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2009年11月

2009年11月20日 (金)

中世の黄昏   「ブルゴーニュ公国四代」

 ワインで有名なブルゴーニュ地方。かって中世のある時期、フランスの一諸侯でありながらベルギー・オランダにまたがる広大な領土をもち、あたかも独立国の体をなしていたブルゴーニュ公国がありました。

 わずか4代110年ちょっとの歴史でしたが、その領土である豊かなネーデルラントは女系からハプスブルグ家に受け継がれさらにはスペイン・ハプスブルグ家領となった最後までフランスの脅威であり続けました。



 まさに歴史の徒花(あだばな)ともいえるブルゴーニュ公国ですが、その歴史は波乱万丈ともいえるものでした。最近私は堀越孝一氏の記した「ブルゴーニュ家 中世の秋の歴史」なる本を読み非常に感銘を受けたので、その歴史の一端をご紹介しようと思います。





 発端は百年戦争のときです。ヴァロワ朝2代王ジャン2世の末子フィリップがポワティエの戦いで抜群の戦功をあげ、断絶していたカペー家支流のブルゴーニュ侯領(フランス中東部)を下賜されたのが始まりでした。


 以後フィリップはヴァロワ王家の有力な親藩として続くはずでしたが、その結婚によって運命を大きく動かされます。1384年彼が結婚したのはフランス西北部からベルギーまでの広大な領地をもつフランドル女伯マルグリットでした。

 結婚によって手に入れたフランドル伯領は、当時ヨーロッパで最も先進的な地方で商工業の発達したいわばドル箱ともいえる地方でした。


 以後ブルゴーニュ家は、フランス国内では王家の親藩、対外的には豊かなフランドルの領主(支配地はフランスから神聖ローマ帝国にまたがっていた)と鵺のような存在となるのです。


 ブルゴーニュ家がおとなしくフランス王家に従っていれば何の問題も起きなかったのですが、時の国王シャルル6世が発狂したことにより運命は大きく動き始めます。



 発狂した国王の摂政の地位を巡って同じヴァロワ王家の一族であるオルレアン公家と対立し、内戦に及ぶまでになりました。ブルゴーニュ派がオルレアン公ルイを暗殺したことにより、その報復としてブルゴーニュ公ジャンがオルレアン派(アルマニャック派)に暗殺されたのです。


 どっちもどっちですが、これによりブルゴーニュ派はイングランドと結びフランス(王太子シャルルの勢力)と敵対することになります。

 時は百年戦争の真っただ中でした。イングランド・ブルゴーニュ連合軍はまたたくまに北フランスを席巻、王太子シャルルは南フランスに逃れ逼塞せざるをえませんでした。


 しかし王太子を擁するオルレアン派の底力は絶大でした。ジャンヌ・ダルクという奇跡までも利用し次第に盛り返し始めます。有名なオルレアン攻防戦、ランスでの戴冠式で政治的には有利な地歩を固め始めます。



 一方、イングランドの現地司令官、摂政ベッドフォード公ジョンはブルゴーニュ公ジャンの娘婿で当代フィリップ2世善良公の義兄弟でしたから、義兄の援軍を待ちわびていました。

 ブルゴーニュの援軍が加われば劣勢を挽回できると踏んだからです。しかしフィリップは、その時自家の勢力拡大に躍起になっていました。泥沼のフランス戦線に介入するよりネーデルラント征服の方が容易だと踏んでいたのです。


 この状況を冷静に見ていたシャルル7世(戴冠して王になっていた)は、フィリップに接近します。連合からブルゴーニュを脱落させれば戦争の勝利が決定的になるからです。


 密かに外交交渉を始めていたシャルルは、主戦論者のジャンヌ・ダルクを切り捨て、そのためにジャンヌはブルゴーニュ軍に捕えられます。フィリップも厄介事に巻き込まれるのはごめんだとばかり彼女をさっさとイングランドに売り渡しました。


 このためにブルゴーニュ公国はフランスの裏切り者として現在でもあまり評判はよくありませんが、ネーデルラントに領土を拡大し事実上独立国となっていたので、この評価は少々酷かもしれません。


 ともかくフランスとブルゴーニュは、1435年アラスにおいて歴史的和解を果たします。イングランドとの同盟を破棄しフランスと同盟を結ぶこととなりました。


 これによりフランスはブルゴーニュの中立を勝ち取り、ブルゴーニュもまたネーデルラント征服に心おきなく動けるようになりました。


 フィリップ善良公は、意識の下でフランスの廷臣、親藩としての自覚を持っていたのでしょう。実際、後年になりますが父シャルル7世と対立し亡命してきた王太子ルイを丁重にもてなしています。これが善良公といわれる所以だったのかもしれません。


 ただ、堀越孝一さんに言わせるともともとブルゴーニュ家の本領であるブルゴーニュ公領の騎士たちが、敵であるイングランドに与することを嫌ったということも背景にあったらしいのです。



 背後の安全を確保したフィリップ善良公は、本拠をブルゴーニュからブリュッセルに移しています。おそらく税収も8~9割はフランドル、ネーデルラント地方が占めていたはずで当然の処置だったのかもしれませんが、ブルゴーニュ公国は次第に脱フランスの道を歩み始めます。


 3代フィリップ善良公の治世で忘れてならないのは、有名な「金羊毛騎士団」を創設したことです。もともとはトルコへの十字軍を念頭に置いての結成でしたが、それが沙汰やみになり事実上ブルゴーニュの軍事力の中心となっていきました。またフィリップの治世は、豊かな経済力を背景にフランドル派絵画や、ネーデルラント楽派の音楽が栄え文化が爛熟します。(北方ルネッサンス)


 1467年、フィリップは亡くなりました。後を継いだのは長男シャルル。突進公とも無鉄砲公ともあだ名された彼の代がブルゴーニュ公国の最後の歴史でした。


 フランスに遠慮し、できるだけ波風を立てずヴァロワ王家の親藩足らんと志していた父と違い、シャルルはあきらかに独立国家の樹立を目指していました。


 所領の大半はすでに神聖ローマ帝国の領域に含まれるようになっていました。シャルルは飛び地になっていた本領ブルゴーニュ公領とネーデルラントを連結させることに生涯を費やします。神聖ローマ帝国内でも選帝侯に匹敵、あるいはそれ以上の権勢を誇っていました。


 しかし、侵略される側のライン下流の諸侯たちが連合してこれに対抗するようになると苦戦します。さらにはフランス国内のブルゴーニュ領を狙うフランス王ルイ11世の暗躍もありました。商人王ともあだ名されるルイは、たしかに計算高く外交・謀略の限りを尽くしてシャルルを追い詰めていきます。

 ルイは、なんとイングランドと結ぶことでブルゴーニュ公国の孤立を図ります。宿敵同士の和解という離れ業を見せられたシャルルでしたが、自分の危機に気付いていたかどうか?戦争馬鹿で連年の遠征でさしもの莫大な国庫も尽き始めていました。


 そして、1477年ナンシーにおいて下流諸侯連合の雇ったスイス人傭兵隊に敗れ戦死してしまいます。


 あとに残されたのは一人娘マリーのみ。公国は崩壊しフランス国内のブルゴーニュ領はルイ11世に接収されました。しかしネーデルラントはシャルル生前の約束で神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世とマリーが結婚することによって保たれます。


 二人の間に生まれたフィリップ美公が1496年にカスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世の娘フアナと結婚したことにより、ネーデルラントは息子カール5世(スペイン王ではカルロス1世)に受け継がれました。


 そして豊かな経済力をもったネーデルラントは、フランスとの係争の地となり最後は独立してオランダ、ベルギーとなっていくのです。

フランスの真の女傑  「ヨランダ・デ・アラゴン」

 最近ヨーロッパ中世史に凝ってまして、その流れでリック・ベッソン監督の「ジャンヌ・ダルク」(Joan of Arc)を見たんですが、フェィ・ダナウェイが演じていたシャルル7世の義母(シャルルの正室マリーの母)ヨランダ・デ・アラゴン(Yolande d'Aragon 1384年 - 1442年)が非常に強烈に印象に残りました。


 
 実はこの女性、調べれば調べるほど傑物です。百年戦争の英雄と言うとジャンヌ・ダルクをすぐ連想しがちですが、もしかしたら彼女さえヨランダが用意した手駒だったのかもしれないのです。


 シャルル7世は、父6世が発狂し、母であるイザボー・ド・バヴィエールはそれを良いことに浮気の限りを尽くしていたため、7世自身ほんとうに父王の実子かどうか疑っていたそうです。敵であるイングランドもその噂を悪意を持って流したため王太子でありながらあまり人気もなく北フランスの大半をイングランド・ブルゴーニュ連合軍に奪われるという体たらくでした。


 しかしヨランダ・デ・アラゴンはそのような劣勢の王太子を「奇貨居くべし」と睨んで自分の娘を嫁がせました。


 ヨランダは今のスペイン東部沿岸一帯を支配したアラゴン王家の出身です。フランス大貴族でアンジュー公、プロヴァンス伯だったルイ2世・ダンジューに嫁ぎます。ルイは一時ナポリ王を称するほどの大領主でした。


 子供のうち成人したのは5人ですが、長女マリー・ダンジューは王太子妃に、次女ヨランドはブルターニュ公に嫁がせるなどなかなかの辣腕家です。


 当時フランスはブルゴーニュ派とアルマニャック派の内戦状態にあり、そこをイングランドに上手く衝かれたわけですが、南フランスに逃れてきた王太子シャルル7世を庇護し自分の娘を嫁がせたのは彼女だったと伝えられています。


 以後彼女は、娘とともに王太子の宮廷にとどまり助言をした、というより影の宰相として動かしていたというのが実情でしょう。



 優柔不断で弱気になっているシャルルの尻を叩き、ある時は実の母以上の愛情を注いでシャルルを支えたといいます。ジャンヌ・ダルクを王太子に会わせるよう助言したのも彼女でした。


 自分の正当性に悩む王太子に、「神の使い」が正当性を保証し本人の自信を取り戻させるという演出ではなかったか?と指摘する後世の史家もいます。


 実際ジャンヌの故郷ドンレミ村はヨランダの知行地に近かったとも言われていますし。ヨランダならそのくらいやりかねないところがあります。


 しかしヨランダのおかげで、ジャンヌ・ダルクは神の使い「聖乙女」(ラ・ピュセル)として敗戦続きで意気消沈していた王太子軍の士気を高めることに成功したのです。


 要地オルレアンの解放、ランスでのシャルル7世の戴冠式とジャンヌの活躍のおかげでフランスは再び盛り返します。



 ヨランダはこの状況を一人冷静に見ていたのかもしれません。この時すでに王太子軍は莫大な戦費を費やし疲弊しつつありました。以後戦闘よりも外交交渉に精力を傾けるべきだと判断していたヨランダにとって、いつまでも子供のように戦争を訴えるジャンヌは疎ましい存在になってきていました。


 ジャンヌを切り捨てるようフランス国王になったシャルル7世に進言したのもヨランダだったと伝えられています。ヨランダは、ジャンヌを神の使いとして見ていなかったことになります。手駒に利用価値のあるうちは生かしておくが、邪魔になったら排除するという彼女の冷徹な論理が見え隠れするのは私だけでしょうか?
こうしてみるとジャンヌ=ヨランダの手駒説ががぜん信憑性を増してきます!


