ヴァンダル族の興亡 - ゲルマン民族大移動の一典型 -
最近、「ヴァンダル興亡史」(松谷健二著・中公文庫)なる本を読みました。松谷氏の「カルタゴ興亡史」を以前読んで感銘を受けたのでこの本を読んでみたんですが、これも面白かったです。
作者の文章力もありますが、民族の興亡をダイナミックに描く良書でした。
ところで、私はゲルマン民族の大移動をただ野蛮人が文明世界を荒らしまわる大災厄としてしかとらえていませんでした。もともとローマ贔屓という事もありましたが、中部ヨーロッパからはるばるカルタゴ(現チュニジア)まで移動し王国を建国したヴァンダル族など海賊の親玉くらいにしか思っていませんでしたし、東ローマ帝国の英雄、ベリサリウスに滅ぼされた存在として軽く見ていたきらいがありました。
ところが本書を読んでイメージが一変したことを白状します。
そもそもゲルマン民族の大移動とは、紀元前後から2~3世紀に渡る世界的な寒冷化が根本原因だったらしいです。遊牧民族はその被害をストレートに受け、生きるために移動したのだそうです。
北方アジアの草原地帯から叩き出されたフン族(匈奴の末裔とも言われています)が、ユーラシア西部に移動したために、玉突き的にそこにいたゲルマン諸族が押し出されて文明世界だったローマ帝国領内に侵入したのがゲルマン民族大移動の始まりでした。
しかし、そこにもともと住んでいた人たちにとってはたまったものではありません。ゲルマン民族の側にも生きるために仕方ないとの言い分はあるでしょうが、暴行・略奪・強姦などのあらゆる災厄を受けた文明世界の人々にとっては迷惑この上なかったでしょう。
当時のローマ帝国が、腐敗し宮廷内の権力闘争ばかりで精兵を誇ったローマ軍がすっかり弱体化していたのも悲劇の要因でした。討伐軍を送るものの敗北を繰り返し、かえって帝国領奥深くまで侵略を許す始末でした。
その主なものは、今のベルギーあたりにいたフランク族がガリア(現フランス)へ。西ゴート族が南ガリアからヒスパニアへ。東ゴート族がイタリア半島へ。そして本稿で紹介するヴァンダル族などはジブラルタル海峡を越えて遠く北アフリカまで移動しています。
もともとヴァンダル族は北欧あたりにいたと推定されます。それが新天地を求めてバルト海を渡り2世紀のころにはドイツ東部からポーランド西部あたりのシュレジェン地方に定着していたそうです。
それが4世紀におこったゲルマン民族大移動に巻き込まれ大移動を余儀なくされます。まずドナウ上流からライン川に沿ってガリアに西進、途中フランク族と戦って敗れピレネー山脈をを越えてヒスパニアに落ち着きました。現地のローマ人総督は、これを追い払う力はなく定住を認める代わりに軍役につくことを要求します。
ただ、この状態に我慢ならないローマは姦計を持ってこれを追いだしにかかりました。その当時イタリア半島に侵入の構えを見せていた西ゴート族を懐柔し、ヒスパニアのヴァンダル族を討ったらその地を割譲するという密約を結んだのです。
ローマとしてはゲルマンの蛮族同士どちらが滅んでも痛くも痒くもなかったでしょう。しかもこの戦いで勝った方とて無傷で済むはずはない。そこを滅ぼせば一石二鳥だと思ったことでしょう。
ヒスパニアの戦いは悲惨を極めました。ヴァンダルは同胞と思っていたスエビ族に裏切られ大敗を喫してしまいます。
時のヴァンダル族の王、ゲイゼリックは思い切った手段に出ます。ヒスパニアでの王国建国を諦め、ジブラルタル海峡を渡って北アフリカの地に新しい国を建てるという計画でした。時に429年のことです。
ヴァンダル族が最後に落ち着いた南ヒスパニアはアンダルシア地方と呼ばれています。おそらく語源はヴァンダルの地という意味でしょう。そこから海峡を押し渡ったヴァンダル族はおよそ8万だったと言われています。その中で戦闘員は2万弱くらいだったと予想されます。
まさかそのような方向から蛮族が攻めてくるとは思っていなかったローマ軍はあわてます。ローマ軍が駐屯するカルタゴの地にヴァンダル族が至るまでほとんど抵抗らしい抵抗はなかったそうです。
予想もしなかった方向から現れた敵を前に、現地のローマ軍はなすすべもなく壊滅します。ゲイゼリックはカルタゴを都とし北アフリカ一帯を支配するヴァンダル王国を建国しました。439年のことです。
