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2009年10月24日 (土)

商業国家カルタゴの興亡   (後編)

 カンネーでの歴史的大敗はローマ本国に動揺を与えました。しかしローマはあわてはしましたが、決して取り乱すことはありませんでした。


 積極策を捨て、かって執政官ファビウスが採ったように、なるだけ野戦は避けハンニバル軍に付かず離れず追撃する軍が一つ、ハンニバル軍が去った後占領された都市を取り戻す軍が一つ、と二つの軍を編成しハンニバル軍にあたりました。


 これをやられるとハンニバル軍は苦しくなります。敵の本土で戦っているわけですから、シーソーゲームのようになってしまうのです。しかもローマ側は無限に損害を回復できますが、カルタゴ側はそれができません。

 そうこうしているうちにローマは余裕ができ始めました。制海権をずっと握っているという強みもありました。ハンニバルと対峙する軍とは別に、ハンニバルの根拠地であるヒスパニア攻略を目指す軍団を編成します。


 その司令官には、25歳のプブリウス・コルネリウス・スキピオが任命されました。これはローマの大英断と言っても良い人事でした。スキピオは父と共に数多くの戦陣を経験し名将という評価が高まってはいましたが、それにしても思い切った抜擢でした。


 スキピオ率いる軍は歩兵2万5千、騎兵2千5百。優勢な海軍を使い上陸から6日と言う強行軍でカルタゴ・ノヴァに到着すると、そのまま火の出るような攻撃を行いわずか2日で攻略してしまいます。鮮やかな奇襲攻撃でした。

 ヒスパニアを守っていたハンニバルの弟、ハストルバルはスキピオとの決戦に敗れ、兄と合流すべくイタリア半島に向かいました。


 しかし、アルプスの出口でローマ軍の待ち伏せに会い全滅してしまいます。南イタリアの戦場で、自陣営に投げ込まれた変わり果てた弟の頭部を見てハンニバルは絶望したことでしょう。


 カルタゴ本国もハンニバル支援の動きがなかったわけではありません。しかし制海権のない悲しさ、援軍や物資を載せた船団は海戦で敗れ拿捕されたり座礁したりしました。


 その絶望的状況でもハンニバルはイタリア半島南部で必死に戦っていました。



 一方、ヒスパニアを奪取しローマに凱旋したスキピオは、この膠着した状況を打破するにはカルタゴ本土への侵攻しかないと元老院で訴えます。あまりにも投機的すぎるという批判の声もありましたが、ヒスパニアでの武勲がそれを黙らせました。

 紀元前204年スキピオは、歴戦のヒスパニア従軍兵を中心に正規軍団2万9千、騎兵2千5百の兵力でアフリカの地に上陸します。騎兵戦力の不足はスキピオ自身痛感しており、長らくカルタゴ騎兵戦力の中心であったヌミディアの部族のうち、族長に対する不満分子であるマニシッサに使者を送り味方につけることに成功しました。これで精強なヌミディア騎兵4千、歩兵6千の援軍を得たスキピオ軍は、カルタゴ各地を電撃的に攻略し首都カルタゴを臨む地に布陣します。


 名将スキピオに対抗するにはハンニバルしかいませんでした。カルタゴ政府は急遽イタリア半島に使者を送りハンニバルに帰国を促します。勝ちはしないにしても負けてはいなかったハンニバルですが、本国の危機をほっておくわけにはいきません。断腸の思いでイタリア半島を離れることになります。


 帰国するとハンニバルはローマ軍に対抗するため兵を集めます。これで歩兵4万、戦象80頭の軍を編成しますが、それはもはやかっての精強なハンニバル軍ではありませんでした。歴戦の兵士たちは数年に渡るイタリア半島の戦陣で倒れ、残っているものはわずか。大半は寄せ集めで士気も低い兵士でした。


 紀元前202年秋、カルタゴ南方ザマの地で両軍はぶつかります。カンネーとは逆に優勢な騎兵戦力を持っているのはローマ軍の方でした。ハンニバルがかって率いていた精強なヌミディア騎兵はイタリア半島の戦いで消耗しつくしていたからです。


 ハンニバルは、歩兵部隊を3段に分けて先陣に傭兵、中段に新兵、後段にハンニバルにずっとつき従ってきた古参兵を配しました。最前列には戦象部隊。これで敵の先陣を突き崩すことで勝敗を決しようという作戦でした。巧緻を極めたカンネーと比べ、ハンニバルの戦術が大きく後退しているように思えます。しかしそれは訓練もままならない寄せ集めの軍隊に取れる選択肢がなかったからです。


 一方スキピオはオーソドックスな中央に歩兵、両翼に騎兵を配する布陣をします。ただ中央の歩兵は通常と違い、部隊間の幅を大きくとっているのが特徴でした。


 戦いはカルタゴ軍の戦象の突撃から始まりました。ローマ軍は広く取った部隊間の間隔を利用しその隙間に戦象を追い込みます。一度突進すると曲がることのできない戦象は前に突っ走るしかありませんでした。そこへ両側から投槍で攻撃し、戦象隊はほとんど戦局に寄与することなく壊滅します。

 ローマ軍両翼の騎兵部隊は、数の有利を生かしカルタゴ軍の騎兵を粉砕すると、そのまま後方からカルタゴ軍を包囲しました。


 まるでカンネーの再現です。スキピオはハンニバルの戦術を学び、応用することでこの戦いに勝利しうることを確信していたのです。


 カンネーとは逆に完全包囲を受けたカルタゴ軍は全滅します。ハンニバルは死地を脱するとその足でカルタゴに向かい、元老院に無条件降伏をするよう進言します。頼みのハンニバルが敗れた以上、元老院も抵抗の意思はありませんでした。



 ローマの戦後処理は厳しいものでした。カルタゴはヒスパニアを含むすべての海外領土を失い、2万タラントという巨額な賠償金を科せられます。カルタゴ本土以外での戦争を禁じられ、本土においても戦う場合はローマの許可がいるという完全な属国とされたのです。


 過酷な条件でしたが、滅ぼされるよりはましでした。ただ敗戦時にありがちの戦争の首謀者の処刑、この場合はハンニバルでしたが、はありませんでした。異例でしたが、ハンニバルがそれだけカルタゴに頼りにされている証拠でした。


 ハンニバルは引き続き軍の総司令官の地位にとどまり疲弊したカルタゴの復興に当たります。しかしハンニバルに脅威を感じていたローマは、ハンニバルが責任のある地位にとどまることを許さず、これを逮捕すべく使節団をカルタゴに派遣しました。

 これにはハンニバルに敵対する商人貴族たちのローマへの讒言があったと言われています。ローマの動きをいち早く察知したハンニバルは、カルタゴから脱出し東に向かいます。ある時はセレウコス朝、ある時はポントスと、ローマに敵対するオリエント諸国に出没し国王の顧問として宿敵ローマを悩まし続けました。


 業を煮やしたローマは、ある時小国ビチュニアの宮廷にハンニバルがいることを突き止め、彼の引き渡しを国王に要求します。もはや逃げ切れないと悟ったハンニバルは、自ら毒杯を仰ぎ命を絶ちました。時に紀元前183年、享年は不明ですが、60歳を過ぎていたことは確かでしょう。


 これが世界史上不世出の英雄、ハンニバルの最期でした。





 ハンニバルの没落、そして死をもってカルタゴの滅亡としても良いのですが、カルタゴという国家自体はもう少し続きます。前・中・後編では描ききれなかったカルタゴ興亡史、次回完結編にて筆を置くことといたしましょう。

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