 ジャンヌは王からの援軍を受けられず宿敵イングランドに捕えられ魔女として火刑に処せられます。さすがにシャルル7世も良心が咎めたのか身代金を払ってジャンヌを救おうと動いたふしもありましたが、ヨランダの拒否で沙汰やみになったと言われています。



 ヨランダ・デ・アラゴンは現代の基準からみると、冷酷非情な鉄の女のように見られがちですがもし彼女がいなかったら現在のフランスがなかったのも事実です。世間一般からは好かれないでしょうが、非常に優れた頭脳と観察力を持ち、いわば女版リシュリューとして私は高く評価しています。

えにしだの枝の王権    - アンジュー家の盛衰 -

 アンジュー家、あるいはアンジュー朝という名前を聞いたことはありますか?世界史ではプランタジネット朝として書かれていますが、プランタジネットとは「えにしだの枝」の意味です。アンジュー伯ジョフロワ( 1113年 - 1151年)が兜にえにしだの枝を刺していたことから、これを紋章としたものです。


 イングランドの王朝なのに、なんでフランスっぽい名前だ?と思った人は鋭いです。実はアンジュー伯家はフランス中央部に所領も持つれっきとしたフランス貴族です。1129年ノルマン朝イングランド王国のヘンリー1世の一人娘マチルダと結婚したために王の死後ノルマンディー公領とともにイングランド王位も受け継ぎました。


 一時的には、反対勢力に苦労しますが息子のアンリ・ド・プランタジュネの代にイングランド制圧に成功し1154年王位につきます。これがアンジュー朝(プランタジネット朝)の成立でした。


 アンリは即位してヘンリー2世となりますので、以後ヘンリーで統一します。ヘンリー2世は、本領のアンジュー伯領、ノルマンディー公領にイングランド王領を併せ持つ欧州屈指の大領主となりました。


 ただ、あくまでもイングランド以外はフランス王が主人で、その家臣としての立場であったことが事をややこしくします。ちなみにヘンリー自身もイングランドは植民地くらいにしか見ていなかったはずです。イングランドに渡ったのも反乱を鎮圧に向かった数回程度で、彼自身イングランド人ではなくフランス人だと思っていました。


 ここまでなら弱小王朝カペー家を主人に頂くフランスの大領主くらいで済んだはずです。実際、他の大諸侯もフランス王家に敬意など持っておらず好き勝手にやってましたから(苦笑)。


 が、ヘンリーの結婚が火に油を注ぎました。南仏に巨大な所領を有するアキテーヌ公領の相続者アリエノールが相手でしたが、彼女はただの女性ではなかったのです。フランス国王ルイ7世の元正室でもありました。


 離婚しなければアキテーヌ公領を受け継ぐはずだったフランス王家は、驚愕するとともに激しくヘンリーを憎みました。ヘンリー自身一目惚れしたなどとほざいていましたが、もちろん政略結婚以外の何者でもありません。ヘンリーの中に、この際弱小のフランス王家を潰して乗っ取ってやろうという野心がなかったとは言えないでしょう。



 ヘンリー2世は、イングランド王領にアンジュー伯領、ノルマンディー公領とアキテーヌ公領を合わせ実にフランスの半分以上を領地に加え、いわゆる「アンジュー帝国」の主人となったのです。



 しかし1180年、アンジュー家にとっては大悪人、フランスにとっては大英雄のフィリップ2世が即位します。父ルイ7世の恨みを晴らすとともに、巨大になりすぎた臣下アンジュー家を弱体化させることを生涯の目標とした厄介な国王でした。


 フィリップは、巨大な勢力を弱体化させるセオリーとばかり、内部分裂を画策します。相続問題で不満のあったヘンリーの息子たちを焚きつけて父に反抗させたのです。ヘンリー2世は1188年、失意のうちに亡くなります。


 フィリップの頭の良いところは、決してアンジュー家の者たちが団結してフランス王家に当たらないようにしたことです。そのあたりの外交手腕は見事としか言えません。


 ヘンリー2世が亡くなると、今度は息子たちを仲たがいさせ争わせます。父と長兄の死によって後を継いだ二男リシャールはそのために心休まる日がありませんでした。今度は弟のジャンがフィリップに操られて自分に反抗してきたからです。


 リシャール、勘の良い方なら気付いた人もいると思いますが、英語読みリチャード、獅子心王リチャード1世(在位:1189年 - 1199年)その人です。



 以後リチャードと書きます。彼は戦争はめっぽう強い男でしたが政治や外交は不得意でした。フィリップはこの男が国王になったことをひそかにほくそ笑んだことでしょう。


 フィリップとの戦争で、個々の戦闘には勝ちながら気が付くと追い詰められている状況にさぞかし臍を噛む日々だったことでしょう。いや馬鹿だから(失礼)気付かなかったかも?(爆)


 ローマ教皇に嫌々参加させられたフィリップとは違い、リチャードは喜び勇んで十字軍に参加します。しかし適当なところで切り上げたフィリップと違い、リチャードは張り切りすぎて友軍の神聖ローマ皇帝の臣下と諍いまで起こします。


 そのために帰国途上、ドイツで拘束される始末でした。フィリップはこれを奇禍として最大限に利用しました。プランタジュネ家の末弟ジャン(英語読みジョン)を焚きつけて、兄の留守中にイングランドで王位につけさせたのです。


 しかしこれは、意外に早くリチャードが帰国したことで失敗に終わります。イングランドに上陸した兄の軍勢に早々と降服してしまったのです。



 怒り狂ったリチャードは、フランスに上陸してフィリップを追い詰めます。さすがに戦争は滅法強いリチャードでした。フランス軍は各地で敗退し、一時は不利な条件で和睦しなければいけませんでした。


 しかし、リチャードは1199年アキテーヌのシャールース城攻城中に矢を受けその傷がもとで死亡します。後を継いだのは凡庸なジャンでした。ジョン王です。


 フィリップは、さらにやりやすくなりました。ジョンはもともと父王死去後の相続の時幼年ゆえに領地を貰えなかったことから欠地王子と呼ばれていました。しかし、今度はフィリップに多くの領土を奪われたので失地王とも呼ばれることとなります。


 ジョンは、無能だったので臣下と諍いを起こしました。フィリップはそれを利用して反乱を起こさせ自分の領地に組み込みます。フィリップはジョンがイングランド国王の間に外交・謀略の限りを尽くしてノルマンディー公領、アンジュー伯領、そしてアキテーヌ公領の大部分を奪い、ジョンを大陸から叩きだしました。


 イングランドに逃げ帰った後も、ジョンの苦難は続きます。貴族たちからも不満を持たれ、マグナ・カルタを認めざるを得ませんでした。


 ジョンのことをイギリス史上最悪の君主という評価もありますが、前王リチャードが内政を顧みず戦争に明け暮れ国力を疲弊させていたというハンデがあったということは割り引かなければならないでしょう。まあ確かに有能な王ではありませんでしたが、その責任の半分くらいはリチャードに帰せられるべきだと思います。



 ともかく、巨大勢力アンジュー帝国は瓦解しました。逆に弱小王権カペー朝は名君フィリップ2世の時代に大きく成長し欧州で最も有力な王家となったのです。





 プランタジネット朝は、事実上イングランド(だけ)の王権となりました。しかしこの時の恨みが、大陸での失地回復を目指した百年戦争へとつながるのです。
 

弱者の勝利    - カペー朝年代記 -

 皆さんは世界史でフランスで最初の王朝カペー朝というのを覚えていますか?学校教育でも少しは教えたと思いますが、成立過程からしてその王権は微弱なものでした。


 987年、西フランク王国のカロリング家が断絶したために、宮宰の家系でカロリング家以外で何代か西フランク王を出したこともあるフランス公・パリ伯のユーグ・カペーが諸侯の推挙で王位に就いたのがカペー朝の始まりでした。


 カペー家はパリ周辺を治めているだけの弱小勢力で、血統の高貴さ以外は何のとりえもなくユーグ・カペーその人も凡庸でした。勢力の大きさならイングランドを征服したノルマンディー公家、婚姻によりイングランド王になったプランタジュネ家(英語読みプランタジネット家)のアンジュー伯家、南仏一帯に広大な所領をもつアキテーヌ公家などのほうがはるかに巨大な勢力でした。

 
 なぜユーグ・カペーが王に選ばれたかと言うと、こういう大諸侯の一人が王になると揉めるからです。弱小勢力のカペー家を王にしておけば互いに牽制してかえって安定するだろうという諸侯たちの読みもあり、またそのような弱い王権ならいつでも自分たちの意のままになるだろうという思惑もありました。


 そのためにカペー朝の滑り出しは困難を極めました。酷いケースでは、新王の即位の式典にも諸侯が馬鹿にして出席しないということも頻繁にありました。もちろん王の言うことなど聞く者はいません。自分たちの都合で勝手に戦争し、勝手に講和しました。


 王が諸侯に言うことをきかせるには軍事力しかないんですが、その肝心なものがなきに等しいのですからどうしようもありません。にもかかわらずカペー朝が1328年まで340年も続いたのは歴代国王の努力の賜物でした。


 力がないのなら権威と気付いたのはどの王の時代でしょうか?王たちはローマカトリック勢力と結びつくことによってそれをなしました。少なくとも5代ルイ6世(在位1108年 - 1137年)のころにはそれまでの教皇との対立を解消し和解に努めています。

 さらに歴代カペー朝の王たちは、有力諸侯との婚姻政策で領土を広げます。それも跡取りが娘一人で結婚すれば持参金として広大な領土が手にいるという美味しいところとばかり…(苦笑)。


 7代フィリップ2世(尊厳王、在位1180年 - 1223年)が亡くなるころには、王家の直轄領も増えフランスでも有力な(それでも一番じゃありませんが…)所領をもつようになりました。


 さらに教皇との結びつきを上手く利用し、南仏征服にはアルビジョワ十字軍を最大限に利用します。キリスト教の異端勢力カタリ派を討伐するという大義名分で、ヨーロッパ中から集まった十字軍の力を利用して南仏一帯を手に入れたのです。いわば他人の褌で相撲を取ったわけです。


