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2009年11月20日 (金)

アレクサンドロス戦記④   - ガウガメラの戦い BC331年 -

 イッソスの戦い、この勝敗はマケドニアとアケメネス朝ペルシャの力関係を決定付けたと言ってもよいでしょう。ペルシャはそれまでの超大国の地位を失い、フェニキア・シリア・エジプトという重要な西方の領土を奪われました。


 国王ダレイオス3世は、日の出の勢いのアレクサンドロスに使者を送り、チグリス河以西の帝国領土を割譲するから和睦しようと申し出ます。


 しかし、アレクサンドロスは軍議の席でこれを一蹴しました。これを見ていた宿将のパルメニオンは
「私がアレクサンドロス大王ならこの申し出を受けるのに…」と言ったと伝えられます。
 これに対し「私がパルメニオンならこの申し出を受けるだろう」とアレクサンドロスは返したそうです。


 おそらくアレクサンドロスは、ペルシャというよりもっと東方世界のことに思いを馳せていたのかもしれません。あくまでペルシャは通過点だと考えていたのでしょう。


 外交交渉の余地がないことを悟ったダレイオス3世は、マケドニア軍を迎え撃つためアッシリアの地に近いガウガメラに陣を敷きました。わざわざ戦車と、この時到着したインドの戦象部隊を十二分に活用するため予定戦場を平たく整備したと言われます。


 ガウガメラはシリアからメソポタミアに向かう街道上の要衝で、山間部から平野に抜けるあたり、もしここを突破されたらメソポタミアは失陥するという要地でした。


 時に紀元前331年10月。マケドニア軍は本土からの増援部隊も加えて総勢4万7千(騎兵7千、歩兵4万)。後がないペルシャ軍は100万の大軍を集めたという記録もありますが、当然これは誇張でしょう。

 古代の補給能力を考えたらせいぜい20万、おそらく実数は10万をちょっと超えたくらいでしょうか?



 マケドニア軍の布陣は黄金パターンともいうべき中央に重装歩兵ペゼタイロイと軽装歩兵ヒュパスピスタイを左右に並べ、左翼にテッサリア騎兵、右翼にアレクサンドロス直率の重装騎兵ペゼタイロイを配したものでした。

 一方ペルシャ軍は、最前列に戦車と戦象を横一列にずらりと並べ、後方に歩兵部隊を配した布陣です。騎兵は戦象・戦車部隊の左右に翼を広げる形で横に長く展開しました。

 「大軍に兵法なし」と言われます。ペルシャ軍の作戦は戦車と戦象の突破力に頼り、ともかく勢いで押し切ろうという方針でした。おそらくマケドニア軍は象を見たことがないので、パニックに陥るだろうという計算もあったと思います。



 しかし、アレクサンドロスは情報によって戦象の参加を知っていました。対抗策としてあらかじめ歩兵部隊の間隔を広く取っておくように命じていたのです。



 自軍の戦列より敵の方が長くなり、包み込まれるのを嫌ったアレクサンドロスは、左右の騎兵をを使って延翼運動を始めます。ペルシャ軍もこれにつられて横に広がり、戦場は次第に整地してない部分に達しようとしていました。起伏のある土地では戦車の力を十分に発揮できないのでダレイオスは慌てます。


 まだ戦機は熟してないはずでしたが、仕方なく戦車と戦象部隊に突撃を命じました。ものすごい土煙をあげて突撃するペルシャ軍でしたが、マケドニア軍はあらかじめ広く取っていた戦列の間を抜けさせます。というのも戦車も戦象も突撃力は強いのですが、急に曲がれないからです。

 マケドニア軍は、疾駆する敵軍の側面から投槍や弓で攻撃してこれを無力化します。ダレイオスのとっておきの秘策も無駄になったわけです。


 逆に強引なペルシャ軍の突撃で敵戦列の間に致命的な間隙を発見したアレクサンドロスは、ヘタイロイ部隊を率いてそこへ突撃します。


 ペルシャ軍も大軍に物言わせて、左右から包み込むようにマケドニア軍を攻撃していたのですが、アレクサンドロスの突撃で中軍にいたダレイオスの近衛隊が大混乱に陥ったため、これ以上の前進は躊躇されました。


 そしてまたしても、ダレイオスの戦意不足によって近衛隊は真っ先に崩れました。善戦していた他のペルシャ軍部隊もこれを見て潰走しました。一時は後方の食糧輸送部隊まで攻撃され危機に陥っていたマケドニア軍でしたが、イッソス同様敵のあっさりとしすぎた戦意に救われたのです。


 この戦いに負ければ国が敗北するのです。ダレイオスは死ぬ気で戦うべきでした。そうならなかったのはやはり彼の優柔不断さだったのかもしれません。



 戦いは完全にアレクサンドロスの勝利です。ダレイオスは首都ペルセポリスには戻らずに、東方の山岳地帯に逃げ込みました。アレクサンドロスは軍を南下させバビロン、スサ、ペルセポリスと帝国の中心部分に進軍します。まず支配権の確立を目指したのです。


 首都を制圧し武将たちを各地の太守に封じると、アレクサンドロスはそこからイラン高原を北上し、ダレイオスを追撃しました。 


 もはやダレイオスに付き従うものはわずかでした。マケドニア軍接近の報を受けると、兵士の逃亡が相次ぎ軍の体をなくします。


 一行が遠くバクトリア(アフガニスタンから中央アジアにかけての地域)に達しようとした時、逃げ切れないと覚悟したダレイオスの腹心でこの地方の太守ベッソスは、あろうことか王を殺害してしまいます。ダレイオス3世の亡骸を餌に自分だけ助かろうという卑しい魂胆でした。



 アレクサンドロスは、ダレイオスの亡骸を受け取った時、悲嘆にくれたと伝えられます。もし降伏したら命は助ける気だったのかもしれません。アレクサンドロスは部下に命じて王者の形式でこれを葬ると、ペルセポリスに送り王家の墓に丁重に埋葬したそうです。


 手柄をあげて莫大な恩賞をせしめるはずだったベッソスは、逆にアレクサンドロスの怒りを買います。主君が苦しい時こそ助けるのが忠臣なのに、その弱みに付け込んだ卑劣な行為を憎んだのです。ベッソスは残酷な方法で処刑されました。



 こうしてアケメネス朝の巨大な旧領を受け継いだアレクサンドロスでしたが、彼の野望はなくなることがありませんでした。未知の世界に憧れ遠くインドへと遠征を続けます。


 各地の豪族を破り破竹の進撃を続けるアレクサンドロスのマケドニア軍。たしかに戦えば無敵でした。しかし敵は外ばかりじゃなかったのです。軍中に厭戦気分が蔓延し始めたのもこの頃です。


 不満はアレクサンドロスに対する反逆という形になって現れます。なかでもパルメニオンの次男フィロタスが国王暗殺の嫌疑で逮捕されたことは悲劇でした。冤罪だったという説もありますが、彼も含め同調者と目されるものが次々と捕われ処刑されます。そして事件には関与していないという同僚の弁護もむなしく宿将パルメニオンまでもが処刑されたのです。


 人望あるパルメニオンまでもが殺された、この事実はマケドニア軍に衝撃をもたらしました。以後不満は表に出ることはなくなりましたが、どす黒い底流となって渦巻くこととなるのです。そして…。






 次回完結編。大王最後の会戦であるヒュダスペス河の戦いと、苦難のバビロン帰還、そして死を描きます!

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