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2009年11月20日 (金)

えにしだの枝の王権    - アンジュー家の盛衰 -

 アンジュー家、あるいはアンジュー朝という名前を聞いたことはありますか?世界史ではプランタジネット朝として書かれていますが、プランタジネットとは「えにしだの枝」の意味です。アンジュー伯ジョフロワ( 1113年 - 1151年)が兜にえにしだの枝を刺していたことから、これを紋章としたものです。


 イングランドの王朝なのに、なんでフランスっぽい名前だ?と思った人は鋭いです。実はアンジュー伯家はフランス中央部に所領も持つれっきとしたフランス貴族です。1129年ノルマン朝イングランド王国のヘンリー1世の一人娘マチルダと結婚したために王の死後ノルマンディー公領とともにイングランド王位も受け継ぎました。


 一時的には、反対勢力に苦労しますが息子のアンリ・ド・プランタジュネの代にイングランド制圧に成功し1154年王位につきます。これがアンジュー朝(プランタジネット朝)の成立でした。


 アンリは即位してヘンリー2世となりますので、以後ヘンリーで統一します。ヘンリー2世は、本領のアンジュー伯領、ノルマンディー公領にイングランド王領を併せ持つ欧州屈指の大領主となりました。


 ただ、あくまでもイングランド以外はフランス王が主人で、その家臣としての立場であったことが事をややこしくします。ちなみにヘンリー自身もイングランドは植民地くらいにしか見ていなかったはずです。イングランドに渡ったのも反乱を鎮圧に向かった数回程度で、彼自身イングランド人ではなくフランス人だと思っていました。


 ここまでなら弱小王朝カペー家を主人に頂くフランスの大領主くらいで済んだはずです。実際、他の大諸侯もフランス王家に敬意など持っておらず好き勝手にやってましたから(苦笑)。


 が、ヘンリーの結婚が火に油を注ぎました。南仏に巨大な所領を有するアキテーヌ公領の相続者アリエノールが相手でしたが、彼女はただの女性ではなかったのです。フランス国王ルイ7世の元正室でもありました。


 離婚しなければアキテーヌ公領を受け継ぐはずだったフランス王家は、驚愕するとともに激しくヘンリーを憎みました。ヘンリー自身一目惚れしたなどとほざいていましたが、もちろん政略結婚以外の何者でもありません。ヘンリーの中に、この際弱小のフランス王家を潰して乗っ取ってやろうという野心がなかったとは言えないでしょう。



 ヘンリー2世は、イングランド王領にアンジュー伯領、ノルマンディー公領とアキテーヌ公領を合わせ実にフランスの半分以上を領地に加え、いわゆる「アンジュー帝国」の主人となったのです。



 しかし1180年、アンジュー家にとっては大悪人、フランスにとっては大英雄のフィリップ2世が即位します。父ルイ7世の恨みを晴らすとともに、巨大になりすぎた臣下アンジュー家を弱体化させることを生涯の目標とした厄介な国王でした。


 フィリップは、巨大な勢力を弱体化させるセオリーとばかり、内部分裂を画策します。相続問題で不満のあったヘンリーの息子たちを焚きつけて父に反抗させたのです。ヘンリー2世は1188年、失意のうちに亡くなります。


 フィリップの頭の良いところは、決してアンジュー家の者たちが団結してフランス王家に当たらないようにしたことです。そのあたりの外交手腕は見事としか言えません。


 ヘンリー2世が亡くなると、今度は息子たちを仲たがいさせ争わせます。父と長兄の死によって後を継いだ二男リシャールはそのために心休まる日がありませんでした。今度は弟のジャンがフィリップに操られて自分に反抗してきたからです。


 リシャール、勘の良い方なら気付いた人もいると思いますが、英語読みリチャード、獅子心王リチャード1世(在位:1189年 - 1199年)その人です。



 以後リチャードと書きます。彼は戦争はめっぽう強い男でしたが政治や外交は不得意でした。フィリップはこの男が国王になったことをひそかにほくそ笑んだことでしょう。


 フィリップとの戦争で、個々の戦闘には勝ちながら気が付くと追い詰められている状況にさぞかし臍を噛む日々だったことでしょう。いや馬鹿だから(失礼)気付かなかったかも?(爆)


 ローマ教皇に嫌々参加させられたフィリップとは違い、リチャードは喜び勇んで十字軍に参加します。しかし適当なところで切り上げたフィリップと違い、リチャードは張り切りすぎて友軍の神聖ローマ皇帝の臣下と諍いまで起こします。


 そのために帰国途上、ドイツで拘束される始末でした。フィリップはこれを奇禍として最大限に利用しました。プランタジュネ家の末弟ジャン(英語読みジョン)を焚きつけて、兄の留守中にイングランドで王位につけさせたのです。


 しかしこれは、意外に早くリチャードが帰国したことで失敗に終わります。イングランドに上陸した兄の軍勢に早々と降服してしまったのです。



 怒り狂ったリチャードは、フランスに上陸してフィリップを追い詰めます。さすがに戦争は滅法強いリチャードでした。フランス軍は各地で敗退し、一時は不利な条件で和睦しなければいけませんでした。


 しかし、リチャードは1199年アキテーヌのシャールース城攻城中に矢を受けその傷がもとで死亡します。後を継いだのは凡庸なジャンでした。ジョン王です。


 フィリップは、さらにやりやすくなりました。ジョンはもともと父王死去後の相続の時幼年ゆえに領地を貰えなかったことから欠地王子と呼ばれていました。しかし、今度はフィリップに多くの領土を奪われたので失地王とも呼ばれることとなります。


 ジョンは、無能だったので臣下と諍いを起こしました。フィリップはそれを利用して反乱を起こさせ自分の領地に組み込みます。フィリップはジョンがイングランド国王の間に外交・謀略の限りを尽くしてノルマンディー公領、アンジュー伯領、そしてアキテーヌ公領の大部分を奪い、ジョンを大陸から叩きだしました。


 イングランドに逃げ帰った後も、ジョンの苦難は続きます。貴族たちからも不満を持たれ、マグナ・カルタを認めざるを得ませんでした。


 ジョンのことをイギリス史上最悪の君主という評価もありますが、前王リチャードが内政を顧みず戦争に明け暮れ国力を疲弊させていたというハンデがあったということは割り引かなければならないでしょう。まあ確かに有能な王ではありませんでしたが、その責任の半分くらいはリチャードに帰せられるべきだと思います。



 ともかく、巨大勢力アンジュー帝国は瓦解しました。逆に弱小王権カペー朝は名君フィリップ2世の時代に大きく成長し欧州で最も有力な王家となったのです。





 プランタジネット朝は、事実上イングランド(だけ)の王権となりました。しかしこの時の恨みが、大陸での失地回復を目指した百年戦争へとつながるのです。
 

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