 ローマ教皇の異端征伐とフランス王の領土拡大の利害が一致したのがアルビジョワ十字軍でした。


 このようにして勢力を拡大したカペー朝は、11代フィリップ4世(端麗王 在位1285年 - 1314年) の時代になると諸侯を完全に抑え、教皇と対立したばかりかアビニョンに捕囚するという事件まで起こします。

 カノッサの屈辱でローマ教皇に屈服した神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世とは大違いでした。それほど絶大な権力をもっていた証明でもあります。実際、このような暴挙をしたあともフリップ4世の権力は微動だにしませんでした。


 が、やはり罰があたったのでしょう。以後は短命な王が続き断絶し1328年ヴァロワ伯家にとって代わられます。これがヴァロワ朝です。しかし、ヴァロワ家もカペー朝10代フィリップ3世の子シャルルが領地を貰って独立した家でしたから、いわば一族、分家です。シャルルの子フィリップ6世がヴァロワ朝初代国王となりました。


 ちなみにその後のブルボン朝もカペー朝9代ルイ9世の子孫ですから近代にいたるまでカペー家の一族が国王として君臨したわけです。




 こうして見てみるとカペー家というのは不思議な一族です。通常はその国で最大の実力者が王朝の創始者になるものですが、この家は弱小でした。しかしかえってそのために強かでしぶとくなっていったのでしょう。生き残りにかける執念が他の王家とは違っていたのかもしれません。



 このようなユニークな一族は、おそらく世界史上あまり例がないと思います。

アレクサンドロス戦記⑤完結編   - ヒュダスペス河の戦い そして大王の死 -

 バクトリア地方(アフガン北部からトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタンにまたがる地域)のアケメネス朝残党を掃討したアレクサンドロスは、念願のインド遠征へ向けカイバー峠を越えインド西北部、パンジャブ地方へ雪崩れ込みます。



 ちなみにパンジャブというのはペルシャ語で五つの河という意味で、インダス河の支流五本の川が流れる豊かな地方でした。当然王権も早くから発達し現地の王ポロスは10万の兵を集める実力があると言われていました。


 初めはポロスを懐柔しようとしたアレクサンドロスですが、誰しも侵略者に心を許す者はいません。ポロスは歩兵3万、騎兵4千、戦車3百、戦象2百をもってアレクサンドロスの前に立ちふさがりました。

 一方マケドニア軍は各地を平定するため兵を割き、このときは歩兵1万5千、騎兵5千に減っていました。


 両軍はインダスの支流のひとつ、ヒュダスペス河を挟んで対陣します。ポロス軍はマケドニア軍が渡河しようとするとおびただしい矢を放って妨害しました。敵前渡河は難しいと悟ったアレクサンドロスは、騎兵の機動力を使って大きく迂回、夜陰を衝いて渡河します。敵の前に残した部隊が欺瞞行動をとったため、ポロス軍に気付かれず成功しました。


 ポロス軍は、マケドニア軍の一部が渡河したことに気付き、王の息子を指揮官とする騎兵部隊を差し向けますが、百戦錬磨のマケドニア軍に敵うはずもなく苦もなく撃破されます。


 ここでポロスは自慢の戦象部隊に突撃を命じますが、マケドニア軍はすでに何度か象部隊と戦い、慣れていました。接近せず遠くから矢を射かけて攻撃します。象部隊は、矢傷を負って怒り狂いあたりかまわず突進します。象が正気を失い暴走すると敵味方に関係なく踏みつぶしますが、この場合主に被害を受けたのは近くにいたポロス軍の方でした。


 戦象の暴走で大混乱に陥ったポロス軍は、その隙を衝いて渡河したマケドニア軍本隊によって撃破され、潰走しました。世に言うヒュダスペス河の戦いです。(紀元前326年)



 こうしてインドへの道が開けたのですが、ここで困った事態が起こりました。マケドニア軍の兵士がこれ以上の前進を拒否したのです。彼らにとっては故国を出て長いもので10年近く、短いものでも数年経っていました。いつ命を落とすかも知れない異郷の地で、これ以上戦うことにうんざりしていたのです。ペルシャを滅ぼしたら終わると思っていたところがインドまで行くというんですから怒るのも理解できます。アレクサンドロスがなだめすかしても駄目でした。


 仕方なくアレクサンドロスは帰途に付きました。ただ腹いせに今まで通ってきた道ではなく、一旦インダス河下流に出て海岸沿いに帰還するコースを採りました。ところがこの道は整備されておらず現地人の襲撃にも苦しめられます。一時はアレクサンドロスが死を覚悟するほどの苦境もあり、ほうほうの体で帝国の首都に定められたバビロンに辿り着きます。



 おそらくこの時大王に対する人心は離れていたと思います。アレクサンドロスは創業は得意でも守成は不得意だったんじゃないかと私は考えています。パルメニオンはじめ多くのマケドニア人を処刑し自分に対する批判を封じていましたし、マケドニア人をないがしろにしてペルシャ人を取り立てるなど彼らの感情を逆なでする振る舞いが多くありました。


 もちろん広大な領土を統治するなら、現地人も採用し味方につけることは必要でしょう。しかしどうも統治のためにどんな行動をしたか全く見えてこないのです。そればかりかアラビア半島遠征など外征計画ばかり練っていました。


 これでは帝国が長く続くはずはありません。大王の死後すぐ瓦解したことでもそれは証明されます。



 そんなマケドニア軍中の不満を敏感に感じ取っていたのか、アレクサンドロスはバビロンに落ち着くと酒に溺れる日々が続きます。そして深酒がたたったのか熱病を発症し死去しました。33歳の生涯でした。


 死の床で側近に後継者のことを尋ねられたアレクサンドロスは、有名な「最も強き者へ…」という言葉を残します。これは自分の子供がまだ幼少で到底帝国を維持することができなかったという理由もあるのでしょう。その意味ではリアリストと言えました。


 しかし、自分の家族の安全を保つ策を何ら講じなかったためディアドコイ(後継者)戦争の中で妻子ことごとくが殺されてしまいます。アレクサンドロスの血脈は完全に途絶えたのです。





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 アレクサンドロスの生涯は戦いに明け暮れる日々でした。彼にとって戦って勝つことが生き甲斐であり、その後領土をどう保つかは頭の中にはなかったのでしょう。大英雄ではあっても大政治家ではなかったと言えます。ただ不世出の戦術家であり傑物であったことは間違いありません。

アレクサンドロス戦記④   - ガウガメラの戦い BC331年 -

 イッソスの戦い、この勝敗はマケドニアとアケメネス朝ペルシャの力関係を決定付けたと言ってもよいでしょう。ペルシャはそれまでの超大国の地位を失い、フェニキア・シリア・エジプトという重要な西方の領土を奪われました。


 国王ダレイオス3世は、日の出の勢いのアレクサンドロスに使者を送り、チグリス河以西の帝国領土を割譲するから和睦しようと申し出ます。


 しかし、アレクサンドロスは軍議の席でこれを一蹴しました。これを見ていた宿将のパルメニオンは
「私がアレクサンドロス大王ならこの申し出を受けるのに…」と言ったと伝えられます。
 これに対し「私がパルメニオンならこの申し出を受けるだろう」とアレクサンドロスは返したそうです。


 おそらくアレクサンドロスは、ペルシャというよりもっと東方世界のことに思いを馳せていたのかもしれません。あくまでペルシャは通過点だと考えていたのでしょう。


 外交交渉の余地がないことを悟ったダレイオス3世は、マケドニア軍を迎え撃つためアッシリアの地に近いガウガメラに陣を敷きました。わざわざ戦車と、この時到着したインドの戦象部隊を十二分に活用するため予定戦場を平たく整備したと言われます。


 ガウガメラはシリアからメソポタミアに向かう街道上の要衝で、山間部から平野に抜けるあたり、もしここを突破されたらメソポタミアは失陥するという要地でした。


 時に紀元前331年10月。マケドニア軍は本土からの増援部隊も加えて総勢4万7千(騎兵7千、歩兵4万)。後がないペルシャ軍は100万の大軍を集めたという記録もありますが、当然これは誇張でしょう。

 古代の補給能力を考えたらせいぜい20万、おそらく実数は10万をちょっと超えたくらいでしょうか?



 マケドニア軍の布陣は黄金パターンともいうべき中央に重装歩兵ペゼタイロイと軽装歩兵ヒュパスピスタイを左右に並べ、左翼にテッサリア騎兵、右翼にアレクサンドロス直率の重装騎兵ペゼタイロイを配したものでした。

 一方ペルシャ軍は、最前列に戦車と戦象を横一列にずらりと並べ、後方に歩兵部隊を配した布陣です。騎兵は戦象・戦車部隊の左右に翼を広げる形で横に長く展開しました。

 「大軍に兵法なし」と言われます。ペルシャ軍の作戦は戦車と戦象の突破力に頼り、ともかく勢いで押し切ろうという方針でした。おそらくマケドニア軍は象を見たことがないので、パニックに陥るだろうという計算もあったと思います。



 しかし、アレクサンドロスは情報によって戦象の参加を知っていました。対抗策としてあらかじめ歩兵部隊の間隔を広く取っておくように命じていたのです。



 自軍の戦列より敵の方が長くなり、包み込まれるのを嫌ったアレクサンドロスは、左右の騎兵をを使って延翼運動を始めます。ペルシャ軍もこれにつられて横に広がり、戦場は次第に整地してない部分に達しようとしていました。起伏のある土地では戦車の力を十分に発揮できないのでダレイオスは慌てます。


 まだ戦機は熟してないはずでしたが、仕方なく戦車と戦象部隊に突撃を命じました。ものすごい土煙をあげて突撃するペルシャ軍でしたが、マケドニア軍はあらかじめ広く取っていた戦列の間を抜けさせます。というのも戦車も戦象も突撃力は強いのですが、急に曲がれないからです。

 マケドニア軍は、疾駆する敵軍の側面から投槍や弓で攻撃してこれを無力化します。ダレイオスのとっておきの秘策も無駄になったわけです。


 逆に強引なペルシャ軍の突撃で敵戦列の間に致命的な間隙を発見したアレクサンドロスは、ヘタイロイ部隊を率いてそこへ突撃します。


 ペルシャ軍も大軍に物言わせて、左右から包み込むようにマケドニア軍を攻撃していたのですが、アレクサンドロスの突撃で中軍にいたダレイオスの近衛隊が大混乱に陥ったため、これ以上の前進は躊躇されました。


 そしてまたしても、ダレイオスの戦意不足によって近衛隊は真っ先に崩れました。善戦していた他のペルシャ軍部隊もこれを見て潰走しました。一時は後方の食糧輸送部隊まで攻撃され危機に陥っていたマケドニア軍でしたが、イッソス同様敵のあっさりとしすぎた戦意に救われたのです。