ヨーロッパではヴァンダル族のイメージは最悪です。ヴァンダリズムとは野蛮の意味だそうです。それというのもヴァンダル族は異端アリウス派のキリスト教徒、欧州で主流になりつつあったカトリックはこれを嫌い悪しざまに書いた記録を残しています。当時の文明地帯であったガリアや北アフリカを暴行略奪し、さらにはカトリック教徒も弾圧したのですから、知識層であったカトリック教会の憎しみを買ったのです。作者によれば、他のゲルマン諸族も似たり寄ったりのはずなのにヴァンダル族だけが特に悪く書かれたのはカトリック教会を敵に回したからだろうと推測しています。
ゲイゼリックは王国を建国した後強大な海軍を建設します。もともと海洋民族だった記憶があったのでしょう。西地中海ではローマ艦隊を幾度も破り制海権を握りました。ヴァンダル海軍は海賊として西地中海一帯を荒らしまわりました。これで莫大な富を蓄積します。
しかし王国は長くは続きませんでした。477年ゲイゼリックは波乱にとんだ生涯を閉じます。90歳近い高齢だったと伝えられています。
良くも悪くもゲイゼリックの個性によって支えられていた王国でした。その後は無能な国王が続き当時西ローマ帝国を奪ったオドアケルを倒しイタリア半島に国を建国していた東ゴート族に敗れシチリア島を失いました。国内でもアリウス派であった少数の支配者に反抗しカトリック勢力の反乱が相次ぎました。
ヴァンダルの政治は、建国後はそれほど悪政ではなかったそうですが、宗教的な対立は深刻だったのでしょう。しかも現地土着のムーア人も反抗を繰り返し王国内は内紛が絶えませんでした。
悪い事に東ローマ帝国には中興の英主ユスティニアヌス大帝が即位していました。彼はヴァンダル王国が弱体化したのを好機と捉え、名将と誉れ高かったベリサリウスを総司令官に任命し533年遠征軍を派遣します。兵力は歩兵1万と騎兵5千ほど。一国を滅ぼすには余りにも少数でした。しかし、遠くコンスタンティノポリスからはるばるチュニジアまで送るのですからこれが限界だったのかもしれません。
遠征軍は当時友好関係を保っていた東ゴート族の領土であるシチリア島にいったん落ち着きます。そのころヴァンダル王国内ではサルディニア島とリビアに反乱がおこっていました。ベリサリウスは情報を集め、反乱軍に援軍を派遣します。
そしてヴァンダル本土が手薄になった隙を突いて海峡を押し渡りました。ヴァンダル最後の王ゲリメルはあわてて迎撃しますが、カルタゴ郊外の戦いで大敗します。ゲリメルは首都を捨て西のヌミディアの山中に逃れました。ここで残兵をかき集め最後の決戦を挑みますが、ここでもベリサリウスの指揮の前に完敗し、軍は四散しました。ゲリメルは少数の側近だけを従え山中の村に逃げ込みます。
一方、東ローマ軍はあえてこれを追撃せずカルタゴに入城し人心の安定に努めました。ゲリメルの逃げ込んだ山中には抑えの兵だけを残し奪回した北アフリカの統治に専念する方針でした。
このベリサリウスの判断は正解だったと思います。率いている兵も少ないので、もし反乱でもおこされたら収拾のつかない状況に陥ったことでしょう。534年食料の乏しくなったゲリメルは降伏し、ここにヴァンダル王国は滅亡しました。
ゲイゼリックがジブラルタル海峡を押し渡って建国してからわずか100年足らずの寿命でした。フランク王国のように後世の仏・独・伊に受け継がれたのとは違い、跡形もなく消えたために弁護する者がいなかったのでしょう。カトリック勢力と対立したのも致命的でした。
ヴァンダルのその後ですが、ベリサリウスの凱旋に連れて行かれたゲリメルは命だけは助けられて土地をもらい安楽な余生を送ったそうです。一部のヴァンダル族は東ローマ本国に送られ帝国各地に分散して住まわされました。のこった庶民はそのまま現地に同化しチュニジア人の祖先の一部となったことでしょう。
« 世界史英雄列伝(39) 『ヌールッディーン・マフムード・ザンギー』 反十字軍の英雄 | トップページ | 聖都イドリースと迷宮都市フェズ »
「 世界史」カテゴリの記事
- カラハン朝、西遼(カラキタイ)の首都だったベラサグンの位置(2024.07.02)
- 甘粛回廊とゴビ砂漠の平均標高(2024.06.30)
- 黒水城(カラ・ホト)の話(2024.06.27)
- イスファハーン ‐世界の都市の物語‐(2024.03.29)
- シアールコート ‐ 世界の都市の物語 ‐(2024.02.29)
« 世界史英雄列伝(39) 『ヌールッディーン・マフムード・ザンギー』 反十字軍の英雄 | トップページ | 聖都イドリースと迷宮都市フェズ »
コメント