カイロ - 幾多の民族の興亡を見守った中東最大の都市 -
ほとんど知らない人はいないと思いますが、エジプトの首都にして、アフリカ・中東地域で最大の都市カイロ。ナイル河西岸のギザ(ピラミッドで有名)を含めた首都圏人口が1325万を数える大都市です。
カイロは、砂漠と岩山が大半のエジプトで唯一といってよい肥沃な地域、ナイルデルタのちょうど要に位置します。もともとはカイロ南方20数キロにある古都メンフィスが上下エジプトの境をなし要衝でしたが、このときはまだカイロは存在していませんでした。
エジプトはナイルの賜物と言われますが、古代エジプトの王権ははメンフィスを中心に上エジプトの勢力が強いときには都は上流のテーベに、下エジプトの権力が強いときはより下流のナイルデルタの真っただ中、タニスなどに置かれました。
古代エジプト文明が滅び、アッシリア、アケメネス朝ペルシャなどの支配を受けるようになってもまだカイロは登場していません。アレクサンドロスは、エジプト征服後地中海沿岸にアレクサンドリアを建設し、ここをエジプトの首都に定めます。
以後はアレクサンドリアがエジプト最大の都市にして首都として機能します。それはローマ帝国支配下でも同様でした。
ではカイロの誕生はいつごろなのでしょうか?
時は紀元643年、東ローマ帝国を破りエジプトに侵攻したイスラム帝国の将軍アムル・イブン・アル=アースがエジプト支配の拠点として城塞都市フスタートを築いたのがカイロの起源だと言われています。
その後の969年、チュニジアに興りエジプトを征服したファーティマ朝がフスタートの北3Kmの郊外に新たな支配拠点として「勝利の町」を意味する「ミスル・アル=カーヒラ」を建設します。
ミスルはしばらくエジプトの首都として機能しました。そして都市の発展によってフスタートをその市域に取り込むことによって現在のカイロ市の骨格が定まります。これは有名なサラーフ・アッディーン(サラディン)の時代だと言われますから、カイロ誕生は彼の功績かもしれません。
ちなみにカイロはアラビア語のカーヒラがイギリスの植民地支配下でなまったもので、今でも現地の人はミスルと呼ぶ者も多いそうです。カイロは英語読みです。
中世のエジプト地図でもミスルと書いてあるものが多いですよね。
アラブ人は砂漠の民だけに沿岸部より砂漠と沃野の境に都市を建設することを好んだような気がします(苦笑)。チュニジアに築いた軍営都市カイラワーンもまさにそんな場所にあります。
どうもアラブ人たちは、戦いに負けて逃げ込む場所を砂漠だと定めていたようです。これだと敵は追いかけられませんからね。そのうちに砂漠で勢力を盛り返してまた反抗するという歴史は、初期のシリア征服戦で見られました。
カイロは、サラディンのアイユーブ朝からマムルーク朝と首都であり続け、マムルーク朝がオスマントルコに服属しても順調に発展を続けました。
しかし支配者は、常に現地のハム系エジプト人ではなく外国人であり続けたのです。カイロが完全にエジプト人の手に戻るには1953年のナギブ、ナセルらによるエジプト革命を待たなければなりませんでした。
そして、その後エジプトがアラブ世界の盟主となると首都であるエジプトも中東・アフリカ最大の都市として発展することとなります。
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