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2009年12月

2009年12月17日 (木)

トレド    - レコンキスタを見守った都市 -

 スペイン中部の世界遺産、トレド。スペイン中部高原地帯に発しポルトガルで大西洋にそそぐスペイン有数の大河、タホ川北岸の丘陵上に築かれた古都です。


その歴史は先史時代からあるそうです。ローマ時代にはトレトゥムと呼ばれていました。560年ゲルマン民族大移動のときに、その一派西ゴート族に征服され、首都とされました。


 トレド、というよりイベリア半島は幾多の民族に支配されました。初めはカルタゴ、そしてローマ。711年にはアフリカ大陸から渡ってきたウマイヤ朝のマグリブ総督ムーサ・イブン・フサイルによって征服されます。その後アッバース朝成立の混乱期にウマイヤ家の王子アブド・アッラフマーン1世によって後ウマイヤ朝が建国され以後イスラム勢力によるイベリア支配が続きました。

 後ウマイヤ朝は首都をコルドバに定めたため、トレドはしばらく一地方都市としての存在になります。


 後ウマイヤ朝はフランスに進出するなど積極的な海外進出を図りましたが、スペイン北部、大西洋岸に逃げ込んだ西ゴート王国の残党を徹底的に殲滅することは怠ったようです。といいますのも、アラブ人はカンタブリア山脈と大西洋に挟まれた痩せた狭い土地にあまり魅力を感じなかったようなのです。


 幾度か申し訳程度に討伐軍を送りましたがあまり積極的には動きませんでした。



 最初にカンタブリア地方に成立したキリスト教国はアストゥリアス王国と言いました。伝説では西ゴートの貴族の一人がこの地に逃れてきて建国したとされますが怪しいものです。後ウマイヤ朝の認識でも山賊に毛の生えたもの程度にしか思っていなかったはずです。もっともアラブ人支配を嫌った西ゴートの住民であったことは間違いないと思いますが。


 後ウマイヤ朝がしっかりしている間は、アストゥリアス王国は生き残るのが精一杯でしたが、1031年王朝が滅びアラブ側が分裂し始めると天与の機会とばかり拡大路線に走ります。アストゥリアス王国は941年レオンに遷都しましたから以後レオン王国と呼びます。


 レオン王国は主にイベリア半島西部を征服しましたが、東部国境はなおざりにされていました。そこで国内の冒険心に富む貴族たちが集まりメセタと呼ばれる高原地帯を防衛する集団が形成されました。レオン王家はこれをカスティーリャ伯に与え統御させることにします。これがのちに961年独立して建国しました。これがカスティーリャ王国です。

 同じころピレネーの山岳地帯には同じキリスト教勢力のナバラ王国、アラゴン王国が誕生しレコンキスタの主役たちが登場しました。


 衰えたりとはいえまだまだ強力なイスラム勢力に対抗するため、キリスト教諸王たちはローマ教皇に訴え十字軍を送り込んでもらうことで窮地を脱しようとします。そのために南仏の諸侯とも積極的に婚姻で結びつく努力を怠りませんでした。


 これらキリスト教諸王たちはお互いに婚姻を繰り返したため、血統は混じり合います。最初に統合したのはレオンとカスティーリャでした。話すと長くなるのでかいつまんで説明するといったんナバラ王系で統一された三国(ナバラ・カスティーリャ・アラゴン)のうちカスティーリャを継承したフェルナンド1世が1037年レオン国王ベルムート3世を倒して併合したものです。

 1129年、このカスティーリャ=レオン王国からポルトガル伯が独立しますから、これで役者は一通り揃いました。


 統合により最大の勢力になったカスティーリャ=レオン王国はイスラム勢力へ攻勢を強めます。トレドの奪回は1085年でした。


 一方防戦に追い込まれたイベリアのイスラム勢力は、モロッコの地に誕生し強大化しつつあったムラービト朝、ムワッヒド朝に援助を求めます。

 彼らはジブラルタル海峡を渡りキリスト教勢力と激しく戦います。そのためにレコンキスタ(国土回復運動)は数百年遅れたと言われました。


 トレドに都を移し、西ゴートの後継者を自任していたカスティーリャ=レオン王国とイスラム勢力の力関係が完全に逆転したのはいつでしょうか?


