三王の戦い - マハザン川の悲劇 -
歴史に名高い三帝会戦、アウステルリッツの戦いは有名です。フランス皇帝ナポレオンと墺・露の皇帝が一つの戦場に会した戦いでした。一方、おそらく誰も知らないであろう三王の戦いというものもあります。
戦場もモロッコというマイナー過ぎるところ。しかしヨーロッパ史においてはけっこう重要な戦いだったりするのですから歴史は面白いのです。
では、誰も知らないこの戦いをご紹介しましょう。
モロッコに生まれ海峡を渡ってイベリア半島まで支配した強力な王朝であるムラービト朝、ムワッヒド朝。そのあとのマリーン朝はイベリア進出こそしませんでしたが西マグレブの大国としてまだまだ健在でした。
ところが1509年、モロッコにサアド朝が成立すると様相は変わってきました。1492年グラナダ王国の滅亡によってレコンキスタを完成させたスペインは、半島統一の余勢を駆って海外進出に向かいました。隣国ポルトガルもこれに追随し海外に植民地を求めて進出します。
初めスペインはハプスブルグ家が支配したため、オスマントルコと対決すべく地中海方面への進出を優先させていました。ポルトガルは逆に大西洋岸を南下する政策を取ります。
モロッコ沿岸もその例外ではありませんでした。大西洋岸の主要港をポルトガルに支配され植民地にされました。さすがにモロッコ内陸部は人口も多く小国ポルトガルには手に負えなかったため国土全部が植民地になることはありませんでしたが、時のポルトガル王、セバスティアン1世は内陸部進出の機会を虎視眈々と狙っていたのです。
このころにはマスケット銃など火器の優越で、西洋とイスラムの力関係が逆転していました。さらに航海術でも優れていたスペイン、ポルトガル勢力が一時期世界の大半を植民地にしていたのも頷けます。
セバスティアン1世の野心は、ひょんなことから実現しそうになります。1578年時のモロッコ王(サアド朝第4代スルタン ムレイ・ムハマッド)が、オスマン朝の支援を受けた叔父、ムレイ・アブデルマルクに王位を奪われるという事件が起こりました。
ムレイ・ムハマッドは、亡命しあろうことかポルトガルに支援を求めたのです。この千載一遇のチャンスをセバスティアン1世は逃しませんでした。
簒奪された前国王に王位を取り戻すという大義名分のもとに、外国人傭兵6千を含む1万7千の軍を率いモロッコ、タンジールに上陸しました。
一方、ポルトガル軍上陸の報を受けたムレイ・アブデルマルクも数万の兵を率いてこれを迎え撃ちます。
セバスティアン1世は十字架を掲げ、まるで十字軍の気分で戦いに挑みます。侵略ではなくモロッコをイスラム教徒の手から解放するのだという思い上がった考えだったのかもしれません。これを見てもムレイ・ムハマッドを助ける気がさらさらなかったことが分かります。
通常なら火力に優れたポルトガル軍が圧勝し、サアド朝が滅亡、めでたくモロッコ全土がポルトガルの物になるはずでした。
しかし、セバスティアン1世は大きな勘違いをしていたのです。モロッコはヨーロッパのすぐ南、わずか数十キロの海峡で隔てられているだけです。アフリカやアジアの原住民とは違って彼らにマスケット銃がないと誰が断言できたでしょうか?
野心に曇って敵情視察を怠っていたとしか思えません。火器はポルトガル以外にもスペインもあります。さらにオスマントルコも持っているじゃありませんか。それらの火器がモロッコに届いていないはずがありません。
ポルトガル軍は、相手を侮っていたためろくに準備もせずモロッコ国内を進みました。モロッコ軍はジブラルタル海峡の南方数十キロしかはなれていないラーライシュとアルジーラの中間を流れるルッコス川とその支流マハザン川周辺で迎え撃ちます。
この戦いはポルトガル国王、モロッコの前国王、そして現国王が一堂に会したため三王の戦いとも呼ばれています。
戦いはモロッコ軍の騎兵の猛烈な突撃を耐えたポルトガル軍が、火器の優越で形勢逆転するという展開でした。しかし勝ち戦に驕ったセバスティアン1世が逃げるモロッコ軍を深追いするという愚を犯します。ところがこれこそモロッコ軍の罠だったのです。伸びきった戦列の横腹に伏兵の騎兵部隊の突撃を食らったポルトガル軍は、国王を含めてすべての軍が壊滅しました。ポルトガル軍に同行していたムレイ・ムハマッドも戦死します。
が、勝者であるはずのムレイ・アブデルマルクも激しい戦いの中で戦死するという事態になります。
ポルトガルは、国王が戦死するという前代未聞の事態を受けて一時王統が断絶しました。またこの戦いで多数のポルトガル貴族がモロッコの捕虜となり、ポルトガル政府はその巨額の身代金を払う羽目に陥り国家財政が破綻します。
隣国スペインは、国王フェリペ2世がポルトガル王ジョアン3世の妹イサベルとスペイン王カルロス1世の息子であるという事からポルトガル王位継承権を主張、1580年これを併合してしまうのです。
一方、勝者であるサアド朝モロッコ王国は、一番被害が少なくて済みました。亡くなった国王に代わって、王弟アフマドが王位につき黄金期を迎えます。
国王アフマド・アル=マンスール(位1578~1603)は、それまでの無能な国王と違って英主でした。ポルトガル併合で力をつけたスペインを脅威に感じるイギリスのエリザベス1世とスペインの間で絶妙な外交関係を築き、互いに牽制させることでモロッコに侵略する気をなくさせます。
さらに、オスマントルコとも友好関係を結んだ彼は、内政を固め外征に向かいます。遠くサハラ砂漠を南下し1592年黒人帝国ソンガイを滅ぼしたのもアフマド・アル=マンスールでした。
モロッコが最後まで植民地にされなかった(一時期スペインとフランスの保護国になったことはあり)のは、勇猛なベルベル人の軍事力とこれらの歴代王朝の外交努力にあったと言っても過言ではありません。
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