 この戦いに負ければ国が敗北するのです。ダレイオスは死ぬ気で戦うべきでした。そうならなかったのはやはり彼の優柔不断さだったのかもしれません。



 戦いは完全にアレクサンドロスの勝利です。ダレイオスは首都ペルセポリスには戻らずに、東方の山岳地帯に逃げ込みました。アレクサンドロスは軍を南下させバビロン、スサ、ペルセポリスと帝国の中心部分に進軍します。まず支配権の確立を目指したのです。


 首都を制圧し武将たちを各地の太守に封じると、アレクサンドロスはそこからイラン高原を北上し、ダレイオスを追撃しました。 


 もはやダレイオスに付き従うものはわずかでした。マケドニア軍接近の報を受けると、兵士の逃亡が相次ぎ軍の体をなくします。


 一行が遠くバクトリア(アフガニスタンから中央アジアにかけての地域)に達しようとした時、逃げ切れないと覚悟したダレイオスの腹心でこの地方の太守ベッソスは、あろうことか王を殺害してしまいます。ダレイオス3世の亡骸を餌に自分だけ助かろうという卑しい魂胆でした。



 アレクサンドロスは、ダレイオスの亡骸を受け取った時、悲嘆にくれたと伝えられます。もし降伏したら命は助ける気だったのかもしれません。アレクサンドロスは部下に命じて王者の形式でこれを葬ると、ペルセポリスに送り王家の墓に丁重に埋葬したそうです。


 手柄をあげて莫大な恩賞をせしめるはずだったベッソスは、逆にアレクサンドロスの怒りを買います。主君が苦しい時こそ助けるのが忠臣なのに、その弱みに付け込んだ卑劣な行為を憎んだのです。ベッソスは残酷な方法で処刑されました。



 こうしてアケメネス朝の巨大な旧領を受け継いだアレクサンドロスでしたが、彼の野望はなくなることがありませんでした。未知の世界に憧れ遠くインドへと遠征を続けます。


 各地の豪族を破り破竹の進撃を続けるアレクサンドロスのマケドニア軍。たしかに戦えば無敵でした。しかし敵は外ばかりじゃなかったのです。軍中に厭戦気分が蔓延し始めたのもこの頃です。


 不満はアレクサンドロスに対する反逆という形になって現れます。なかでもパルメニオンの次男フィロタスが国王暗殺の嫌疑で逮捕されたことは悲劇でした。冤罪だったという説もありますが、彼も含め同調者と目されるものが次々と捕われ処刑されます。そして事件には関与していないという同僚の弁護もむなしく宿将パルメニオンまでもが処刑されたのです。


 人望あるパルメニオンまでもが殺された、この事実はマケドニア軍に衝撃をもたらしました。以後不満は表に出ることはなくなりましたが、どす黒い底流となって渦巻くこととなるのです。そして…。






 次回完結編。大王最後の会戦であるヒュダスペス河の戦いと、苦難のバビロン帰還、そして死を描きます!

アレクサンドロス戦記③   - ティルス攻防戦 BC332年 -

 ティルスは現在のレバノンにある地中海沿岸沿いのフェニキア人都市国家です。その起源は紀元前2500年ころともいわれ有名なカルタゴの母市としても知られています。


 海外交易によって栄えシドンとともにフェニキア有数の都市として栄えていました。そのティルスがなぜアレクサンドロスのマケドニア軍に激しく抵抗したか謎です。といいますのもイッソスの勝利を受けて他のフェニキア人都市はこぞってアレクサンドロスに服属したからです。


 ティルスの指導層に、ペルシャに対する忠義があったとは思えません。それより隙あらば独立してやろうとの野心さえあったように見受けられます。フェニキアがマケドニアにさえ独立を保とうとした理由の一つには、どうもその地形があった気がしてなりません。


 当時の地図を見ると、ティルスは海岸から2km離れた完全な島でした。巨大な海軍力をもっているので、ろくな海軍を持たないマケドニアに対抗できると踏んだのでしょう。たしかに海からでなければ接近できないティルスは難攻不落と言えました。



 しかし、地中海の制海権を握りエジプト侵攻を成功させるにはティルスの反逆を許すわけにはいきません。アレクサンドロスはティルス攻撃の命を下します。


 海軍を持たないマケドニア軍は、陸地から幅8mの堤防を築き、それをティルスまで延長しながら攻略する作戦を採ります。はじめ陸地に近い時はよかったのですが、堤防が沖合に延びるにつれてティルス海軍の攻撃を受け始めます。マケドニア軍は堤防の突端に攻城塔を築き、その上からカタパルト(投石機)などの射撃兵器を使いこれに対抗します。

 しかし、火矢で塔を焼かれまた作り直すというシーソーゲームが続きました。遅々として進まない築堤工事でしたが、マケドニア側に朗報が舞い込みます。

 ティルス以外のフェニキア艦隊が、アレクサンドロスを助けるために来援したのです。これには中立を保っていたキプロス、ロードスなどの海軍国も衝撃を受けます。フェニキアが完全にマケドニア側に立った以上、自分たちも中立を保てないと判断したのです。彼らもまた、ペルシャを見捨てマケドニア側に立って参戦しました。


 このとき戦場近海に展開した艦隊は数百隻にものぼったと伝えられます。地中海最大の艦隊でした。これで立場は完全に逆転しました。連合艦隊は、南北二つあるティルス海軍の軍港を封鎖します。はじめは散発的に出撃していたティルス艦隊でしたが、多勢に無勢、完全に湾内に籠ってしまいました。


 敵艦隊の妨害がなくなったので、築堤作業ははかどりました。そしてついにティルスの島をぐるりと囲む城壁にカタパルトの発射した石が届く距離まできました。この間攻撃開始から7カ月が過ぎようとしていました。


 アレクサンドロスは、堤防の先端に2基の攻城塔を築かせました。総攻撃の開始です。カタパルトから巨石がどんどん発射され城壁を崩し始めます。カタパルトの援護射撃に守られ、マケドニア兵を乗せた連合艦隊の船は、巨石で崩れた城壁から上陸し市内に雪崩れ込みました。


 こうなればマケドニア軍の独壇場です。連合艦隊は崩れた城壁めがけて波状的に陸兵を送り続けました。激しい抵抗を見せたティルス軍でしたが、大軍を前に次第に抵抗力を失っていきます。


 ティルス市の中心にマケドニア軍が達した時戦いは終わりました。ティルス軍の戦死者は市民も含めて8千人、市民3万人が奴隷として売られたそうです。一方マケドニア軍の損害はわずか400。完全勝利でした。しかし都市は破壊を免れました。戦略的要地であったからです。以後ティルスはマケドニア海軍の重要な根拠地として使用されます。



 ティルスの陥落は、交易の民フェニキア民族の凋落の始まりでした。以後フェニキアの中心は、ティルス市を母市とするカルタゴに移ります。そしてカルタゴもまたローマとの抗争に敗れ滅び去る運命にありました。



 アレクサンドロスは、ティルス攻略後も休む事はありませんでした。そのままエジプトに軍を進めます。現地のペルシャ人太守は抵抗する愚を悟り降伏しました。これによって彼はギリシャ以東の東地中海沿岸地方を完全に征服したことになります。



 そして、時は来りました。アレクサンドロスは最終決戦をするため、東へ向かいます。ペルシャ本土へ!


 次回は、ガウガメラでのダレイオス3世との最終決戦に筆を進めましょう!

アレクサンドロス戦記②   - イッソスの戦い BC333年 -

 メムノンの脅威がなくなるとマケドニア軍はアケメネス朝ペルシャの心臓部へ向けて進軍します。アナトリア高原の中央部カッパドキアから東南の地中海沿岸地方キリキアへ抜ける「キリキア門」と呼ばれる山間の隘路をぬけるとシリアへなだれ込みました。


 ここで疑問なのはなぜペルシャ側がキリキア門で迎え撃たなかったかということです。キリキア門でマケドニア軍を拘束している間に優勢な海軍を使ってマケドニア軍の補給を完全に断ち、背後から上陸して挟み撃ちする、など戦術の幅は広がります。メムノンのような戦争を大局的に捉えることのできる将帥の欠如を物語っているのかもしれません。



 ダレイオス3世率いるペルシャの大軍が現れたのは、マケドニア軍がシリアへの入り口であるベイラン峠にたどり着いた直後でした。ペルシャ軍は東北からシリア地方に入ったため、奇しくもマケドニア軍の背後を遮断した形にはなりました。急いで地中海岸の道を引き返したマケドニア軍は、ペルシャ軍が地中海に山が迫るイッソスの地に布陣しているのを確認します。時に紀元前333年10月。



 マケドニア軍の兵力は緒戦からほぼ増減なしの重装歩兵ペゼタイロイ2万2千、精鋭ヒュタスピスタイを含む軽装歩兵1万3千、打撃部隊である重装騎兵ヘタイロイを主力とする騎兵6千で計4万1千。

 一方ペルシャ軍の兵力は60万との資料もありますがこれは誇張でしょう。古代においてそんな大軍があったら補給で自滅してしまいます。妥当な線で騎兵3万、歩兵10万くらいでしょうか?




 マケドニア軍の布陣はいつもの通り中央に左ペゼタイロイ、右ヒュパスピスタイの歩兵部隊を配し、左翼にテッサリア騎兵、右翼にアレクサンドロス大王直率のヘタイロイ騎兵部隊でした。左翼と中央の歩兵部隊は副将パルメニオンが率いました。両翼の騎兵で敵を包囲して追い込み中央のファランクスで粉砕するという、所謂「ハンマーと金床」戦術を意図した陣形です。


 ペルシャ軍は、マケドニア軍に包囲されてはたまらないとばかり騎兵戦力のほとんどを海岸よりの右翼に配します。戦場中央を流れるピナロス川を押し渡らせて騎兵の一部と軽装歩兵3万余りをマケドニア軍右翼に当たらせるように側面に向けて左翼に広げました。このためにアレクサンドロスは一部の騎兵を割いて側面の敵軍を警戒させなければなりませんでした。


 ペルシャ軍中央にはダレイオス3世直率の戦車部隊、近衛騎兵、重装歩兵部隊が陣取りました。頼みのギリシャ人傭兵隊のファランクス(長槍密集歩兵陣)3万は右翼の騎兵の背後に控え、騎兵の渡河に続いて河を渡りマケドニア軍の左翼から戦列を崩す作戦です。



 戦場を眺めたアレクサンドロスは、どうもダレイオスに積極性が足らないように見受けました。自分から仕掛けるのでなく、マケドニア軍の攻撃開始を待っているように感じられたのです。


 アレクサンドロスは、ペルシャ軍左翼に渡河した側面部隊との間で致命的な間隙を発見し迷わず自らの馬を川に乗り入れました。ヘタイロイ部隊もこれに続きます。さすがにグラニコス河と違いこのときはペルシャ側から矢による妨害を受けましたが、遮二無二河を押し渡り対岸に衝くとすぐさま敵の歩兵部隊を蹴散らし始めました。


