰り返した揚句、一時はシュラクサイの僭主(非合法な手段で政権を奪った扇動政治家)アガトクレスに本土上陸を許し、カルタゴを包囲されるようになります。


 さすがにこの時はカルタゴも懲りたとみえ、市内から市民軍を招集し何とか撃退に成功します。



 どうもカルタゴは、敵の徹底的撃滅を考えず商売に影響しない限りほっておくほうが良いという考えを持っていたようです。領土に対する執着心のなさと言っても良いかもしれません。このためシチリア島征服も徹底できず、西半分を影響圏下に置くことで満足していた節があります。


 このために紀元前280年から紀元前275年にかけてエピロス王ピュロスと新興国ローマとの間の戦争にも傍観を決め込み、さらにはローマの求めに応じて同盟まで結ぶ始末でした。

 タレントゥムなどギリシャ系諸都市の傭兵に過ぎないピュロスとローマのどちらが将来の危険となるか展望がない証拠です。ピュロスがどんなに暴れまわったとて所詮はギリシャ世界の中の話です。一時的にシチリア島を占領しても同じギリシャ系諸都市の反抗でとん挫するに決まっています。一方ローマは、着実にイタリア半島を南下し強固な支配体制を固めていました。

 もしローマがシチリアに進出してきた場合、寄せ集めの傭兵で対抗できる可能性は極めて低いと言わざるを得ません。それなのに確固たる戦略を欠くカルタゴは、ローマから示された大量の銀の延べ棒に目が眩みやすやすと同盟を結んだのでした。


 体質が、利にのみ執着する商人そのもの。目先の利益で将来の危険を買ってしまったようなものでした。



 そしてその誤った判断は、大きなしっぺ返しとなってカルタゴに襲いかかります。ローマによってイタリア半島のギリシャ系諸都市を滅ぼされたシュラクサイは身の不安を感じカルタゴと同盟します。一方シチリアの東北、海峡部でイタリア半島と接するメッシナでは、傭兵崩れのマルス組というやくざまがいの勢力が実権を握っていました。

 マルス組は、周辺の略奪を繰り返しましたからついにシュラクサイの討伐を受けました。ところがマルス組は、あろうことかローマに救援を求めたのです。


 ローマ元老院のなかには、やくざまがいのマルス組を救援することは正義に反するという意見もありましたが、これで合法的にシチリア島に進出できるという主戦派に押し切られメッサナ救援の部隊派遣を決めます。紀元前264年のことです。


 これが史上名高い第1次ポエニ戦争の発端でした。(ポエニとはラテン語でフェニキア人のこと)
 ローマ軍3万はシチリアに上陸します。カルタゴはハミルカル・バルカス(ハンニバルの父)を将軍にしてこれにあたらせました。カルタゴ軍の兵力もおそらく3万前後だと思います。傭兵軍なのであまり大規模にできないのが悩みでした。


 ハミルカルは善戦しますが、やはり陸戦はローマ軍に一日の長があります。劣勢の地上戦を優勢な海軍力で支えているというのがこの戦争の特徴でした。しかし、ローマは戦争の勝敗を決するのは海軍力だと見定め、支配下の都市も総動員して海軍力の整備に邁進します。


 何度かの海戦で勝敗は分かれましたが、最後はローマ海軍が制海権を奪取、アフリカ上陸に成功します。これにはさすがのカルタゴも抗戦意欲を失い講和に傾きました。


 紀元前241年、23年にもわたる大戦争でカルタゴはシチリアの支配権を失い、3200タラントという莫大な賠償金を科せられます。



 しかし、さらなる災厄がカルタゴを襲うのです。ある意味自業自得でしたが…。


 カルタゴが傭兵中心の軍制であることは先に触れました。その主な供給源はリビアです。戦争中カルタゴは、リビアから多くの傭兵を雇い、さらに戦費としても莫大な税金を掛けました。


 何年も軍役についていた傭兵たちには未払いの賃金がありました。復員に際し、カルタゴの商人貴族たちは、あろうことかこれを値切ろうとしたのです。戦争が終わった以上無駄な出費は避けたいという本音でした。抗議した傭兵たちをカルタゴから遠く離れた都市に遠ざけ、体よく追っ払おうと画策したカルタゴ政府でしたが、ついに傭兵たちの怒りが爆発します。


 傭兵たちは、スペンディオスとマトースを指導者に大規模な反乱をおこしました。反乱を起こしたのは今まで戦ってきたベテランです。傭兵に頼り市民軍を廃止していたカルタゴになすすべはありませんでした。


 ハミルカルの政敵で、当時カルタゴの実権を握っていたハンノは、あわてて市民の中から軍を徴兵しこれにあたりますが、鎧袖一触でした。


 こうなれば背に腹は代えられません。主戦論者でカルタゴ本国から遠ざけられシチリア島で復員作業にあたっていたハミルカルに急使が飛びます。カルタゴ元老院の全権委任を受けたハミルカルは、歴戦の兵1万を率いてアフリカに渡りました。


 さすがにハミルカルは名将でした。一時は首都カルタゴが包囲されるほどの危機でしたが、ハミルカルはかっての部下たちを激戦の末破ります。こうしてカルタゴの危機は去りました。


 しかし軍人貴族として長くカルタゴの軍籍にあったハミルカルは、カルタゴ本国の堕落にほとほと愛想が尽きていました。いずれローマとの再戦が避けられないと考えた彼は一族と子飼いの部隊を率いて遠くヒスパニアの地に渡ります。このとき9歳になる長男ハンニバルも同行したと伝えられます。


 海軍が壊滅し、制海権がローマの手に渡った以上カルタゴがローマに対抗するには陸戦しかないという深謀遠慮の末の行動でした。ヒスパニアの地で勢力を蓄え、遠くない将来のローマとの戦争に備えようというハミルカルの意図を見抜いたカルタゴ貴族はいませんでした。むしろ主戦派のハミルカルをはじめとするバルカ家の一門を厄介払いできると喜んだほどです。


 自己の利益しか頭になく、国家の大計などには思いも及ばない商人貴族のなかにあって多くの軍人を輩出してきたバルカ家は異色の存在でした。ハミルカルの政敵たちはヒスパニアで彼が失敗し、現地人に殺されるのを望んでいたはずです。しかし彼はやり遂げました。



 次回は、ハミルカルのヒスパニア経営、そしてハンニバルによる復讐戦、第2次ポエニ戦争について見ていくことにしましょう。

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