 私は1212年のナバス・デ・トロサの戦いがそうではなかったと考えています。時のカスティーリャ王アルフォンソ8世は、ムワッヒド朝カリフ、ムハンマド・ナースィルによってタホ川以南を再奪回された頽勢を挽回するため、それまで争っていたナバラ、アラゴン、ポルトガルと和解し共同で十字軍を結成します。兵力五万。ローマ教皇に懇請してテンプル騎士団、サンチャゴ騎士団、カラトラヴァ騎士団、オスピタル騎士団などの騎士修道会をも糾合したイベリア半島におけるキリスト教勢力の主力でした。

 迎え撃つムハンマド・ナースィルは十二万という大軍を集めました。戦場はアンダルシア地方との境に近いナバス・デ・トロサ。


 戦いはキリスト教側の勝利に終わるのですが、どうも不可解です。というのはこれまでの戦闘では常にマグリブの強力な騎兵を擁したムワッヒド朝側が押していたからです。

 負ければ滅亡するという危機感を持ったキリスト教側に対し、本拠がモロッコにあり負けても逃げ込めるムワッヒド軍の油断があったのかもしれません。


 一説では偽装撤退して逆襲しようとしたムワッヒド軍を、その直後にキリスト教軍が追撃してため混乱してそのまま全面潰走になったとも言われています。


 この戦いはレコンキスタの分水嶺でした。敗戦に嫌気がさしたムワッヒド軍は、本拠モロッコに帰りイベリアのイスラム諸国は単独でキリスト教勢力に当たらなければいけなくなったのです。



 1236年後ウマイヤ朝の首都だったコルドバを奪回。1248年には半島におけるイスラム最大勢力だったセビリャを攻略します。 


 この段階でグラナダを都とするナスル朝は服属していましたから、ほぼカスティーリャが主導するレコンキスタは成ったわけです。



 1474年カスティーリャ女王イサベルは、アラゴン王フェルナンド5世と結婚します。これにより両国は統合し現在のスペインが形作られました。1482年両王はイベリア半島に最後に残ったグラナダ王国征服の戦いを始めます。レコンキスタの総決算でした。1492年イベリアにおけるイスラム勢力の最後の牙城だったグラナダが陥落。レコンキスタはついに集結しました。


 トレドは、統一スペイン王国の首都として再び繁栄しました。しかし1561年フェリペ2世が首都をマドリードに移してからトレドは緩やかに衰退します。現在では人口7万ちょっとの一地方都市となっています。



 しかし歴史的建造物の多いトレドは、1986年世界遺産に登録され多くの観光客で賑わっています。皆さんも一度訪れて悠久の歴史ロマンの世界に浸られたたらどうでしょうか?私も死ぬまでに一度は行ってみたいと思っています。

北京   - 三千年の歴史を秘めた古都 -

 北京といえば言わずと知れた中華人民共和国の首都ですが、この町が国都になったのは元の時代の大都が始まりだと言われています。

 それ以前も町自体は存在していましたが、当時の文明の中心地、中原(黄河中流域)から見るとはるか北のはずれ、人々は幽冥の先にあるようなイメージを持っていました。周代の行政区分、九州でもこのあたりは幽州と呼ばれていたほどですし。




 北京の地に町が誕生したのは紀元前11世紀の周代初めといいますから、現代まで3000年以上の歴史を持っています。

 もともとは周建国の功臣、召公奭(しょうこうせき)がこの地に封じられたのが始まりだとされますが私はこれには疑問を持っています。他の功臣周公旦や太公望呂尚(姜、氏は呂、名は尚または望、字は子牙)は魯や斉といった割合中原に近いところに領地を賜ったのに対し、彼らに匹敵する功績をあげた彼一人、そんな辺境に追いやられるのは差別だと感じたものです。



 いつかネットで情報を検索していた時、この疑問に答えてくれた人がいました(名前は忘れましたが…爆)。

 燕や、周の文王の伯父にあたる太伯の建国した呉(蘇州)は姫氏(周王室)一族であるのにあまりにも辺境にあります。その方は私よりはるかに中国史に詳しい方で、彼がホームページ上で、もともとこれらの国は中原周辺にあったのではないかと推理しておられたのはまさに卓見だと思います。


 そういえば詳しい春秋時代の地図を見ると南燕という国が中原のど真ん中にあります。(たしか今の開封あたり)これがもともとの燕の位置ではなかったかと考察されていました。同じく呉もいまの山西省南部がもともとの発祥の地。


 初めは小さな都市国家にすぎなかった燕や呉は、数百年にわたる戦乱の時代の中で、戦争あるいは天変地異に見舞われ国を捨てざるを得ない事態が発生したのではないかという主張です。そして移動した先が燕は今の河北省北京市あたり。呉は江蘇省蘇州あたり。


 はるか辺境の地で、異民族に囲まれながら発展した国なので国力は低くともあれだけ粘り強い国になったのではないかと思われます。フロンティアスピリットに富んだ人々だから建国の精神にしみついてたのではないでしょうか。


 
 話が広がりすぎましたので(苦笑)北京に戻すと、都市国家「燕」はその後周辺諸民族を従え広域国家に成長します。戦国時代に入ると戦国の七雄のひとつに数えられることになりました。

 この町は、燕あるいは薊(けい)と呼ばれ、漢代から唐代までは幽州とも呼ばれます。五代十国の末期に北方の異民族、契丹の建てた遼に奪われ、いわゆる「燕雲十六州」のひとつになりました。

 宋が一時的に取り返しますが、すぐ女真の金に征服され、さらにモンゴルのものになりました。


 欧亜にまたがる大帝国になったモンゴルの宗主国「元」の首都「大都」として町を整備したのは有名な元初代皇帝フビライハーンです。


 今まで辺境の一都市にすぎなかった北京が世界有数の大都市に成長したのは元代でした。元の故地ともいうべきモンゴル高原と中国本土を支配するのに、ちょうど両者の中間にある大都はもってこいの位置だったのでしょう。このあたりアラブ人の都市設計思想と似てますね。ひょっとするとソグド人など色目人の助言があったのかも?