 一方、マケドニア軍左翼は優勢な敵騎兵の渡河を受けて危機に陥ります。パルメニオンは必死の防戦でこれを防ぎました。戦いの帰趨は、パルメニオンが左翼を支えている間に、アレクサンドロスが敵左翼を崩せるかどうかにかかってきました。




 アレクサンドロスは、味方歩兵の渡河を成功させるまで獅子奮迅の働きをします。こうして無事に味方歩兵が渡河し橋頭保を築くと、歩騎合同で敵左翼に攻撃をさらに激しくしました。


 精鋭歩兵部隊ヒュパスピスタイの活躍もありペルシャ軍左翼は次第に崩れ始めました。が、このときパルメニオン指揮下のマケドニア軍左翼も危機に陥っていました。急報を受けたアレクサンドロスでしたがどうすることもできません。自軍左翼の危機を救うには敵中央を攻撃して、騎兵の大軍を引き揚げさせるしかありませんでした。


 激戦が続く中、信じられないことが起こります。ほとんど戦闘に加わっていなかったダレイオスの近衛隊が王を囲んで撤退し始めたのです。戦いはまだどっちに転ぶか分からない状況でした。


 もう少し粘っていれば、数に勝るペルシャ軍が押し切る可能性も高かったのです。どうもペルシャ軍全体に戦意の低さがあったような気がしてなりません。ダレイオスもあまりにもあっさりしすぎていました。戦いの帰趨を決めたのは両軍の戦意の差だったようです。


 王が戦場から撤退したため、善戦していた右翼の騎兵も引き上げに入ります。大軍だけにしだいに混乱をきたし始め、それが潰走に変わるのに時間はかかりませんでした。



 マケドニア軍左翼のテッサリア騎兵は、これを追って渡河、追撃戦に入ります。マケドニア全軍が川を渡り終えた時戦場に残っていたのはギリシャ人傭兵隊だけでした。アレクサンドロスは、最も警戒すべき傭兵部隊を無傷で逃すつもりはありません。包み込むように攻撃を加えこれを殲滅させました。



 マケドニア軍は、敵を追撃して大きな戦果を得ます。ダレイオスの宿営地を押さえたアレクサンドロスは、莫大な財宝がそこに残されているのを発見しました。しかもダレイオスの妻と娘たちまでもが逃げ遅れて捕まります。いかにペルシャ軍があわてていたかの証拠です。


 アレクサンドロスは、戦闘での被害もあり軍をここで留めました。後世の史家は、アレクサンドロスがダレイオスの妻女に酷いことをせず、王家の一族として大切に扱ったことを褒めています。ダレイオスも逃亡先でこれを伝え聞き、感謝したそうです。



 実質的にイッソスの勝利こそが、東征の成功を決定づけたと言っても過言ではないでしょう。いまだペルシャはメソポタミア以東を確保していましたが、この戦いの結果シリアからエジプトにかけての地はことごとくアレクサンドロスに服属することになるのです。

 しかもフェニキア海軍が味方に付いたため、あれだけ苦しめられたペルシャから地中海の制海権を奪い返しました。エーゲ海の島々を占領していたペルシャ軍は、敗報を受け降伏するか、フェニキア・マケドニア連合艦隊に敗れ壊滅します。


 アレクサンドロスは、ペルシャ本土への侵攻を前に背後を固めるため、エジプト遠征を企てます。しかしこれに唯一反抗した都市がありました。それはフェニキアの有力都市、ティルスでした。


 次回は7カ月にも渡った攻囲戦、ティルス攻防戦について記します。

アレクサンドロス戦記①   - グラニコス河の戦い BC334年 -

紀元前334年、マケドニアの王アレクサンドロス3世(大王)は歩兵3万2千、騎兵5千の兵力を持って念願のアケメネス朝ペルシャへの遠征の旅に出立します。

 それは、かってのペルシャのギリシャ世界への侵略に対する復讐でもあり、さらには膨張するギリシャ世界の生存権獲得のためでもあったのです。



 当時の超大国アケメネス朝ペルシャに侵攻するなど正気の沙汰ではないと酷評するものも多かったのですが、マケドニアはギリシャ世界の最辺境にあり、意外にペルシャがガタガタになっているとの情報は入っていたのだと思います。




 マケドニア軍来るとの報告を受けたペルシャ側では、ギリシャ人傭兵隊長であるメムノンを中心に対策を練りました。メムノンはまともにマケドニア軍にあたる愚を説き、マケドニア軍は侵略軍であるために補給に弱点があると説きます。

 メムノンの策は焦土戦術でした。マケドニア軍の侵攻ルート上の町や村を焼き補給できなくするとともに、敵の補給路を叩き徹底に追い込むという作戦でした。


 しかし、これには現地小アジアに駐屯するペルシャ人将軍や太守の間から猛反発が起きます。統治する立場の彼らにとって、自分の統治下の領地を荒廃させるなど言語道断だったのです。しかも一介の外国人傭兵隊長のくせにダレイオス大王からの信任厚く、指揮権まで与えられたメムノンに対する反発も大きかったようです。


 ペルシャ軍の弱点は指揮系統の混乱でした。メムノンに一応の指揮権は与えられていましたが、他の将軍や太守は同格で、強権的な命令ができなかったのです。軍議はグラニコス河の線でマケドニア軍を食い止めるという常識的な線で落ち着きました。


 これはアレクサンドロスにとっては天佑でした。もしメムノンの作戦が採用されたら東方遠征どころか小アジアの地でマケドニア軍が壊滅しかねない危機だったのです。




 紀元前334年5月、両軍はぶつかります。その兵力はマケドニア軍がマケドニアンファランクスを形成する重装歩兵ペゼタイロイ2万2千、精鋭のヒュパスピスタイを含む軽装歩兵2万、重装騎兵ヘタイロイを主力とする騎兵5千で合計4万7千。一方ペルシャ軍はファランクスを形成するギリシャ人傭兵隊5千を主力とする歩兵1万5千、騎兵1万。その他の補助部隊も含めて4万弱だったと伝えられています。


 両軍の布陣はグラニコス川を挟んでマケドニア軍が中央左にペゼタイロイ、中央右にヒュパスピスタイ。左翼にテッサリア騎兵、右翼はアレクサンドロス直率のヘタイロイ重装騎兵を配するいつものオーソドックスな「ハンマーと金床」用陣形でした。

 しかし、これに対してペルシャ軍の布陣は、川岸に近い前陣に騎兵、後陣に歩兵を配するという理解に苦しむものでした。通常は敵の渡河攻撃に備えて中央に歩兵、左右に騎兵を配するのが常識的です。あるいは騎兵を背後に置いて、敵の迂回攻撃に備えるという手もありますが。


 騎兵は攻撃力はあるのですが、防御力が弱いためこれでは有効な働きはできません。もちろんすべてが弓騎兵で、敵の渡河攻撃中に矢の雨を降らせるという作戦なら理解できるのですが、「アレクサンドロス大王東征記」などを読んでもどうもそのような編成ではなかったようです。



 私は、ペルシャ軍が統一的指揮者を持たず各自がてんでバラバラに布陣した結果ではないかと考えています。メムノンのギリシャ人傭兵隊に手柄を与えないため自分隊の騎兵を前面に押し出したのかもしれません。


 これでは戦う前から勝敗は決まってしまいます。おそらくアレクサンドロスも敵の布陣をみて与し易しと見たのでしょう。大胆にも自らが先頭になって馬を河の中に入れ、最も危険と言われる敵前渡河攻撃を開始しました。


 驚いたことに敵からの攻撃は散発的な矢の攻撃だけでした。アレクサンドロス率いるヘタイロイ部隊は、すぐさま前面のペルシャ騎兵部隊に襲い掛かります。ペルシャ軍がマケドニア騎兵に気を取られている隙に歩兵部隊も無事渡河に成功し、歩騎合同で攻撃を開始しました。


 比較的軽装だったペルシャ騎兵はこれを支えきれず潰走します。敵中に取り残される形となったギリシャ人傭兵隊も、単体では戦局を覆すことはできず、やむなく撤退に移りました。



 マケドニア軍の圧勝でした。ペルシャ軍の小アジアにおける実質陸軍兵力はこれだけだったので、この戦いの結果、アナトリアにおけるマケドニアの覇権が確立したといってもよいでしょう。



 敗戦の報告を受けたペルシャ王のダレイオス3世は激怒します。ペルシャ人将軍たちを召喚しあらためてメムノンにアナトリアの全指揮権を与えました。



 メムノンは、精鋭のマケドニア軍と正面からぶつかるのを避け、もっぱら補給路を叩く作戦に切り替えました。ペルシャ軍の有利な点である海軍力をフルに使う戦術です。


 ペルシャ軍に属するフェニキア艦隊を使ってアナトリアとギリシャ本土の連絡を断ち、エーゲ海沿岸の島々を占領してマケドニア遠征軍を敵中に孤立させる作戦でした。


 これにはアレクサンドロスも困り果てます。マケドニア海軍が弱体なため手も足も出ないのです。


 

 困り果てたアレクサンドロスは、地中海沿岸のペルシャ海軍の基地を陸上から攻撃して占領することで対抗する作戦をとります。それは時間との勝負でした。マケドニア軍の補給が尽きるのが先か、それともペルシャ海軍の海上封鎖を解くのが先かの。



 ここでアレクサンドロスにとっては幸運、ペルシャ側にとっては不運な出来事が起こりました。ペルシャの指揮官メムノンの急死です。病死だと伝えられていますが、マケドニア軍を完璧に抑え込んでいただけにペルシャにとっては致命的な出来事でした。


 メムノンの方針は受け継がれましたが、主将を欠く状況では海上封鎖も徹底できずマケドニア軍は一息つくことができたのです。



 戦争の流れはちょっとしたきっかけで潮目が変わるといわれますが、メムノンの急死はまさにこれでした。最大の強敵を無くしたアレクサンドロスは、以後世界史上でも稀にみる大遠征を成功に導くのです。

2009年11月 6日 (金)

古代都市国家テーベの最期

 古代ヘラス(ギリシャ人が呼んだ自分たちの都市国家群=文明世界の呼称。)はスパルタとアテネ(アテナイ)を中心として発展しました。


 しかし、ボイオティア地方で政治にペロピダス、軍事にエパミノンダスという二人の傑物によって急速に台頭したテーベ(テーバイ)が、レウクトラの戦いで有名な斜線陣を使って強国スパルタを破ったことによって3極時代を迎えます。

