パリ攻防戦とフランス王国の成立
フランスの首都パリは、もともとセーヌ川の中洲シテ島を中心に発達した都市です。ケルト系パリシィ族の集落がローマ統治下で発展し都市ルテティアの原型となりました。
いつしかルテティアはパリシィ族の町という意味からパリと呼び慣らわされていきます(212年改称?)。一時は有名な背教者ユリアヌスが西方副帝のときに本拠地としたほどの要地でした。
パリの重要性はフランク王国統治下でも変わらずガリア地方(現フランス)の中心都市として順調に発展します。
843年、カロリング朝フランク王国が三つに分裂するとパリは西フランク王国の統治下にはいります。西フランク8代王ロベール1世が923年死去すると、王位を継承したのは嫡男ユーグ大公ではなくロベールの娘婿でユーグの義兄ラウール(ドイツ語読みルドルフ)でした。
これはユーグがまだ成人に達しておらず、統治能力を危ぶまれたからだと言われています。というより内実はユーグの継承を好まない宮廷勢力の暗躍があったことは想像に難くありません。
ところで、当時のフランク王国はヴァイキングの襲来に悩まされていました。オールと帆併用の軽快な船いわゆるヴァイキング船を操り海岸地帯はおろかセーヌ川などの大河をさかのぼり内陸部まで攻めのぼって略奪を働く彼らを撃退するためにフランク王国の国力は大きく衰えました。
885年の襲来は特に酷いものだったと伝えられます。デンマークのヴァイキングを中心に3万もの蛮族がパリを包囲したと言いますから、この数が話半分としてもすごい規模です。
このときは王家の一族であるアンジュー家のロベルトとその息子でパリ伯であるウードの活躍で10か月の包囲を耐え撃退しました。ウードはこの武勲でのちに6代王を継ぎますが、実はユーグはウードの甥にも当たる血統でした。
このためかユーグはパリ伯を受け継ぎ、ラウールが936年死去するまでにロワール川とセーヌ川の間の地域のほとんどを獲得したそうです。
西フランク王位こそ継ぎませんでしたが、ユーグはガリアで最も豊かな地方であるパリ市を中心とするイル・ド・フランス地方を獲得できたのですから、名よりも実を取ったわけです。
ここまで書いてきてユーグの名にピンと来た人はかなりの世界史通です(笑)。実は彼の息子ユーグ・カペーこそフランス王国初の王朝であるカペー朝の創始者なのです。
西フランク王国が987年12代ルイ5世の死去で断絶すると、王家の一族であり有力なパリ伯でもあったユーグ・カペーが諸侯の推挙で選ばれ王位を継ぎます。カペー朝(987年~1328年)の成立です。
こうした誕生経緯からカペー朝の権力基盤は弱いものでしたが、豊かなイル・ド・フランス地方を基盤としていたため次第に盛り返し第7代フィリップ2世(尊厳王)(在位:1180年~1223年)のときに絶頂期を迎えます。
王朝の発展とともに首都パリもまた発展を続けました。その後ヴァロワ朝、ブルボン朝時代も一時の例外を除き首都であり続けます。
もしもヴァイキングの侵略を防ぎきれずパリが陥落していたら、現在の花の都パリは存在しなかったかもしれないと思うと歴史の不思議さに感嘆せざるを得ません。
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