 漢民族国家の首都になったのは、次の明代永楽帝の時代でした。永楽帝は、それまでの首都南京から自身の根拠地であった北京に遷都します。骨肉の争い(甥の建文帝を倒した靖難の変、1402年)の結果ですから、歴史は不思議で感慨深いものがあります。


 北京という名前は、南京応天府に対しています。正式には北京順天府(ほっけいじゅんてんふ)。


 女真族国家である清代も北京を首都に定めます。そして南京を首都とした中華民国を挟んで、中華人民共和国でも首都であり続けました。
 

 今の共産党政権が滅んで、新しい王朝が建つとどこが首都になるか興味があります。大昔に戻って西安(長安)などになると面白いですね。


 その前に中国史に付きものの大規模な農民反乱、流民の発生が必須ですが…。そうなると日本みたいな周辺諸国にも迷惑がかかるんだよなあ。困ったものです。

カイロ  - 幾多の民族の興亡を見守った中東最大の都市 -

 ほとんど知らない人はいないと思いますが、エジプトの首都にして、アフリカ・中東地域で最大の都市カイロ。ナイル河西岸のギザ(ピラミッドで有名)を含めた首都圏人口が1325万を数える大都市です。


 カイロは、砂漠と岩山が大半のエジプトで唯一といってよい肥沃な地域、ナイルデルタのちょうど要に位置します。もともとはカイロ南方20数キロにある古都メンフィスが上下エジプトの境をなし要衝でしたが、このときはまだカイロは存在していませんでした。


 エジプトはナイルの賜物と言われますが、古代エジプトの王権ははメンフィスを中心に上エジプトの勢力が強いときには都は上流のテーベに、下エジプトの権力が強いときはより下流のナイルデルタの真っただ中、タニスなどに置かれました。


 古代エジプト文明が滅び、アッシリア、アケメネス朝ペルシャなどの支配を受けるようになってもまだカイロは登場していません。アレクサンドロスは、エジプト征服後地中海沿岸にアレクサンドリアを建設し、ここをエジプトの首都に定めます。


 以後はアレクサンドリアがエジプト最大の都市にして首都として機能します。それはローマ帝国支配下でも同様でした。


 ではカイロの誕生はいつごろなのでしょうか?


 時は紀元643年、東ローマ帝国を破りエジプトに侵攻したイスラム帝国の将軍アムル・イブン・アル=アースがエジプト支配の拠点として城塞都市フスタートを築いたのがカイロの起源だと言われています。

 その後の969年、チュニジアに興りエジプトを征服したファーティマ朝がフスタートの北3Kmの郊外に新たな支配拠点として「勝利の町」を意味する「ミスル・アル=カーヒラ」を建設します。


 ミスルはしばらくエジプトの首都として機能しました。そして都市の発展によってフスタートをその市域に取り込むことによって現在のカイロ市の骨格が定まります。これは有名なサラーフ・アッディーン(サラディン)の時代だと言われますから、カイロ誕生は彼の功績かもしれません。
 ちなみにカイロはアラビア語のカーヒラがイギリスの植民地支配下でなまったもので、今でも現地の人はミスルと呼ぶ者も多いそうです。カイロは英語読みです。


 中世のエジプト地図でもミスルと書いてあるものが多いですよね。


 アラブ人は砂漠の民だけに沿岸部より砂漠と沃野の境に都市を建設することを好んだような気がします(苦笑)。チュニジアに築いた軍営都市カイラワーンもまさにそんな場所にあります。


 どうもアラブ人たちは、戦いに負けて逃げ込む場所を砂漠だと定めていたようです。これだと敵は追いかけられませんからね。そのうちに砂漠で勢力を盛り返してまた反抗するという歴史は、初期のシリア征服戦で見られました。



 カイロは、サラディンのアイユーブ朝からマムルーク朝と首都であり続け、マムルーク朝がオスマントルコに服属しても順調に発展を続けました。

 しかし支配者は、常に現地のハム系エジプト人ではなく外国人であり続けたのです。カイロが完全にエジプト人の手に戻るには1953年のナギブ、ナセルらによるエジプト革命を待たなければなりませんでした。


 そして、その後エジプトがアラブ世界の盟主となると首都であるエジプトも中東・アフリカ最大の都市として発展することとなります。

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