 泥沼のペロポネソス戦争を経験した後では、ヘラス世界はそれ以上の発展を望めなくなっていたのです。文明が停滞したヘラスの周辺部では、ギリシャ人たちがバルバロイ(蛮族)と蔑んだ国、都市国家を形成せず部族国家の域を出ていなかったマケドニアが、英主フィリッポス2世によって俄かに強大化しヘラスの覇権に挑戦しました。


 紀元前338年、カイロネイアの地でマケドニアと、ヘラスの代表選手であるテーベ・アテネ連合軍が激突します。兵力はどちらも3万前後でしたが、皮肉にもエパミノンダスの斜線陣を人質時代にテーベで学び、独自に発展させたフィリッポス2世の「ハンマーと金床戦術」によって連合軍は完膚なきまでに叩き潰されます。

 以後マケドニアのヘラスに対する指導的立場が確定し、スパルタやアテネのような旧大国といえどもフィリッポスに対し、面と向かって楯突くことができなくなりました。


 各国は反マケドニア派の政治家たちを追放し、親マケドニア派の政治家による集団指導体制に移行せざるを得なくなります。特に反抗的だったテーベは、政権交代だけでなく都市の象徴たるアクロポリス「カドメイア」にマケドニア軍の駐留を認めるという屈辱的講和を結ばされました。



 しかし、フィリッポス2世は念願のアケメネス朝ペルシャヘの遠征に入る目前の紀元前336年暗殺されてしまいます。後を継いだのは嫡男アレクサンドロス3世、後に大王と呼ばれるその人です。このとき20歳でした。


 国王の代替わり直後は、どの国でもある程度不安定になるものです。しかもアレクサンドロスは父の遺志を受け継ぎペルシャ遠征を実行するつもりでしたから、王位を継ぐとすぐ後顧の憂いを断つためトラキア、サルマティアなどへの遠征に向かいます。

 剽悍な山岳民族に苦戦するマケドニア軍でしたが、この遠征でドナウ河流域まで達したと伝えられますから一応成功だったといえるでしょう。



 しかし、国王の不在は反マケドニア勢力にとっては抗し難い誘惑です。希望的観測からアレクサンドロスが遠征先で戦死したという噂が流れるほどでした。


 反マケドニアの急先鋒テーベでも、国内に残った民衆派(=反マケドニア派)が国外追放されていた民衆派の指導者たちを呼び戻し一斉に蜂起、マケドニア派の政治家を殺し、駐留マケドニア軍をカドメイアに包囲しました。紀元前335年のことです。マケドニア軍は、カドメイアを城塞化していたためすぐには落ちませんでしたが、糧道を断たれていため陥落は時間の問題でした。


 急報を受けたアレクサンドロスは、すぐさま3万5千の軍勢を率いて取って返します。テーベ反乱軍の指導者たちは、すっかりアレクサンドロスが戦死したと信じこんでいたため、マケドニア軍が接近したという報告を受けても別のアレクサンドロスという将軍が攻めてきたと勘違いしていたくらいです。古代においては同名が多く、事実マケドニアにも何人もアレクサンドロスという名前がいました。


 軍を率いるのがどうやら国王本人であるらしいと気付いた時には手遅れでした。野戦の機会を失い、マケドニア軍によってテーベ市はすっかり包囲されてしまいました。


 アレクサンドロスは、包囲した後もしばらくは攻撃を控えました。テーベの指導者たちが反省して降伏するのを待っていたとも言われています。しかしテーベ側はこのせっかくのチャンスを逃し、徹底抗戦をする構えを見せました。


 放っておいてはカドメイアの友軍が飢えてしまうため、アレクサンドロスはついに攻撃命令を下します。もともと火事場泥棒的に蜂起し籠城の準備をろくにしていなかったテーベは、マケドニアの精鋭の前に城壁を簡単に突破され敗北しました。


 マケドニア軍は無抵抗の市民には危害を加えなかったといいますが、残虐だったのはかってボイオティア同盟下でテーベの支配を受けていた諸都市の兵たちでした。過酷なテーベ支配に対する恨みが深かったためと伝えられています。


 アレクサンドロスの戦後処理は過酷を極めました。マケドニア派で今回の蜂起に反対し弾圧を受けていた市民を除くすべての住民を奴隷に売り、テーベの町も復興できないように徹底的に破壊されます。


 これを見ていたアテネ、スパルタは震え上がりました。アテネなどはデモステネスなどがテーベの反乱に呼応する動きを見せていましたからなおさらです。


 古代ギリシャの地図を見ていただくと分かる通り、テーベのあるボイオティア地方と、アテネのあるアッティカ地方はすぐ隣にあります。


 アレクサンドロスの過酷な処理は、他のヘラス諸国への無言の圧力でもあったのです。各都市は争ってマケドニアに恭順する使者を送りました。アレクサンドロスは他の都市は寛大に接しましたが、アテネには反マケドニア派の政治家全員の追放を要求します。

 初めは言を左右にしてごまかそうとしたアテネ側も、マケドニア軍が一向に引き上げないのを見てアレクサンドロスの本気を悟ります。反抗の態度を見せればすぐ南下してアテネを包囲できる位置にいたからです。おそらくアテネに味方する都市はいないでしょう。それは伝統あるアテネの滅亡、テーベのように跡形もなく消し去られることを意味しました。



 ついにアテネも屈服します。危機を悟ったデモステネスが亡命したのをはじめ、反マケドニア勢力はことごとく追放されました。



 こうして再びギリシャ世界を統一したアレクサンドロスは、紀元前334年念願の東方遠征に向かいました。




 テーベのその後はどうなったでしょうか?大王死後の後継者戦争の時、ディアドコイの一人であるカッサンドロスが一時的に復興しますがかっての栄光を取り戻すことはできませんでした。


 アンティゴノス朝マケドニアの支配を経て、最終的にはローマの支配下に組み入れられます。しかし一地方の小都市以上ではありませんでした。それはギリシャ全土でさえそうでした。もはやギリシャの時代ではなくローマが地中海世界の主人公だったからです。

ロンドンの誕生とボーディカ女王の乱

 パリの歴史に味をしめて今度はロンドンの歴史を記事にしました(笑)。人気なさそうだけど「世界の都市の歴史」でシリーズ化しようかな?ローマとかの有名どころは外してカイロとかブタペストとかのマニアックなところで(爆)。






 もともとブリテン島に住んでいたのはガリア人と同じケルト系民族でした。民族学に詳しくないのでイベリア=ケルト系とどう違うのかそれとも同じなのかは分かりませんが、おそらくこの地に最初に入った外国人は有名なユリウス・カエサルかもしれません。


 ガリア戦記にも言及されっていますが、このときはガリア征服のために後顧の憂いを断つのが目的でしたから一時的な占領にすぎなかったと思います。



 しかし、ローマ帝国が発展していくにつれブリテン島にもローマ人の入植が行われついには属州ブリタニアとしてローマの支配下に入ります。ローマ人は属州の首都としてテムズ川の北岸にロンディニウムという町を建設しました。ケルト人の言葉で「沼地の砦」を意味するそうです。



 歴史はいつも勝者の立場に立って書かれるためブリタニアがまるで無人の地でローマ人によって開発されたと思いがちですが、先住のケルト人にとっては侵略以外の何物でもありませんでした。

 ブリタニア南部のケルト人は、スコットランドの剽悍な山岳民族ピクト人などとは違い比較的おとなしかったと言われていますが、ここまであからさまに侵略されると我慢の限界に達しました。おそらく支配者ローマ人による土地の収奪や、徴税請負人による過酷な税の取り立てがあったのでしょう。


 ついにケルト人達は、イケニ族の女王ボーディカを旗頭にローマ支配に対する反乱に立ち上がります。紀元61年といいますから、悪名高いネロ皇帝の時代でした。


 ボーディカは背が高く、腰下まで伸ばした赤い髪を靡かせ、荒々しい声と鋭い眼光を持っていたと伝えられています。夫であった先王プラスタグスをローマ人に殺され自身と娘たちまでローマ人に辱められたため恨み骨髄に達していたそうです。



 初めこの反乱を甘く見ていたローマはわずかな討伐軍を送っただけでしたが、あっさりと返り討ちにされてしまいます。それどころか反乱軍はロンディニウムまで落とす勢いでした。

 現地のローマ軍司令官・属州総督ガイウス・スエトニウス・パウリヌスは、数十万にも膨れ上がった反乱軍に対処するため、ブリタニアにいたローマの正規軍団2個軍団を呼び寄せ野戦によって雌雄を決しようと考えます。


 両軍はロンディニウムからウィロコニウムの間のワトリング街道上で激突しました。兵力比は伝えられるところによると反乱軍23万、ローマ軍1万余りと圧倒的な差があったそうです。


 しかし地中海世界を制したローマ軍の力は絶大で、ガイウス・スエトニウス・パウリヌスの優秀な指揮もあり反乱軍はこの戦いで壊滅してしまいます。おそらく寄せ集めの反乱軍ではウェリテス(散兵)の投槍からはじまり3段の戦列(ハスタティ、プリンキペス、トリアリィ)と両翼の騎兵を有機的に運用するローマの組織だった戦術に対応できなかったのでしょう。
(ただしマリウスの軍制改革で兵種の区別はなくなり、こういう呼称が残っていたかは不明。元は財産に応じて分けられていたが、すべて志願兵となっていた。投槍・弓を使う散兵とグラディウス(スペイン式短剣)、槍を使用する兵種の区別はあったらしい)


 記録によるとローマ軍の戦死者が400名に対し、反乱軍は死者8万を数えたともいいます。女王ボーディカはこの敗戦に絶望し毒を仰いで死んだとされます。また一説では戦場からは逃れたものの病気にかかり死去、荘厳な埋葬が行なわれたとも言われています。


 ともかくこれによって組織だったケルト人の抵抗は消え去り、ローマ帝国によるブリタニア支配が確立しました。余談ですがスエトニウスはこの軍功を背景に66年に執政官(コンスル)となりました。皇帝ネロ死去後に起こった内戦でも皇帝候補オト(のちに皇帝になる)の軍司令官となりクレモナの戦いで勝利するなど活躍しました。ただ、その晩年ははっきりしていません。



 ローマも、過酷な支配が住民反乱を招いたと反省しその後は穏健支配に改めたそうです。5世紀初めごろまでローマ支配が続きますが、ロンディニウムは人口4万を数え繁栄しました。

 その後七王国時代にはウェセックスの首都とされます。おそらくこの時代にロンドンと名前を変えたと想像します。以後ロンドンは歴代イングランド王朝の首都として栄え現在に至っています。

パリ攻防戦とフランス王国の成立

 フランスの首都パリは、もともとセーヌ川の中洲シテ島を中心に発達した都市です。ケルト系パリシィ族の集落がローマ統治下で発展し都市ルテティアの原型となりました。

 いつしかルテティアはパリシィ族の町という意味からパリと呼び慣らわされていきます(212年改称?)。一時は有名な背教者ユリアヌスが西方副帝のときに本拠地としたほどの要地でした。


 パリの重要性はフランク王国統治下でも変わらずガリア地方(現フランス)の中心都市として順調に発展します。

843年、カロリング朝フランク王国が三つに分裂するとパリは西フランク王国の統治下にはいります。西フランク8代王ロベール1世が923年死去すると、王位を継承したのは嫡男ユーグ大公ではなくロベールの娘婿でユーグの義兄ラウール(ドイツ語読みルドルフ)でした。

 これはユーグがまだ成人に達しておらず、統治能力を危ぶまれたからだと言われています。というより内実はユーグの継承を好まない宮廷勢力の暗躍があったことは想像に難くありません。


 ところで、当時のフランク王国はヴァイキングの襲来に悩まされていました。オールと帆併用の軽快な船いわゆるヴァイキング船を操り海岸地帯はおろかセーヌ川などの大河をさかのぼり内陸部まで攻めのぼって略奪を働く彼らを撃退するためにフランク王国の国力は大きく衰えました。

 
 885年の襲来は特に酷いものだったと伝えられます。デンマークのヴァイキングを中心に3万もの蛮族がパリを包囲したと言いますから、この数が話半分としてもすごい規模です。


 このときは王家の一族であるアンジュー家のロベルトとその息子でパリ伯であるウードの活躍で10か月の包囲を耐え撃退しました。ウードはこの武勲でのちに6代王を継ぎますが、実はユーグはウードの甥にも当たる血統でした。

 このためかユーグはパリ伯を受け継ぎ、ラウールが936年死去するまでにロワール川とセーヌ川の間の地域のほとんどを獲得したそうです。

 西フランク王位こそ継ぎませんでしたが、ユーグはガリアで最も豊かな地方であるパリ市を中心とするイル・ド・フランス地方を獲得できたのですから、名よりも実を取ったわけです。


 ここまで書いてきてユーグの名にピンと来た人はかなりの世界史通です(笑)。実は彼の息子ユーグ・カペーこそフランス王国初の王朝であるカペー朝の創始者なのです。


 西フランク王国が987年12代ルイ5世の死去で断絶すると、王家の一族であり有力なパリ伯でもあったユーグ・カペーが諸侯の推挙で選ばれ王位を継ぎます。カペー朝(987年~1328年)の成立です。


 こうした誕生経緯からカペー朝の権力基盤は弱いものでしたが、豊かなイル・ド・フランス地方を基盤としていたため次第に盛り返し第7代フィリップ2世(尊厳王)(在位:1180年~1223年)のときに絶頂期を迎えます。


 王朝の発展とともに首都パリもまた発展を続けました。その後ヴァロワ朝、ブルボン朝時代も一時の例外を除き首都であり続けます。



 もしもヴァイキングの侵略を防ぎきれずパリが陥落していたら、現在の花の都パリは存在しなかったかもしれないと思うと歴史の不思議さに感嘆せざるを得ません。

なぜフランク族だけが生き残れたか?

 皆さんは世界史でゲルマン民族の大移動を習われたと思います。4世紀~5世紀東方から襲来したフン族により、ローマ帝国辺境にいたゲルマン諸族が玉突きのように押し出されローマ領内になだれ込み、それが引き金となって東西に分裂したローマ帝国のうち西ローマ帝国が滅亡したという事件です。


 有名どころでは、西ゴート族、東ゴート族、ヴァンダル族、ランゴバルト族などですが、ほとんど移動した先で一時的には王国を建て繁栄しても結局滅んでしまい、現在では周辺民族に溶け込み民族としては存在していません。


 その中でフランク族だけが生き残り、現在のフランス・ドイツ・イタリアの原型となっています。もちろん民族としてのフランク族自体は、これらの国民に溶け込み跡形もないのですが、現代につながる国家の祖となったのは彼らの建てたフランク王国だけでした。


 私は、この違いは何かと常々疑問に思っていました。民族としての戦闘力自体は各民族あまり違いがなかったように思えます。むしろローマ軍と戦って勝てる力を持った東西ゴート族のほうが強力だったかもしれません。可能性としては地理的条件ですがどうもはっきりしません。



 フランク族は、もともと現在のベルギーからオランダ辺りの地域に住んでいました。【ラテン語ではFranci(フランキ)。語義は「自由な人」「勇敢な人」を意味すると言われ、英語で率直な性格を表す「フランク」の語源ともなった。】(ウィキペディアより)



 カエサルの『ガリア戦記』に登場せず紀元3世紀ころの文献に初めて登場することから、割合新しい勢力かつ古くからの民族の複合体ではなかったかと推測されています。私はこのあたりに生き残りの秘密があったような気がしてなりません。


 さらにフランク族は、本拠地からあまり移動していません。他の民族と違いもともとの居住地から南下してガリア(現フランス)に勢力を広げただけです。これはガリアの地がローマによる開発で豊かになっていたということもありますが、フランク族の故地もフン族による被害を受けておらず一族をあげて移動する必要がなかったという理由もあるでしょう。


 そしていくつかの民族の複合体であったため、征服地の住民とも柔軟に対応することができたとも考えられます。北アフリカに渡ったヴァンダル族がアリウス派を信仰しカトリックを弾圧したのとは違い、あっさりとローマカトリックに改宗したことでもそれが分かります。


 本拠地と征服地が隣接してたため、民族の融合がすんなりできたことも大きかったでしょう。


 さらには、勢力を盛り返した東ローマ帝国のユスティニアヌス大帝の討伐を受けなかったこともあります。大帝にとって辺境のガリアの地は魅力を感じなかったのかもしれません。もし遠征を受けていたら滅亡していた可能性があります。

 当時の東ローマ帝国は、ベリサリウス、ナルセルなどローマ史上でも有数の名将がいましたし、カタクラフトなど軍事面でもおそらく当時世界一の実力を持っていましたから。

 

 こうして見てみると

 ①複合民族としての柔軟性(とくに宗教面で)
 ②フン族の被害をほとんど受けなかった
 ③すぐ南隣りに豊かなガリアがあったため遠くまで移動する必要がなかった
 ④本拠地からの拡大発展になったため勢力が根付きやすかった
 ⑤東ローマ帝国の討伐を受けず、外交的に懐柔されるだけだった


 などの理由で、フランク族は生き残れたのかもしれません。


 フランク王国はその後順調に発展し、王権はメロヴィング朝からカロリング朝に移りましたが、現在のフランス・イタリア・ドイツを征服するまでになります。

 カロリング朝2代、カールはヴァチカンに領地を寄進しローマ皇帝として戴冠するまでになるのですから時代の移り変わりを感じます。



 その後フランク王国は、皇位継承の問題でもめ3つに分裂します。冒頭に書いたとおりそれがその後のドイツ・フランス・イタリアに発展していくのです。

フス戦争とマスケット銃   - 知られざる軍事革命 -

 世界史上、それまでの戦争のやり方を変えるきっかけとなった事件がいくつかあります。一つは鐙(あぶみ)の発明、そしてもう一つはマスケット銃の発明です。


 鐙を使用することによって、遊牧民族の独壇場だった騎兵に遜色ない能力を持った騎兵部隊を農耕民族でも編成できるようになり、歩兵・騎兵の複合戦術を農耕民族側が取れるようになりました。

 一方マスケット銃は、それまでの主力だった騎兵をろくに訓練していない農民兵でも撃破できる可能性を持ったという意味で画期的でした。


 それまで火薬を使った武器は、モンゴルが使用した鉄砲、支那大陸で発達したロケット花火状の兵器など存在してはいました。しかしこれらは殺傷兵器というより爆発音の大きさで人や馬を驚かすという代物だったのです。


 しかしマスケット銃は違いました。鉄製の筒の片方を閉じ、銃口から火薬と弾丸を詰め火縄などで点火することによって弾丸を発射するという機構をもったマスケットは、長弓や弩(クロスボウ)と違い、ほとんど訓練が必要ありません。どんな素人が使っても威力は一定で強い殺傷力を持ちます。



 当時戦争の主役であった国王や貴族の騎士たち、あるいはスイス人傭兵のような歩兵戦闘のプロ達と、農民たちが互角に戦えるようになったのです。




 マスケット銃が世界史上初めて登場したのは、1419年~1439年ボヘミア(プラハを中心とするチェコ中西部)とポーランドで起こったフス戦争でした。


 世界史を学んだ方なら記憶の片隅にあるかもしれませんが、フス戦争はカトリックの改革をめざしたヤン・フスが処刑されフス派が弾圧されたことに怒ったフス派住民によって起こされました。世界史上の意味合いではプロテスタントの先駆けともいえますが、実は軍事的にも大きな意味をもった戦争でした。


 フス派にはボヘミアの下級貴族もいましたが、大半は農民でした。敵は神聖ローマ帝国、ポーランド王国です。強大な騎士団、ランツクネヒツ・スイス人傭兵隊などのプロの軍隊に対抗する術を持たない彼らが、必要に駆られて発明したのがマスケット銃だったと言えるでしょう。


 当時のボヘミア地方は、フランドル地方とともにヨーロッパでも商工業が発達した地方でした。現代でもチェコは銃器で有名(Cz75など)ですが、そのころも工業先進地帯だったのです。


 フス派の反乱軍は、ボヘミア下級貴族出身のヤン・ジシュカを指導者に迎え神聖ローマ皇帝の組織したボヘミア十字軍を幾度も破ります。その得意戦法は馬車を横一列、あるいは円形にぐるりと囲み、それを盾として、マスケット銃を撃ちまくるというものでした。もし敵が接近してきたら、馬車の上、あるいは隙間から槍で攻撃したため、遠距離戦でも接近戦でも有利に戦えました。


 これには戦いのプロである騎士団も傭兵隊も辟易します。マスケット銃を操る戦争の素人であるはずの農民たちに幾度となく苦杯を舐めさせられました。


 反乱そのものは、指導者ヤン・ジシュカが1424年モラヴィア遠征中にペストにかかって死亡したことでフス派内部で対立が激化し、抗争を始めて力が衰えたところをカトリック側に衝かれ鎮圧されてしまいます。


 しかし、この戦争以後マスケット銃がヨーロッパ中に急速に普及することになったのは、騎士や傭兵たちがその身をもって威力を十分に味わったからでした。また戦場が東欧であったため、オスマントルコなどにも情報が早くから伝わりイエニチェリの主力武器としても採用されています。


 もしかしたら、弾圧を逃れたフス派の残党がイスタンブールに逃れてマスケット銃を伝えたのかもしれません。


 以後マスケット銃(とそこから発達したライフル)を装備した歩兵が、それまでの花形であった騎士に代わって戦場の主役に躍り出ます。騎兵の復権は第1次大戦で登場した戦車まで待たなければなりませんでした。

イエニチェリとマスケット銃

 「イエニチェリ」、高校時代に世界史を選択した人なら覚えている人もいるかもしれませんが、オスマントルコの常備歩兵軍団の事です。


 イスラム社会では伝統のマムルークなどの軍人奴隷と同様、戦争捕虜や征服した土地のキリスト教徒の中で優秀な青少年を選抜し、イスラム教に改宗させたうえで厳しい訓練を施しスルタン(皇帝)直属の親衛隊として編成しました。それが「イエニチェリ」です。


 イエニチェリと言えば、マスケット銃(日本で言う火縄銃も含む。マスケット銃のうちマッチロック式が火縄銃に当たる)とセットで語られることが多いですが、腰に曲刀をさげ、マスケット銃で武装した軽装歩兵というのが(知ってる人の)一般的なイメージだと思います。


 イスラム圏の軍隊といえば騎兵というイメージが強いですが、オスマントルコはこのイエニチェリ軍団を使って、中東地域を征服します。イランに興ったサファビー朝などはオスマントルコとの戦争で自慢の騎兵部隊がイエニチェリの前に完敗し、急きょ西洋の技術を取り入れ砲兵部隊とマスケット銃隊を編成したくらいでした。



 ところで、イエニチェリが創設されたのは14世紀後半のムラト1世の時代だと言われています。マスケット銃(先込め式歩兵銃)が世界史上初めて実戦に使われたのは15世紀のフス戦争だと言われていますから、初期の装備は何だったのでしょうか?残されている絵画などから想像すると、おそらく弓や槍を装備していたものと思われます。これだとただの軽装歩兵です。どんなに訓練を積んでもたかが知れています。


 イエニチェリが、ヨーロッパで登場した新兵器マスケット銃をいち早く取り入れたことがオスマントルコ覇業の原点だったのかもしれません。


 ここでマスケット銃について触れておくと、元込め式の歩兵銃だという事は共通しているのですが、発火装置の違いでいくつかのタイプの分かれます。


 おそらく皆さんが一番知っているのがマッチロック式(=火縄銃)でしょう。これは

『引き金を引くと火をつけた火縄が火皿と呼ばれる部品に落ちる。火はそこから口薬(くちぐすり)と呼ばれる微粉末黒色火薬に引火し(胴薬)(どうぐすり)または玉薬(たまぐすり)と呼ばれる装薬に伝わり、そこで一気に燃焼(爆燃)、弾丸を射出する仕組み』(ウィキペディアより)
 
 というものです。最初に登場したのがこの方式でした。その後ホイールロック式のマスケット(説明が面倒くさいので仕組みは略します)が登場しますが、複雑な機構だったのが災いして普及しませんでした。

 1620年ころ、フリントロック式という火縄の代わりに発火装置にフリント(燧石) を使用し、火蓋をバネで閉じる新式のマスケット銃が発明されるとマスケット銃装備歩兵の威力は世界中で高まりました。


 雨に弱いマッチロック式と違い、汎用性が高くなったのです。イエニチェリはこれらのマスケット銃を導入してオスマン朝軍の中核部隊に成長します。



 小アジア、バルカン半島、シリア、イラク、アラビア半島北部、エジプト、モロッコを除く北アフリカマグレブ地方全土という広大な領土を征服したのはまさにイエニチェリ軍団と精強な騎兵部隊の力でした。当時のオスマン軍は、騎兵・歩兵・砲兵を有機的に運用できた近代的軍隊だったといえるでしょう。



 しかし、その重要度が増すにつれイエニチェリ軍団は政治的発言権を増大させていきます。まさにエジプト・アイユーブ朝が軍人奴隷・マムルーク軍団に乗っ取られたように、オスマン朝でもスルタン位を左右するようになっていきます。専門集団であることがかえって災いし政治集団化したのです。


 18世紀には時の皇帝セリム3世が、イエニチェリ軍団改革に乗り出したところ逆に反発をうけ、廃位、幽閉され、のちに殺害されてしまうという事件まで起こりました。


 後を継いだメフムト2世は、イエニチェリの近代化を諦め、新規に「ムハンマド常勝軍」という西洋式近代編成の歩兵軍団を編成します。そして1826年オスマン朝の癌となっていたイエニチェリに対し、新式軍団を使ってその兵舎を急襲、殲滅してしまいます。


 以後、イエニチェリが再び編成されることはありませんでした。



 オスマントルコの隆盛に大きく寄与したイエニチェリでしたが、その近代化を大きく阻んだのも彼らの存在でした。エジプトで伝統のマムルーク軍団が、風雲児ムハンマド・アリーによって完全に滅ぼされたのが1811年でしたから、世界史的に見ても旧来の軍事組織が通用しなくなってきていた時期だったのでしょう。


 以後、世界は先込め式から元込め式のスナイドル銃に進化させた西洋世界の独壇場になっていくのです。

三王の戦い   - マハザン川の悲劇 -

 歴史に名高い三帝会戦、アウステルリッツの戦いは有名です。フランス皇帝ナポレオンと墺・露の皇帝が一つの戦場に会した戦いでした。一方、おそらく誰も知らないであろう三王の戦いというものもあります。


 戦場もモロッコというマイナー過ぎるところ。しかしヨーロッパ史においてはけっこう重要な戦いだったりするのですから歴史は面白いのです。

 では、誰も知らないこの戦いをご紹介しましょう。



 モロッコに生まれ海峡を渡ってイベリア半島まで支配した強力な王朝であるムラービト朝、ムワッヒド朝。そのあとのマリーン朝はイベリア進出こそしませんでしたが西マグレブの大国としてまだまだ健在でした。

 ところが1509年、モロッコにサアド朝が成立すると様相は変わってきました。1492年グラナダ王国の滅亡によってレコンキスタを完成させたスペインは、半島統一の余勢を駆って海外進出に向かいました。隣国ポルトガルもこれに追随し海外に植民地を求めて進出します。

 初めスペインはハプスブルグ家が支配したため、オスマントルコと対決すべく地中海方面への進出を優先させていました。ポルトガルは逆に大西洋岸を南下する政策を取ります。


 モロッコ沿岸もその例外ではありませんでした。大西洋岸の主要港をポルトガルに支配され植民地にされました。さすがにモロッコ内陸部は人口も多く小国ポルトガルには手に負えなかったため国土全部が植民地になることはありませんでしたが、時のポルトガル王、セバスティアン1世は内陸部進出の機会を虎視眈々と狙っていたのです。



 このころにはマスケット銃など火器の優越で、西洋とイスラムの力関係が逆転していました。さらに航海術でも優れていたスペイン、ポルトガル勢力が一時期世界の大半を植民地にしていたのも頷けます。



 セバスティアン1世の野心は、ひょんなことから実現しそうになります。1578年時のモロッコ王(サアド朝第4代スルタン ムレイ・ムハマッド)が、オスマン朝の支援を受けた叔父、ムレイ・アブデルマルクに王位を奪われるという事件が起こりました。

 ムレイ・ムハマッドは、亡命しあろうことかポルトガルに支援を求めたのです。この千載一遇のチャンスをセバスティアン1世は逃しませんでした。


 簒奪された前国王に王位を取り戻すという大義名分のもとに、外国人傭兵6千を含む1万7千の軍を率いモロッコ、タンジールに上陸しました。


 一方、ポルトガル軍上陸の報を受けたムレイ・アブデルマルクも数万の兵を率いてこれを迎え撃ちます。


 セバスティアン1世は十字架を掲げ、まるで十字軍の気分で戦いに挑みます。侵略ではなくモロッコをイスラム教徒の手から解放するのだという思い上がった考えだったのかもしれません。これを見てもムレイ・ムハマッドを助ける気がさらさらなかったことが分かります。

 通常なら火力に優れたポルトガル軍が圧勝し、サアド朝が滅亡、めでたくモロッコ全土がポルトガルの物になるはずでした。


 しかし、セバスティアン1世は大きな勘違いをしていたのです。モロッコはヨーロッパのすぐ南、わずか数十キロの海峡で隔てられているだけです。アフリカやアジアの原住民とは違って彼らにマスケット銃がないと誰が断言できたでしょうか?

 野心に曇って敵情視察を怠っていたとしか思えません。火器はポルトガル以外にもスペインもあります。さらにオスマントルコも持っているじゃありませんか。それらの火器がモロッコに届いていないはずがありません。


 ポルトガル軍は、相手を侮っていたためろくに準備もせずモロッコ国内を進みました。モロッコ軍はジブラルタル海峡の南方数十キロしかはなれていないラーライシュとアルジーラの中間を流れるルッコス川とその支流マハザン川周辺で迎え撃ちます。


 この戦いはポルトガル国王、モロッコの前国王、そして現国王が一堂に会したため三王の戦いとも呼ばれています。


 戦いはモロッコ軍の騎兵の猛烈な突撃を耐えたポルトガル軍が、火器の優越で形勢逆転するという展開でした。しかし勝ち戦に驕ったセバスティアン1世が逃げるモロッコ軍を深追いするという愚を犯します。ところがこれこそモロッコ軍の罠だったのです。伸びきった戦列の横腹に伏兵の騎兵部隊の突撃を食らったポルトガル軍は、国王を含めてすべての軍が壊滅しました。ポルトガル軍に同行していたムレイ・ムハマッドも戦死します。

 が、勝者であるはずのムレイ・アブデルマルクも激しい戦いの中で戦死するという事態になります。


 ポルトガルは、国王が戦死するという前代未聞の事態を受けて一時王統が断絶しました。またこの戦いで多数のポルトガル貴族がモロッコの捕虜となり、ポルトガル政府はその巨額の身代金を払う羽目に陥り国家財政が破綻します。


 隣国スペインは、国王フェリペ2世がポルトガル王ジョアン3世の妹イサベルとスペイン王カルロス1世の息子であるという事からポルトガル王位継承権を主張、1580年これを併合してしまうのです。


 一方、勝者であるサアド朝モロッコ王国は、一番被害が少なくて済みました。亡くなった国王に代わって、王弟アフマドが王位につき黄金期を迎えます。


 国王アフマド・アル=マンスール(位1578~1603)は、それまでの無能な国王と違って英主でした。ポルトガル併合で力をつけたスペインを脅威に感じるイギリスのエリザベス1世とスペインの間で絶妙な外交関係を築き、互いに牽制させることでモロッコに侵略する気をなくさせます。

 さらに、オスマントルコとも友好関係を結んだ彼は、内政を固め外征に向かいます。遠くサハラ砂漠を南下し1592年黒人帝国ソンガイを滅ぼしたのもアフマド・アル=マンスールでした。


 モロッコが最後まで植民地にされなかった(一時期スペインとフランスの保護国になったことはあり)のは、勇猛なベルベル人の軍事力とこれらの歴代王朝の外交努力にあったと言っても過言ではありません。

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